雪の日、ロールキャベツを食べました。


 日曜日の夜、東京へ戻った。しんしんと冷える、空気が張り切った夜だった。草晴寺に戻るのを途中で止めて、成樹は将が兄と共に住むマンションへの道のりを選んだ。
 会おうとは考えていなかった。何となく、マンションの近くを通りがかり、上を見上げてみたかった。部屋の窓から漏れる明かりの中に、将がいるのだと思いたかった。
 感傷的な気分に浸りたかった訳ではないが、最近は東京から離れるたびに、ますます遠ざかってしまったようで、時々気になっていた。こんな考えも自分一人の思いであるとは知っていたが。
 将は、自分が何をしているか知るまい。何を決めたのかも知るまい。言わない事を選び、来るべき日を待っているのは、自分自身だから、後悔はしていない。だが、自分の行動に疚しさなど感じていないというのに、彼を見るたびにかすかな罪悪感を抱いてしまう。隠しごとをしているからか。何も告げない負い目を背負ったからか。
 ポケットに手を突っ込んで、成樹は立ち止まると、顔を上げた。寒さに音が吸い込まれたように、辺りは静かだった。
 将の部屋の明かりは灯っていなかった。彼の住む階も同じだった。夜のように暗い窓が、マンションの壁にぴたりと張り付いている。まだ、眠るには早い時間だろうから、家にはいないのだろう。
「なんや、出かけてるんかい」
 予想以上に自分が落胆を感じた事に驚きつつも、それを誤魔化すために成樹は呟いてみた。
「あほらし」
 アホは俺や、口にするのと同時に思う。かじかんだ指先をポケットの中で擦り合わせ、じんじんと痺れたようになってきた足を動かすと、成樹はマンションに背を向けた。さっさと寺に戻って、カップラーメンでも啜りこんで、毛布を被って寝よう。急に疲れを感じ出したので、成樹はゆっくり歩き出した。
 十歩ほど進んでから、おっとりした、静かな声をかけられる。
「――シゲさん?」
 振り向くと、マフラーを首にしっかり巻いた将がいた。
「やっぱり、シゲさんだ」
 将は手に持っていたコンビニの袋をがさがさ言わせながら、近づいた。
「寒いですね」
 どうしたんですとも聞かず、鼻の頭を真っ赤にした将は笑った。
「シゲさん、そんな薄着で風邪引きますよ」
「ポチかて、マフラーしか巻いてへん」
「僕は、すぐそこまでだったんです」
 将は手にした袋に目を落とし、成樹の視線に気づくと、はにかんだように、牛乳です、と言った。
「買い忘れてたから」
「好きやなあ」
 成樹は微笑した。ふと将の目が細まり、目線が成樹の顔よりもずっと上に上がった。
「雪」
 将が呟き、まばたきした。
「あ、ほんま」
 小さな白い粒が、空から落ちてきた。降るというには、勢いのない雪の量だ。そういえば、トラックの中で聞いた天気予報で、関東は雪が降ると言っていたと思い出した。
「シゲさん」
「ん?」
「夕飯、食べました?」
 突然の質問に、成樹は目を見張りながらも首を振った。
「いや」
「食べていきませんか」
 将の顔は、ちょっと歪んだ。寒いのかと成樹は白い息に囲まれた将を見る。
「作り過ぎちゃって、大変なんです」
「何作ったんや」
「ロールキャベツです」
「うわ。なんや、気恥ずかしい料理ー」
 おどけた成樹に、将は笑い、わずかに視線を下げた。髪にかかる白い雪が払う間もなく溶けていく。将がふと伏せた目にも雪が落ちて、溶けた。
「嫌いですか」
「平気。喰わせて」
 良かった。呟いて、将は歩き出した。成樹も続いた。マンションのポーチへ入る頃、雪は勢いを増していた。気を逸らすと、目の前を失ってしまいそうな降りだ。
 乾いた床に濡れた足跡を付けて、エレベータまで歩く。将はボタンを押し、エレベータの扉を開いた。乗り込んで、成樹は持っていた荷物を背負い直す。大きく、重さもありそうな荷物を見ても、将は何も聞かなかった。少し、寂しそうな横顔を見せていただけだった。それも寒いからと言われれば、納得できるくらいのものだ。
「兄貴は遅いんで、ゆっくりしていって下さい」
 将は鍵を開けると、そう言って、ドアを開いた。部屋を出るまでの暖房の名残か、暖かい空気が流れる。廊下や居間の電気を付け、牛乳を冷蔵庫に直してしまうと、将はぱたぱたとキッチンの中を動き回り、夕飯の支度を始めた。
「手伝おか」
 椅子に座った成樹は手持ちぶさただったので、言ってみた。
「大丈夫です。すぐ、出来ます」
 将はみそ汁を温め、茶碗を出し、箸を並べた。椀にみそ汁をよそい、皿にロールキャベツを盛り、冷蔵庫から牛乳とサラダを出した。炊飯ジャーから二人分、飯をよそった。
 料理が並んだ食卓に、成樹と将は向かい合って、座る。カーテンは隙間なく閉められて、外の様子がうかがえなかった。閉じこめられた暖かい部屋で、将と二人、遅い夕飯を取った。
