移動遊園地


 楽団の演奏と人々の歓声が、機械の動作音と混じり合って、やかましかった。それでも不快ではない。将は天城に促されて、ベンチに座っていた。
 天城はそこから少し離れて、今は、木馬にまたがって、はしゃぐ妹を見守っている。人波の間から、時折、妹に手を振る姿と、振り返って将に小さな微笑を送る姿が見られた。
 天城と目が合うと、将は笑い返し、温かい陶器のカップを包み直す。冷たい風が吹いて、寒くなったときだけ、カップの中身を啜った。美味しいが、将には少し強く感じられる。待っている間、体を冷やさないためといって天城が買ってくれたときには、酒とは思わなかったので、一口飲んで、スパイス類がたっぷり入ったワインだと知ったときには驚いた。
「いいのかな」
 そう訊ねると、天城はうなずいた。
「こっちではいいんだ」
 天城が言うのだから、大丈夫だろう。天城の妹はいいないいなと将の手にした彩色豊かなカップに手を伸ばし、自分も欲しがったが、天城にたしなめられ、頬をふくらませた。飲み終わった後のカップで良ければあげるよと、将が言うと、機嫌を直してくれた。
 天城は、妹と知り合って以来、将が彼女を甘やかすと優しい苦笑と共に、たまに漏らす。確かに兄しかいなかった将にとって、天城の妹は可愛く思える。だが、天城の可愛がり方にはとても及ぶまい。べたべた甘やかしている訳ではないし、猫可愛がりしている訳でもないが、妹に接する天城の姿から、彼がどれほどこの小さな妹を愛しているか、分かる。
 将はグリューワインを半分だけ飲むと、立ち上がった。人にぶつからないようにして、天城の隣に立つ。天城が着ている皮ジャケットの匂いに、少しくらりとした。こめかみを押さえる将の仕草を天城が目敏く見つけ、声をかけてきた。
「疲れたか」
「大丈夫。ちょっと酔っただけ」
 そう言うと、天城は微笑し、将の手からカップを取った。触れた天城の指は冷たかったので、ちょうどいいだろう。
「まだ、残っている。酒に弱いんだな」
「日本じゃ、まだ飲めないよ」
「そうだったな」
 そう言って、天城はカップを持たない右手を軽く挙げた。気がついた将も手を振った。目の前を、日に透けていっそう眩しい金の髪が通り過ぎる。天城の前に現れるたびに、手を振っていた妹は将の姿を認め、笑顔をいっそう深くした。
 色鮮やかな木馬は何度でも何度でも上下しながら回り、動く木馬や馬車の間をひょいひょいと人が行き交っている。近くで子どもに手を振る父親や母親の姿もあるし、カメラに収める姿も見られる。黒ビールの入ったカップ片手に大笑いしている赤ら顔の男たちの横で、二人一緒に乗ったカップルが、楽しげに囁き合う。
 人で一杯の移動遊園地は、喜びでも一杯だ。そんな人々の間に立っていることが、将にはたまにきついときがある。まばたきして、もう一度目を開いたとき、一人きりになっているのではないかという恐れを抱くためだ。
 怯えを振り払うように、将は回転木馬を見つめる。金や赤を使って派手に塗られ、電飾の光る回転木馬は、将の恐れを笑うように、ひたすら楽しげだった。
「目が回らないのかな」
 結構な早さで回る木馬を見て気になったので、将は言ってみた。手動で回す遊具がほとんどなので、もっと早く、と客から注文が付けられると、ほとんどの係員がそれに応える。
 そのため、回転木馬は回り出した当初よりも、相当に早い。
 天城は将ほどは気にしていないようだが、それでもうなずいた。
「回る。降りたら、おんぶしてくれって言ってくるな」
 十分間回り続けた回転木馬が止まると、天城は木馬に近づき、妹を抱き下ろした。確かに足下がふらついている。天城が何かささやきかけたが首を振って、将に手を伸ばしてくる。
「おんぶ?」
 将が訊ねると、憤慨だというように妹は唇をとがらせた。
「子どもじゃないんだから、そんなのいいの」
「ごめん」
 じゃあ、どうするのかなと将が見下ろしていると、妹は手を伸ばして、将と腕を組もうとした。将の背が低いとは言っても、まだ幼女の彼女とは身長差があったから、腕を組むと言うよりは、手にしがみつくといった方がいいかもしれない。
 それでも満足そうに、にっこり笑った彼女の顔や、ほんの少し赤らんでいる頬、頭で揺れているリボン、そういう何もかもがいじらしく思え、将はほほえんだ。
「悪いな、風祭」
 天城が日本語で言うので、将は首を振った。
「いいよ」
 続けて言った言葉は将にしてはめずらしい、からかいの言葉だった。
「妹、取られて悔しい?」
 天城は一瞬、目を見開いたが、すぐに妹と将を見比べ、唇で微笑した。
