きみをおう



 のろけている途中で、二人の表情に気づいて、結人は話を止めた。
 ややあって、気がつけよ、と一馬はどこか哀しげに言った。
 何に、と結人は心底、不思議がった。
 分からないわけ、と英士が言って、苦々しい口元になった。
 久しぶりにあったというのに、この空気ではせっかくの料理も酒もまずくなる。ここは、結人が恋人と開拓した、酒も料理も美味ければ、値段も手頃、雰囲気も良く、店員の対応も好感の持てる優良店なのだ。
 それだというのに、この重たい雰囲気は何だというのだ。不満げな顔の結人に、一馬の方はじゃあいいよと言って、乱暴に箸で残っていた唐揚げをつまんだ。
「食べ物はもっと大切に扱えよ」
「そういうことは、トマト食べてから言うんだね」
 サラダを取り分けた皿、英士と一馬のそれはドレッシングが薄く残る程度だが、結人の方はさいの目にきられたトマトがばらばらと残っている。
「なんだよ、昔からトマト嫌いだって、知ってるくせに」
「たまに、目に付くと腹が立って仕方ないんだよ」
 英士のとげのある口調に、かちんときた。結人が箸を置いて、英士をにらみつけると、その喧嘩買ったとばかりに、英士もにらみつけてきた。
 一馬がむっつりと言った。
「英士、飯、まずくなるから止めようぜ」
 英士は一馬を見て、目を伏し目がちにするとうなずいた。
 疎外されたようで、結人は行き場のない怒りを飲み込むつもりで、グラスに残っていた焼酎を飲み干した。
 喉が焼けて、胃が熱くなる。昔のままのような関係でいられると思っていたのは間違いで、昔通りの仲の良さの間にも確実に時間は流れているのだ。
 英士も酒を飲み干していた。同じ事を考えているはずだった。ならば、次に考えることも同じはずだった。
「酒、注文するよ。結人はなに、飲む」
 英士の問いかけに答えることにした。これで、仲直りになる。
 一馬が注文した。新しい酒が来てからは、一馬も英士も普通どおりだった。結人もそういうように振る舞った。幼なじみと誰もが認める三人に戻った。
 自分でした笑い話に、笑い転げながら、結人は思う。
 ――言ってしまえばいい。
 堪えきれずに吹き出している一馬も、呆れたような顔をしている英士も、はっきり言ってしまえばいいのだ。聞いてくれるのなら何も変わらないし、終わらないし、始まりもしない。今までどおりのことが続くだけだ。
 自分から言い出そうと思ったこともある。
 なぜ、英士と一馬が結人の恋人の話題を出したがらないか。結人が彼女の話題を口にしたときに、苦いものを口に含んだような表情を二人は一瞬でも見せるのか。
 だが、結人から言い出せば、何もかも変わってしまうだろう。終わりもするだろう。それでも始まることだけはないだろうから、結人は今を壊すことはしない。
 今を壊すとは勇気ある行為で、結人にはその勇気はない。一馬と英士にもないのだろう。この臆病さも友情なのだろうかとふと思った。
 店を出て、二人と別れた。これからどうするか考えながら街を歩いた。これなら、三人で店を変えて、まだ飲んでいれば良かったかもしれない。
 今からでも連絡を取って、どこかで待ち合わせでもしようか。迷っていると、携帯電話が鳴った。
 メールでなく、電話だ。彼女からかかってくる電話の着信メロディはどこか耳障りな気もする曲にしている。あまり好みでないためにすぐに電話に出られる。なかなかのアイデアだと結人は思っている。ただ彼女には言っていない。後ろめたいことだとは充分、承知のアイデアだからだ。
 電話の向こうで彼女は友だちと飲んでいたと言った。結人と出かけたイタリアンの店だそうだ。少し、酔っているのか、彼女の声はいつもより、甘えが混じって、結人は苦笑した。
「迎えに行くよ」
「うん、待ってる」
 待ち合わせ場所にしていたレストランの近くにあるコーヒーショップで彼女と落ち合った。酔い覚ましに二人でコーヒーを飲んだ後、結人はねだった。
「家に行ってもいい?」
