薄曇りのある日、理由も無しに虚無に襲われ、成樹は将を誘った。
「どっか行ってしまわん?」
将はとまどう様子も見せず、こっくりうなずいた。成樹はそのまま将の手を引いて、寺まで一度帰り、いつでも出て行けるように必要最低限の荷物を詰めていたリュックを背負った。
屋根の下から太陽の下へ出ても、空には薄く雲が広がっており、太陽をぼんやりとした影に見せていた。成樹は将の手を引いたまま、気の向いた方角へ歩き、国道へ出た。
二十八分と十五秒後、角張った顔をしたトラック運転手が車を停め、成樹はやはり、将の手を握ったまま、車に乗り込んだ。
見慣れた町並みが、バックミラーとサイドミラーから消えていくのに五分とかからなかった。トラックの中は、エンジン音に負けないような大きさで演歌がかかっていた。
将は成樹の横に、ちょこんと座り、めまぐるしい早さで流れていく景色を、じっと見ている。繋いでいた手を離そうとすると、将は外から成樹に目を移し、小さく笑った。駄目ですよ、シゲさん。将は言葉を出したわけでも、唇を動かしたわけでもなかったが、成樹には、そう聞こえたし、笑みもそういう意味に見えた。なので、成樹は将の手を握り直し、自分は正面のフロントガラスを見ていた。トラックは速度を上げて、一台の軽自動車と一台のワゴン車を追い越したところだった。
トラックの運転手は無口だった。成樹も黙っていたし、将も静かに外を眺めるだけだったので、トラックの中は、若かったり、年老いていたり、熟していたりする様々な種類の歌い手たちが歌う演歌が流れているだけだった。耳に残りそうな曲調だったが、トラックから降りたときの将の小さな驚きの声に、演歌特有のこぶしと張りのある歌声は消えていた。
「すごいですね」
高台で降ろしてもらったのだった。眼下には細々した町並みと緑が広がっていて、どこも、夕暮れの色に染まっていた。海際の町だったので、ちかちかと海面が西日を反射して、目もくらみそうな輝きがあった。
成樹は荷物を持ち直し、そうやなとうなずくと、将と一緒に坂を下り出した。時折、帰路を急ぐのか、どこかへ出かけるのか、車が通った。歩いている者は誰もいなかった。蝉が鳴いていたが、夏も終わりだったので、鳴き終えれば地面に転がるばかりと思われるか細い、とぎれがちな声で鳴いていた。対照的にヒグラシが、甲高いながらもはっきりした声で鳴いていた。
まっすぐ伸びた杉の林の間に、黒々と続くアスファルトを歩いていると、そこいら中の下生えで這い虫が鳴き出していた。成樹と将の足音を聞きつけるのか、それとも影か震動のせいか、近づくと途切れてしまうのだが、いったん遠ざかると、またも我が物顔に鳴きだして、その間にもヒグラシと寿命のないツクツクボウシが声を上げている。
将は成樹から手を離して、坂道を弾むように降りていた。時折、振り返って、虫がすごいですねとか、誰も通らないとか、暗くなってきたとか、ちっとも恐れの見えない口調で言った。
高台を降り、町に近づくにつれて、振り返る将の顔が判然としなくなったが、それは、空から落ちるというよりも地面から昇ってきた闇の気配が、辺りに満ちてきたからだった。
嘘のように人気のない道を歩いて、辿り着いた町には、電灯の光りが溢れていたが、やはり人気はなかった。若さもない、看板や張り紙の色彩が浮き上がるような、鄙びた町だった。将はその頃には成樹よりも先に行くのを止めて、成樹の横で、知らない町を大きな目に、映していた。
町を横切る大通りから、一度折れた先に、小さな古びた定食屋があった。看板もガラス戸も油と風雨で汚れていた。破れた提灯から漏れる明かりに虫が寄っている。
店の前に漂う匂いに、将がなぜだか哀しそうな顔をしたので、成樹はもう少し、この辺の地理を確かめる予定だったのを繰り上げて、戸を開けた。油で肉を炒める匂いと、もっと饐えた匂いがした。
店には新聞を広げている男と、カウンターでテレビを見上げながら、煙草を吸っている男の二人しか客は居なかった。奥の暖簾をくぐって、普段着に割烹着をつけただけの四十ほどの女がやって来た。
成樹は将を促して、入り口から二つ目のテーブルに座った。少しべたついたテーブルの上に、女はワンカップの酒が入っていたらしいガラスのコップを二つおき、物珍しそうに将と成樹を見比べた。将が、いつものように笑って見せたので、女もつられて笑った。
