大嫌いなあなた



 泣くのは僕のはずだった。だけど、僕は泣けない。最初に滲み出た涙も今では消えている。まばたきすれば眼球が乾いているのが分かるくらいだ。
 泣いているのは真田君の方だった。汗と鼻水と涙が、僕の顔や床にしたたり落ちている。体にも落ちて、皮膚がぬるぬるしている。引っかかれた場所にも染みて、ひりついた。
 痛いなんていうのも厭になって、そのうちに、どこも痛くなくなった。
 違う。痛みばかり与えられるから、体が鈍感になってきている。
 真田君が腰を動かすたびに、僕の体も揺れた。声を出しているつもりはないけど、突き上げられたり、揺さぶられたり、体を動かされたりすると、喉の奥で空気がつぶれてしまったような音と声が出てしまう。
 男が男を犯すときは、ここを使うんだなと、そういえばおぼろに聴き知っていたことを思い出した。
 ――僕の目に見えた真田君のペニスは、堅く張りつめて、男の、雄の気配があった。僕にもあるはずのそれなのに、異質に思えたのは、そのときの僕が犯される側だったからかもしれない。
 人のそんな場所がそんな風になっているときを直視してはいけないような気がして、目を逸らした途端、ぞっとした。頭よりも先に、体で意味が分かった。歯がかちかち鳴る。うそだと思いたいのに、唇の隙間からは情けないくらい、震えた声が出た。
「なに……を」
 知ってるんだろ、と真田君が悲鳴みたいな声で言った。大声で、時々、声がひっくりかえって、まるで壊れたスピーカーみたいに、不安定な声だ。
 十四だろお前知らねえのか、一人でやったこともないのかよ。なんでだよ、なんで知らねえんだよふざけんじゃねえよ。
 真田君の目の表面が膨れあがって、弾けた。落ちてきた涙は僕の頬と額と鼻に落ちて、何粒かが唇に入ってきた。冷えていて、塩辛い。
 どうせ知らないふりだろそうだろ、いつもへらへら笑ってるくせにこんなときは笑わないんだな笑ってみろよ。
 真田君の声が耳元で聞こえた。真田君が歯を食いしばる。僕の手首をつかんだ手に、さらに力がくわわった。
 体を破られるときってこんな風に痛いんじゃないかと思った。耳の奥で、ごうごうと風が吹き抜けた時みたいなすごい音が聞こえた。

 真田君は僕に、知らないのか、と訊いた。
 知ってた。知ってる。だけど、どうして、真田君が訊くんだろう。
 シゲさんが持ってきた雑誌、サッカー部の男子ばかりが集まって観ていたビデオ。僕だって知っている。男と女が何をするか、どうするか、空想でも作り物でも、知っている。
 だけど、どうして、真田君と僕が、それをするんだろう。そして、そんなことを訊ねる真田君が、そんなことをする真田君が、ぼろぼろ泣いているんだろう。
 誰か来てくれないかと最初は思った。助けて欲しいと、強く、祈った。だって、ここは外だ。室内じゃない。一人でも通りかかってくれたのなら、物音に気づいて、見に来てくれるかもしれない。
 そうしたら逃げられるのに。おなかの中をかき回されるみたいな気持ち悪い感覚からも、ひっくり返されて、両足を広げたみっともない格好からも、逃げられるのに。
 でも、誰も来ない。来るわけがない。灰色のコンクリートブロックが見える。あの向こうには白い乾いた砂がまかれたグラウンドがあって、その向こうには中学校の校舎があって、ところどころに植え込みの緑がある。体育館の横には水が茶色くなって落ち葉やゴミが浮かんでいるプールもあるんだ。
 プールの周りを囲むようにして植えられた椿の前で、僕は水野君に言ったんだ。残って練習をしていくって。無理するなよと水野君は言って、少し笑い、翼さんはほどほどにしておけよ、と言って、僕の頭をぽんと叩いて帰っていった。
 渋沢先輩が少しだけならと言って付き合ってくれて、それがとても嬉しかった。藤代君も途中から入ってきて、寮の門限に間に合うバスの時間まで、三人で練習した。
 間宮君や他の何人かが僕たちに、じゃあなとか、声をかけてきてくれて、僕たちも手を挙げたり、うなずいたり、またね、とか、ばいばいとか挨拶した。
 みんな帰っていった。グラウンドを横切って、校門をくぐって、駅やバス停や徒歩や自転車で、いなくなった。
