君と一緒に



 二ヶ月半が、功刀の選んだ時間だった。正確には二ヶ月半と二日。そして三日目の朝、九時ちょうどに彼は、車から降りて昭栄の住むマンションの前に立っていた。この月日にも時間にも意味はない。このころだろうか、と功刀が思い、このころだろうと功刀が考えて、迎えた時なのだった。
 エレベータを使って上階へ行く。このマンションに来るのも久しぶりだった。
 鍵は預かっているので、昭栄の部屋に勝手に入った。立ちこめた空気と饐えた汗と埃の臭いが襲ってくる。暗い玄関には、黒い革靴とスニーカーとが二足、並んでいるだけだった。どちらも脱ぎっぱなしの形で放っておかれている。
 靴箱の上には新聞が、新聞受けから抜き取られたときのままで折り重なっている。広告も手紙類も全部、同じように積み上げられていた。今にも崩れそうな紙の山の側をそっと通り過ぎ、埃っぽい廊下を行く。家中が暗いので、ところどころで電灯のスイッチを探さなければならなかった。
 台所には、ゴミ袋が幾つも積まれていた。それが、むっとする臭いの原因だろう。シンクには、宅配ピザや弁当といった総菜類の後殻が、無造作に置かれていた。食べてはいるのだ。もっとも、そうでなければ、さすがに昭栄の親が出てくるだろうが。
 功刀は散らかってはいないが埃だらけの居間に歩み入り、カーテンと窓を開けた。ベランダには、これもゴミ袋や袋に入れられないままのゴミが部屋の中よりも大量に置かれている。外だというのに、臭気は部屋の中より強かった。功刀は空気の入れ換えは諦めた。どちらにせよ、すぐに出かけるのだ。
 功刀は昭栄がいると思われる部屋の扉を開けた。寝室の空気は汗と垢と埃が入り交じった臭いで、顔をしかめさせるほどのものだった。しかし、昭栄が無気力になればなるほど、生身が発する臭いは強くなり、その存在を強調している。昭栄にも功刀にもそれは皮肉ともいえた。
 部屋の隅のベッドに昭栄は横になっていた。ドアからは背中が見えている。よれてくたくたになったシャツとジャージ姿だった。カーテンの閉められた部屋は、それほどには散らかっていない。散らかるほど彼は、物に手を出さないし、出そうともしないのだろう。起きて食べて寝て、を繰り返しているのだと思われた。
 壁に黒いスーツが吊されているのが目に痛かった。肩には埃が積もっている。功刀はため息を堪え、昭栄の枕元に立った。
「昭栄」
 深く寝入っているだろうと思われた昭栄は、その一言で、がばりと身を起こした。
 功刀はカーテンを開いた。
「うわっ」
 昭栄が叫ぶ。
 淀んだ空気を刺すように、光が入ってくる。埃の粒子が舞うさまに、昭栄が目を細めていた。その目は真っ赤だ。無精髭とやつれた面、外に出ないためか、皮膚の色は記憶にあるより、白くなり、不摂生のせいかむくんでいた。
 昭栄は手探りで、枕元に置いていた眼鏡を取り、かけた。
「カズさんやったんですか」
 昭栄ががらがらの声で呟いて、背を丸めた。視線が落ちる。
「そうや」
 昭栄を見下ろし、功刀はうなずいた。
「出かけるけん、着替ばせろ」
 昭栄は顔を上げ、功刀を見た。顔半分が歪み、しばらくして、へらりと笑みを浮かべた。
「バカ言わんとって下さい。どこ行くとですか」
「墓参りち、言うたら、お前、動くか」
 昭栄が前髪の隙間から鋭い眼光を送ってきた。たじろぎもせず、功刀は睨み返す。耐えられなくなったのは昭栄が先立った。
「俺は、どこも行きたくなかとですよ。ほっとって下さい」
 頼みます、と昭栄は頭を下げた。弱々しい声だった。功刀はベッドにだらんと置かれた昭栄の腕を取り、引っ張って、立たせた。
「お前がよくても俺がよくないったい」
 昭栄は止めてください、と繰り返した。功刀は腕を掴んだまま、部屋を出た。昭栄は部屋を出るまでは抵抗しなかったが、玄関先で、靴を履け、と言われて、初めて、功刀の手を振り払った。
「ほっとってください」