成樹は品書きを将に渡した。
「何、食うんや」
唐揚げ定食とショウガ焼き定食を頼んで、成樹は見るともなしに、店で一番大きな音を立てているテレビを見上げた。野球中継だった。画面を見なくとも、アナウンサーの声で試合の様子は分かる。調理場に男が現れて、将と成樹の注文した品を作り出した。はちまきを結んだ額が、汗で光っている。
将は頬杖を突いて、手あかや煙草の煙で黒ずんでいる壁に貼られている元は白、今は黄ばんだ品札を順番に見ていた。成樹は将の近くにある灰皿を引き寄せた。
アルミで出来た灰皿は、店のオレンジ色の照明で、いっそう安っぽく見えた。中は空だったが、底に灰がこびりついている。将の手が伸びて、灰皿を自分の方へ戻す。
「ええやん」
将は首を振って、灰皿を自分の後ろにあるテーブルに置いてしまった。将の額をはじいて、成樹はポケットに隠していた煙草を吸うのを諦めた。
野球中継アナウンスを遮るように、油の弾ける音が店中に響いた。がたりと乱暴に椅子が引かれ、カウンターに座っていた男が立ち上がり、入り口近くまで行くと、お愛想、と怒鳴った。注文を取った女性が足音高く現れ、男から金を受け取り、釣りを渡した。その頃には、成樹と将の品は出来上がっていた。
その足で女性はカウンター越しに、揚げられたばかりの唐揚げ定食と湯気を立てるショウガ焼きとを、同時に運んできた。袖から見える女性の手首はたくましく、むっちりとした白い肉に覆われて、深い皺が寄っている。盆を受け取った将の手首は、日に焼けていたが、内側は白く、細かった。ぼわりとした明かりでも、青い血管が透けて見えるようだった。
成樹は焦げ目が目立つ肉と付け汁が染みたキャベツをむさむさと平らげた。将は熱い、熱いと、呟きながら、唐揚げを頬張った。将の白飯がよそわれた茶碗に、成樹は一番綺麗に焼けている豚肉を載せてみた。上に散らされたショウガの細切りが、肉にくっついている。将はショウガだけをつまんで、口に入れると、その酸味が染みたように唇を少しとがらせた。それから、お返しですと言って、成樹に唐揚げをくれた。
ほとんど一口で、成樹は将からもらった唐揚げを食べた。衣がさくりと砕け、肉汁が溢れる旨い揚げ方だった。
「うまい」
「本当に」
将よりも、成樹は早く食べ終わった。水を足しに来てくれた女性に、この辺りに泊まれるような場所がないかを訊ねた。女性は、ああとうなずきながら、自分の姉の家が民宿をしていると教えてくれた。成樹は場所を聞いた。
簡単な説明だった。川岸を辿ればいいのだった。
店を出ると、すっかり暗くなっていた。商店のほとんどがシャッターを下ろしている。自販機で茶を二本買って、川沿いの道を辿った。自販機の煌々とした明かりからはぐれると、道は次の電柱まで、ひどく暗かった。川岸の草が繁茂して、道にはみ出していた。草をよけ、成樹は車道を歩いたが、将は川底を覗き込むようにして、歩道の上を歩いた。川底は、どこかの光を反射して、光るときもあったが、たいていはどんよりと淀んだ風に見えていた。
流れがあるのは、聞こえてくる音で分かるのだが、ねっとりした夜の川の黒さは、その場でずっとうねるだけの粘液のように見える。大した高さもない柵でしか、川と道は遮られていないので、成樹は将の肘を掴んで、将がそのまま川に転がっていかないようにしていた。本当のところは、将の体を一押しして、川に投げ込み、自分もその後に続きたいのかもしれなかったが、そうして飛び込んだ後に、この川の黒さに捕まるくらいなら、藪草に脛や踵をなぶられていた方が、ましというものだ。
川岸に建つ民宿は、腹ごなしの運動にはちょうどいいくらいの場所にあった。民宿というよりも、古い下宿屋だった。戸を開けると、すぐに女が顔を見せた。電話がありました、と細い声で言い、言葉短いのに困ったように、お疲れ様です、と付け加えた。
差し出された台帳代わりの、ただの帳面に、成樹はとりあえず、将と自分の名を書いた。住所は将が自分の所を書いた。成樹は自分の在所は書かずに、そのままにしておいた。並んだ二つの名前と一つの住所は、なにやらほほえましかった。
