別れた日
十二月に入る前に女と別れた。そのときの方が将と会った日よりも寒かった。
女に理由を問われ、正直に話した。
抱いてきた長年の想いにけりをつけたい――憎まれる覚悟で挑む事までは言わなかった。
「馬鹿じゃない」
女は哀れむような冷えた目で成樹をちらりと見ると、ため息をついた。
「携帯のメモリ消しとくから、私の分もそうしてよ」
それが彼女の終わりのやり方らしかった。
「分かった。すまんかったな」
「謝るくらいなら、こういう話しないで」
成樹は視線を下げて、笑った。惨めな気分だったが、それが奇妙なほど居心地良かった。
女は椅子に置いていたバッグから銀色の携帯電話を取り出すと、成樹に関係した番号やメールアドレスをすべて消した。成樹も同じ事をした。
表通りに面したカフェバー、その奥まった座席で、一組の男女は向かい合って、自分の携帯電話から相手の記憶をすべて削除した。
「私の家の荷物、どうする?」
「うーん、取りに行くのも変な話やなあ」
「じゃあ送る。私の荷物も送って。気に入ってるのもあるから」
「分かった」
「間違えて、自分の物、送ったりしないでよ。捨てるからね」
成樹は苦笑した。この気性の強さや物言いが好きだった。そういえば、そんな女とばかり付き合ってきている。友人としてならともかく、恋人関係となると、妙に歯切れが悪い部分が出てくる自分を叱咤しつつも甘やかし上手な女性が成樹は好みだった。なんだ、結局、母親か。思って呆れたが、しょうがない。男は永遠に母を心のどこかで想う。開き直れば楽になった。
伝票を取り上げた成樹に女は物言いたげな眼差しを向けた。痛みを堪えているような苦しさが一瞬、透けて見えた。
「本当に、ごめんな」
そう言った成樹から女は視線を外した。訳もない惨めさを奥歯で噛んで通りに出ると、成樹は振り返らず、歩いていった。
十二月二十四日
この一方的な恋には残酷な結末をつけて終わらせようと考えた。
二十四日は家で飲もうと誘ったのが十二月の初めだった。将は断る事も不思議がる事もなく、はい、とうなずいたが、当日になって、すまなそうに、シゲさん、他に約束があるなら、そっちに行って構いませんと言ってきた。気づくのが遅いと成樹は電話口で笑い飛ばした。
「やっぱり約束あるんでしょう?」
将の言葉に申し訳なさが滲む。成樹はきっぱり返事した。
「ない」
「シゲさん、僕に気を遣わなくて……せっかくのクリスマスなんだから彼女に会わないと」
ため息混じりに、もう一度否定する。
「本当におらんて。――ポチ、その言葉、今の俺には結構残酷やから、止めてくれへん?」
「え……。あ、すみません!」
意味を察してか、謝る将の表情が目に浮かぶ。クリスマスイブに友人を誘った真意を将なりに汲んだらしい。成樹が言葉裏に隠した自嘲には当たり前だが、気づかない。
「じゃあ約束通り、今日は四時半に」
「おう。そしたら後でな」
電話を切った後、これが最後の機会だったのだなと思った。止めるのも引き返すのも、この先に進めば無理だった。成樹は疼く胸を誤魔化すように肩をすくめ、上着を着込むと家を出た。将と会う前に買い物をする予定だった。
出かけた先はどこもクリスマス色で染まっていた。明日の夜にはこの飾り付けも外され、今度は年末年始に向けての装飾に変わる。時間が来るまで、にぎやかな街をぶらついた。
約束した時間は待ち合わせするには、やや早い時間帯だったのでカップルの姿も、それほど多くはない。あと一時間もすれば相手を待つ男女などで駅構内も一杯になるだろう。
将は成樹よりも先に待ち合わせ場所に来ていた。成樹は目印である駅構内の大きなクリスマスツリーの前で、将が自分を待っている姿を遠くからしばらく眺めた。
