それが、まるで何か、大切な儀式でもあるかのように、風祭は丁寧に土を掘り、穴をこしらえると、その中に、てらてらと光る赤色の金魚を収めた。
掘った量に見合うだけ、穴の横には土が盛られている。風祭はそれを手で掬い、金魚の上にかぶせていった。
ひとすくい、ふたすくい、それは布団でもかぶせるような手つきだった。
土は空気を含んだからか、金魚が穴に眠ったからか、元の平坦な地面には戻らなかった。風祭は両方の手のひらで、ふくらんだ土をそっと押さえつけた。軟らかい土に風祭の手形がついた。何度も、何度も新しい手形を風祭は作る。土を固める手に、泥がこびりつく。爪の隙間や指と指の間に入る土も気にしない。背後に立つだけで、手伝いもしない俺を気にする様子もない。
風祭らしい、と、なぜだか思った。らしい、と思うほど、俺は風祭を知らないが、でも、こいつなら、そうするのだろうと確信していた。今の風祭が見たくて、俺は夜店で掬い上げた金魚をやったのかもしれない。
袋の中には、そのときはひれを揺らめかせた金魚が一匹、入っていた。祭り客のための屋台が建ち並ぶ道ばたに置かれた大きなたらいの中には、たくさんの金魚が泳いでいたが、その中では、かなり大きな方だった。そのせいか、結構な数の客に狙われていて、俺が掬う頃には、ひれがぼろぼろになっていた。
金魚は、何度も、何度も追いつめられ、つつかれ、水から掬い上げられ、そのたびに水面に向かって、たたきつけられ、最後には狭い小さな袋に閉じこめられて、俺の知る限り、この世で一番深い笑顔を持つ奴に渡された。
俺が金魚をやったとき、風祭は喜びながらも、少し、戸惑う顔を見せた。今は元気でも、こんな風に捕まえた金魚の大半は長らえない。近いうちに死んでしまう。
風祭は、それを知っていたのだろう。こういうのを無邪気に喜びそうなのに、じつは苦手らしい。俺はそれを半ば知りながら、風祭に死にかけの金魚をやった。
風祭が持っている死への認識や考え方は、俺が驚くくらいに激しく、暗い。些細な表現や描写にも、どきりとするくらいの反応を見せるときがある。それが、風祭生来のものなのか、生きてきた時間がそうさせるのかは分からないが、俺や他の奴らと、風祭とでは、死の見え方が違うのは確かだった。
俺にとって、死というのは、まだ遠い事だ。毎日毎日がめまぐるしくて、考えるのを忘れてしまうような事、たまに、ぽっかり浮き上がってくるけど、普段は、サッカーや学校での生活、友達との会話、日常の出来事辺りで見えなくなっている。たとえ、大きな事件や事故、それから身近なところで、死について見聞きしても、距離感が掴めない。悲しさ、憤りといった感情は湧いてくるが、それは事件や事故について思う心であって、死とは、また別物だ。
死は、その単語だけが印象的で、周りに何があるかは茫漠として分からず、ただ白っぽい感じに思える。あるのは理解出来るけど、はっきりとは見えない感じ。でも、風祭には、死という部分に何があるのか、何がないのか、何が残されて、失われるのか。そんなものが見えているような気がする。
何となく思う。本当に直感めいた考えにすぎないが、風祭は誰かの死を経験した事があるんじゃないか、とても近しい、大切な誰かを亡くした事があるのではないかって。
風祭に訊ねようとは思わない。これは俺の想像に過ぎないから。――ただ、風祭が持っている笑顔は眩しすぎる。明るいだけの、光だけを持っている奴なんていない。眩しければ眩しいほど、風祭の心の闇は深く、その奥に、何かとてつもなく大きな悲しみがある気がする。
それが、誰かの死を経験した故なのか、なんて、本当にまったく分からないんだけど。風祭を見つめすぎて、歪んでしまった俺の想像にすぎないのかもしれないけれど。
「ごめんね。若菜君」
風祭が振り返らずに言った。猫や犬なんかに掘り返されないようにだろう。土を固く押さえつけている。
俺はしょうがない、と言いかけ、言葉を考えた。
「……大切にしてた?」
風祭はぼかした答えを返した。