一緒にすんでるみたいやな。成樹が、こっそり呟くと、将は頬をぼうと赤くした。証拠になりますね。証拠って、なんや。本当だ、何でしょう。足には大きすぎるスリッパを引きずり、将はとまどったようにふわりと曖昧に笑った。
証拠というのは、ここへ来たのが、誰やらにばれたときのことだろうか。そうすると、この一夜が、まるで道行きと呼ばれる秘め事の匂いを帯びてきた。
磨り減った廊下を女の後に続いて、歩いていった。家屋は幾度か、建て増しをしていたのか、廊下に段差があったり、奇妙な場所に扉や階段があった。将は、ぎしぎしきしむ階段を、成樹に続いて、珍しそうに上った。
案内されたのは、海に続く川に、半ば張り出した涼しい部屋だった。風呂と手洗いの場所の説明をすると、案内してくれた女は出て行った。たぶん、定食屋の女の姉であると思われるが、顔立ちもたたずまいも似ていなかった。
継ぎ接ぎが目立つ襖を開き、夜具があるかを確かめた。押入の中は乾いた埃の匂いがする。冷たく重たい布団は、まだ出さずに、西日で黄ばんだ畳の上に座ると、成樹は将に目をやった。将は大きな窓を開けようとしていた。
「虫が入るで」
「はい」
閉めようとするのを制して、成樹は部屋の明かりを消した。
将は重たげな音を立てながら、窓を開いた。途中から、成樹も手を添えて、手伝った。滑りの悪い窓で、窓枠の木屑が、将の手や成樹の指先を刺した。
ようやく開いた窓の外で、汚れた手を払い、将はため息をついた。窓際の床は畳ではなく、板張りになっていた。桟が広く作られていたので、将はそこに座った。
将の隣に座り、成樹も外を眺めた。何てことはない景色だった。川向こうの家の明かりが見え、家々の輪郭が闇に浮かび上がっている。やって来たときの印象と変わらない、暗い、静かな町のように思えた。潮の香りはしない。代わりに部屋の下を流れる真水の匂いがした。堤際に波が当たるのか、たぷんと水音が足下から響く。
「いつも、こんな風に旅をしていたんですか」
将の面の半分が向こう岸の明かりを映し、半分は部屋の暗がりに溶けている。
「いや。こないに贅沢な旅は初めてや」
「そうなんですか」
肌を刺すような冷たい川風が吹いて、成樹の前髪と将の髪を揺らした。閉めようとも言わずに、成樹は将の頬に触れた。汗が冷えて、冷たい肌だった。
親指でごしごし擦ると、将がくすぐったそうに笑った。擦るのを止めると、将の頬を挟み、成樹は訊ねた。
「抱いてもええ?」
将は意外そうにまばたきして、最初に誘いを受けたときのようにこっくりうなずいた。
成樹は将の腰を引き寄せて、瞼や額に口づけた。舌で触れると肌が、辛かった。厭な辛さではなかった。ずっと昔に行った夏の海を彷彿とさせた。
成樹が口づけている間、将がずっとくすくす笑っているので、どうしてかを訊ねた。
「だって、シゲさんが、いいか、なんて訊いたの初めてだったから」
「なんや、それ。俺がまるで、いつもカザに許可も取らんと、やっとるみたく聞こえるで」
将が額を成樹にくっつけた。ぐりぐりと鼻の頭をこすりつけてやると、将は子供みたいに声を上げて笑った。成樹も目を細めた。
将のTシャツを脱がせ、板張りの床の上へ、自分の分のシャツと重ねて敷いた。将を横にすると、こつんと骨が床に当たる音がした。肩胛骨だろう。張り出した骨の間や、その突端に成樹はすでに幾度か唇や指を這わせていた。
「痛いやろ?」
「平気です」
今日一日にかいた汗が、まるで将を海のようにしていた。薄い胸板に顔を伏せていると、将の手が成樹の髪にそっと触れた。掬い上げて、落として、掬い上げる。長い髪に触れるのが楽しいらしかった。感触が違うのだと、いつだったか、将は言ったが、確かに人工的な色に染まった成樹の髪は、自然な色の将の髪とは違い、色合いだけなく、感触すらもどこか軽く、とらえどころがないように将の手からこぼれていくのだ。
髪を無心にいじる将を、少し苛めた。ああ、と苦しげに将は呻き、指を床に突っぱねたが、爪は板の上を滑り、かりりと乾いた音を立てた。しっとりした汗が、また将の肌を覆い、つま先がその瞬間、反らされた。
吸うようにして、最後の愛撫を終えると、成樹は身を起こした。将の手首は精を放つと同時に、ぱたんと投げ出されている。将の手を取って、成樹が自分の指を絡めた。成樹の指で包み込めるのが、将の手だった。
