将の手首に時計がはめられているのを、いつからか一馬は見知っていた。それは卒業や入学といった機会に両親、もしくは祖父母から贈られた、そんな雰囲気を持つ品の良い、地味な時計だった。黒い革のストラップ、形の時計部分は銀、針も銀色で文字盤は黒だ。
その時計を将はいつも身につけている訳ではなかった。していないときもあったし、していないと思ったら、いつの間にかはめていて、はめているかと思うと、消えていた。そういうときは、バッグやポケットに入れていたのかもしれない。
ときたま思い出したように、将の手首に時計はあり、ときたま思い出したおりに一馬はそれを見つけていた。
また今日もしている。時計をはめていたら思う。
仕舞ったままだろうか。はめていなかったら思う。
ちらと視線を走らせて、確認する程度なので、誰にも気づかれない。些細なことだから、一馬自身も不思議とは滅多に思わない。
たまに、なぜ、と思っても、将へのあまりはっきりしない感情ゆえにだろうと納得させている。
いつだったかの練習を終えての帰り際、将が時計に視線を落としていて、その横顔が無防備なものに見えたから、そのせいもあるかもしれない。またあの顔を目に出来るのを待っているのかもしれない。何にせよ、胸にもやのように揺らぐだけの思いだった。
それが淡い色を帯び、形をとり出した、それとも、もっと大きく揺れ始めたのは、時計が将の手首から、一馬の手に渡ったときからだ。
その日、将は用事があるからと、急いで帰っていった。一馬の方は受け持っていた場所の片づけがなかなか終わらず、更衣室に戻ってみると、渋沢と藤代と間宮の三人しか残っていなかった。彼らも一馬が着替えている内にじゃあなと言って出て行ってしまった。友人二人は外で待っているので、一馬はなるべく急いで帰り支度をした。
バッグのチャックを閉めるときに、ペットボトルを入れ忘れたのに気づいて、振り返った。目の端で何かがきらっと光る。ボトルを入れた後、もう一度、光った辺りを眺めると、部屋の蛍光灯の明かりを受けてか、木棚の上で、やはり何か光っていた。
手を伸ばして、取ってみると、将の時計だった。色も形も、同じだ。間違えようがない。将は慌てたように出て行っていたから、忘れていったのだろう。それにしては、彼の背丈よりもずっと高い棚にあったのが解せないが。
落ちていたのを誰かが拾って、そこに置いた。誰かが悪戯をした。将が着替えの際、置いて忘れた。とにかく、考えても分からないものはしょうがない。
一馬は時計を手にとって眺めていた。自分の時計より、二分ほど早い気もした。どうしようか。追いかけるには遅すぎた。
足音が近づき、聞き覚えがあったものだったから、一馬は咄嗟に時計をポケットに入れた。思った通り、結人の軽やかな足音で、扉が開くと同時に、遅い、と急かされた。
「今、行く」
言って、一馬はバッグを持ち上げた。どうしようか。思っても、足は友人に追いついて、帰宅するための足取りなのだった。次の練習時にと、自分を誤魔化した。
都選抜の練習は月に一度。練習試合が組まれればその範囲ではないが、今回、それはなかった。
一馬が時計を見つけた日から一ヶ月。諦めるには充分な時間だ。
次に顔を合わせたとき、将は時計をしていなかったし、どうしたのかも口にしなかった。いつもどおり、水野や椎名、小岩や杉原に不破、藤代とにこやかに話し、たまに渋沢と話して、練習中、ポジションが同じ一馬と鳴海に挨拶とかけ声を交わして、一番最後まで練習して、帰っていった。
人目を気にしてる訳ではない。おい、と呼んで、カバンを探って、時計を差し出して、忘れてたぜ、と言えば済むことだった。それだけの話だ。
それだけの話なのに、いつまで経っても出来なかった。
時計を、ずっと持っていたかったのだろうか。そうかもしれない。持っていれば、疚しさがあり、罪悪感すら感じるのに返せない。
いつのまにか、月日は過ぎて、将と交わす言葉は少し増えた。それでは、今更、渡して変に思われないだろうか。
友人に向ける将の笑顔は、心配をやわらげてくれるものだが、時計は持ち主に返されないまま、一馬のバッグの中で、かちこち動いている。
その内、時計のことを本当に忘れてしまったり、逆に思いがけないとき、テスト中だとか、ユースでの練習中だとか、寝る前だとかに思い出すようになった。
思い出したら、ベッドでうつらうつらしながら、自分が拾ったと知られずに返す方法を考えたりしてみた。
更衣室にさりげなくおいて置くのはどうだろう。カバンにいつの間にか忍ばせておくのは。思い切って、郵送してみるのも、不思議すぎて納得させられるかもしれない。
直接、手渡せなくても方法はあり、どれ一つ選べないままに、時計は一日を刻んだ。毎日、針は二十四回、回って、秒針はせわしなく、こちこち鳴り続けた。
新しいスポーツバッグを買い、中身を移し替えるときに、一馬は時計を引き出しに仕舞うことにした。もっとも、仕舞う前、手にして、どうしようか、とまた思ってはみた。
くすんでしまった銀色の時計をタオルで拭き、固くなった革を手の中でにぎった。ずっと自分のものだったような懐かしさがこみ上げた。
はめてみようかと思って、手首に回し、つく棒を小穴にはめようとして気がついた。
五つある小穴は、一つだけ使い込まれて、他のものよりも穴が広がっている。皺も寄っていた。背の違いは、会うたび目にするが、些細な部分の差は、見ていても分からないものだ。
革のストラップを両手を使って丸め、将の手首の形に合わせてみた。穴二つ分、小さいから、一馬が同じ場所で時計をはめようとしても無理だった。
たわんだ革が楕円形になり、そこに持ち主の手首の形をおぼろげに教えてくれた。輪の中は、寒々として見えた。ごめんな、と一馬は呟いた。
それから、あまり時を置かず、一馬には将の手首をつかむ機会が訪れた。二つ分の穴の差がある将の手首はあたたかく、そのくせ胸が痛くなるくらいに小さく思えて、一馬は泣きそうだった。将の目も、振り時計の振り子みたいにあちこち揺れ動いていて、泣きそうだった。
話している間、耳の側で秒針が鳴っているようで落ち着かず、手を離した後に、この音が心臓の鼓動の音だと気づいた。将の胸もあんなに激しく、時間を刻んでいただろうか。
真田君と将から呼ばれることも、風祭と将を呼ぶことにも慣れないまま、まして名前で互いを呼び合う時間を想像もしない内に、将は一馬のいるグラウンドから走り去ってしまい、思い出すたび、かちこち早くなる鼓動だけを残していった。
将がドイツへ発った日の夜、一馬は時計を引き出しから取り出した。返したかったのか、持っていたかったのか、今でも分からない。
文字盤を耳に当てると、秒針の動く音が聞こえた。地図帳を広げて、時差を調べた。時計の針を動かして、ドイツの時間に変える。そうすると奇妙な満足感が生まれた。
以来、たまに取り出して、この時間なら起きているな、食事をしているな、眠っているな、そんな風に遠い国で生きている将を想像した。
二年後、時計の電池が切れた。時間が固まったのは四時十二分十八秒。午前か、午後か、定かではない。修理に出さないで、一馬は時計を持ち続けている。将が帰ってきたら今度こそ返そうと思いつつ、そんな日が来ても、時計は持っているような気がしてならない。
――いまだ、鼓動は早くなる。