一人でいるときの将を眺めるのが成樹は好きだった。彼の中にある脆さが現れるのは、こういうときだ。その脆さが成樹を見つけた瞬間消え、将は心底、嬉しそうな視線を向けてくる。昔は、そのまま駆け寄ってきた。仕草がまるで仔犬のようで、成樹は近寄ってきた将をからかわずにはいられなかった。
さすがに二十歳を超してしまった今は、そんなことはしない。ただ笑みを見せるだけだが、それでも印象は変わらない。相変わらず、人懐こさが漂っている。
「髪の毛、伸びてませんか」
将の側に近づいた成樹に、かけられた第一声がこれだった。電話ではともかく、直接顔を合わせるのは久しぶりだった。
「そんなことないで。これでも毎月、美容院行っとるんやで」
おどけたように言うと、将は笑った。成樹は数秒、足を止めただけで、行こうかと言ってすぐに歩き出した。数人ずつの友人同士らしい少年や少女たちが笑い声を上げて、側を通り過ぎる。遅れた将を待つために振り返った成樹は、将が人を上手くよけて歩くのに感心した目を向けた。昔はよく、すれ違う相手にぶつかっていたのを思い出した。そのたびに将は律儀に謝っていた。
彼との付き合いは出会った頃から数えれば十年目になる。それでもクリスマスの一日を一緒に過ごすのは初めてだった。
焦茶色のコートを着た将は、成樹の横に追いつくと、視線を上げて訊ねた。結局、将が成樹の身長を追い越す事はなかった。
「僕の家でいいんですか」
「そや」
「それ、半分、持ちます」
成樹が手にした二つの紙袋に将は手を伸ばす。
「ああ、頼むわ。実は重たくて、手、痺れそうなんや」
中身は成樹が用意した酒類だった。ワインと日本酒がそれぞれ二種類ずつ。もらい物のブランデーも持ってきた。店員が気を利かせて、ずいぶんと可愛くラッピングしてくれたシャンパンもあった。つまみも適当に買ってある。料理は将が用意すると言ったので、店で買った乾き物やスナック類がほとんどだった。
「いっぱいありますね。飲めるかな」
袋の片方を除いた将が言った。
「ポチ、まだ酒に慣れへんの?」
「少しは飲めますよ。藤代君や翼さんに鍛えられました」
「なんや、あいつらと飲みに行くんかいな」
一瞬だけ感じる不快感に、成樹は内心、苦笑する。この嫉妬とも、もうすぐ別れられるだろう。
「たまに誘われるんです」
「なのに、全然つようならんなあ」
「シゲさんや他のみんなが強すぎるだけです」
からかいの調子が混じる成樹の言葉に将は言い返した。
「ま、飲みやすいの選んできたから、カザでも大丈夫や」
「ありがとうございます」
優しさを孕んだ苦笑を将は浮かべた。
将に時間分の変化を認めるのは簡単だ。すっきりした鼻梁に、子どもっぽい線が隠しきれなかった頬や顎の辺りも、すんなりとした男らしい線に変わっている。童顔なのは相変わらずだし、成樹よりも小柄なのも昔のままだったが、ずいぶんと男らしくなった。笑顔も深くなった。いや、元から将の笑顔は明るさと深さを持ち合わせている。
中学生頃の幼い容姿と保護欲をそそる華奢な体、擦れていない無邪気さを愛おしんでいたのなら、今の将は成樹にとって想いの対象ではなくなってしまう。それを内心では期待しているのに、結局、思い切れないでいるのだ。会うたびに将の本質には悪い意味の変化がない。成樹が惹かれた部分だけが、ますます眩しく、磨かれていく。
このまま囚われたままでいるのは避けたかった。忘れられないなら、その感じ方を変えようと考えた。忘れられないように、忘れないように、記憶を刻み込んで離れよう。
「ごめんな、ポチ」