 ロールキャベツは、本当にとんでもないくらいの量があった。食べても、食べても、鍋から減らないように思えるくらいだった。ロールキャベツ以外にも、余り物の野菜やソーセージが山と放り込まれ、煮込まれていた。
「一人で作ったんか」
「兄貴が作りました。僕は野菜を切っただけなんです」
「量を考えなあかんなあ」
「僕も思います」
 将は笑い、箸でロールキャベツを挟み、囓った。
「なんだか」
 塩辛いですね、と将が呟いて、うつむいた。前髪が瞳を隠した。唇が引きつるように、震えていた。
  食事の間、成樹は幾らでも陽気に喋ったし、将も笑っていた。楽しい時間だった。明るすぎたから、将が見せた一瞬の翳りが、なおのこと胸に残った。
 言い出すなら、訊ねるなら、この時しかなかった。それなのに成樹は交わして、逃げた。間違いなく逃げだった。
「――そないなことあらへん」
「なら、いいんです」
 将はゆっくり、笑った。哀しさを払いのけるように、あたたかく、優しい笑みだった。いつも通り、成樹に笑いかけ、いつも通り、成樹はそれに応えた。食事は再会され、ふたたび、何事もない会話がテーブルに戻った。
 食卓の後片づけを終えると、二人で将が持っているサッカービデオを観た。成樹は途中でうたた寝をしてしまい、目が覚めたときには、ビデオは終わってしまっていた。テレビ画面が黒くなっている。家電の呻りが床を這い、それがなおのこと部屋を静かに思わせた。部屋の中に雪の降る音まで聞こえてきそうだと思ったとき、寝息に気づいた。
 横に座った将も目を閉じていた。成樹のいる方とは反対側に顔をやや傾むけ、疲れから解放されない苦しさを残して、眠っている。
 成樹は手を伸ばして、将の髪に触れた。指で梳くと、まだ外の冷たさが残っているような気がした。
 埋められない距離を、相手に近づくたびに感じるとは悲しい事だ。自分からは言えないくせに、将からは訊ねてみて欲しかった。心配されたかった。将から向けられる視線には不安や疑問があり、それらを交わしながらも、成樹はそう思っていた。
 起こさないように将の頭を撫で、唇を開いた。言おうとして、止めた。将から手を離す。二分経つと、将が目を覚ました。
「……僕、寝てました?」
「もう、ぐっすり。よう寝るなあ。さすがポチや」
 成樹が笑いながら言うと、将は力無く笑い、目を擦った。
「ほんなら、そろそろ帰るわ」
 成樹は立ち上がり、上着を羽織った。
「そこまで送ります」
「ええって」
 そう言っても将は聞かず、成樹をエレベータまで送った。きっと、成樹が許せばマンションの下まで付いていっただろう。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
 見送られて、成樹はエレベータに乗った。将は、最後まで笑っていた。
 泣くなら、俺がいるときに泣いてくれればいいと見えなくなる将の顔に、思った。
 将が成樹の前で泣く事もないはずだから思える事だ。将を巡る自分の思いは、自分勝手の一言に尽きる。こうして欲しい。ああして欲しい。願望が膨らみ、口にすれば将は許してくれると知っていながら、わざとのように黙っている。
 外は雪が積もりかけていた。足下で解ける雪の冷たさと水気が靴越しに伝わってきた。
 振り返り、見上げると、将の姿が窓辺にあった。高さも距離もあったのに、目が合ったと分かった。見つめ合った最後の瞬間、将の目から涙がこぼれた気がした。手を上げ、成樹は涙を払うような素振りで、手を振った。指に冷たい、冷たい雪の欠片が触れた。閉じこめるように握りしめた。
 何も言わない、言えない別れだった。確かに決別の時だった。

 ――彼がドイツへ発ってから、成樹は一度、マンションの下まで行った。あの夜と変わらない時刻、同じ季節だったが、違ったのは、すでに雪が積もっていたことだった。マンションまでの道筋で新しい雪が降り、道は今、生まれたように白かった。車の轍も人の足跡も、絶え間なく降る雪に、消されていた。
 新しい雪に足跡をつけて一人、歩いた。辿り着いた場所で、成樹は白い息を吐き、マンションを見上げた。やはり、明かりは灯っていなかった。遠い国でなら、将は明かりを灯しているのだろうが、成樹の前には、暗く静かな窓があるばかりだった。
 しばらく見上げ続けてから、帰るために歩き出した。
 途中で、振り返りたくなった。将に呼ばれた場所で、将を見出した場所で、成樹はふわりと振り返ってみた。
 街灯が照らす路上には、成樹の影が伸び、一人分の黒い足跡があるばかりだ。口元に冷やされた息が舞う。舌先に、塩辛いと将が呟いた、ロールキャベツの味が思い出された。
 幻に静かに背を向ける。さくさくと雪を踏んで、成樹は歩いていった。



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