ともにありて


 彼らしくない一言だった。
「結婚しようか」
 淡々とした言葉に、一瞬、私は妊娠したとでも言ったのかなと思ってしまう。この人だったら、そんなこと言ってしまえば、責任取ること以外、何も考えなくなってしまうだろうから。
 でも、私と彼は、そんな関係にはならない。絶対に、永遠に。
「本気なんですか?」
「うん」
「偽装なんて、嫌です」
「ちゃんと、夫婦になろうよ」
 この人の笑いは、昔から変わらなかった。心が、感情が、透けて見えるのだ。
 視線を彼から外に移す。
 すぐ近くに海が広がっているような気がした。雲が広がる空と、濃い青色の海、砂浜の前には、まばらな草地。そこには名前も知らない、赤や黄色の小さな花が咲いていた。
 ハザードランプが点灯する音が聞こえる。海の音は、まだ遠い。
 私の視線を追って、彼も海を見た。
「降りてみようか」
「はい」
 誘われて、外に出た。彼も車のエンジンを切り、外に出る。平日の昼間、海辺にやってくる人間も少ないだろう。通りがかる車もない。砂浜にも人はいない。
 彼は柵を越えた。私も柵を越えた。低い柵だったので、ワンピースを来ている私にも楽に越えられた。彼はもっと身軽だ。
 ゴミが所々に散らかる草地を歩いて、砂浜に出る。振り返ると、車が小さくなっていた。
「海まで、結構あるね」
「そうですね」
 思ったよりも長い草地を歩いていくと、やっと波の音が近づいてきた。潮の匂いを含んだ風に肌がなぶられる。彼のスニーカーが砂を踏みしめる。前髪が揺れ、闇を填め込んだような瞳が、海の輝きを映し出した。
「誰もいない」
 彼が振り返って、笑った。一体、何人の人間が彼を独り占めしたいと思っているのだろう。私から見れば、彼はずっと男らしくなっている。背も伸びて、体つきも、男のそれでしかない。あちこちに残っている昔の面影に、彼らはまだ惹かれているのだろうか。いや、彼が彼だから、あれほどに恋い焦がれているのだ。
「――ボール、持ってくれば良かった」
「こんなところでもサッカーですか?」
「蹴られるくらいの広さがあったらどこでだって、出来るよ。海だって、山だって」
 彼は砂を爪先で軽く蹴る。私は、足を踏み出すたびに、砂が靴の中に入るので幾分、辟易していた。彼は気にせず、ざくざく歩いていく。
 背中が遠い。誰の手にも届かないところにある気がする。
 私は彼を追わずに、潮騒の中に立っていた。日光が遮るもの無しに照りつけてきた。
 長袖の上着を羽織っていて良かった。でも、顔や首に日焼けするのは嫌。かといって、戻って、狭い車内で彼と二人になるのも、彼を追いかけるのも嫌だ。もう何もしたくない。そんな倦怠感に襲われる。
 風が強くなった。スカートの裾が広がったので、手で押さえる。雲に太陽が隠れ、海辺から日光が消えた。彼はどこまで行ってしまったのだろう。
 歩いていった方を見ると、彼は海に何か投げ込んでいた。小石、それとも貝殻か。
 ぽちゃん、とかすかな水音が私の耳にも届いた。飽きもせずに何度も拾い上げては、海に放っている。両足を少し広げて立って、右手を上げ、握った物を放る。そんな何でもない動きが、なめらかで美しかった。
 海からの音を聞いて、潮の匂いを嗅いでいると、彼の言葉が、なおさら、どうでもよくなってきた。結婚なんて。夫婦だなんて。ずいぶん、奇妙な冗談だ。
 雲に隠れていた太陽が姿をのぞかせ、ふたたび、風に運ばれた別の雲に覆われた。
 彼が走って、こちらへ戻ってきた。潮風に吹かれながら走ってきたためか、髪が乱れている。教えずにいれば、風呂に入るときまで、このままだろう。いや、私の後に彼と会う誰かが教えるかもしれない。そのとき、彼は私と海へ行ったことを話すだろうか。
