あたたかい日に



 さて、某月某日、春の日差しもうららかなある日、グラウンドの某地点、仮にA地点とするのなら、そこにいた若菜結人は、親友であるところの、真田一馬を手で呼んだ。
 彼が気が付かなかったので声でも呼んだ。
「おい、一馬、ちょっと来い!」
「なんだよ」
 結人の元へ一馬は近づく。
 結人は辺りを見回し、声を潜めて、一馬、と訳ありのもったいぶった声を出した。
「なんだよ、もっと大きな声で言えって」
 聞き取りにくいと文句を言う一馬に、結人は首を振る。
「あんまり、人に聞かれない方がいい話だからさあ」
 結人が真剣な顔で言うものだから、一馬もつられて、回りを見る。
「どうしたんだ」
 結人は声をさらに小さくして、囁いた。
「お前さ、風祭が妊娠したって、知ってるか」
 一馬は結人を見た。じっと見た。穴が開くくらいに見て、まばたきして、まだ見ていた。
 結人は真剣な顔を崩さない。じっと強い光を浮かべて、一馬を見ている。
「に、に……」
「妊娠」
「あ、あ、あ」
 それなりに長い付き合い、一馬が言いたいことは分かる。
「あいつ、男だろって?」
「そ、そ、そ……」
 うなずいているから、そうだ、と言いたいのだろう。
「だって、本当だもん」
「う、う」
「嘘じゃねえって。風祭、兄貴と一緒に病院行ったって」
 一馬が青ざめた。結人は物思わしげに首を振る。
「俺さあ、直接、聞いた。マスコミとかに知られたら大変だから、風祭、アメリカ行くらしいよ」
 一馬は太平洋を隔てての、遙かな大陸に星条旗が翻る幻覚を見た。バックミュージックに、アメリカ国歌『星条旗』が鳴り響く。その幻聴に背中を押されて、やっとまともな声が出た。
「俺、何も聞いてないぞ!」
 勢い込んだ一馬の声に、結人がすかさず切り返す。
「なんで、一馬に風祭が話す訳?」
「だって、俺は――」
 一馬は言いかけて、口をつぐんだ。
「なんか、関係あるの? 一馬、風祭のこと嫌いだろ」
 問いつめるような結人に、一馬は首を振る。それが、前者のことか後者のことかは分からない。
 結人は話を戻した。
「それでさあ、風祭の家族、相手探してるらしいぜ」
「あ、あいて……」
 一馬の頬に血が上っていく。
「だってさあ、妊娠だろ。一人じゃ出来ないじゃん。相手がいなきゃ」
「それ、は、そう、だけど」
 不自然に一馬の言葉が切れる。
「つまり、やっちゃった訳だよなあ……」
 結人はちらりと一馬を見る。思った通りの反応を返してくれた。
 真っ赤になっている。結人の嫌いなトマト以上に赤い。やっぱり、こいつら、英士の言うとおり、俺の予想以上に進んでるんだ。結人は衝撃を受けた。次の言葉に力が入る。
「それで、風祭、相手の名前言えって、言われてるんだけど、言わないらしい」
「なんで!」
「相手は、将来がある人で、迷惑がかかるからって――あいつ、健気だよなあ」
 結人がくすんと悲しそうに鼻を鳴らすと、一馬が凍りついた。動かない。結人が呼びかけても固まっている。肩にチョウが止まる。震えるように羽を閉じ、また開き、触覚をうごめかしている。
 結人が見ていると、そのうち一馬も震え出した。その動きに驚いたのか、ひらひらとモンシロチョウが飛び立つ。同時に一馬が絶叫した。
「か、か、風祭――!」
 一馬が駆け出した。右手と右足が一緒に出ている。行進しているような足取りでも、とんでもなく早い。ずんずんずんずん、地響きまで聞こえてきそうだ。
 結人は腹を抱えてうずくまった。腹がよじれるって、こういうことを言うのだなあと思いながら。