将がもの言いたげにじっと睨んでくるので、成樹はねだった。
「髪いじるくらいなら、もっと別のとこ、触ってや」
将の額を撫でて、汗をぬぐい、達してしまったときの名残らしい涙を拭ってやると、将も身を起こした。抱きしめた全裸の将は熱かった。将は成樹の頬と耳に、鳥がついばむような軽い感触のキスをすると、まだ固さが残る動きで、成樹の体に触れてきた。
官能よりも、小動物にそこかしこをつつかれているような、くすぐったさがあった。成樹が笑う吐息を聞きつけたのか、将が軽く成樹を撲った。成樹の笑い声は、将が足の間に顔を伏せたので、小さな吐息になった。拙い舌の動きに、すべて任せた。
指の間を時間が流れていく。将のように終わる前に、成樹は将の肩に触れて、顔を上げさせると、もうええよと囁いた。
「だけど……」
濡れて光る将の唇が、不思議そうに動く。成樹は将を引き寄せ、腰を抱いた。
「うん。こっち」
腰の下へ手を滑らせ、女のようなまろやかさはないにしろ、なめらかさと少年特有の柔らかさがある尻を包む。将が意味を察して、目を伏せた。残る手で肩を抱いて、自分へ体重を預けさせると、成樹はゆっくり、将の体を開いていった。
探る内に、将が声を抑えきれなくなったようなので、成樹は将の耳朶に唇を寄せた。
「きつい思うけど、今日は声、我慢したってや」
将が分かったと言いたげに、何度も首を振る。
「肩、噛んで」
将は成樹の肩に顔を押し当てたが、歯を立てようとはしなかった。ただ一度、抉られる衝撃にひときわ熱い息を漏らしただけだ。そのときだけ、将は仔猫のように細い爪を、成樹の背中に突き立てた。
「もう少し、足広げて」
膝を持つと、将が足を広げた。自分の腰に絡めさせて、将との結びつきを固くする。将が成樹にしがみつき、喉の奥で淡い声を上げた。腰と尻を抱えたまま、揺さぶると、肩がはらはらと濡れた。将の汗と涙が肩を流れていく。
成樹は将の首筋に唇を当てた。流れる汗を舐め取って、なおさら深く分け入る。ひっくとしゃっくりのように将が喉を鳴らして、達してしまった。震えた肩に急かされ、成樹も短い息と共に欲望を吐き出した。
「――カザ」
肩に顔を埋めた将を呼ぶ。ゆっくり顔を上げた将の瞼を舐めて、成樹はふっと笑った。
「辛い」
将は、そこで初めて成樹の肩を噛んだ。
「シゲさんも辛い」
「汗、かいたしな」
将の頭を撫でた。成樹と同じように根本が湿っている。一瞬、息苦しくなるくらいの強い将の匂いがした。光に匂いがあるなら、こんな匂いなのではないかと、感じる。
「キスしてもええ?」
将は一度まばたきして、目を閉じた。成樹は将の首筋を抱いて、唇を重ね、何秒か目を閉じた。耳の底で、ちゃぷんと水音が聞こえた。川からの水音ではなく、将の体が持つ海からの音のように思えた。
将を休ませておいて、成樹は布団を敷いた。将は皺が寄った成樹のシャツに体を横たえて、布団が敷かれていくのを見ていた。成樹は布団を一枚敷いた後、どうしようかというように将を振り返った。
将は陶器で出来た置物の犬によく見られる、小首をかしげた姿勢で、両手に顎を載せていた。成樹は枕を二つ並べてみた。将が、はにかんだように笑った。これで、良かったようだ。
「風呂、行こか」
膝をつき、寝そべったままの将の頭をくしゃりと撫でる。将は目を細め、成樹の手を借りて、起き上がった。
「シゲさん、足がべたべたします」
面白がるように将が言い、成樹は口調に誘われて、唇をほころばせた。目の前に現れた奇妙な、心引かれる事を母親に伝える幼児のようだった。
「すまんかったな」
外からの明かりに頼るばかりの部屋だったので、細かい部分など見えようがない。将の輪郭を光が霞ませ、肌の色が闇に滲んで見えた。見ているだけならば、儚げだが、幻でないあかしに、触れれば汗で冷え、掌に張り付くような肌が、そこにある。
初めて体を重ねたときも、今のように触れなければ夢のような暗さだった。終わった後、成樹が手探りで明かりを付けると、将は身を縮め、次いで、身の内の違和感に好奇を覚えたらしく、視線を下げた。
こうしようと決めて、過ごした夜ではなかったから、何の用意も心構えもなかったが、かえって、それが将の羞恥を消してしまったらしい。生臭く、温かい性の営みを、年齢にしては長けたすべで、成樹は将に伝えた。
