呼ぶ月、招く月


 三日月は不吉な月だなんて、誰に聞いたのだろう。
 災いや病気を招くから、三日月が上がるときは見てはならない。その夜は、戸を閉めて、静かに過ごさなければならない。誰かから、そう教えてもらった気がする。それとも何かで読んだのだろうか。さり気なく、耳に挟んだんだろうか。英士あたりが言いそうな気もするが、記憶ははっきりしない。
 葬儀のあった日の夜は、三日月だった。制服から私服に着替えても、体にいつまでも染みついて離れない線香の匂いがうっとうしくて、部屋に籠もっていた。食事は、朝から食べていなかったが、空腹は感じなかった。ベッドに寝転がって、色々考えて、思い出して、部屋には誰もいないから、少し泣いたのかもしれない。  
 気が張って、目も冴えていて、眠れるなんてとても思えなかったのに、いつの間にか夢を見ていた。嫌な夢だった。内容は忘れたけれど、嫌悪を覚えたのは、はっきり覚えている。鳥肌を立てながら、目が覚めた。口の中が半ば乾きかけている。額にかいた、べったりした冷たい汗を拭って、俺は枕に載せた頭の位置を変えた。  
 眠気が少し残った頭では、今、自分が起きているのか、夢を見ているのか、どうにも区別がつかなかった。起きた夢を見ているだけかもしれないし、本当に目が覚めて、天井を眺めているのかもしれない。
 声が聞こえた気がしたのは、そんな曖昧な意識の中にいるときだった。空耳かと思ったが、胸がやけに騒いで落ち着かなくなったので、俺は予感に従って、起き上がり、窓へ向かった。  
 開けっ放しのカーテンと窓からは風が吹き込んでいて、きっとその風が声を運んでくれたのだろう。電灯が白々照らす道路に風祭が立っていた。
 顔をのぞかせた俺に、驚いた顔をしている。手にはたくさんの花を持っていて、それが白く光って見えて、とても綺麗だった。
「風祭?」
「うん。起きたんだね、真田君」
「呼んだ?」
「一回だけ」
 それを聞きつけたのだ。俺は風祭に、そこで待つように手で示した。忍び足で部屋を出ると、家の中はしんと静まりかえっていた。親父もお袋も、もう眠ってしまったようだ。誰にも咎められず、靴を履いて、急いで外に出た。風祭が立っていた道路の方へ回る。
 外はひやりとした夜風が吹いていた。季節は深まっていて、風に金木犀の匂いを嗅いだ気がした。
「いいの?」  
 電柱の影にぽつんと立っていた風祭はどこか不安そうだった。
「平気」
 目が覚めたばかりで俺の頭は、まだ幾らかぼんやりしていたから、いつもみたいに風祭に対して、つっけんどんでぶっきらぼうな態度は取らなかった。 風祭は埋もれそうなくらいの花を抱えて、俺を見上げている。俺の返事にようやく嬉しそうな顔になった。
 風祭に近づくと、甘い甘い匂いがした。風に流されない濃い、たっぷりとした匂いは風祭の持つ花から薫っている。強い匂いだけど、金木犀じゃない。あの花は小さいし、色ももっと赤みが強い。
「会いたいと思ってたから、真田君が出てきて、びっくりした」
「俺も呼ばれた気がして、外を見たら、お前がいたから驚いた」  
 風祭はくすくす笑った。もっと明るかったら、すごく眩しく見える笑い顔なのに、電灯の人工的な光の下で見ると、妙に青白く見えた。それも、なんだか妙に妖しくて、花の匂いと重なって、どきりとする。
「会えて嬉しかった」
 噛みしめるように言うと、風祭はふと振り返った。髪がさらさら揺れて、思わず触れたくなった。風祭の髪は意外に量が多く、触るとしっとりして、柔らかく、気持ちが良いんだ。
 指先に絡めようとしたら、風祭が視線を戻して、また俺を見上げた。
「僕、もう行くよ」
「送ってく」 