「分からない。やっぱり、もっと大きい水槽に入れて、ポンプとか付けてた方が良かったんだ」
「一匹だけなら、あれくらいで充分だと思うけど」
風祭の家のリビングに置かれていた、縁の青い綺麗な金魚鉢。その中に風祭は小石を敷いて、水草を浮かべ、金魚を泳がせていた。
金魚はぼろぼろのひれを揺らめかせて、鉢の中を行き来し、俺と風祭が抱き合うところを見ていた。数日後に死ぬ金魚の目は、冷たく凍りついていた。まばたきしない魚はガラスに口づけながら、風祭が涙をこぼしながら、俺の名前を呼ぶのを聞いたのかもしれない。
――あの金魚が最後に見たのは何だろう。風祭かな。それとも、誰もいない部屋なのかな。湾曲したガラス越しの歪んだ世界は、金魚にとって、どう見えるのか、俺が知ることは一生ない。
「風祭、悲しい?」
風祭が振り返り、俺を見上げた。
「うん。少しだけ」
意外な顔をした俺に、風祭は小さく微笑んだ。謝るような、諦めるような視線。
風祭は金魚を大切にしていた。俺がやったから。すぐに死ぬ金魚でも俺があげたから。俺がやるものなら、風祭はその辺の小石まで大事にするんだろう。
不思議なくらい、怖くなるくらい、風祭は俺を想ってくれる。綺麗というよりも、儚い、夢みたいな心を向けてくる。時々、これは、いつか消えてしまう夢みたいな、現実感のない恋じゃないかと俺は思う。風祭はそこにいるし、俺だってここにいるわけだから、そんなの妄想でしかないけど。
「たとえたら、死んだ金魚の大きさくらい悲しい?」
「それくらい」
風祭の笑いに、色々な色が混じったように思えた。嘘なのか、本当なのか、ちっとも分からない。悲しんでいるのは確かだけど、死んだ金魚が風祭にとって、どれくらい重かったのか、俺には分からない。
一体、祭りの後に、どれくらいの数の金魚が死んで、土に埋められたり、ゴミとして捨てられたりしているのだろう。それを、何人の奴が悲しんだりしているんだろう。
数日しか生きないような金魚を掬っても、俺にはそのときの思い出しか残らない。夜店のにぎわい、オレンジ色の明かり、漂うソースや綿飴の匂い、おはやしや祭り客の話し声。そんな時間の後に比べれば、金魚の死なんて、小さすぎる。祭りの余韻程度にしかならない。消えていくのが当たり前の泡音のようなものだ。
風祭は違うのだろうか。それは、やっぱり、風祭が持つ死への思いが、俺と違うからだろうか。それが今、たかが一匹と俺は思ってしまう、金魚の小さな死を、静かに悼む理由なのかもしれない。
「夜店の金魚だし、仕方ないよな」
「うん」
風祭は、まだしゃがんだまま、小さな土まんじゅうを見ている。俺は近づいて、木の枝を拾うと、土山に突き刺した。この棒も何日か経てば倒れるはずだ。
「変なの。小さい頃は、無茶苦茶、悲しかったのに」
俺の言葉に、うん、と風祭は、うなずいた。
「僕も、今はそんなに悲しくない」
「だよなあ」
「だよねえ」
昔は、こんなことが、すごく怖かった。嫌だった。なんで、動かなくなるのか、なんで冷たくなるのか、固くなるのか、臭くなるのか、その後ぐしゃぐしゃになってしまうのか。
あんなに嫌で暗いものを、俺はいつどこで、そんなものか、なんて受け止めて、気にもしなくなったのだろう。
疲れてきたので、俺も風祭の隣に座った。風祭は膝の上に汚れた手を置いて、ぼんやりしている。どこを見ているわけでもない目をしていた。
「なに、考えてんの?」
「猫が掘り返さないといいなって」
「石、置くか」
「うん」
二人で辺りを探し回って、石を見つけた。丸っこくて、汚い石だ。いかにも、ここに何か埋めてますって感じになったから、花も飾ってみた。墓らしくなった。
「これ、重たそうだな」
俺は墓石がわりの石の表面をつついてみる。黒っぽい緑色の苔が薄く生えた、冷たい石。これを土から持ち上げたときには、なめくじやダンゴムシ、ミミズ、名前も知らない細長い小さな虫が石の裏や、土の部分にたくさん隠れていた。
逃げ切れなかった虫は、墓から這い出してきている。風祭の足の下に虫が入り込んでいく。出てこない。俺の足の下にも、あんな虫がいるんだろうか。気持ち悪くなって、足の裏を地面にこすりつけるようにして動かしていると、風祭が小さく笑った。