伝聞や授業や書物やらで知った肝心の所はぼやけるばかりの知識と、実際のそれとの違和感を、将は見聞きし、匂い、触れて、味わい、それらすべてを困惑と飽かない好奇心で、受け止めた。そうして、五感すべてを使った行為の最後に見つめた先が、情事の結果が零れた体だった。乾ききるには間がある白濁した粘りに、将は指を伸ばして、触れた。
女だったらこれで、子供が出来るかもしれないんですね。
女性、でも、女の人、でもない、将の口から発せられた、女、という言葉の生々しさに、成樹は虚を突かれ、自分の腹部や将の臍下や腿に散っていた精液を眺めた。
生殖、という点で語るのなら、精を受け入れ、結びつける器官を持たない成樹と将の時間はむなしいだけに終わるのだろうが、この世には、男同士に限らず、幾らだって、そのような時間を過ごす者がいるのだ。そこでは、無数の人の種子が、快楽のために虚空に放たれ、実ることもなく、流されている。将も成樹も、その輪の中に加わっただけなのだった。子を作るためだけに交合があるわけでないが、幾ら、体を結んでも、しょせん無に帰すだけの事実は、少なからず、成樹をとまどわせた。
自分の子が欲しい、将の子が欲しいとは思わないし、だいたい、どちらかの血を引く子供を得るのは、そこに行き着くまでの過程はどうあれ、可能な事だ。
成樹の惑いは、自分たちが幾ら掛け合わせても、始めからゼロにしかなりえない事を、将の口から聞かされた淡い驚きからだった。ああ、将は気づいているのだなと思った。
最初から、理解していたのだ。どれだけ、成樹が世知に長けていたとしても、いや、そうであればあるほど、やはり無垢の一言には叶わなかった。将の言葉を混ぜ返しもせず、からかいもせず、成樹は体を拭う将の腕の下から腰の辺りをなぞった。結実しない交合が、むなしいとされても、自分はこれからも将を抱くであろうし、そこに悦びや快楽も感じるのだった。ならば、浅ましいくらいに、将を抱いて、抱きつくしてやろう。将を貪って、自分の身も食わせよう。凶暴さを秘めた静かな微笑を浮かべて、成樹は、そう決めた。
「――シゲさんも汚れましたね。ごめんなさい」
薄闇と追想を割るように、将の手が成樹の腕に触れた。
引き戻された成樹は、行為の残滓が漂わせる青臭い匂いに、なぜだか笑いを誘われた。二人で呼吸を荒げ、腰を振り、しがみつき合った挙げ句に、この匂いがある。滑稽な愛しさがあった。
「気持ちよかったから、構へん」
僕もです、と将が囁いた。成樹は将の耳元に唇を近づけた。歯で噛み、舌で触れた耳朶は、情交の時を思わせる熱さだった。耳朶の後ろの柔らかい部分に、小さく溜まっていた汗の滴を吸い取り、幾日か残る痕を付けた。薄赤く染まった将の肌に、この痕は、さぞ映える事だろう。
将の肩を抱き、荷物の中にある小さなタオルと石けんを持つと、浴室へ向かった。
階段を下りて、右に曲がると、つきあたりに合板で出来たドアがある。プラスティックの小さな白い板が張られ、剥げかけた文字で、浴室、と記されている。ネジの緩いドアノブを回し、脱衣所へ入ると、安価な石けんによくある粉っぽい匂いがした。手探りで、電灯のスイッチを入れる。濃いオレンジ色の電灯の下で、竹細工の敷物を踏みしめながら、服を脱いだ。将は伸びやかな肢体を隠そうとせずに、浴室へ続く曇りガラスの戸を開けた。玉石を埋め込んだ洗い場は、足裏を柔らかく押した。
将を腰掛けに座らせ、湯をかけてやる。頭から湯を流すと、将の髪はぴったりと頭と頬に張り付いた。あちこちから垂れるしずくに将が目を擦る。
両手を泡だらけにして、成樹は、将の髪と体を泡立てた。将は身をよじらせて、成樹の手から逃れようとしたが、力のいれ具合や使い方が違うのか、成樹は難なく、将を引き戻し、あっという間に泡だらけにしてしまった。口を開けば、泡が入るので、文句も言えず、将は成樹におとなしく、従っていた。
ざばざばと泡を流してやり、成樹は将を湯船に入れた。将は薄い黄緑のタイルが貼られた浴槽の縁に顎を載せ、眠そうにまばたきした。成樹は将と同じように体と髪を手早く洗ってしまうと、頭から数度、湯を被り、ざぶんと湯船に飛び込んだ。肌に残っていた泡が消え、浴槽から溢れた湯が、洗い場の石を光らせた。