 離れがたくなり、俺は言った。再来週は選抜練習もあるし、その前に会う約束もしているけれど、せっかくだから、もう少しだけ一緒にいたい。
「駄目だよ」
「送るって」
「だけど」
 何度か押し問答をして、俺は風祭を説き伏せた。こんな夜に、風祭みたいな小さい、顔だって童顔のやつが歩いていたら、危なすぎる。
 風祭は何とかうなずいて、それから恐る恐る訊ねてきた。
「帰るとき、真田君、一人で帰れる?」
「当たり前だろ!」  
 ちょっと馬鹿にされたようで、俺は口調を鋭くして、返事した。きっと、目線もきつくなっていたと思う。直さなくてはと思っている悪い癖。風祭に対してつい取ってしまうこんな態度は後から後悔ばかりするだけなのに。
 風祭は、そういうとき、よく見せるようになった、困ったような、戸惑うような感じでは笑わずに、俺をじっと見た。怒ったのかと、一瞬、思ったが、そんな様子もない。真剣な風祭の瞳に呑み込まれそうな気がした。
「じゃあ、お願いします」  
 風祭はぺこんと頭を下げると、歩き出した。俺も横に並んで、時々、風祭の横顔を見下ろして、歩いた。
 花をたくさん持ってるから、歩きにくいだろうに、風祭の足取りは迷いがない。半分くらい持ってやりたいのに、俺の申し出に、風祭は頑固に首を振る。
「一人で持てるから、大丈夫」
 花の間に埋もれた風祭の顔は、その白い花びらに照らされて、いつもよりも大人びたように見えた。たまに伏せられる視線が寂しげなのは、俺が、さっき怒鳴ったからか、無理矢理ついてきたからか。罪悪感が湧いた。
「……悪かったよ」
 風祭はまばたきすると、心から不思議そうに、何が? と訊ねてきた。
「さっき」
「さっき?」
 途切れがちになる俺の言葉に苛立ちもせずに、うながしてくれる。
「だから、さっき……俺、怒鳴っただろ」
「それで、どうして、真田君が謝るの?」
「俺が怒鳴ったから、お前怒ってるんだろ」  
 風祭は俺を見上げて、花を抱え直すと、ほほえんだ。
「真田君と歩けて、嬉しいのに、怒るわけないよ」
 そう言う風祭の言葉が、笑顔が、あんまり優しくて、透き通っていて、なぜだか泣きたくなった。幸せなのに泣きたいって、こういうときなのかなと思い、目頭が熱くなる。そのまま泣くのは格好悪すぎて、そんな自分を風祭には見せたくなく、俺はまばたきしないで、前を見据えた。
 歩く先には、三日月が吊り下がっている。見ていたら、胸がひりひり痛くなった。焦燥感に近い痛みをくすぐるみたいに、くらっとくる甘い匂いが俺の鼻をかすめていった。
 

 幾つもの通りと、角と、橋を渡る。風祭が俺に話しかけて、俺が応えて、今度は俺が話しかける。どこまで行っても、二人だけだった。誰も俺たちを見ていなくて、静かだった。周りが静かで、夜の闇と月の明かりがうっすら混じり合うような時だったら、こんなに普通に、風祭と接する事が出来るのかと、驚いた。  
 もっと早く、夜に会おうと言えば良かったんだ。そうしたら、風祭に沈んだ顔をさせずに済んだし、俺だって自分が口にした言葉に自己嫌悪せずに済んだ。変な喧嘩になって、誤解させたり、誤解したり、怒鳴ったり、黙ったりするような、嫌な時間を過ごさずにすんだ。  
 その証拠に、風祭は始終、楽しそうににこにこ笑っていた。
「どうしても真田君に会いたかったから、わがまま言ったんだ」
「別に、わがままじゃないだろ」
「そうかな。そうだったら、いいんだけど」  
 風が吹いて、風祭の髪が目にかかる。首を振って横へ流そうとしたので、俺が髪を流してやった。風祭は、なんだか身を固くして、俺が手を離すまで動かなかった。