 真田君がどうしていたなんて覚えていない。郭君や若菜君と帰ったのだと思った。それが都選抜の練習が終わった後の三人だから。ポジションが違っても、来るときとお昼ご飯と帰るとき、それ以外のちょっとしたことでも三人は一緒にいる。チームの中では、それが普通という感じで受け止められている。みんなはそれを邪魔しないし、輪から外しもしない。あの三人はここ以外でもチームメイトで小さい頃からの友達だ。
 だからこそ、そんな三人と僕が話すことは、滅多なことではない。仲が良いとか、悪いとか、そんな関係じゃなかった。サッカーを抜きにして付き合ったことは一度もない。
 真田君とも直接、言葉を交わしたことはほとんどない。あるとしても、同じフォワードの鳴海や藤代君が一緒の時の簡単なやりとりくらいだ。
 うん。そう。ああ。わかった。一秒で終わる相づちやうなずき、それが僕と真田君の声の接触。仲良くなりたいとは思っていた。だけど、真田君の眼差しがそれを許してくれないように思えた。鳴海や藤代君にするようには、どうしても話しかけられない。真田君が僕を見るときに発する空気の気配が怖いような気がして、自然には出来なかった。
 でも、これから試合や練習で同じ時間を重ねていくのだから、何とかなるだろう。どこに、どんな機会があるか、分からないんだ。こみ上げてくる、がっかりとも、安堵ともつかない妙な気持ちを押し殺しながら、僕はいつもそう自分に言い聞かせていた。
 僕との競り合いが終わった後、藤代君はあっちーと呟きながら、Tシャツの襟元をつまんでぱたぱた仰いだ。渋沢先輩も額を拭って、グローブを外す。
「風祭、まだすんの?」
「うん、あと少しだけする」
「そっかー。俺もしたいけど、もう帰らなくちゃいけない……ですよね、キャプテン」
「ああ」
 渋沢先輩がうなずいた。風祭も一緒に帰ろう、と藤代君は誘ってくれたけど、本当にあと少しだけ残りたかったから、ごめんと断った。
「風祭、あまり遅くならないようにな。それから帰るときは気をつけて帰るんだぞ」
 藤代君に手を振って、渋沢先輩に頭を下げた。
 先輩と翼さんからのアドバイス通りに、足を動かして、体をひねってみる。何となく、コツがつかめたかなというところで、僕もさすがに、練習を止めることにした。急いで帰れば、夕飯には、ぎりぎり間に合う時間になったからだ。
 ボールを蹴りながら汗を拭いて、荷物の置いてある更衣室の裏に来た。ここはグラウンドと同じ乾いた白っぽい砂のある地面だったけれど、日陰で少しじめじめしている分、ところどころに雑草が伸びていた。
 コンクリートで出来た壁際に置いていたバッグに近寄る。更衣室の鍵は、中村コーチがとっくに閉めていたから、荷物は外に出していたんだ。
 もう一度、しっかり汗を拭いて、シャツを着替えて、上着を羽織った。残っていたぬるいポカリスエットを全部、飲み終えて、途中でもう一本買おうかなと考えた。それに、家に帰ったらすぐにシャワーを浴びようと決めた。きっと、夕食を作って待っていてくれる功兄には、夕飯前にシャワーを浴びたいならもっと早く帰ってこいって言われるだろうけど。
 靴ひもを結んでいるときに、膝に擦り傷を見つけた。ゴール前で、競り合ったときに出来た傷だ。バッグの横に何枚か入れておいた絆創膏をはっていこうか、でも、シャワーを浴びるからはがれるかな、そんなことを考えてた。
 靴の裏にこつんと何か当たった感触がして、足下を見ると、小石の中では大きい方の石が転がってきていた。変だなと思って振り向いたら、真田君が立っていた。
 ものすごく意外に思えて、肩が揺れ、姿勢を崩してしまう。手が地面についてしまった。
 どう考えたって、びっくりしているようにしか、みえないだろう。
 驚いたことが、真田君に悪いような気がして、僕は話すことを探した。
「――更衣室、鍵、しまってるよ」
「知ってる」
 真田君は視線を落としたまま、うなずいた。
 真田君が見ているのは僕の右斜め前の地面。僕も自然にそこを見た。
 草の葉っぱが、誰かに踏まれたらしくて、葉が曲がって、そこに濃い緑色の筋が出来ている。そこから枯れちゃうのかななんて思った。
 急にその葉っぱが目の前に見えて、頭が痛くなった。