「……複雑な気持ちだ」
 僕も、と言いかけ、将は黙って笑んだ。なぜだろうか。時々、言い出したくなる。彼が自分を受け入れてくれるだろうと知っているからかもしれない。だからこそ、将は言わない。
「将、飲んだ?」
 妹は将を引っ張って、自分に注意を向けた。
「まだなんだ。天城が飲んでくれるって」
「遼一、早く飲んで」
 せがむ妹に苦笑ひとつ投げて、天城はカップの中身を一息に飲んだ。顔色は変わらない。
「ほら」
 まだワインの匂いが残るカップを渡すと、妹は将の手をふりほどいて、カップを両手に収めた。
「いい匂い」
 鼻の頭を突っ込んで、カップの中の匂いを嗅いでいる。天城と目を合わせて、将は笑んだ。
「お酒に強いね」
 将の言葉に、妹ははっと顔を上げ、カップを片手で持つと、慌てて、将の手に自分の手を絡めた。天城がくっくっと笑い、敏感に侮辱を感じ取ったらしい妹の可愛くも厳しい視線に、素知らぬ振りをよそった。
「行こう」
 兄のからかうような態度に、拗ねたらしく、妹は将の手を引いて、歩き出す。カップを落としそうだったので、将は自分が持つよと申し出た。
 天城は二人の後ろから、歩いてくる。多少、距離が出来ても、天城は将と妹をすぐに見つけられるようだし、追いつくことも出来るので、ゆったりした歩調だった。
「今日、本当は将と二人で行くつもりだったんだ」
「そうだったんだ?」
「そう。だって、いっつも燎一が付いてくるから」
 将に会いに来るとき、天城は大抵、妹を連れてやってくる。一人で来るときもあるが、それがばれると妹はしばらく口を利いてくれないそうだ。
 今日の誘いは妹にねだられた天城からだった。――移動遊園地が来てる。行ってみないか。電話口から聞こえたのは、天城らしい簡潔な誘い方だった。
「でも、将と二人で行くのって言ったら、ムッターもファーターも駄目だって。燎一もうーんって」
「人が多いから、二人だけじゃ危ないと思ってるんだよ」
「将がいたら、大丈夫なのに」
 むくれたような顔になった妹に、将は提案した。
「じゃあ、今度は二人で遊びに行こう」
「本当?」
「本当」
「内緒で?」
「内緒で」
 ふふ、と妹がほほえむ。きゅっと将の手を握り直し、歩調まで軽くなる。
「なに、話してるんだ?」
 天城が後ろから声をかける。振り向いて、得意げに妹が言う。
「教えない」
 秘密だもんね、と、将を見上げ、にっこり笑う。将もにっこり笑う。天城が目を細め、妹の横に立つと、残った片手を繋げる。
 兄と将の二人に手を繋がれて、妹は笑みがいっそう明るくなる。
 将は語学学校の教師と天城にドイツ語を学んだが、彼女にもずいぶんと助けてもらった。
 日本にいても童顔で、実年齢に見られた事がない将は、このドイツでは、もっと幼く見えるらしい。最初、将を見た妹は、自分と同い年か少し上の子が日本から遊びに来たのだと思っていたようだ。その誤解から生じた親近感もあってか、妹はすぐに将に懐いてくれた。
 天城の家へ遊びに行ったり、天城が妹を連れて訊ねてくるとき、彼女はいつも絵本を携えて、将の前へやってくる。
「絵本、読んで、将!」
 家でそうしてもらっているように、彼女は絵本を広げる。将は頁に書かれた優しいドイツ語を、慣れない発音の仕方で、つっかえながらも読む。
 彼女はずいぶんと厳しい教師で、将が間違えると、そくざに、
「違う!」
 と可愛らしい声で怒り、こう読むのと教えてくれた。将が気を逸らすと、敏感に感じ取って、たちまち天城の妹は、ちゃんと読んで、と注意してくる。
 天城と功は、そういうときコーヒーを飲みながら、くすくす笑い、将が一生懸命、絵本を読み聞かせしているのを眺めている。将がドイツ語に慣れ出しても、読み聞かせは続き、今でも妹は将に本を読んでもらいたがる。それも、妹の成長に合わせて変化を迎え、今では絵本より字も増えて、絵も少なくなった本に変わっている。
 将は、たぶん、彼女のためならいつだって本を開くだろう。そんな存在がドイツに来てから将には出来た。もう一つ、どんなときでもその気配を感じていたい存在も。
 天城と二人、妹を庇いながら、人波に押されて歩く。そのうち、興味を引かれるものを見つけたのか妹が二人の手を引いて、そちらへ向かった。代金と引き替えに、花綱をつけたポニーに乗れる一角だった。