 いきなりだったから、驚いたのだろうか。 俺たちは、周りが思っているほどには触れ合っていなかった。話すだけで精一杯で、見つめてるだけで息苦しくなって、甘いようなじれったいような時間ばかり過ごしていた。
 キスはしたことがある。でも、顔を近づけるだけで、風祭に悪いことをしているような思いに襲われた。自分の仕草の荒さに苛つきながらも、唇を重ね、そのたびに風祭に優しく受け止められた。
 キスよりも先の行為は、自然に任せてと思っていたし、俺たちがもっと大人になってからとも思っていたが、どうしても欲求はあった。それを感じるたびにまた、妙な態度を取って、風祭を怖がらせていた。俺の中の堂々巡りに、風祭を巻き込んで、一人でじたばたしていた。その自分の馬鹿さ加減に、どうしようもなく恥ずかしく、後ろめたくなる。
「ごめん……」
「え、違うよ」
 風祭が慌てて首を振った。
「真田君に触られるの、全然嫌じゃない。僕こそ、ごめん」
「そうじゃないんだ」
 どういえばいいのか。上手い言い方が見つからずに、口をついた言葉が、これだった。
「……俺、もっと、お前に優しくしたい。今まで、ごめんな」
「うん……」
 泣き笑いのように風祭はうなずいて、花に顔を埋めた。
「ありがとう……」  
 細い風祭の肩が震えたけど、俺は手を伸ばすでもなく、それを見ていた。感じている不思議な焦燥感に胸が痛くなり、どうしようもなく悲しくなった。二人で一緒にいるのに。これから、少しずつでも俺たちは上手くやっていけるはずなのに。道の両側に広がる闇に似て、どこにも未来が見えない。
「風祭」
「行こうか」
 風祭の笑い方は、俺の言葉を封じ、花の匂いが思考の流れを妨げた。逆らえないままに、濡れたように光る路面を歩く。何て、寂しい道を俺たちは歩いているんだろう。
 会話をもう一度、始めるきっかけを掴めず、花がまき散らす匂いにふと、唇を噛む。言葉が喉の奥で引っかかっているようで、歯がゆくて仕方なかった。
 風祭を横目でうかがっていると、花束から光が一つこぼれていった。目で追ってみれば、花が一輪、路面に落ちている。あまり好きな匂いの花じゃないが、風祭が大切そうに抱えていたので、拾おうと身をかがめ、気が付いた。
 俺たちが歩いてきた道路に点々と花が落ちている。少し先を行く風祭が、不安そうに俺の方を振り返ったので、もう一度肩を並べた。それでも、息を殺して見つめる。
 風祭の肩が小さく動き、花束の下で指が、一本の花を抜き取り、そっと地面へ落とした。ある程度の間隔で、同じ仕草を繰り返し、花を道へ落としている。
「花、いらないのか」
 俺が振り返って、ついに、そう言うと、風祭は目を伏せて笑った。誤魔化すわけでも、理由を話す様子もない。
 正直に言えば、この甘たるい匂いにはうんざりしていたから、匂いが薄れていくのは嬉しかった。ただ、不思議な事に花の匂い以外に、別の匂いも漂う。生臭いような、鼻や喉を塞ぐような感じの妙な匂いだった。
「これ、真田君が帰るときの目印」
「迷子になんて、ならない」
 その頃には、花は風祭が片手に抱えるくらいしか残っていなかった。何本、あったんだろう。何本、落としたんだろう。俺が抱き続ける焦燥の答えは、そこにあるような気がした。この花は、とても大切な花のはずだ。そんな考えが浮かぶ。
「でも、花は、たくさんあったから」  
 俺が何か言う前に、風祭は、ほら、と指さした。
「――もうすぐだよ」
 目の前が開けていた。吹いてきた風は塩気を含んでいる。風祭はまっすぐに歩いていき、階段を下りた。砂でざらざらした階段を降りる。目の前に広がっていたのは、夜の海だった。潮騒の音は間違えようがない。
 どうして、こんなところに? 