電車を待つ間に成樹は呟いた。誰のためでもなく、強いて言うなら、自分自身の罪悪感を消すための一言だった。
部屋まで
「ポチこそ、予定が入っとたんやないの?」
車両出入り口近辺は混み合うので、二人は奥へ詰めている。並んで吊革に掴まっていた成樹は電車が動き出すと口を開いた。将は首を振る。少し、迷うような困り顔だったので、成樹はからかいめいた口調で探りを入れてみる。
「なんや、藤代とか、椎名――それとも、もっとええ約束してへんの? 男やなくて、どっかのかわええ子と」
将は言いかけ、口ごもった。瞳に動揺が浮かぶ。いるのかと成樹の心のどこかが冷えた。
「……いませんよ、そんな相手」
迷いの後に将は否定した。下手な誤魔化し方に成樹は苦笑する。
暖房と人いきれで電車の窓ガラスが曇り、水滴が流れている。すべての窓ガラスに涙めいた線が引かれていた。
「いつまでも友達優先しとったら、もてへんで」
将に恋人がいるとの話は誰からも聞いていない。老若男女構わずに、好かれることが多いが浮いた噂一つ、伝わってこなかった。紹介してやろうかと友人連中がもちかけ、実際、女性と引き合わせても、いつの間にか終わるか、始まりもしないかのどちらからしかった。
成樹の言葉に将は曖昧に笑い、別にいいんですと柔らかく答えた。本当に誰かいるなと成樹は直感した。その途端、せり上がってきた嫉妬と悔しさに、成樹自身が一番驚いた。身の内側を皮膚一枚残して、焼き尽くされるような気がする。
「――どうかしたんですか」
「いや、なんでもあらへん。……ポチと酒飲めるかと思うと、嬉しゅうて」
将はまた苦笑して、成樹の腕を引いた。
「降りましょう」
電車から吐き出されるようにして、ホームへ降り立ち、人の流れに合わせて歩く。乗換駅でもあるらしく、ホームも構内も混雑していた。頭一つ飛び出るくらいに背の高さがある成樹は将をそうとは気付かれないように、庇って歩いた。昔からの癖だ。広いコンコースに出ると、将が何か言った。
「え?」
ざわめきで聞き取れなかったため聞き返すと、将は伸び上がるようにして声を大きくした。
「チキン、買って行きます」
「ああ、はいはい」
将の後についていく。駅構内に入っている店で将はチキンの詰め合わせを買った。混んでいたので時間がかかる。成樹は将と並んで、腹減ったなあと呟いた。
「もうすぐです」
すまなげに将は言って、クリスマス用のパッケージに詰められたチキンを受け取った。
「いいにおいですね」
将が成樹を見上げて笑った。成樹も笑った。
※
入った部屋に持ち主以外の気配がないか、探してしまう。もっとも将の部屋は友人連中がよく訪れては、飲み食いしたり、泊まっていったりしているから、探せば主以外の痕跡はたやすく見つかった。
「人、良すぎやで」
何人かは自分の食器まで置いていると知って、成樹は苦笑した。それどころか着替えまで置いた者もいるらしい。何だかんだ言いつつ、みなはまだ将を構いたがるのだろう。
彼らに殺されるかもしれない。成樹はふっとそんな風に思った。
暖房はつけて出かけたらしく、部屋は暖かい。将が皿を出し、グラスを出し、用意していた料理を出した。二品ほどは自分で作ったもの、残りは適当に買ってきたもののようだ。成樹は自分の荷物をあさり、冷たい瓶を取り出した。ビールと日本酒は冷蔵庫だ。
「後で、燗をつけような」
「僕、冷やの方が好きです」
うわあ、と成樹は驚いた声を上げてみた。刺身を出そうと、冷蔵庫の前にしゃがんでいた将が成樹を見上げた。目がおかしげに細められている。
「そんなに驚かなくても」
「ポチのイメージとちがうもん」