 柔らかくて、あたたかくて、そのくせものすごく強い指が、肩を押さえつけていた。ぴくりと体を動かした途端に、もう一度、頭を地面に打ち付けられて、眩暈を感じた。背中にごつごつした感触が当たる。砂利なんてないと思っていた地面も、意外に小石が多いんだ。地面は堅くて、冷たい。
 その感触に慣れないうちに、気づいた。
 真田君が僕を見下ろしている。いつもの目線よりもずっと近く、いつもよりもずっとずっと冷たい、怖い目だった。
 僕は一体、自分がどうしたのか、何が起きたのか、意味をつかめず、真田君を見上げた。見上げているばかりだけれど、今は普段よりも視線が近い。
 真田君は瞳を大きく開いていて、白目の部分が妙に赤かった。黒目の中にうつる真田君の心と僕の間抜けな顔を見ているのがつらくて、視線を下げると、日焼けした喉元まで見えて、そこがひくひくっと動いているのが分かった。
 肌に汗の粒が浮かんでいる。真田君の体がひどく熱いのにそこで僕は気づいた。熱があって気分でも悪くなってふらついたのかな、一瞬、そう思った。
「真田君?」
「うっせえ!」
 一言、そういったら頬を殴られた。驚いて、僕はどうしたらいいか、何をすればいいのか、何を言えばいいのか、何もかもが頭の中から吹き飛んでしまった。どうして、なんで、どうして、なんで、と疑問ばかりが浮かぶ。真田君が、次に始めたことも同じように、僕はどうしてだろう、なんでだろうと考えてばかりだった。
 僕の上にのしかかってきた真田君の体からは汗と制汗剤の匂いがした。それがミントみたいな涼しい匂いじゃなくて、石けんみたいな匂いだった。その奥には真田君の持っている匂いがあった。
 こんなに近くで匂いが感じられたのは初めてだなとか、すれ違ったときの匂いとやっぱり同じだとか、確かめるようなことをしていた。その間に、僕は逃げようと手足を動かして、首を振って、何度か殴られた。お腹の上に真田君の膝が乗って、両手を掴まれて、自分のシャツで縛られた。
 ぬるぬるした感触が唇に当たる。鼻水と涙と汗のせいで、真田君の唇は柔らかくて、熱くて、濡れていた。僕の唇を吸ったり、噛んだりして、離したかと思うと、今度は舌が入ってきた。唇よりももっとぬるついて、熱くて、柔らかい。
 首を振ったら、頬を押さえられて、もっと奥深くに真田君の舌が入ってきた。ぐちゃぐちゃにされる。真田君の唾液も飲み込んでしまった。そうできなかった分は、よだれみたいに、だらだら唇の端からこぼれていく。
 綺麗なものでもないのに、真田君は僕の汚れた頬に自分の頬をぴったりくっつけた。感触は熱くて、唾液のせいでじめじめしていた。しばらくしたら、もっともっとぬるつきはじめた。
 真田君は泣いてるんだ。こんなことしてる真田君が、まるで自分こそ酷い目にあっているみたいに泣いている。
 ひどい。最低だ。
 真田君の涙が落ちたところから、僕の中に、厭などろどろが広がり始めた。吐きたい。内臓ぜんぶ吐き出して、死んでしまいたい。そうしたら逃げられるかもしれない。
 真田君が覆い被さってきた。まるで、僕は手足全部に、石を乗せられたような、釘で打ち付けられたような、奇妙な痛みと重さと痺れを感じた。動くたびに、怒鳴られた。殴られることすらあった。
 ――忘れてしまえればよかった。記憶がなくなってしまえば楽だった。
 でも、僕は全部、覚えている。
 だって、耳元で真田君の声が聞こえた。荒い呼吸が肌を湿した。涙が肌を濡らした。体中に開いた穴という穴から、真田君の気配が押し入ってくる。僕の心を支配してしまう。
 何も出来なかったから、途中から数えていた。真田君は四回、僕の中で出した。短かったり長かったり、間隔は色々で、続けざまのときもあれば、僕の体をあちこち触って、吐き出すときもあった。真田君が体から吐き出したぬるいものは、性器よりもずっとゆっくりと下から上にせり上がってくる。きっと僕は体中から真田君の匂いを放っている。
 四回目が済んで、真田君は僕の体からやっとペニスを抜いた。それでも真田君は泣きやまず、ごめんごめんごめん、風祭ごめんとそればかり言った。
 左目の隅に真田君に脱がされたハーフパンツやトランクスが、くしゃくしゃになって、地面に落ちているのが写った。ふいとそれが動いた。