 身長差分だけ視線を上げて、彼を見上げた。彼は私の視線に気づいたのか、横目で私を見た。
 彼の視線はすぐ海に戻る。私もそうした。
「駄目?」
 問いかけられて、私は首をかしげる。
「さあ」
 彼が笑う音が聞こえた。私は足下の砂を意味もなく、踵で掘る。細かな砂が、靴の中にたまった。彼の肘をつかんで、靴を脱ぐ。持ち上げて、砂を落とす。
 風にさらわれて、砂がさらさら流れた。私の足と彼の足。大きさの違いが、胸に刺さる。砂を捨てた靴を履き直し、彼から手を離す。
「先輩」
 足元を見たまま、彼を呼んだら、昔の呼び名になってしまった。こんな呼び方をしたのは、サッカー部の同窓会以来だ。
「久しぶりに、そう呼ばれた」
「私も、こんな風に呼んだの久しぶりです」
「懐かしい」
 呟いた彼は胸ポケットから、小箱を取り出した。中身は指輪だった。
 海辺で指輪を見せるなんて、なんだか、いかにも、という感じでおかしかった。私が笑ったら、彼も恥ずかしそうに笑った。
 こんな普通の恋人同士みたいなこと、彼には似合わない。私にもふさわしくない。二人、それが分かっていたので、くすくす笑っていた。
「みゆきちゃん、駄目?」
 笑いに混ぜて、彼が訊く。
「無理だと思います」
「してみなくちゃ、分からないよ」
「しなくても分かることはありますよ」
 彼はため息をついた。今度は私が訊ねる番だ。言葉の剣を彼に向ける。
「本当は、どうしたいんですか」
「さあ」
 私と同じとぼけ方。私も仕方なく、笑う。意味のない問いかけを続ける。
「先輩、教えて下さい」
 彼は黙って、唇をほころばせている。
「どうしたいんですか」
「そうだね」
 言葉は続かない。彼はほほえんでいる。私をからかうような、本当に、答えが見つからないような、そんな表情だった。
「――いっそ、あの人達みんなに好きだって、言ったらどうですか」
 彼が吹き出した。本当におかしかったらしい。指輪の入った箱を握って、体を折り曲げ、笑っている。
「それが出来たら、すごいよ」
 目元の涙を彼はぬぐった。そうしながらも、まだ笑っている。笑いは乾いた絶望があれば、幾らだって生まれてくる。私たちは知っているのだ。
「先輩なら、出来ます」
 今だって、そうだから。私は言わずに、ただ目を逸らした。
 彼は笑うのをぴたりと止めた。目に不可思議な光が浮かぶ。横顔が急に、年老いて見えた。
 ――彼らは、彼が赦したと思っている。
 ――彼らは自分たちが贖罪を続けていると思っている。
 だが、彼は決して赦さないだろう。何よりも澄んだ眩しい笑みを持つこの人は、誰よりも苛烈で意志の強い男だ。憎むと決めれば、自分を燃やし尽くすまで、憎むだろう。
 彼は、その言葉の使い方が正しいのなら、誰も選ばなかった。代わりに、彼らが選ぼうとした。彼を得る者を、自分たちの手で決めようとした。淘汰され、取り除かれ、適者はそのままで有り続けようとしたし、不適者とされた者も這い上り、誰かを落とそうとする。
 今も続くそれは、この世でもっとも醜悪で、同時に崇高とさえいえる争いなのかもしれなかった。少なくとも、彼らはどんな形であれ、想いに殉じようとしているのだ。
 今となっては、彼が誰を想っていたのか、誰も知り得ない。彼も口にしようとしない。だから、彼が一番残酷だ。
 もし、争いに勝った最後の一人が現れたとしても、彼は拒むだろう。自らに残された記憶を盾に、彼らを払いのける。私はその盾の一部、いや、飾り程度に過ぎない。彼らは私を、彼のとても大切な、大事な女性だと思っているだろうけれど、それは海を陸だというほどに、馬鹿げた壮大な思い違いだ。