「そうかな」
将は冷蔵庫を閉めた。足下に思わぬ冷気を感じ、成樹は体を震わせた。
「僕が開けてもいいですか?」
将はテーブルに置かれたシャンパンに手を伸ばした。
「駄目」
横からシャンパンを奪い取り、成樹は金色の包装を破った。
ひょうげた音を立てて、シャンパンの栓が開いた。口から白い靄が浮かぶ。グラスに傾けると、薄い金色の液体が小さな泡を立てながら、落ちていく。
二人分を注ぎ終え、成樹はポケットに手を伸ばす。
メリークリスマス。言って、成樹はポケットに忍ばせていたクラッカーのヒモを引っ張った。ふたたび、ぽんと音が弾けた。
金と銀、赤と青、そして黄の細長い紙テープが、ひらひら揺れながら飛び出していく。
メリークリスマス。将が紙テープの流れを目で追いながら言った。
本当なら、明日ですよね。クリスマスは。
ポチ、そんなつまらんこと気にしたらいかんて。
乾杯の後、そんな会話を交わして料理に手を伸ばした。
ひとしきり飲み食いして、チキンの骨がパックの中に散らばり、酒肴もあらかた片づけてしまうと将が思い出したように訊ねた。
「功刀さんからもらった焼酎ありますよ。シゲさん、飲みますか?」
シャンパンは飲み終えた。ビールも半分以上、空けた。日本酒は将が呑んでいる。ブランデーは飲む気がしない。申し出を受けた。
「飲む」
将が持ってきた焼酎は開けられた形跡はあったが、中身はたっぷり残っている。
「飲んでないんか」
「なかなか飲む暇がないんです」
将はお湯割り、成樹は氷を入れて、焼酎を飲んだ。成樹の飲むペースは将よりも速い。だが将の方が頬は赤くなってきた。飲んだら顔に出る。感情も顔に出る。何でも、表に出して、素直な反応を見せてしまうように見える。
成樹は将を見ていた。見ながら酔った振りをして、将にどんどん酒を勧めた。将は酔ったが成樹も酔い出していた。こんな気持ちなら出来そうだと思った。途端に、今まで飲んでいた酒精が身の内から消えた。腹の底が冷えて、重たくなった。
この期に及んで、まだ迷っている。怖がってもいる。
壊せ、と呟いた。壊さなくてはならない。そう決めたのだ。理由はどうだっていい。壊さなければいけなかった。
何を――?
成樹が思った瞬間、将がなぜか、くすりと笑った。成樹も口元を笑ませ、将に手を伸ばしていった。
将が床に頭を打ち付ける音は、ごっつん、というどこかかわいげのある音だった。頭の重たい幼児が、頭を打って浮かべるような一瞬の驚きの瞳で、将は成樹を見つめ、何を思ったのか目を閉じた。
「眠たい?」
成樹は訊ねた。
「眠れるなら、そうしたいです」
呟いた将の言葉が終わらない内に、成樹は唇を重ねていた。酔ってとろんとした唇だった。
赤
犯される将は、嘘、嘘、と呟くばかりだ。それ以外なら、どうして、とも口にして、荒い息を押し出している。時折、痛いとも言って、涙を流す。
成樹が無理矢理、突き入れたから、どこか切れたらしく、血の臭いとぬめりが繋がっている部分にあった。後は体液の臭いだ。快感を知り染めたばかりの少年でもあるまいし、この行為に、とてつもない興奮を覚えている訳でもない。言うなれば、自分自身への義務といった奇妙な行為だった。
だが、成樹の性器は静まらず、猛るばかりで、将をえぐって、突き刺し続けている。何度、中に放ったのかもわからない。では結合部分から聞こえてくる音は自分の精液が中で押し潰される音でもあるのだろう。腰を進め、将の体を揺さぶりながら、成樹はそんなことをぼんやり思った。
将は目を閉じて、何の抵抗も示さない。酔いと痛みで、どうしたらいいのか分からないのだろう。ごめんな、と成樹は何度もうわごとのように言った。
