将の乗った電車は見えなくなった。駅のホームを青みを帯びた薄闇が包む。改札口の方を振り向いた結人は電灯の明るさに、いまようやく気づいたようにまばたきした。
風はわずかに冷たい。体を冷やすと毒だ、と自分に言い聞かせて、やっと足が動かせた。
――さよならと将は言ったのだ。咄嗟に結人が握った指が、春だとは思えないくらいに冷えていた。
この指を離す。それが俺に出来るのだろうかと他人事のように、絡んだ自分と将の指を眺めていた。
将はゆっくり、手を引いた。結人は手を離した。それは思ったよりも簡単だったが、これから先、幾度も思い返すであろう行為だった。
将はほのかに笑むようにもみえる唇で告げた。
「電車が来るよ」
「そうだな」
「危ないよ、若菜君」
「うん」
ベルがなっても動こうとしない結人を、将は腕をつかんで線の内側へ引き寄せた。
「危ないのに」
「うん」
緩慢にもみえる動きの電車は、結人がまばたきを数度する間に、目の前にやってきた。
ひそやかな風を起こして、将は電車に乗った。手に荷物があるのを、結人は初めて見るような思いで眺めやった。
手が振られた。ばいばい、若菜君。唇が動かなくても、その言葉は将の胸にあったはずだった。
結人が唇を動かしたのは、将の顔がのぞく窓が、遠ざかってからだった。ばいばい、と言うつもりが、風祭、と将を呼んだだけにとどまった。
ホームを歩いて、階段を下りるときに、か細くも真摯な思いが胸を横切った。
俺は一人でどこに帰ろう?
二人で住んでいたマンションは、ゆるやかな長い坂を登り切った先にあった。坂には桜の並木が続き、花の季節になれば、見物客が訪れた。
花はきれいだけど、虫がつきやすいから桜は嫌いだと結人が言うと、将は困った顔をした。将が困ることではないのに、結人が頬をふくらませて甘えるような我が儘を言うと、いつも困った顔になった。しょうがないな、若菜君。ふうとため息つくような将の言葉も、いつも聞けた。
将は桜が好きだったのだろうか。訊ねたこともなかった。桜の木は、どの季節にもかかわらず、二人の背景にあるだけだった。改めて、眺めやりもせず、坂道を上ってきた。そうして、桜の花びらはアスファルトの上で、薄汚れた白い染みになり、いつしか、消え果てた。盛りにもてはやされようとも、しょせん、散った花びらのゆくえなど、こんなものだ。
土の上なら肥料になるのにね。結人を迎えに駅まで歩いてきた将は、そんなことを言ったことがあった。そんなもんかな、と結人が疑わしげに問い返せば、将は、詳しい訳じゃないんだけど、と慌てて付け加えた。頬が照れくさそうに、わずかに強張り、薄赤くなっていた。そんな様子が幼くみえて、何も変わらないなという安心感と不可思議なおそれを抱いた。
変わるのは自分ばかりで、将は何も変わっていないのではないだろうか。置いていくような、置いて行かれるようなやるせなさがこみ上げた。
恋が始まって、数年を経ていた。性格も癖も飲み込んでいた。苦笑することも本気で怒ることも不満も、何もかも、互いの間にあった。
将が自分を信じ切れなかったのか、自分が将を包んでやれなかったのか、どちらでもあり、どちらでもない。
目の端に、白い光が見える。雨だろうか。ふと頬が濡れた気がして、指を伸ばした。乾いた感触が残った。なまあたたかい肌身だった。
――つめたいね。確かめるように将がささやいたときもあったのだ。
夜になり強くなった雨だから、傘の用意もなく、二人で濡れて帰った。ゆるやかな長い坂を駆け上り、マンションのエントランスに入った。
小さくなった雨の音とエレベータのベルトが動く音が混じる中で、結人は将を抱きしめた。そうしたくなったから、腕を伸ばした。
終わりを予感し始めた季節でもなく、ただ幸福であった頃でもなく、二人という単位に慣れきった日々の中で、不意にこみ上げた切なさがあった。どれだけ身を寄せ合っていても、こぼれていく時間を見つけてしまったからだろうか。
ぴたりと寄せた濡れそぼった冷たい頬の感触を、思い出す。
つめたい、と笑ったら、将もささやいた。
つめたいね、若菜君。
愛しいと確かに思った。
それだけがすべてと思いたかった。そう思うことがすでに、少年期から遠ざかった男の夢想に過ぎないと分かっていても、交わしたどんなささやかな約束でも守り、いくつもの誓いをなして、あらゆる願いをかなえてやりたかった。将のために、自分のために。そして、できるのなら、すべてが尊い、最初の瞬間に戻りたかった。
ずっと一緒にとは望まなかったはずだ。心を重ねてきたから、今がある。それだというのに今までの日々が哀しい。
時が経つのを待てば思い出になる。理解できても、少しだけ、将が憎い。
最後の響きを混じらせた言葉を告げたのは将だった。決めかねた結人の背中を押したのも将だった。泣いたのも将だった。ほほえんだのも将だった。だから、愛しかった。だから、少し、憎かった。
――桜が闇から浮かび上がった。静寂の奥に、遠くを走る電車の音が響いた。風が前髪を揺らした。雨かと思った光は、花びらだ。
淡雪のように舞っている。将の髪にも、結人の髪にもすべり落ちてきていた花びらが、螺旋を描くようにして、ひらひら道に落ちていく。
あえないだろうか。迎えに来てくれないだろうか。もう一度、声がききたい。この手で触れ、あの手で触れられたい。
坂道を登り切った先に、将の姿を探した。眼裏に残るまぼろしにも、さようならは言えない。
踏みにじられた桜の花びらが道を斑に染めている。わずかな風にも、花びらは散っていく。
将の手を離した手で、結人は花びらをつかもうとした。手のひらは空を切り、花の雨の中、結人はゆるやかに指を閉じた。
―― 一人で、どこへ帰ろう。
※タイトルと話のイメージは『Local Bus』の桜見丘という曲からです。