忍ぶ恋



「僕が結ぼうか」
 ためらいがちな風祭の声だった。開けようとしたドアを開けず、ノブを握ったまま、その場に立ちつくした。ノブを握る手を、静かに離す。
 壁の薄い安普請の更衣室だった。中の話し声は、周りが静かなら、嘘みたいに大きく外に響く。今日の練習始めにはみんな分かっていたことだ。だから、二人は外に誰もいないと思っているのだろう。事実、そうだ。忘れ物でもしなければ、ここへは戻ってこなかった。
「じゃあ、頼む」
 答えたのは、天城の低い声だった。足音がドアの方へ近づいた。
「俺がかがむ」
「僕が椅子に上がるから」
 それぞれ、ずれて聞こえた天城と風祭の声。何でもない、淡々としたやり取りなのに、お互い、何かを怖がっているような、変な響きがあった。
 ごそごそと物音が聞こえる。どんな顔で、二人して向かい合ってるんだろう。
 天城は、下手したら都選抜の中の誰よりも一番、表情が変わらない。それが素だというのもいるだろうが、天城は意識して出していないのかもしれない。
「今日、天城、調子良かったね」
「そうか。自分じゃ分からなかった」
「そんなものなのかな」
「かもな」
 風祭の口調に比べれば、天城の返事は、素っ気ないくらいだ。
 天城は誰に対してもそうで、都選抜の中では一人で居ることが多い。話しかけにくい雰囲気があるから、周りからはやや遠巻きにされている。天城のことを嫌いという者はいないだろうが、同じように好きだという者もいないだろう。
 無口で無愛想だな奴だと認識されているから、みなもそういう風に接している。
 例外は風祭と渋沢だけで、渋沢の方はキャプテンだから、誰に対しても公平に、それも、上手いやり方なので、偽善臭い感じはしない。
 だから、選抜の中では、風祭が一番、天城に話しかけている。もっとも、風祭一人が、一生懸命話をしていて、天城はうなずいたり、短い返事を返したりするだけだ。
「風祭」
 天城が、なんだか妙な声を出した。困っていると言うよりも、なんだか慰めるみたいな感じ。天城もこんな優しい声が出せるのだと思った。彼の声を聞いたことは、あまりないのだけれど。
「ごめんね。もうすぐだから」
 答える風祭の声は泣いているようだ。きっと、そう感じただけで、天城の声の調子から言えば違うのかもしれない。あんな優しい声を出すやつが、風祭が泣いているのに気がっつかない訳がないだろうから。
「ゆっくりでかまわない」
「天城は不器用じゃないのに、今日はどうして結べないんだろ」
「さあ。嫌だからかもしれない。会いたくないから」
「お父さん?」
「ああ」
「会いたくない?」
「そうかもしれない」
 親父に会いたくない? 天城のことなんて、詳しくは知らない。風祭のことを詳しく知らないのと同じように。でも、天城と風祭はお互いを知っている。そんな当たり前のことに気がついたら、ふと仲間はずれにされたような、取り残されたような、そんな寂しい気持ちになってしまう。
「準備は進んでる?」
「まあまあ」
「大変だね」
「そうでもない」
「そっか」
 そうだったと思い出す。
 天城は都選抜を抜けるのだ。辞めて、ドイツに行くと聞いた。サッカー留学かと、一時はみんなで盛り上がったが、ただ単に親と暮らすために行くらしい。
 あいつ、いなくなるんだ。今更ながらに思った。その程度でしかない天城との仲だった。
「日にち、言ったか」
「うん、聞いた」
「そうか」
「天城、梅干し、あげようか」
「なんだ、それ」
「日本食、恋しくならないかと思って」
「ああ……。でも、向こうでも買えるらしい」
「なら、いらないね」
「気を遣ってくれたのに、悪いな」
「ううん」
 二人が黙り込む音が聞こえる。相手を大事に思いすぎて、どうしようと戸惑うなら、こんな沈黙になりそうだった。そう思い、うろたえた。なぜ、うろたえたのかも分からない。
 また、さきほどのような、奇妙な気持ちになる。置いて行かれたような――自分がひとりで、仲の良い者たちを遠くから見て、羨ましいと思っているような、ひとりぼっちの心境だ。
 不意に、天城の声が乱れる。
「――風祭」
「大丈夫だよ。泣いてないよ」
「風祭」
「本当だって」
「そうか」
「うん」
 天城と風祭はそれきり話さなくなった。最後に、バッグを持ち上げた物音が聞こえたので、ドアから離れた。何となく、いや、絶対に姿を見られたくなく、更衣室の横に隠れた。
 ドアが開いて、壁が揺れる。二十まで数えて、そっと顔を出した。
 二人は並んで歩いていたが、途中、風祭が何かを取り出そうとしたのか、バッグの中に手を入れたので、歩きが遅くなった。
 天城はそれに気がつかないらしく、何歩か先になった。
 風祭は顔を上げ、天城を見つめた。
 風祭の目が、言葉よりもはっきりと語っている。
 行かないで。
 語る眼差しがゆっくり逸らされる。薄い瞼が、心を隠す。まばたきが終わると、風祭は笑っていた。
「天城」
 振り返った天城は目だけで笑った。
 あいつのために、よかったと思った。
 あんな目の風祭を置いていくことを、そして、浮かべさせた自分の選択を天城は激しく、後悔するだろうから。
 天城は何も気づかないままでいい。そうしたら、何も変わらないはずだから。
 二人は何も知らない。気がついたのは自分一人だ。天城の思いも、風祭の心にも、そして、自分自身の感情にも。
 始まった恋心を抱えたまま、始まらない恋心を持つ二人を見送った。

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