薄暗い部屋に、雨の音だけ響いている。ばらばらとベランダのコンクリートを叩き、窓ガラスにも降りかかる雨を、将は見ていた。
 水滴が窓ガラスを伝い落ち、軌跡が消えない内に、また新しい雨粒が打ちかかる。両手を伸ばし、窓ガラスに触れると、少し震えているのが分かった。風が強いからだ。
 真っ黒な空に、時折、雷が走る。雨がやまないと帰れない、と思った。大きく三回折り返した袖が垂れてくる。将はもう一度、袖を肘辺りまでたくし上げた。
 湯上がりの肌も冷えてきた。寒くはない。火照った肌が、いつも通りの体温に戻っただけだ。風が吹くたびにびりびり震えている窓ガラスから手を離すと、指先の周りを縁取った曇りが残った。もう一度、掌を押しつける。ぬるまったガラスが将の手を受け止めた。
「――やっぱり、大きいな」
 周防の声に、将は振り返った。髪の毛をタオルで拭きながら、周防がすぐ近くまで来ていた。薄手のトレーナーとジャージ姿で、笑っている。
 将も笑った。湯の匂いを含んだ周防の体温が、隣に立つ。
「やまないな」
「やみませんね」
 返事した将を見下ろして、周防は、またくつくつ笑った。小さな将が、大きな周防のシャツを着ているのが、おかしいらしい。手が伸ばされて、まだ乾いていない髪を撫でられた。堅い掌に将は、ほほえんだ。こうしているのが、苦しいくらいに嬉しいと思った。
「寒くないか」
「はい」
 周防はくしゃくしゃにした将の髪を、元通りにするように撫でつけて、手を離した。そのままキッチンの方へ行く。冷蔵庫を開けたのを見てから、将はまた窓の外を見た。雨の音が将の耳に戻ってくる。雷鳴は聞こえなくなったが、雨の勢いは変わらない。
 からんと涼しげな音が耳元で響き、雨の音よりも大きくなった。頬にかかる冷気に将が顔を上げると、周防がグラス片手に、戻ってきていた。
「飲むか」
 周防がガラスのコップを差し出した。受け取って、将は氷の浮かんだ冷たい麦茶を飲んだ。氷だけになったコップは、テーブルに戻した。
 周防は食卓の椅子を引いて、腰を下ろした。薄暗いので、周防の顔には奇妙な陰影がある。耳元で乱れる髪から雫が垂れていた。
 周防が将の視線に気づいて、目を向けた。笑みが浮かんだ。頬杖をついて、なんだよ、と呟いた。
「なんでもありません」
 将が言うと、周防がまた笑う。
「服が乾くまで、帰れないな」
 うなずいて、将は雨の音を聞いていた。テーブルに置いていた手に、周防の手が載せられた。重ねられただけで、周防の手は動かなかった。
 心は騒がない。が、毛布をかけられたようなぬくもりが加わった。周防の手を、こうして、受け止められるようになっていたことに、ふと気づいた。
「――将」
 影の落ちた周防の目に、うなずいた。
 手を取られたままで寝室へ行くとき、周防の手が強く握りしめてきた。
「家に帰るのが遅くなるな」
 握られた箇所が痺れて、将は途端に哀しくなった。
「ちょっとだけなら、平気です」
「ちょっとだけか」
 じゃあ、俺もちょっとだけ。周防はほろ苦そうに笑った。
 将はベッドに腰掛け、口づけを受ける。目が覚めたような、もっと深い夢の中に落ちていくような気分で目を開くと、周防も同じような瞳をしていた。将が頬に触れると、周防は微笑して、将の体を横にした。
 冷たい足の先を周防が絡めてきた。湿気を帯びた空気で板張りの床は、じわりと濡れたような感触を足裏に残していた。同じような将の足も周防の熱い腿に触れ、美しく張りつめた筋肉をなぞるようにすると、シーツに落ちた。
 手が回りきらない周防の広い背中を抱く。肩胛骨に指先を引っかけた。周防の手は、手慣れたように、将の体を開いていく。愛撫が荒くとも、嘘のように優しくても、信じられた。
 この人だけだ。彼だけだ。憧れもある。遠い父への思いに似た思慕もある。だが、何よりも恋しい。恋しくて、慕わしくて、それだけで、今、気を失いそうだ。
 濡れた髪が絡まった周防の首筋へ顔を埋めた。名前を呼べば、呼び返され、応えてまた周防を呼んだ。睦言よりも、周防の名を呼ぶ方が、唇に、体に心地よかった。
 体温が移り合って、体が火照った。汗が浮く。湿った肌に指が張りついた。周防の形に将は体をしならせた。痛みの薄皮を剥いで、快感が生まれた。
 雨で濡れた体が乾いたのに、また汗で濡れてしまう。霧の海の底にいるような靄が見えて、たちまち、ぱちんと弾けた。
 周防が腕の力を抜いて、のし掛かってきた。重みに押され、将は沈んだ。周防の荒い息がしだいに整っていくのが耳元で聞こえた。
 吐息にかき消されそうな声で、周防が囁いた。
「雨がやむまでなら、いいだろ」
「はい」
 周防が足ではらい落としていた布団を拾ったので、一緒にくるまった。抱き合って、指先で戯れを繰り返している内に、将は眠くなった。
 静かだな、と瞼が落ちる直前に周防が呟いたから、そのときには、雨も上がっていたのかもしれない。それでも、将の目には、しとしとと体に降りかかってくるような、雨の音と幻が見えた。
 目が覚めると、本当に雨は上がっていた。晴れた空が夕焼けの紅を刷いている。シーツが薄紅に染まり、体にも不思議な艶を浮かばせていた。
 半身を起こし、将は周防の髪を撫でた。今だけは、自分の方が、年老いたように思える。寝息を立てる周防の頭を抱いた。吐息が肌にかかる。汗で熱せられたのか、周防の頭皮からは男の濃い匂いが漂っていた。
 これが恋でないのなら、何だというのだろう。将は思っていた。長い間、周防を探していた気さえした。
「周防さん」
 目を閉じる前に、二人の影がシーツを滑り、床に落ちて伸びていくのが見えた。



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