湯を被ってしまった将は、数度首を振り、水滴を払うと、笑っている成樹に湯をかけた。成樹は笑って、その復讐を受けた。やがて将が満足した後、手を伸ばす。将が水面を揺らして、成樹の腕の中に収まる。
濡れた成樹の髪に泡が残っているので、将は指を濡らして拭った。成樹は将の指をつかみ、体を反転させると、背後から抱くような姿勢に変えた。成樹の体を椅子のようにして、将はもたれかかり、はあっと大きな息を吐いた。
将の息が波立たせた水面が静まると、湯に沈んだ体が歪みながらも、よく見えた。手を滑らせて、あちこちを触った。どこを掴んでも、薄い皮膚一枚で遮られた筋肉の震えと骨のこつんとした感触が感じられた。体格の差もあるが、将を腕に抱くたび、小さい、小さいと、成樹は心で呟いてしまう。
両手を回しても指が余りそうな首、手首と同じくらい細く思える二の腕、鼓動が直接感じられそうな薄い胸板、浅くえぐられた腹部、つつましくもあるが、紛れもない男の性器。全体として、将は体毛が薄い質らしく、周辺の体毛も触れなければ分からないほど淡い。湯の中で、靄がかかったようにも見える茂みを探ると、将がそっと肩を揺らした。
「まだ熱いで」
「シゲさんが触るからです」
「言うようになったなあ」
将の腰に手を回し、背後から抱いた。臍をつついて、平らな胸へ手のひらを当てた。刺激されてか、将の乳首が浮き上がり、成樹の両の手のひらを、くすぐった。指で摘んで、乳首を、もてあそんだ。
「シゲさん、胸に触るのが好きですね」
「そうか?」
「こういうとき、いつも触ります」
将は長々とため息をつき、乳首で遊ぶ成樹の手を、自分の手で上から押さえた。将の手と胸に挟まれ、成樹の手のひらには、どくどくと肌の下を流れる血の音が伝わってくる。将のうなじと肩に顔を埋め、湯から立ち上る匂いと肌の匂いを嗅いだ。
将の匂いや肉体は、成樹にとっては好ましいが、飢えと乾きを感じさせるそれでもあった。同時に、なぜだか、今まで抱いた女も思い出させる。違いすぎるからか、その違いの中に同じものを求めているからか。
最初の放浪で、成樹は女を知ったが、その初めは母親と幾らも歳が変わらないくらいの年の女だった。ねっとりした肌の下に白い脂肪を輝かせた豊饒そのものの体は、なるほど、女とは大地、そういわしめるだけの、たくさんの平地があり、谷があった。山や森、沼や繁みがあった。泉は熱く、滾々と溢れ、触れれば大きく地震も起きる。まったくの大地だった。だからだろう。男の肉体一つなど、簡単に包み込んだ。元は体内に収めていたのだから、難しい事ではない。ぬぷぬぷと潮にまとわりつかれながら、体を沈めていく場所は成樹がこの世へ出て来た穴だ。
大きく、黒みが定着した乳首をくわえながら、一体、幾人の子供と男が、この女の乳房に顔を埋めながら、乳を吸ったか考えた。どうしたって、ここは懐かしい場所だろう。赤子の記憶はとうに無くしたが、ここは無意識にも懐かしいと思えた。
日焼けた腕や足、顔とは違い、滑らかに白い、ぼってりした乳房は、幾分、乳輪が大きめで、横たわると、肉が脇や背中に流れた。それでも成樹の手でこねるには、十分な量があった。指を押すと、へなりとまとわりつき、ゆっくり押し戻される。
女は小娘のように、恥ずかしげに、ああ、いやだ、と呟いた。口の中で乳首が硬く、しこる。あめ玉のようにしゃぶり、どうしてと問い返すと、こんな肌だからよ、と媚と甘えが程良く混じり合った声と仕草で撲たれた。
あんたみたいな若い子と比べると、本当に恥ずかしい。そう言って、顔を隠す女の耳下から顔への輪郭と首筋へ至るまでが、奇妙なほど少女めいて、可愛らしく思えた。ほんのり上気した肌は、この年齢にしかない脂の乗り切った、輝きにもぬめりがあるもので、たるみやしわでさえも、そのときの成樹はいとおしく思えた。ふと加虐の心を呼び覚まされ、成樹が乳首を噛むと、女はぴしゃりと成樹の後頭部を叩き、甘えたような声で、痛いから止めてよ、と囁いた。
若い雄の無鉄砲な性欲は、心身がぴったり張り切ったのち弛まってきた女とは、隙間もなく寄り添い合い、絡まって、くるくると回った。押す一方のがむしゃらな愛撫も、腰の進め方も、数を重ねれば、慣れが見え、女の声にも余裕や笑いが消え、後は意味の掴めない、悦びの色だけが分かる声になった。まぐわい、というのが、ふさわしい時間の後、女は、軽く、四、五歳は若く見えたし、成樹にはふてぶてしさと、憑き物でも落ちたかのような爽快感が漂っていた。