「カザ、ごめん、ごめんな」
将は目を開けないで、痛い、と言った。嘘だ、とも言った。
止めようか、と腰を引いて思い、それを振り払って、将を抉る。肉は逆らわず、将が脱力しているからか、やわやわと絞められる程度で、きつくない。最初に将の中に押し入ったときの方が成樹の痛みは強かった。ねじ上げられるようにして肉に拒まれた。
そのときでも将はぼんやりした顔で、成樹の行動の意味に気づいていなかった。動かし始めて、痛い、と言って、やや経ってから、嘘でしょう、と成樹を見上げた。酔いのせいで、とろりとした目が、まるで誘っているようだと思い、成樹は腰の動きを早くした。
将は呻いて、嘘だ、嘘だ、と繰り返した。将の声以外なら、成樹の荒い吐息、衣擦れの音、肉と肉がぶつかり合う音、そんな音が部屋に響いていた。なんてことはない情事のときにはありがちな音だが、片方が望んでいない行為の音でもある。しかし残った片方はこのために訪れた。そういう違いはあった。
成樹は将の開かれた両足の間に体を入れて、一部で繋がり、肌を近づけ、両手を床に付いていた。将の顔は間近にあって、やや右へ向けられている。逸らされた視線が時々、上に上げられ、成樹を見つめてくる。嘘、と呟かれる。
将は薄く唇を開いている。成樹が突き上げると呼吸が短く、荒くなり、動きを緩やかにすると、短いため息のような息を吐いた。どうして、と声がした。
見下ろしながら思い出したのは、どうという事はない光景だった。覚えていたことが不思議なくらいのささやかな時間の記憶だ。
がこん、と音が鳴った。昔の自分が手を伸ばし、取り出し口から缶を取る。そうしながら、ズボンのポケットにもう一度、手を入れる。ぬるんだ硬貨を取り出し将を見る。
「なに飲む?」
「えっ、いいですよ」
「ええよ」
少しだけ押し問答をして、将は炭酸飲料を選んだ。銘柄は覚えていない。細かい部分を覚えているかと思えば、大ざっぱにしか覚えていないのだった。
缶は赤かったような、青みがかっていたような、それとも緑だったのかもしれない。色々な色が混じり合い、大きく飲料の名が記されていたようにと思う。思い出すなら、もっと印象深かった時間を思い出し、走馬燈のようにしていければ、今の時間に相応しいだろうに。
将は缶を取っては、ありがとうございます、と言い、缶を開いては、ありがとうございます、と言い、飲み終わって、また礼を言った。一本の缶ジュースを奢っただけで、何度も心から礼を言う将が、おかしかった。
「ポチ、ほんまに――」
自分はなんと言ったのだろう。タツボン、と相手が厭がるのを承知しながらも、舌に馴染んでいた水野のあだ名を口にして、彼と将を比べたことを言ったと思う。彼だったら、遠慮無く、またなんとなく不機嫌そうな顔で、自販機のボタンを押しているはずだったから。
将は首をもたげ、目でほほえんでいた。そうすると、このあどけなさが残る少年が自分たちよりも、ずっと大人びて見えたのだと思い出した。大人、というのは正しくない。将は深かった。覗き込んでも、底が見えない心を持っていた。素直と呼ばれたのは、その表面が澄んでいたからだ。
「――僕だって図々しいですよ」
返された将の言葉に対する成樹の反応は、からかうものだったはずだ。あのころのやり取りは、終始、そんな風だった。将をからかい、水野や小島にたしなめられ、怒られ、またからかって笑った。あの場所にいる限り、変わらなかった。
どうして、こんなことを思い出したのだろう。罪悪感が成したわざか。
将は、もう意味を成す言葉を口にせず、成樹の突き上げにまかせ、ただ息を漏らすだけだ。空気が声帯を震わすのか、奇妙な呻きがたまに口をついて出る。