 真田君が泣きながら僕の体を起こした。ズボンの前を開いたまま、僕を抱きしめる真田君は笑いたいくらいに間抜けだ。離してくれればいいのに。
 力を使い果たしたペニスが、真田君の震えに合わせて、揺れる。さっきまでは僕の中にあって、串刺しにするような勢いで動いていたのに、今はだらりとうなだれて、なんだかばかみたいだ。精液がこびりついた体毛が皮膚にへばりついている。
 そのうち、おしりから何かが流れていくのが分かった。足の間を見たら、白いどろっとした液体と赤い液体が混じったものがじわじわ広がっていた。おもらしでもしたみたいだ。とろとろ僕の中から流れていく。真田君の手でむちゃくちゃにこすられた僕の性器は赤くなっていた。
 ごめん、ごめんな風祭、ごめんな。ごめん、ごめん。何かのおまじないみたいに真田君は繰り返していた。聴いている内に、どうでもよくなって、目を閉じた。
 ごめんなと真田君は言い続け、僕を抱きしめ続けた。僕は乾いていく精液と増していく痛みと立ち上るむわりとした性の匂いに吐き気をこらえていた。
 こんな始まりなんてあんまりだ。あんまりだ。思って、目を閉じた。瞼の裏は、最初は薄い赤色で、点滅する黒白の細い線がぐねぐね動いてたけれど、すぐに真っ黒になった。
 しゃっくりあげて泣く真田君の吐息が、肩に当たる。
 僕は自分の指をどう動かせば、いいか分かっていた。僕は自分の手と指を、真田君の望む通りにした。そうしなければ、この時間は終わらなかったから。真田君は泣き続け、ごめんと言い続け、僕のすべてを縛りつけてしまうから。
 真田君は真っ赤に泣きはらした目で、僕を見て、唇を押しつけた。それから、タオルを濡らし、僕の体を拭き、服を着せ、荷物を持ち、肩を貸して、僕を立たせた。家まで送ってくれた。
 僕たちは何も話さなかった。真田君は去り際、もう一度、僕に唇を押しつけ、ごめんとささやいた。その後に続いた言葉なんて、聞きたくもなかった。
 終わりと始まり。終わってしまった。そして、始まってしまったことは、これから続く。いつが終わりなのかも、分からない。
――好きの反対が嫌いなわけがない。愛しているの反対は憎んでいる、じゃない。
 厭というなら、憎むというなら、その人を消してしまえばいい。無関心になればいい。そうすれば平穏を守れる。そんな激しさを、知らないままでも、僕は良かったのに。
 真田君はあれからも僕を抱く。もう外でなんてしない。無理矢理なんてことも、あまりない。あちこち触って、女の人にするみたいに、僕の中に入ってくる。ごめんなとか痛いだろとかいう。僕はうなずき、首を振り、何か呟く。気持ちいいと思わない時もない。優しいなと思わないわけでもない。
 けれど、僕は今でも思う。どうして、どうして、どうして、と。
 息をするたびに、まばたきするたびに、一秒ごとに、一瞬ごとに、僕は真田君を思い出す。体中が棘に刺されているように痛む。こんな気持ちを持っているのなら、僕は真田君をきっと、殺せると思う。そうして僕は泣くんだ。嬉しくて、悲しくて、苦しくて、悔しくて、寂しくて、たくさん泣くんだ。
 真田君、どうして、どうして。違った道があったはずなのに。分かることもあったはずなのに。伏せた目に、逸らされた視線に、時々、噛みしめていた唇に、少しだけ動く指先に、ゆっくりでもいいから気配を感じていけたはずなのに。
 みんな壊れてしまったら、みんな終わってしまったら、ぜんぶ変わってしまったら、僕は真田君を憎むしかない。嫌うしかない。憎んで、いとって、想い続けるしかない。
 どうして真田君。どうして、真田君が泣くの。泣きたいのは僕の方なのに。真田君が泣いているなら、僕は真田君を抱きしめ続けるしかない。それが、真田君が望んだことなら、そうし続けるしかない。
 でも、僕は思う。
 どうして、真田君。真田君、どうして。もしかしてと思う一言さえあれば、全部違っていたかもしれないのに。見つからない答えを探して、誰にもきけない問いかけを、自分にも分からない心で僕は呟く。どうして、真田君、どうして。
 もう、そうすることしか、僕には残されていないんだ。

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