二度とは戻れない幼年期への恋しさはなかったし、色々なしがらみと、もう一度別れきってしまった喜びがあった。兎にも角にも、男にはなった。おまけに自由は、この先もある。
旅、というよりも放浪する間、成樹は失ったものを数えるよりも、得たものの数を数える方が面倒くさくないと気が付いた。なにしろ、失ったものは、ありすぎたし、最初から持っていなかったものも多かった。
もっとも、持っていなかったものが、自分にとって、欲しいものだったかは成樹自身にもよく分からない。しかし、違っていただろう。一番欲しかったのは自由だったし、最初に成樹が得たのも自由だった。その後も、それ以外、何も得なかった。得たいとも思わなかった。だから、将を得て、それがある意味において、自分の自由を束縛するものだと知ったとき、驚いた。どうして、こんな関係になったのかも、はっきりと覚えていなかったせいもある。
気持ちやら本能やら欲望やらにまとわりつかれて、いつの間にか、将は成樹の隣にいて、シゲさんと笑っていたし、成樹も成樹で、なぜだと考えもせず、将から与えられるものを享受して、ポチと呼び、カザと呟いて、彼を抱いていた。
今だって、抱きしめている。すがりつきでもするような弱さすら、成樹は自分の中に認めている。
成樹が動かなくなったので、将も動かない。水面はなだらかになり、時間と二人の体を閉じこめていた。天井から落ちるしずくがぽつん、蛇口から漏れる水滴がぽちゃん、音を立てたまま外を流れる川に戻っていきそうだ。
将の胸は呼吸で緩やかに上下している。
「広い風呂やな」
「そうですね」
将は成樹の手を引っ張り、自分の腰に回させた。将がそうしたいのではなく、成樹がそうしたいのではと思ったのだろう。どうして分かるのかと、今は思わない。
将は成樹に色々なものをくれた。将が差し出したものが、自分の欲しがっていたものだったと成樹は思う。すぐに分かったり、後からそうだったと思ったりと、気づくには時間差があるものも多かったが、将が差し出す時間や品物や思い、感情は、成樹が欲しいものだった。それでも飢えや乾きは満たされ切れなかった。むしろ、いっそうひどくなる。諦めながら、同時に哀しんで、思う。しょうがない。どうしたって、取り戻せない、手にも入らないものはある。
やるせなさに押されて、成樹は将の濡れた髪に鼻先をくっつけた。髪が皮膚に張り付いて、呼吸を遮る。
「なあ、あとで海、行ってみようか」
「海?」
「そう。港があるやろうから、船、盗んで、どっか行こか」
将が笑った。いいですよ、と嬉しそうな返事が返ってきた。どちらを了承したのかと、成樹は聞かなかった。
エンジンがついた漁船はうるさいだろうから、手漕ぎの船を盗んで、夜の海へ漕ぎ出す。潮に押し流され、漂った後、沈んでしまう。そこで生まれた波紋が陸に辿り着くときは、小さな波になっていることだろう。誰かの足を洗う波になるのも悪くない。砂浜を洗うだけの波でも上等だ。
「シゲさん、眠いですか」
「いや」
目を閉じて、将の肩を掴んだ。
「カザ、息したらあかんで」
「え」
成樹は息を吸うと、将を引き連れて、湯船に沈んだ。耳の中に湯が入り込む。瞼を開けると、振り向いた将の顔が側にあった。あぶくが口から漏れる。唇が割れて、将が何か言う。負けずに成樹も口を開いて、泡を出した。
体中の空気を泡に変え、勢いよく顔を出した。浴槽から湯が零れて、洗い場のたらいが一時、水に浮かんだ。
将はまだ湯船の中に顔を浸けていた。上がってこないので、腕を掴んで引き上げる。将は今は目を固く閉じていた。指で瞼を押し上げると、眼球がちろりと動き、将が目を開いた。そのまま、成樹はあかんべえと呟いた。将が成樹の指に合わせて、ちろりと舌を出す。顔を寄せて、唇に挟まれた将の舌を噛んだ。
「出よか」
額の髪を払い、数度咳き込んだ将は、うなずいた。
廊下をぎしぎしいわせながら、部屋まで戻った。他に客はいないらしく、いたとしても、すでに眠っているようだった。誰の気配も感じない。川の気配だけが濃厚で、水音は窓から離れても聞こえていた。