 馬に乗りたい訳ではないらしく、妹は柵の隙間から、湿った息を鼻から吹き出す小さなポニーを眺めている。何人もの子どもが、そうしてポニーを見ているので、柵の側には小さな背中が並んでいた。褐色や黒、金、赤色の頭に毛糸の帽子を被り、オーバーやコート、マフラーをしっかり着せられた子どもたちは、時折、肩越しに振り向き、自分たちの連れが、いるかどうかを確かめる。その目には、休日にありがちな、ささやかな奇跡が起きて自分たちが子馬に乗れるかもしれない、という期待が浮かんでいた。
 居並ぶ子どもたちや馬場を回るポニーを見ていた天城は、ゆっくり将に話しかけた。
「クリスマスはどうする?」
「兄貴と一緒にいると思う」
「家に来るか」
「悪いよ」
「実は呼んでこいと頼まれた」
 天城は、急ごしらえの小さな馬場を回るポニーに、触れようと手を一心に伸ばしている妹を指した。
「それと母さんにも」
 妹の断ったときのむずかりようとふくれ面、ついで、それを叱りつけながらも困り顔をする天城の母親の顔を想像し、行くよと将は笑った。
 天城も笑い、ふと手を挙げると、将の肩に置いた。腰をかがめ、静かに囁く。ドイツ語の響きにしては、柔らかさが含まれていたのは、気のせいだろうか。
「……いつか二人でクリスマスを過ごせたらいいと思ってる」
 将は驚いて天城の顔を見たが、彼の頬が赤くなっているのに気づくと、心持ち彼の方へ顔を寄せた。
「僕も、そう思ってる」
「よかった」
 すぐに何でもないことのように、うなずいて、天城は将から離れた。
 妹へ呼びかける。
「帰るぞ」
「もうちょっと」
「駄目だ。風邪を引く」
 天城は照れているのだろうか。大きな背中を見つめながら将は思った。カップを持ち替えて、将が近づくと天城が振り返った。
「観覧車に乗ってから、帰ろう」
 それで折り合いがついたらしい。
「分かった」
 ここから、観覧車が設置された場所は、そう遠くなかった。案内の矢印通りに進み、ごった返す人に流されて、観覧車の前へ到着する。
 妹は将のオーバーの裾をつまんだ。
「将と一緒に乗る」
「僕が乗っても大丈夫かな」
 天城は微笑して、大丈夫だと言うと、硬貨を入り戸にいる男に渡した。将の分もだった。将はポケットの硬貨を天城に渡した。天城はちらっと微笑したが、何も言わず、硬貨を自分のポケットに収めた。
 観覧車には屋根がなく、塗られたペンキも剥げた、かなりの年代物だった。それでも、客は次々と楽しげに乗り込んでいく。妹と向かい合わせで座って、少し待つと、客を一杯に乗せた観覧車は回り出した。
 どこか、気の抜けるような、ほがらかなバグパイプの音が流れ出す。高いといっても、十メートルもないが、上から見下ろせば、下の人々は小さく見える。彼らは動き出した観覧車へ向かって、子どもや妻、夫、友人や恋人の名を呼び、さかんに手を振る。
 妹が身を乗り出すので、将はその肩を慌てて押さえた。兄に大きく手を振る妹に、天城も応えている。
「将も一緒に手を振って」
 将が幾分、押さえ気味に手を振ると、天城も妹に向けるよりは小さく、将に手を振ってくれた。照れを感じているのが、お互いに分かる。――あと何年もしてから、天城とここへまたやってくるだろうか。今度はワインにも酔わず、ビール片手に回転木馬に乗り込むかもしれない。観覧車に二人して揺られているかもしれない。
「将、ほら、みんな見える」
 妹の声が、はずむ。
 将と妹の乗ったゴンドラは天辺へ到達していた。移動遊園地が、ほぼ見渡せる。小さな動物園、ジェットコースター、回転木馬、ゲームコーナー、舞台、二つ三つ並んだテント、屋台、ビアーガーデン、入り口のアーチを飾る電飾。どこにもまんべんなく人がおり、飲み、食べ、話し、笑っている。冷たい風も、ここでは酒や笑いで火照った体を覚ましてくれるありがたいものだ。
 誰かの手から離れた風船が、風に吹かれ、観覧車の近くへやってきた。将と天城の妹のゴンドラの二つ下に乗っていた男が、それを上手いこと掴み、下の客たちから歓声や口笛を浴びせかけられた。
 男は一緒に乗っていた息子へ青い風船を渡し、小さな少年は誇らしげに、その手に風船を握る。
「いいなあ」
 見下ろしていた妹が呟いたが、はっと口を閉じた。
「あとで……」
 風船を買おうと言いかけた将だったが、その横に妹は素早く座り、将よりもずっと小さい自分の手で、将の手をぎゅっと握った。
「風船なんか、いらない。子どもっぽいもん」
 将の手を握ったまま、妹は言った。
「今度は二人だからね」
「そうだね――今度は二人だ」
 観覧車は秘密を二つ軋ませながら、地上で待つ天城の元へと戻っていった。


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