悪いとも思わずに将を犯し続ける。波が大きくなれば射精し、萎えたそれを抜くか、突き入れたまま、中で動かしている。しばらくしたら回復するので、また犯す。行為に没頭したいのに頭の一部が醒めている。熱く冷たい芯が残っている。
この後のことを考えている自分がいる。台所の包丁を思い出す。テーブルの角を思い出す。非常階段の高さを思い出す。交通量の激しい道路、駅のホーム。
もっと別の破滅の方法もあるだろう。色とりどりに浮かんでくる。肉体的な死ではなく、生きる限り続く死もある。考えるのは成樹だが行うのは将のはずだ。
「どれがええかな」
汗が将の顔に落ちる。将は瞼を動かさず、唇を開いて、うそ、と息を吐いた。
「カザ、ごめんな」
「うそ」
「うん」
「いたい、痛い、いたい」
将は呟いて、ぼろぼろ涙をこぼす。
「嘘、うそ、嘘だ、嘘だ」
「カザ」
「いたい、痛いよ」
自分を最低だと思う。卑しいとも思う。思う側から、そう考えることによって、幾らかでも救われようとしていることにも気づく。何をしても自分を慰めようとしている。
成樹は将を突き上げ続けた。
「うあっ、いたい、痛いよ」
将は子どもみたいに泣きじゃくった。
「いたいいたい。嘘、うそ、うそ」
首が力無く振られた。床の上で髪が擦れた。
「だって、うそ。うそ、痛いよ、いたい……」
将の唇から唾液が垂れて、成樹がこぼした汗と混じり合う。床はしたたり落ちた汗や唾液といった体液類で汚れている。
思い出したように将が泣きじゃくり始めた。鼻水が垂れて、ひっくひっくとしゃっくり上げている。やはり、嘘、と言う。
ぜんぶ嘘だ、と自分が囁いたら、将はどうなるだろう。悪夢だと思って安堵するだろうか。恐ろしいと今度こそ、あらがうだろうか。
「嘘やない」
「ちがう、ちがう。痛いよ……いたい」
「ほんまや」
犯している。将を辱めているのだ。無理矢理に抱いている。成樹はこれを否定したくなかった。
「カザ」
真っ赤な顔で、ひくひく震え、涙を、汗を、よだれを、鼻水を、流している将が、愛しくて、愛しくて仕方なかった。こんな想い方があれば、何より純粋だと成樹は自分で思い、だから邪恋と呼ばれるのだと納得した。
「いたい……いたい、嘘、うそ」
何をしても止めない。名前を呼ばれても抵抗されても続ける。そう決めていた。将は抵抗もせず、名前も呼ばず、抵抗もしなかった。うそ、と、痛い、を繰り返して、泣くばかりだ。罪悪感を覚えなければならないのに、己の罪深さを思い知らなければならないのに、顔をぐしゃぐしゃにして泣く将が愛おしい。べたついた頬に自分の顔を寄せた。
「カザ、ごめん」
言いながら、どろつく将の頬を舐めた。食い尽くしたいと強く、強く、思った。
「ごめんな」
将が首を振る。顔を背ける。眉間に皺を刻み、喉の奥で殺したような泣き声を上げた。
抗いとも言えないこの小さな拒絶を見た瞬間、すべて解き放ったと思っていた感情が噴き上がった。
将は誰のものでもない。だが、今だけは自分のものだ。将が拒むことも許さない。迸る感情に任せて、口づけた。好きだと囁いた。腕に抱き、頬ずりした。まるで、思いの吐精だ。
将の腕が伸びて、背中にまわされた。爪を突き立てられて、成樹は痛みに顔をしかめた。将が抱きついてくる。力無いままだったそこが熱を持ち始めた。成樹と将の体の間に挟まれて、いっそう熱くなった。
「カザ」
将はどこか遠くを見ながら、シゲさん、と返した。揺さぶると、初めて色の混じった声を上げた。成樹は将の見せた反応に戸惑った。
「シゲさん」