乏しい明かりで、来た道を辿って、部屋の扉を開ける。枕二つの布団が一つ。その側に成樹が石けんと濡れタオルを投げ置くと、将は濡れたタオルを取り上げて、開け放しの窓へ歩いていった。タオルを窓辺の柵に干している。
川からの冷気が部屋に流れ込んで、将が大きく、くしゃみした。三回続いたくしゃみに、将は振り返って、照れ笑いした。
俺はこいつを、どこまで連れて行ってしまうのだろうかと、束の間、成樹は覚醒したように、はっきりした思考で思った。それは、将をどこかへ連れて行くのを迷っているからゆえに思うのだろうか。自分の行き着く先にあるものが、ろくな場所でも終わり方でもないと、成樹はとうに知っている。せめて、それまでに、将を解放できるだろうか。彼が望んでいるものを与えられるだろうか。
「カザ」
布団の上で胡座をかいた成樹は将を手招きして呼んだ。
将はおとなしく成樹の前にやって来て、腕を取られた。手を引いて、座らせ、自分の膝の上で抱いた。将は成樹の胸に寄りかかり、体を預けてきた。
将が何を欲しがっているのかは、いつも分からなかった。欲しがっていないものは、不思議と分かるが、何を望み、願っているか、どうにも掴めなかった。
成樹が何を与えても喜び、有形無形問わず、大切に仕舞い込んでいた。時折、思い出したり、取り出したりして、喜びを反芻する、奇妙に律儀で、幼い癖を持っていた。成樹が将の前から、ある日突然に去っていっても、そうやって、自分の中に溜めておいた時間や思い出を繰り返し、眺めるのかもしれない。それが、成樹には寂しい気もするし、将にとっては哀しい気もする。
将は成樹の行動を束縛するような素振りは見せなかった。執着を持つようにも見えなかった。不思議な距離を置いて、成樹の側にいた。抱きしめるにも、突き放すにも、ちょうど良い位置に。なので、成樹は、どちらを選べばいいか、いつも迷った。ここに一緒に来たのは、どちらかを選んだことになるのだろうか。
諦めていた。諦めている。望んでいない。望むこともない。生も死も終わりも始まりも、有ることも無いことも、それらを孕む世界すべてを、成樹は欲していない。
将だけに執着しているのかもしれない。それならば、将こそが、結び目であり、扉であり、世界なのだろう。
将を抱き直すと、思いの外、小さな体が重く感じられた。見下ろすと、将が目を閉じて眠っていた。寝る子は育つというのに、ちっとも育たない。成樹は一人ごち、一人笑い、将の頭に顎を載せた。生乾きの柔らかい髪に頬を寄せ、目を閉じた。
将の寝息の向こうに、さらさら水の音が聞こえる。音を消さないように、将の体を横にして、その頭をくしゃりと撫でた。片膝を立て、成樹は対岸の明かりに目を凝らした。睨んでも、滲むような闇と光で、視界がぼやけるばかりだ。将の隣に寝そべり、布団に耳の片端を押しつけると、どくどくとこめかみ辺りから血が流れる音が聞こえてきた。自分の血と将の寝息と川音の中を漂よって、浮き沈みしてから、成樹は朝が来る前に出て行こうと決めた。
夜明け前に吹く風は冷たく、塩を含んでいても、皮膚を刺すような鋭さはなかった。岸壁を洗う波の音が、絶え間なく聞こえ、波の大小で時々、乱れた。
秘密を打ち明けるように、将が囁いた。
「二人だけですね」
「ほんまや」
いつも二人だけだ。いつまでも二人きりかもしれない。終わるときもそんな気がする。
町を出てから、短い言葉しか交わしていない事に気づいた。岸壁を洗う波音を聞き、ぼんやりと海を眺める。暗く静かだった。生み出す音は、耳だけでなく、体中に染み通っていく。
将の方は足下をじっと見つめていた。
「なに、見てる?」
「虫です。さっき、踏んづけちゃって」
将は困ったような、参ったような、あやふやな顔で、コンクリートにへばりついた虫の死骸を見ている。
近づいて、成樹も見下ろした。
「あー。フナムシ。こんなん、よう踏めたな」
成樹は言って、足をコンクリートに押しつけた。虫はいないが、何かを踏みつぶした。そんな感触があった。殺してしまったと思った。そうしなければならない何かを今、自分は殺したのだ。
成樹は笑い、訊ねてみた。
「どこまで行こうか」
将も笑って答えた。
「どこまででも」