「裸足でもよか」
「俺は大丈夫やけん、ほっとって下さい」
 バカが、と呟いて、功刀は昭栄の前に立った。
「なにが大丈夫や。そういって、来た奴ばみんな、追い返しよろうが」
 昭栄が顔を覆う。呼吸が荒かった。しばらく無言で、昭栄は顔を隠していたが、やがて思いがけず、強い怒りの調子で叫んだ。
「カズさんには関係なかやろ!」
「そうやろうな」
 功刀はわずかに唇を歪め、昭栄を見下ろした。
「俺がお前たちと関係なかったのは当たっとうな」
 昭栄は何を感じ取ったのか、功刀を見上げ、じっと見つめた。瞳に一点、奇妙な光りが宿り、一瞬後、深い悲哀の色に変わった。
「……すみません」
「裸足で行くとか、靴履いて行くとか」
 昭栄は靴を履いた。

「どこ行くとですか」
 功刀が車を発進させると、昭栄が訊ねた。
「知らん」
 そう言って、しばらくしてから功刀は付け加えた。
「墓じゃなか」
「そうですか」
 昭栄が長い長いため息をついて、うなだれた。
「……もう、どこだってよかです」
 呟きが漏れ、彼はそれきり口を開かなくなった。どこだっていいのではなく、どうだっていいのが本心なのだろう。
 功刀はアクセルを踏み込み、車の速度を上げた。功刀には、どうだっていいものなどなかった。どこでもいいこともなかった。たとえ、心の奥底で、そう思っていたいとしても、そうなる訳にはいかなった。
 一時間半ほど走れば、海と山とに囲まれた温泉地に出た。米軍だか自衛隊だかの訓練地の側を通り抜け、長い長い下り道を走って、街に出る。椰子の木が、道路の両脇に立っていた。窓を開けると硫黄の臭いが流れ込み、街のあちこちから、白い蒸気が噴き上がっているのが見える。
 遠目に見えた海まで走った。海水浴場と名の付く割に、汚い海だった。国道を走り、途中のラーメン屋で、食事を取った。昭栄はチャーシューだけをかじり、博多のラーメンの方がよっぽどうまかですと呟いて、残した。払いは彼だった。
 国道沿いをふたたび車で走り、目に付いた旅館に入った。観光シーズンでもないこの時期、部屋は簡単に取れた。
 男二人の宿泊客に仲居は興味を抱いたらしく、さり気なく、しかし好奇心に満ちた視線で色々と訊ねてきた。だまりがちな昭栄に変わり、功刀は、ライター仲間だと適当な嘘を付いた。
 この旅館の記事を書くのかと仲居が、今度は態度を幾分、改めて、言ったのだが、功刀が飯のうまい店、つまりはグルメ情報を自分たちは扱うのだと説明すると、仲居は張り切って、地元民に評判の店を幾つも道案内付きで細かく教えてくれた。もちろん、この旅館の食事もうまいのだと付け加えるのを忘れていない。
 あいづちをうち、メモを取りながら、功刀はよくもまあこれだけ嘘が並べられるなと我ながら感心した。心が、ここにはないから、そうなのかもしれない。
 昭栄は窓際の椅子に座って、惚けたような顔で、海を眺めていた。仲居がやっと腰を上げ、大浴場の場所と開いている時間を教えて、出て行くと、功刀も昭栄の向かい側に座って、やはり、ぼんやりと海を見た。
 時間があることが、ひどくむなしい。いつのまにか、部屋の隅にある置き時計の秒針の動きを目で追っていた。一秒、二秒、三秒……繰り返し数え、瞳が乾ききる前に、立ち上がった。昭栄をせき立て、手ぬぐいを持って、風呂へと行くために、ひやりとしたスリッパに足をつっこんだ。

 大浴場は露天風呂とも繋がっており、そのすぐ外は海だった。旅館自慢の風呂だということだ。
 昭栄はしばらく、潮風に吹かれており、不意に、はあ、と間抜けな声を上げた。
「船が」
「邪魔やけん、はよ入らんか」
 出入り口に突っ立っていた昭栄を蹴り、功刀は冷たくざらついた石段を下りた。人の気配を感じ取って、岩の上を黒い平たい虫が這い回って、逃げていく。
「足がはやか、虫や」
 昭栄が呟いて、足下を見下ろしている。風の吹き具合で、潮風と硫黄の臭いが強くなったり弱くなったりする。功刀は先に湯船に浸かり、手足を伸ばした。