囁いて、将は自分からゆっくり腰を動かした。きつくなった締めつけに、成樹は自分も腰を進めた。あ、あ、と将は呻いて、のけぞって喉を見せた。
汗がびっしり浮かぶ喉に成樹は唇を当て、舌で舐めた。塩辛い味が舌に広がり、将の匂いが鼻孔いっぱいに満ちた。噛むと将がまた声を上げた。
「シゲさん」
答えずに、一度、腰を引いた。ずるりと抜けて、精液と血が混じり合った液体がしたたり落ちていった。将が目を見開く。瞳が恐怖に満ちていた。
成樹は将の足首をつかみ、上に上げるようにすると露わになった場所に、もう一度、突き立てた。
将が細い声を上げながら達して、弾けさせた。成樹は数度、将を揺さぶって、自分も達した。その瞬間、頭の中が、真っ赤に塗りつぶされ、ぷつんとどこかで音が聞こえた。
荒い息だけがお互いの口から漏れている。髪の毛が頭や首にべったり張りついている。成樹には今なら様々なことが見渡せる気がしたが、何が見えているかまでは分からなかった。将の腕が成樹の背中から落ちた。足だけは成樹に掴まれたままだ。成樹は引き抜いて、将の足を床に置いた。
将は薄目を開き、成樹を見上げたが、すぐに意識を手放した。成樹の方も息が落ち着くまで気を失っていたように呆けていた。
静かになった部屋で成樹はティッシュで自分の陰部を拭い、ズボンと下着を上げて、衣服を整えた。将の服は全部脱がせ、洗濯機に入れた。汗が冷えない内に浴室にあったバスタオルで体を拭った。
成樹が戻ってくると、将は一度、目を開いた。唇がかすかに動いたが聞き取れないまま、また目を閉じた。今度は眠ってしまった。成樹は将の寝息を聞きながら、彼の内腿の間の汚れを濡らしたタオルで拭った。溢れてくる血の混じった精液もぬぐった。
体をソファに上げて横たえさせた。整頓された部屋から薬箱を見つけ、切れて傷ついた部分に薬を塗り込めた。ベッドから毛布を引っ張ってきて、将に巻き付ける。
それだけやってしまうと、成樹はベランダへ行って、長い時間、ぼつぼつと点るどこかのマンションの灯りや遠くのネオン、街灯の光、黒くごつごつした建物の輪郭、といった夜景を見ていた。
煙草があるなら吸ったかもしれない。体が震え出すまで、冷たい手すりにもたれて、やがて部屋に戻った。それから待っていた。考えず、思わず、動かず、まばたきだけして、将の目が覚めるのを待っていた。
朝
シゲさん、と名前を呼ばれた。うん、と返事して、成樹は腫れぼったい目を、将に向けた。
「帰ったと思いました」
「うん」
将は身動きして、ソファの上で体を丸めた。芋虫みたいだなと成樹は思い、目を伏せた。
「何時ですか」
「七時半」
将はため息をついて、また目を閉じた。
「もうちょっと、寝かせてください」
将は言うなり、すうすう寝息を立て始めた。所在ない手を将に伸ばしかけて、成樹は腕を引いた。指先や関節で床の上を叩き、ソファにもたれかかった。
「なんでやねん……」
呟いて、成樹も目を閉じた。意識が眠りに引き込まれていった。一人で歩いている夢を見て、目が覚める。うたたねのつもりが思いがけず長い眠りになっていた。
将が使っていた毛布が成樹の体にかけられていた。部屋には暖房が入っていたし、飲み散らかしたテーブルの上も片づけられている。汚した床も拭かれていた。
時刻は十時。カーテンは開かれていたが曇り空のため、部屋は薄暗かった。
成樹は毛布に顔を埋めた。
「ぬくとい」
息を吐いたら、ひどく生臭かった。
うつらうつらしていると湯の臭いを漂わせて、将が部屋に入ってきた。
足音が近づいてくる。将は、起きてますか、と成樹に声をかけた。成樹は目を開けて、将を見た。髪が濡れている。湯上がりにしては頬は白いが、とくに変わったところのない将の顔だった。