「重たくないよ。死んでるんだから」
その笑いと言葉は、今までのどんな言葉より、俺の胸にこたえた。ずしんって感じで、のしかかってきた。こんなものに負けたくない。
「風祭、エサキンって知ってる?」
風祭が小首をかしげるみたいに、俺の方を見た。
「ううん。知らない」
「餌用の金魚。他の魚や亀とかに食わせるための生き餌」
頭では分かってるだろうが、風祭はこういう話は苦手だろう。案の定、目を大きく見開いて、唇をちょっと震わせている。
「金魚だったら、水の中に一緒に入れられるし、腹減ったときに亀や魚が食えるから、便利なんだって。そうだよな。ミミズやコオロギだったら溺れ死ぬし、死骸で水も汚れるし」
ミミズやコオロギには、何も思わないのに、どうして金魚が可哀想とか、一瞬でも思うのだろう。俺が想像する金魚が、小さくて、なんだか、保護欲をそそるからか、ただの感傷的な心にすぎないからか。
「そうだね」
風祭は淡々と相づちを打った。さっきまでの、感情の揺らぎが見えなくなっている。目が霞んだように、またどことも知れない場所を見ているみたいだ。
風祭の横顔が遠く見えた。急に自分がここにいちゃいけないみたいに思えてきた。
――風祭、何見てるんだろう。どうして、それを俺に教えてくれないんだろう。俺一人で、どこかに取り残された気分だ。果ても見えない、ひろいひろい場所にいるみたいだ。俺が抱えているすべてが遠ざかり、何もかもなくしてしまったような、不安定な気持ちになる。
これは何だろう。びくびくとどこかが震えている。手も膝も、どこも震えてなんかいないのに、確かに、視界がぶれて見える。
いつか俺だって死ぬ。風祭だって、死ぬ。俺たちの世界は終わって、別の奴らの世界が続く。今だって、そうなんだ。それが当たり前なのに、確かに俺はそのことを知っていたのに、そう思えなくなった。
俺をあざ笑いながら、黒い穴が開く。駄目だ。穴からは、嫌な、乾いた黒い、からみついてくるような、粘ついた感覚が、後から後から湧いて出る。
俺は怖がってるんだ。気づいた途端に、全身に鳥肌が立った。
風祭も怖い。なんで、こいつ、あんな風に笑えるんだろう。あんな風に言えるんだろう、見られるんだろう。
俺には風祭みたいに笑えない、言えない、見えない。遠い遠い場所にあるはずのものなんて、俺はまだ見たくないのに、風祭はすぐ側に見ている。
それがいやだ。こんなものをずっと見ているって、おかしい。見続けたら、頭がおかしくなって、それにも気づかないままになるんじゃないか。異常なんて、普通の中に、たやすく入り込めるものだ。
頭が変になった俺は、風祭が死ぬことにも当たり前のこととして受け止められるんじゃないのだろうか。違う、違う絶対に違うと首を振った。
風祭が死ぬなんて、俺には耐えられない。かといって、俺が先に死んで一人になるのも苦しくて、考えただけで、想像するだけで、体中が冷えていく。
俺がもっと大人になったら、こんな風には思わないんだろうか。もっと落ち着いて見つめられるようになるんだろうか。金魚の死を何とも思わなくなった今みたいに。
じりじりした焦燥が続く。灼かれるみたいに肌がひりついて、汗が出て、べたつきを残しながら冷える。
こんな風に考えていても、きっと明日になれば、またサッカーして、英士や一馬と遊んだり、どっかに行ったり、風祭と会ったり、キスしたり、セックスしたりするだろう。親に叱られて、学校で勉強して、テストの点にへこんで、友達と馬鹿話をしたりして、俺は生きていくんだ。何年かしたら、また別の生活が始まり、それもやっぱり終わる日が来る。
始まって、終わってを繰り返す。そこに風祭の声や表情や匂いが、たくさん混じってるはずだ。俺のどんな時間にも、あいつが入ってきて、俺の世界は風祭一色になる。今だって、そうなりかけてるから、間違いない。
どうなるんだろう。風祭で染められた世界から、風祭が消えるとき、俺は世界をどう見るんだろう?