 昭栄が背中を丸めて、入ってきた。
「熱かですね」
 昭栄の感想に素っ気なく、功刀は答えた。
「これくらいが、ちょうどいいったい」
 水平線上に船が行く。夕日が境目を滲ませる。かげろうめいた靄がたちのぼっていた。
 綺麗だと思っていいのかと心で呟いてみた。あるいは、問いかけてみた。答えなど返ってくるわけもないが、彼なら綺麗ですねと笑いながら言うだろう。
 しばらく湯に浸かり、大浴場に戻った。
 風呂から戻ると、部屋が暗く見えた。電灯をつけても、その暗さが残っているようだ。
 この部屋にこもるのは良くないかもしれない。
「……散歩に行くか」
「風呂に入ったのにですか」
「もう一回、入ればよか」
 鍵をポケットに突っ込んで、宿を出た。歩道を通り、ガソリンスタンドの横にある、舗装されていない砂利道に入った。
 右手にどこかの会社の保養所かそれとも個人の別荘か、古いが立派な建物がある。道は細く、草も生い茂っていたが、少なからず人間が行き来するためか、歩くに差し支えはない。昭栄は功刀の少し後ろをついてくる。
 コンクリートをそのまま積み重ねたような、荒っぽい階段を上がると、保養所のやたらに広い、日本風の庭園がのぞけた。
 コンクリートの堤防が左右に延々と伸びている。これをたどって、庭園を右手に見ながらもっと先まで行こうかと思ったが、昭栄は座り込んでいる。功刀も座った。
 遠くに釣り客らしい姿が見えるが、あたりに人気はない。保養所も静まりかえっている。
 テトラポッドのある足下から波の音が響く。ここは埋め立て地だろうか。ふと思った。そうならば、功刀と昭栄が立っている場所にも、その更に向こうにまで、海はやって来ていたのだろう。
 隙間から見える黒々と光る波が、ひたひたと近づいてくる。潮の匂いが一段ときつくなった。
 昭栄が、ふっと息を漏らした。何か言うかと思ったが、その気配は消えてしまった。
 迷いまで彼は分かりやすい。功刀は目を伏せた。そんな分かりやすい迷いは、昭栄が将と養子縁組したことを告げたときにも、見え隠れしていた。度胸はあるくせに、こんなとき、思い切りが悪い。
 結局、あのとき、アイスコーヒーのお代わりを頼み、ストローの包み紙で、へたくそな蛇をこしらえてから、昭栄はやっと言ったのだ。
「カズさん、俺、風祭昭栄になるとですよ」
 将の方が誕生日が先だから、そうなるのだと昭栄は笑った。
「言いにくかですけど、よろしくお願いします」
「お前は、バカでよか」
「カズさん」
 昭栄が顔中、くしゃくしゃにして笑った。
 高山将になるよりは、いいような気がした。聞くたびに騒ぐ胸は、多少は押さえつけられるだろう。考え方が女々しいようで、功刀は苦く、微笑した。
 昭栄が二回目の思い切りの悪さを見せたのは、それから十年後になる。そのときの彼は笑わずに、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。後にも先にも彼がそのような顔をして泣いたことはない。
 慰めも悲しみもなかった。ただ押しつぶされ、打ちひしがれる絶望の日々を過ごしてから、どうにか時間の都合をつけて、功刀は見舞いに行った。
 駐車場に近い裏口から回った功刀は、病院のロビーで待つ昭栄を見つけた。彼は正面の自動扉が開くたび、視線だけをやって、功刀ではないと分かると、目を伏せていた。肩の辺りが痩せているように思えた。裏口から入るのを止めて、功刀は表玄関に回り、昭栄が先にこちらを見つけられるように、ゆっくり歩いてロビーに入っていった。目が合うと、昭栄はしっかりした瞳と表情で、笑みを浮かべた。
 見舞いに持ってきた柔らかい南国の果実を、昭栄は持とうとしたが、お前にやるんやなか、と一言、功刀は言って、二人で病室に向かった。