「――みゆきちゃん」
「はい」
「僕は君が好きだよ」
 私を見る彼の瞳は穏やかで、優しかった。彼が周囲を見つめる視線は、いつもそうなのだ。優しすぎるほど優しく、どんな恨みも憎しみも、負の感情はすべて浄化され、慈しみに変わってしまうように、見える。
 でも、彼は聖者じゃない。無垢でもない。恨みと憎しみを滾らせる、人間の男だ。だからこそ、私は彼の側にいる。私が、嫉妬と羨望と憎しみを併せ持つ人間の女だから。
「私が、黙っているからでしょう?」
「あれは、秘密じゃない。知っている人間はたくさんいるし」
 自嘲ではなかった。それはただの事実だった。
 私は、その行為に参加した人数を把握していない。ただ、傷跡と彼の唇からうわごとのように漏れていた名で、おぼろげに想像するだけだ。
 ――止めて下さい、お願いです、どうして、どうして、ねえ、なぜなんですか、いやだ、止めろ、いやだ――耳にこびりついた彼の叫び声に、体中が冷えた。
 彼の悪夢から零れたわずかなかけらでさえ、私にこれほどの怖気を呼び起こせるならば、彼自身は一体、どのようなものを心に秘めて、日々、過ごしているのだろう。懇願する自分の声を、あの日の屈辱を思い出しては、何を考えるのだろう。
「みゆきちゃん、本当に、本当に、君が好きだよ」
 彼の声は変わらず、あたたかい。それは演技なのだろうか。足下に波が打ち寄せてきた。分からないから、どうでもよくなるのか、どうでもいいから、分からなくなるのか。今の私に、確かなものなんて、一つもない。
「濡れる」
 彼が腕を引いてくれる。満ちてきた海から、遠のいた。太陽は厚い雲に遮られて、光も届かない。不安そうな色合いの海だけが、じわじわと迫ってくる。
 白い雲を追うように、灰色の雲が広がっていた。もっと遠くには、雨雲が見える。風は湿り気を帯びたものに変わり、私と彼に吹きつけてくる。
 足跡が砂の上に刻まれている。私の足跡を彼が踏んだ。二重に重なった足跡が砂浜に残された。雨が降ったら消えてしまうが、それまで、私と彼は足跡だけ寄り添い合っている。
「これ、どうしようか」
 彼は指輪を見せてくれた。欲しくはないけれど、彼が持ち上げた細い銀の輪は眩しかった。綺麗だと素直に思える。中央にはめ込まれている数粒の貴石が鈍く光っていた。
「他の人に、あげるのはどうですか」
「君の指のサイズなのに」
 いつ、私の指の大きさなんて、調べたんだろう。彼が彼じゃなくて、普通の男の人なら、私だって喜べたのに。
「他の人だって、はめられますよ」
「いらない?」
「いりません」
 残念、と彼はため息をついた。
「捨てるよ」
 彼が指輪を投げようとするのを止めて、私が指輪を手にした。右手に握りしめる。少しの間、ぬるくなった金属の感触を楽しんで、海へ放った。
 指輪が一瞬だけ、光った。水音は聞こえなかった。先輩は、遠くまで飛んだね、と嬉しそうに笑う。
「――先輩」
「ん?」
「結婚しましょう」
 彼は何も言わずに私を見下ろした。
「子どもも作って、ずっと仲良く暮らしましょう。あの人たちを、悔しがらせて、苦しめて、一生、痛めつけるんです。ずっと、ゆるさないで、憎んで、憎んで、憎み抜きましょう」
「……泣きながら、言うことじゃないよ」
 彼は手を伸ばして、私の頭をそっと撫でた。小さい子にするみたいに、いいこ、いいことその手が髪を撫で、離れていった。
 涙が、あとから、あとから、湧いて、止まらない。けれど、どんなに私が泣いても、私の涙を彼はぬぐわない。この涙は、彼を得られないから流すもの、彼らの流す涙と同じだ。なんて、汚らわしい涙なんだろう。綺麗なものなんて、私の中には残っていない。あるのは、欲望だけだ。彼らと同じ、浅ましさだけ。