 同月同日、同グラウンドB地点にて、あたたかい木漏れ日の下、郭英士は、風祭将を手招きした。
 将が指を自分に向けて、僕? という仕草をしたので、英士はうなずいた。それを見て、軽やかな足取りで、将が駆けてくる。
「どうかした?」
 つられて、笑いそうになるくらい、将は晴れやかな面だ。
「ちょっと、いい?」
 声を潜めると、英士は将を連れて、物陰に来た。不思議そうな将に、英士は静かに言った。
「あまり、人に聞かれたくない話だから」
 回りに誰もいないことを確認して、英士は風祭に向き直る。
「一馬から聞いた?」
 一馬の名に、将は頬をうっすら赤くする。初々しい素振りに、英士は目を細めたが、表情は変えない。これから、冷酷なことを告げなければならないのだ。笑いたくても笑えない。
「聞いたって何を?」
「あいつの家の事情」
「真田君の?」
 英士はもう一度、辺りを見回し、将の方へ身をかがめた。耳元でささやく。
「知ってる? 一馬の家は、代々続く、古い家柄なんだ。真田家って言えば、日本経済を陰で支えているっていってもおかしくない」
 将が目を丸くする。
「そんな……」
「俺と英士も一馬と知り合う前に、友人として付き合うにふさわしいかどうか、調べられてるんだ」
 将は黙り込んだ。瞳が不安にか、大きく震え、手がいつのまにか、固く握られている。
「僕も?」
「都選抜の奴ら、全員だよ」
 将は英士を見上げた。
「どうして、そんなこと、僕に話したの?」
「風祭、最近、一馬とよく一緒にいるし」
 将が見事に赤くなった。気づかれていないと思っていたのが彼ららしい。
「そ、そうかな……」
「ああ、いるね」
「うん、あの、同じフォワードだし、あの僕はまだ補欠だけど、でも色々話をしたりして、それで、その……」
 キスとか、色々やったりしている訳だ。
 遠い目をしながら、英士は続けた。
「実は、一馬、命を狙われてるんだ。お家騒動ってやつ」
 きっぱりと言い切った英士。その口調は疑いを許さないほどに鋭かった。
「えっ」
 将の目がまん丸になる。
「それで、身を守るためにアメリカ行きの話が出てるらしいんだ」
「――なんで、アメリカなの?」
 つっこみと言うよりも、純粋な疑問らしい。英士は何一つ、慌てることなく、言った。
「あっちは、銃が持てるでしょ」
「そっか」
 うなずいた将は、ふと動きを止めた。
「じゅう?」
 言うなり、将は両手の指を広げた。指がぴんと伸びて、十本。吹き出しそうになった英士は首を振った。
「武器の銃だよ」
「あの、ばんって」
「そう、ばんって」
 将は青ざめた。ざあっと顔から血の気が引く音が聞こえるくらいに、真っ青になった。
「そんな」
「ただ、一馬が承知しないらしいんだ。離れたくない人がいるとか言って」
 そこで、ちらっと英士は将を見る。何とも、あでやかに将の頬が染まっている。
「誰か、知らない?」
「知らない……ごめんね、郭君」
 それってつまり、俺たちに二人の仲を秘密にしてるごめんのこと――聞きたい気持ちを我慢して、英士は友を心配する表情を作った。
「でもね、やっぱり命には代えられないってことだから、明日にも発つそうなんだ。いつ、帰ってくるか分からないけど、サッカーは続けるともいってたから」
 言い終わらないうちに、将が駆け出した。早い。とてつもなく、早い。
 英士は首を振り、ゆったりと将の後に続いて、歩き出した。向かう場所は分かりすぎるくらいに分かりすぎている。

 グラウンドA地点、グラウンドB地点、そこにいた二人が、ほぼ同じ速度で互いを目指して駆け寄った場合、どれくらいの時間で巡り会うべきなのか。
 ともかく、二人は新たなC地点にて顔を合わせ、互いを見つめ合った。これほどにうららかな春の日に、別れは迫っているのだ。
 ――嗚呼、平和とは破られるために存在しているのだろうか。
 一馬の大きく見開かれた瞳。将の切なげに震える瞳。視線は絡み合い、感情は頂点に達し、ついに弾けた。
「俺、ちゃんと挨拶しに行く!」
「僕、真田君をずっと待ってる!」
 同時に叫び合って、将と一馬はへっと動きを止めた。
「どこに挨拶に行くって?」
「待ってるって……?」
 ふたたびの異口異音。そうしてまたも同じタイミングで、説明し合う。相手の声を聞き取れているところが、二人の関係の濃度の証明なのだろうか。
「お、俺は風祭の両親に挨拶して、子どもの面倒も風祭のことも俺が責任を……」
「何年経っても、僕は真田君がアメリカから帰るのを待とうと思って……」
 ええっと二人でまたもまばたきする。
「子どもって?」
「アメリカって?」
 二人して、目を丸くしたところで、後ろから遠慮のない笑い声が聞こえた。結人が爆笑している。英士もうっすらほほえんでいる。
 一馬は鋭い視線で、背後にいた結人と英士を睨んだ。
「お前ら――」
 結人と英士は、それぞれの性格に合う笑みを浮かべた。
「今日は何日かな、一馬君?」
「三月は昨日で終わってるでしょ」
 あっと、将と一馬が顔を見合わせる。
「こんなのに騙されるのもお前らくらいだよな」
「言ってて自分でも呆れたよ」
 にやにや笑う結人と澄ました顔の英士。二人は口を揃えて、言った。
「――四月バカ」

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