 将はベッドの上で、目を閉じて、うとうとしていたが、昭栄に言われて、うっすら目を開けた。落ちくぼんだ瞳が親しげに細められた。白い頬が薄赤くなり、驚いたことに、ゆっくりした動きで身を起こした。
「お久しぶりです」
 そう言った将の腕には、すでにいかなる針も刺されておらず、個室にも医療器具のようなものは見つけられなかった。明るく、白い病室には花が飾られて、華やかな色彩を添えているだけだった。
 葉の緑の青々しさが、余計に将の青白さを目立たせた。部屋に漂う静謐さが、嫌がおうにも迫り来るある瞬間を示し、功刀は長居はすまいと決めた。その時、将は昭栄といるべきだと知っていたからだ。
 十五分も経たない内に帰ることにしていたが、途中、昭栄が、用を思い出したと言って席を立った。気を利かせるような男ではないので、本当に用があったのだろう。病室に二人きりになった。
「あいつ、どげんや」
 功刀は訊いた。質問の意味を、将は正しく、理解していた。
「もう、ずっと一緒だから、いないと、寂しいです」
 将は言って、目を細めた。少し、疲れているようだった。声がかすれている。功刀は、横になるように言った。将は遠慮せず、ベッドに横になった。艶を失った髪がシーツの上に散った。
 将の目だけが、黒々と輝いている。功刀は、将のシーツから覗く手を見つめていた。
 どれくらいの沈黙が続いたのか覚えていない。
「功刀さん」
 名を呼ばれ、功刀は顔を上げた。ぼんやりしている間、将はずっと自分の顔を見続けていたのだろうか。
 怖いくらいに、将の目に精気が宿っていた。これを最後と決めて燃え上がるろうそくのように、一瞬後の闇を予感させた。
「……なんや」
 将は昭栄の名を口にした。功刀は目を閉じ、残酷だなと笑った。将には、分かっているとほほえんでいるように見えただろうか。それならよかった。
「お願い、します」
 そう言った将の手を功刀は握った。将が、まばたきして、功刀を見上げた。
 視線が重なった。骨と節が目立つ将の冷たい指に、わずな力がこもった。功刀の手を握り返し、将は小さく笑った。唇から聞こえた言葉に、功刀は目を閉じた。指先が罪を滲ませて絡んだ。
 一分もなかった。短いからこそ濃密な時だった。もしかしたら、将と昭栄の十年よりも、長かったかもしれない。あのときから、将の言葉と眼差しに殉じようと決めた。
 功刀が見舞いに行ってから、四日後にすべて終わった。
 昭栄は、黙々と働いた。喪主として、恋人として動いて、無事、将を見送った。
 それから、彼はすべてを諦め、手放そうとしていた。しばらく待って、功刀は動くことにした。約束を果たすために、自分も悲しむために、昭栄の元を訪れたのだった。
 足下からは海の匂いを含んだひんやりした空気が上ってくる。だが、望むような冷たさにはならないだろう。この体は決して、芯から冷たくはならない。
 たぷんたぷんとコンクリートにぶつかる水音が聞こえる。このままどこまでも海が満ちて、何もかも呑み込んでくれるのなら、こんな思いを抱かずにもすむはずだった。だが、目の前の海は、太陽を呑み込むが昭栄と功刀の男二人に対しては知らぬ顔している。
 生きているからだと功刀は思った。それが事実だった。それ以外、何もない。
「昭栄」
 呟く声はかすれた。
「はい」
「俺は悲しか」
「はい」
 昭栄はふと微笑した。いま、すべてに気づいたように、いま、すべてを受け入れるように、どことなく将にも似た笑みを浮かべた後、唇を歪めた。
「カズさん」
「なんや」
「泣いてよかですか」
「ああ」
 昭栄が低く、啜り泣き始めた。将、将、と嗚咽に紛らせながら、彼の名を呼んだ。
 これでいいか。功刀は誰にともなく、問いかけた。答えは返ってこず、肩を震わす昭栄の横で、功刀も黙って、目から、わずかに涙をしたたらせた。
 限りなく近い悲哀を抱き、同じ思いを一人の男に重ねた二人は肩を並べ、夕日が溶けた海を眺めている。

<<<