 彼女の存在は知られているから、人目をはばかる必要はない。シーズン中だと、彼女の方が気をつかって、結人に会うのを控えたがる。もっとわがままいえばいいのに、というと彼女は笑ってばかりだ。
 彼女の部屋にたどり着き、玄関で靴も脱がないままに髪に指を絡め、首筋に唇を当てようとすると、シャワーのあとでとなだめられた。結人が頬を膨らませれば、すぐにあがってくるからとほほえんで、彼女は浴室に消えていった。
 ベッドで待っている間の味気なさは、男なら誰でも味わうものなのだろうか。二人になってからの快楽は待ち遠しいが、そのときの自分の姿に、興ざめというよりも浅ましさを覚える。いっそ、汚らわしいとでもいおうか。好きで行っている行為だというのに、自分が抱く相反さときたら、どういうことだろう。
 結人一人きりになった部屋には、彼女の香水の残り香がする。
 結人はふと額に手を当てた。何度聞いても、彼女の好きな香水の名前を覚えられない。それほどにめずらしくない、フランス製の香水だったはずだ。思い出せない、覚えられない。それが、彼女の香水の匂いに引き出される結人の記憶になる。
「ねむたくなった?」
 声に振り返ると、シャツとゆったりしたパンツ姿の彼女が笑みながら、立っていた。
「なんだよ、色気ねえな」
 手招きして、腕の中に抱き寄せる。
「すぐ脱がすくせに」
 くすくす笑いながら、彼女が腕の中で身をよじった。香水の匂いが消えて、石けんの淡い匂いが漂った。
 結人に背を向けた彼女のうなじに唇を当てて、呟いた。
「正解」
 言葉を終えて、結人は彼女の服を脱がし始めた。
 ――彼女の黒髪が揺れる。結人の体にも触れて、くすぐったい感触を残す。艶を帯びた黒が肌に浮き上がる。
「何で、染めないの」
 訊ねれば、何回、聞けば気が済むの、と彼女が笑った。
「今は黒い方が好きなの」
 聞くたびに、同じ言葉が返ってくる。
 彼女は同じ問いに怒らなかった。結人の口癖に、口癖で返した。優しいのかもしれない。
 髪を指で梳いた。訊ねたあと、必ず、やってしまう仕草だった。指から流れていく髪の向こうに、一瞬、幻を見た。
 彼女が髪を染めてくれれば、きっと見えなくなる。けれど、それでも重なる部分を見つけ出してしまうのだろう。 どうして、あの幻は消えてくれないのだろうか。そのような感情を抱いたこともない相手だったはずなのに。
 背後から乳房を探る。片手で握り、膨らみの重さを感じ、乳首へと指先を動かした。残った片手をおろしていく。なめらかな腹部を手のひらでさする。ふんわりした柔らかい脂肪の感触だ。臍の下にある茂みをまさぐり、沈んでいた突起を探り出す。
 彼女の肩が揺れて、押し殺したような声が漏れた。結人が指先の力に強弱を加えると、声は大きくなる。
 欲情している。執着もある。だが、愛撫するたび、悲しささえ感じる。快楽のためとは言い切れない白い靄が視界にかかる。それは晴れることもなく、感情の行く先すら隠してしまう。良心がそうさせるのか、怯えがそうさせるのか。
 彼女の耳元にささやいた。
「女のクリトリスって」
 靄が晴れれば何が見えるのか、結人は想像してみる。今更、という言葉だけが浮かぶ。
「男のペニスにあたるんだって」
 彼女には聞こえていない。甘いうめきだけが腕の中から響く。
 結人は目を閉じた。
 女を抱きながら、何を思うか、誰を追うか、求めているか、半ば悟りながら、夢から目覚めようとしない。
 しょう、と名前を呼んだら、彼女は、なあに、と笑った。潤んだ目元で笑んでいた。
 濡れた唇が呟く。
「いつも、最後まで、名前、呼んでくれないね」
 ――名前まで似ているなんて、ひどい話だ。
 結人は笑った。
「そう呼ぶ方が、好きなんだ」
 けれど、彼を名前で呼んだことは一度もない。そしてこれからも、きっとない。
 気がついたことも、分かっていることも、みな、白い靄の中だ。
 

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