 呆然とする俺に風祭は笑いかけた。
「ありがとう」
 それから、風祭は波打ち際へ向かっていく。  
 風祭がおかしくなったのか、それとも俺の方がどうかしてしまったのか。どうして、帰るといって辿り着くのが海なのだろう。俺を嗤うように、砂を洗う波の音が繰り返し、押し寄せてきた。
 何の冗談か、風祭が海の中へ入っていきそうだったので、慌てて追いかけた。冗談でも、人をからかうつもりでも、これはたちが悪すぎる。
 三日月が精一杯、照らす海は、わずかな光の分だけ、闇が深く、広く見える。細い細い月明かりが、海に光の道を作っていた。満月ならどれだけ、綺麗なのか分からないが、三日月夜の今夜は、頼りない細い道だった。
 風祭が振り返って、足を止める。妙にのっぺりした哀しい表情をしていた。三日月だけが光源なのに、夜闇に浮かび上がる白い顔だった。
「――もう、真田君には分かっているんだよ」
 風祭が花を握った手を開く。はらはらと花が風に攫われて、落ちていく。俺と風祭の視線を遮って、あまい匂いを漂わせながら、静かに砂の上へ、落ちる。
 明かりが白い花弁に映ったから、光ったように見えていたのではなく、花自身がほのかな明かりを放っていたのだった。こんな花、現実にあるわけがない。名前も知らない。
「花を辿って、真田君は帰って」
 風祭が俺の手に触れてきた。握りしめられる。どんな短い時間でも、これほど長くはない。
 ひやりとした冷たい手だった。きっと、風祭が落とした花も、こんな風に冷たいんだ。
「さようなら」
 風祭が囁いた。永遠に別れを告げるとき、人は今の風祭のような響きを込めるのだろうか。
 背を向け、そうするのが当たり前のように、風祭は足を踏み出して、月光の細い道を渡り出した。振り返らずに、どんどん歩いていく。素足だった。踵は真っ白で、血の気がまったくない。
 俺は足下に落ちた花を拾い上げた。冷たくて固い茎の先に咲いた花は、何枚かの花びらが重なり合っている。砂の上に落ちただけでは何ともなかったのに、俺が指で触れると、儚く萎れていった。
 枯れていく花に顔を近づけ、匂いを嗅ぐ。甘さの奥に饐えたような匂いがあり、確かに血の臭いも残っていた。花弁の付け根には、白いだけの花びらには不釣り合いな赤い小さな染みが一つ、あった。閉じられた瞼に、一滴だけ血が飛んでいたという話を思い出し、これは風祭の花だったんだと思った。たぶん、あいつの生命の数だけ、咲くはずだった花。すべてに血の刻印が押されて、刈り取られた花。
 俺は靴を脱いで、風祭と同じように素足になった。踏みしめた砂は柔らかい。空気が暑くて、砂が熱くて、駆け出さなければいけない日中とは、全く違う冷たさだった。俺と風祭の声が響き合って、海に落ちていった時とも違う。今は波の寄せて返す音、それだけしか聞こえない。
 ――分かっているんだ。誰にともなく、自分にでもなく、俺は呟く。
 風祭が言ったとおり、きっと俺には全部、分かっているんだ。
 三日月の頼りなく、曖昧な光が、風祭を俺の元へ寄越し、途中まで付き添う事も許してくれた。満月の眩い光の下でなら、俺は気がついていただろう。不自然にねじれ、肉や骨が覗く体に、否応なしに気がついただろう。
 風祭が抱えていた花の甘い匂いは腐臭を消し、俺の帰路のために、道上で光っている。
 道を行く風祭はたどたどしい足取りで、俺から遠ざかっていた。それと共に、思い出も遠ざかっていく。足音もなく、黙って、静かに去っていく。その恐怖が、過ぎ去っていく時間に対する渇望が、俺の背中を押した。
 消えていきそうになる月光の道が足を刺す。月光はガラス片のように足の裏を突き破り、血が道に熱く広がった。
 ここは、俺が歩く道ではないと光が囁く。ここから先はお前の行く場所ではないと、光が俺を諭す。
 俺には分かっている。これは風祭のための道、分かたれた者が歩く道だ。それでも、俺は一歩、また一歩と足を進めていく。
 三日月が不吉だなんて、誰が言ったんだ。俺は、逢いたかった。どんな姿でも、どんな形でも、風祭に会いたかった。別れを告げるためでなく、見送るためでなく、一緒にいるために逢いたかった。
 来てくれたのなら、思っていいだろうか。風祭も俺が追いかける事を望んでいたのだと。俺を連れて行きたいと、欠片でも思ってくれたのなら。目覚めれば、すべて儚い光の中に溶け、夢の内へと消えていく、この逢瀬に、そんな願いを抱いていてくれていたのなら――。
 祈るように、願うように、風祭の名を呼ぶ。
 風祭、聞こえるか? 聞いてくれるか。
 俺は照れもしない。いじけた心も持たない。素直に打ち明けられる。理を曲げても、逢いに来てくれた風祭に、理を曲げて、俺もついていきたいと、必ず、お前に言える。
 振り返る風祭の目が、俺をとらえた。一瞬にも満たない一瞥に、俺は確かに、願いが、祈りが、聞き届けられたと思う。
 その眼差しがあれば、すべてを手放しても悔いはしない。三日月の光なら、この道にふさわしくない俺が、風祭の横にいたとしても、何者も気がつかない。
 俺は俺の血で、道を造る。流す血は凍りつき、新しい道になるだろう。体中の血を流してでも、俺はお前と共にその先に行ってみせる。
 今、禍月は祝月と変わり、闇の中には細い光の道が輝いていた。


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