いつか、いなくなったらどうしよう。置いて行かれたら。置いていったら。別れ別れになったら。離ればなれになったら。すべての別離が恐ろしい。生きているときでなく、死の離別、片方が生きている限り続く、半永久的な断絶が怖い。
「いやだ」
「若菜君?」
風祭が驚いたように、俺を見上げるから、どうしようもなくなった。
俺は、こんな感じの奴じゃないはずなのに、暗い事ばかり考えている。でも、止まらない。駄々をこねるガキみたいに、手足をじたばたさせたくなった。
いやだ。風祭がいなくなるなんて。こんなに好きなのに、何もかもが好きで好きでたまらないのに、いつか、いなくなるなんて。いやだ、絶対、いやだ。どうにかしてほしい。
「俺、マジで、やだ」
風祭は服の裾で手を思い切り、擦って、おずおずと俺の頬に手を伸ばしてきた。土が爪の間に入った風祭の手を俺はつかんで、自分の頬に当てる。
ひんやりとして、泥のせいでざらざらした風祭の手は、ちょっと困ったように俺の頬を指先で撫でた。湿った土の匂いがした。
「風祭。ちょっとだけ、こうしてて」
手を伸ばしたままなのはきついと思うけど、俺は頼んで、風祭の手を両手で握ったまま、目を閉じた。風祭は何も言わないで、俺の頬を包んでくれた。
それで、俺は泣かずにすんだ。泣いたら、最後の砦が崩れそうだ。今の俺はかっこわるすぎる。風祭、呆れてないかな。
風祭が鼻を啜った。くすんって犬が鼻を鳴らしたみたいな、変な音が聞こえる。
「――若菜君、僕より長生きしてね」
やっぱり、こいつは、俺が怖がってるのが分かってた。きっと、その原因まで。ああ、かっこわるい。なのに、ちょっと楽になる。全部、ぶちまけた後の、爽快感まで感じる。こうして、甘やかして欲しかったのかもしれない。
目を開いたら、ぱっちりした風祭の瞳が見えた。俺が見た穴よりも黒い色だけど、ずっと優しかった。
「……俺、風祭には俺よりも長生きして欲しいんだけど」
俺の言葉に対する風祭の答えは明快だった。
「じゃあ、二人で長生きしよう」
「俺、ぼけるかもよ?」
「うん。僕も」
はは、と笑って、俺は風祭を抱き返した。今だって、ぼけぼけなのに、そうなったら大変じゃん。
風祭のじいさん姿を想像したら、なんだか、涙と笑いが一緒に出てきた。風祭のこんなに黒い髪に白髪が生えて、柔らかい肌に皺が出来て、俺のこと、若菜じいさんとか呼んだりするんだろうか。その頃には名前で呼んで欲しいな。結人じいさん? 将じいさん? 別に、じいさんはつけなくてもいいか。いつまでも、若々しくなくちゃ。
「俺さ、禿げるかもしれない」
風祭の額に自分の額をくっつけて、言ってみた。
「全然いいよ」
「太陽が出たら、眩しいくらいのハゲでも?」
風祭は目に、ちょっぴり涙を浮かべ、それでも、くすくす笑っていた。
「僕、おじいちゃんの若菜君も好きだよ」
「本当?」
「本当」
「俺もじいちゃん風祭、好きだ」
そう思ったら、最後の涙が頬を転がっていった。風祭が服の袖で拭ってくれた。
俺が年を取っても、風祭も年を取っても、そうじゃないまま別れるようなときでも、最後に今みたいな風祭を心にすまわせていられるなら、俺は自分が死ぬのも、風祭が死ぬのも、俺自身の世界が終わるのも、少しは許せるかもしれない。少しは、そういうものだと思えるかもしれない。
「若菜君。金魚、埋め終わったから家に帰って、夕飯にしよう」
「なに作るの?」
「冷蔵庫の中、見てから考える」
「そっか」
家に戻って、風祭は麻婆豆腐を作ってくれた。うんと辛くて、うんと熱いやつを白飯と一緒にひーひー言いながら食べて、あったかい部屋で風祭と一緒に三十分くらい寝た。起きてから、風祭と一回やって、また眠った。
こうやって、俺も風祭も死んだ金魚を忘れ、束の間、死ぬ事も忘れ、貪欲に、ぎらぎら毎日を生きていくんだ。