寝酒



 なぜだか、とても長いこと夢を見ていた気がする。悪夢というには哀しさと滑稽さを孕んでいたような夢だ。
 目を覚ますと、体は半ば、ソファからずり落ちかけていた。テレビはとっくに黒一色になっていて、成樹には自分が寝入るまでにどんな番組を見ていたのかも思い出せない。ぶるりと体を震わせ、自分の足がぶつかったせいでずれたらしいテーブルの上を眺める。
 ウィスキーの瓶が一本、栓を開いたまま置いてあり、ミネラルウォーターの瓶もある。その横には水が溜まったグラスが一つ。水はほんの少し、琥珀色に揺らいでいた。夢に囚われていた頭に、ふっと様々な事が思い出されてくる。
 ああ、と安堵のため息を漏らし、成樹は体を引き上げ、ソファに座り直した。テレビのリモコンを取り上げて、電源を消した。ぷつりと耳を刺すような音を立てて、テレビが黙りこくる。成樹は軽く首を振り、グラスと瓶を持つとキッチンへ持っていった。シンクに置き、瓶の方は栓をして戸棚に仕舞う。
 シンクの横にあるプラスチックの水切りかごの中にもグラスが二つ、伏せてある。律儀に洗ったんかいな。思う側から落ち着かなくなる。台によりかかり、頭を掻く。
 しんとした部屋だ。成樹が起きている方が不思議だとばかりに、どこも静まりかえっている。成樹はぐずぐずと部屋の中をうろつき回り、たいして散らかっていない部屋を片づけた。
 それから、ためらいというよりも恐れるように寝室へ続くドアを開けた。
 居間からの明かりに照らし出されて、ベッドが浮かび上がる。確かに膨らんでいるのに、目の錯覚か幻なのではないかとびくつく自分が情けない。長い吐息を吐けば、自分でも驚くくらい酒臭いことに気づいた。
 厭がられるな、これは。微笑し、成樹は布団をそっとめくった。中で体を温められていたためか、将の体臭が鼻をくすぐった。その後を追いかけるようにして、淡くはなっても消えはしない独特の臭いも漂った。無精していたが、今度こそシーツを洗わなければいけないだろう。二人分の汗と体液は、独特の饐えたような酸っぱい臭いに変わっていた。
 将はベッドの端に寄り、成樹が潜り込める分だけの場所を空けていた。居間へ引き返し、明かりを消してから成樹は将の隣に横になった。将は成樹には背を向ける形で、やや背を丸めて、すうすうと安らかな寝息を立てている。
 僕、先に寝ますよ、シゲさん。風呂上がりの言葉通りだ。
 成樹は、そのとき、うんとうなずいて、テレビを点けた。寝室へ行きかけた将は目敏く、成樹がこっそり持ってきた酒瓶とグラスを見つけた。眉をひそめた将に成樹は思わず、ちょっとだけ、と片手で拝むようにして言っていた。謝る必要も頼む必要もなかったが、なぜだかごく自然に言葉が口をついた。
 将もつられたように、いつも言い慣れている風に、成樹を見つめて言った。
 あんまり飲み過ぎないで下さいね。
 はーい、分かってます。おどけて言った後、成樹は付け加えた。
 まるで、夫婦みたいやな。
 ベッドで成樹が益体もない睦言を呟いたときより、将は赤くなった。もっとからかったほうが互いのためにいいのではと考えたが、その気配を察したのか将はさっさと寝室へ行ってしまった。追いかけず、成樹は瓶と一緒に持ってきたミネラルウォーターで軽く、口をすすいだ。寝酒を少しやってから、ベッドに行くつもりだったが、結局、深酒しすぎてソファで寝てしまった。
 闇に目が慣れてくると、将の肩が呼吸に合わせて小さく上下しているのが見える。仰向けの姿勢から、ごろりと横向きになり、成樹は将に手を伸ばした。乱れている首筋の髪をかき分け、うなじを露わにする。成樹の指が冷たかったのか、将はかすかに身じろぎして、肩を縮めたが起きなかった。
 手を引くと、成樹は布団を持ち上げ、将へぴたりと寄り添った。足を絡め、体に手を回す。将がびくりと震えた。起きたかと思ったが寝息は続いている。うなじに唇を当てた後も成樹は将を抱いていた。
 将を抱くのを止めても、友人同士としては続けられそうな気がたまにする。同時に将を抱けなくなれば、ふたたび、始まったときのような強引な手段に及びそうな恐れもある。
 一体自分はどうしたいと思っているのだろうか。それが分からない。満たされないときの方が自分の心がよく見えていたようだ。
 贅沢な悩みを吸い込むように、将のうなじがほの白く光っている。日に焼けない場所なのだろうか。二度、三度と口づけていると、静寂を断ち切るのを恐れるように将がかすかな声で訊ねてきた。
「まだ飲んでたんですか」
「起こした?」
 将が膝を曲げる。衣擦れの音が成樹の耳を撫でた。将は胎児のように身を丸めていた。絡めていた足が離れる。
「お酒の臭いがします」
「ウィスキー、飲んでた」
「あれ、ウィスキーだったんですね」
 将が手を動かした。どう動かしたのか、細かいことは成樹には分からない。声と背中、わずかな輪郭、そこから将の心を測るしかない。
「タツボンから貰ったやつなんや」
「そうなんですか」
「違うかもしれん」
「シゲさん、お酒好きですね」
「酔っぱらったら気持ちええやん」
 成樹はふと目を閉じた。寝息のように静かな呼吸をした。酔いのわずかな残りを集め、このまま眠ってしまおうか。
「シゲさん」
 将が静かすぎる声で呼んだ。
「……僕はどうしたら」
 言葉が途中から消えていく。ふっと将の吐息が響く。笑ったのだと分かった。成樹もそんな風に笑ったことがある。泣くより笑う方を選んだときの気配は、すぐに分かる。
「僕も、もう寝ます」
 将は布団を引っ張り、体にかけなおした。
「おやすみなさい」
 返事を返さず、眠りに落ちることもなく、成樹はつらつら考えた。
 今、本当に酔っているのか。いや、とうに酔いは覚めた。素面で言えるなら、これから何とかなるだろうか。
 はっきりしているのは一瞬ごとに、将が遠くなっていくことだけだ。
 ぽつんと雪の中につけた足跡が、浮かび上がった。あれは自分の足跡だ。取り残され、追いかけるすべも心も持たない頃の自分の足跡だ。
 ずっと昔に取りこぼした時間があった。そういう種類の時間は、ある日、するりと戻ってくる。気がつかないなら、そのまま消え去るし、気づいたとしてもわざとやり過ごす事が出来る。それは二度と戻らないかもしれない。また訪れるかもしれない。だが、賭ける気にはなれなかった。
 別の賭けをしてみよう。負けても、以前、覚悟していた断絶と憎しみを味わうだけなのだから。
 成樹は息を吐き、枕に肘をついた。
「カザ、一緒に暮らそか」
 寝息が止まった。将が寝返りを打つ。こちらを向いた将の暗がりを見透かすような、その眼差しを、一生忘れないだろうと成樹は思った。

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