 散らばった時間を、私は集め直す。どれだけ、正確に形を繋ぎ合わせても、ひび割れた時間にしかならないけれど、私はそうせずにはいられない。
 雨の夜、私はあの人たちと一緒にいた彼を見つけた。彼の住むマンションの前で、両脇を支えられて、彼は白い顔をしていた。彼を囲むあの人たちも、真っ青な顔をしていた。衝撃から冷め切らない、いや、まだ快楽の余韻を漂わせていた顔だった。
 私は、最初に彼の名を呼んだ。それから、中学時代に、見知っていた彼らの名も呼んだ。結局、何人いたのだろうか。彼を追いかけてきたのは、全員ではなかった。彼の部屋には、ぬるんだ空気の中、呆然とする、あるいは肩で息をする男達がまだいたはずだ。
 彼は雨の中の私を見つけ、うっすら笑った。凄絶で悲しい笑い顔だった。
 ――どうしたの、こんなところで。
 何人もの視線が私を射抜く。彼らの目、その表情。私は鏡を見た気がした。あそこに、自分がいると思えた。私も嫉妬していたから。彼と共に生きられる可能性を持ち、彼と同じ道を歩いていける彼らを、心から羨み、ねたんでいたから。
 彼は自分を支えていた一人の手をはらった。将、とその人が彼の名を呼んだ。風祭、とも誰かが言った。彼は私だけを見つめ、倒れそうな、危うい足取りで私の傘の中へ入ってきた。雨粒が私の肩を濡らす。彼は、行こう、と一言、言った。
 私の持っている時間のかけらの中で、もっとも輝かしい瞬間だった。手に入ったと思ったのだ。彼らも、そう思ったときがあったのだろう。
 私と彼らが瞬間の勝利に舞い上がったとき、彼はそれを黙って、見ていたのだ。愚かしいとも思わず、静かに、心を凍てつかせていた。
 私は彼の身に何が起きたか悟ったとき泣いた。泣きながら、蹂躙された彼にすがった。そんなときも、彼は笑っていた。――大丈夫だよ。みゆきちゃん。
 あやされたのは私。慰められたのも私。彼は、慰めも同情も、何一つとして求めなかった。そのときから、彼に欲しいものは無くなり、望みも持たなくなった。あるなら、滅びだけだ。自分も、周りも、何もかもを、滅したいという、絶望だけだった。
 同窓会になんて行かなければよかった。住所なんて聞かなければよかった。会いにいかなければよかった。初恋のままで閉じこめておけばよかった。もう一度だけ、なんて未練を抱かなければ、私はあの偶然に巻き込まれなかった。
 そして――彼の側にもいられなかった。
 彼が言葉に感情をわずかに滲ませた。哀れみに、悲しみに、いたわりに、彼は一瞬、本来の彼に戻った。
「僕の側にいなくたって、いいんだ」
 涙を払うくらいの勢いで、私は首を振る。
 強い風が吹いた。肌寒いくらいの潮風に、彼の上着がはためく。風は辛く、もっと辛い涙も唇に入り込んでくる。
 彼はまた歩き出した。背を向けて、数歩、歩き、私を呼び招くように振り返る。静かな狂いが唇に浮かんでいる。私がどんなに泣いても、彼は、今みたいにほほえんでいた。
 誰を憎んでも、誰を愛しても、何を行っても、どんな言葉を口にしても、今のこの人は、こんな風に笑える。彼のすべてが、あれに食い尽くされたとき、私も彼らも、彼に呑み込まれるだろう。
 私はそのときを待っている。彼らもいつか、気づくだろう。彼に得られることだけが、彼を得る唯一の方法だと。
 これは、私が選んだこと。
 彼が欲しい。
 彼を得たい。それだけだ。彼に魅入られた人間には、それ以外、何もない。
 私は足を踏み出した。彼は優しい狂気を孕んだ笑みを浮かべて、私を迎えてくれた。
 


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