普通に立っているので、あんなひどいことされても人間、立てるんやなあと成樹は、心のどこかで感心した。
「風呂、良かったらどうぞ」
「ええわ、髭だけ剃らせて」
将はうなずいて、ソファにそろそろ座った。眉間に皺寄せて、苦しそうな顔だ。
「痛む?」
「すごく」
トイレも出来ないくらいです、将は言って、目を逸らし、笑った。
成樹が口を開こうとしたとき、将はその言葉を掬い取るようにして言った。
「――風呂、入りますか?」
「……入る」
毛布を体から落として成樹は立ち上がった。
浴室は蒸気がこもっていた。湿気に包まれ、体中が目を覚ましたように汗を出し始めた。浴槽から湯を汲んで体にかけ、石けんと薄緑色のナイロンタオルを手に取った。どちらも濡れている。
将は成樹が眠っている間に風呂を溜め、一人で入った。湯が溜まるのを待つ間、何を考え、何を思い、どうしていたのだろう。それだけ思うとたまらなくなった。身を切られる方がましな痛みが襲って、成樹はわななくように息を吐いた。
腹部に精液がついているのに気づいた。ぬぐったはずの陰部にも体毛にからんで残っている。泡立てて洗った。将はもっと洗ったはずだ。
泡が背中の傷に染みてひりついた。泡を落とすといっそう痛んだ。風呂から上がって鏡で背中を見たら、筋ではなく細い半月型の赤黒い痕が何個もあった。
将が指を背に突き通すほどの激しさで、しがみついてきたのを思い出した。心を搦め取っていくような力強さだった。成樹は手が届く傷に触れてみた。指先で押すと、じりじりした焦燥感にも似た痛みが走った。
食卓
将はソファではなく、テーブルの椅子に座っていた。
皿とコップ、箸がテーブルの上に雑然と置かれている。コンロにはフライパンが乗せられ、薄切りのハムのパックがすぐ側にある。卵はパックの上で危なっかしそうに揺れていた。バターは蓋を開けられたままで放られ、その隣には食パンの入った袋の口が開いていた。
成樹はまず、中途半端に開いている冷蔵庫を閉めた。コンロに火を付け、フライパンを熱し、油が見あたらなかったので、バターを落とし、ハムを入れた。ハムが焼けると卵を落とした。出来上がる頃に塩と胡椒を振る。トースターでパンを焼く間、火の通ったハムと卵はフライパンに入れたままで、将の前へ持っていき、皿に盛った。
冷蔵庫を開いて、トマトと牛乳とジャムを見つけたのでテーブルに持っていった。ナイフでトマトを切って、ハムエッグの横に置いた。
食卓には匂いも音も確かに存在しているのに、白黒がかった映像を誰かの目で見ているような距離感があった。
将は成樹が持ってきたトーストを取り上げ、端を囓った。ぱらぱらとパンくずが落ちていく。成樹はバターナイフでバターを取り、トーストに広げた。やはりパンくずが落ちた。焼きすぎだった。
将はジャムをつけている。掬いすぎたのか、ぼたりとジャムが皿の上へ落ちた。膝の上へも落ちたのに将は気が付いていない。
「カザ」
どうという響きもないはずの自分の声だったが成樹は恐れを感じていた。
将は呼び戻されたかのような眼差しで成樹を見た。
「――酔ってたんでしょう?」
成樹は持ちうる限りの感情の中から、それに対する答えを探した。見つからなかった。
「シゲさん、酔っぱらってたんでしょう?」
「ああ」
言葉がない以上、うなずくしかない。
「僕も酔ってました」
それで済ませようということだろうか。将は目を合わさないで話し、成樹もその目を見たいと思わない。
「すまん」
将が顔を上げた。はっきりとした非難の色が浮かぶ。
「ずるい。シゲさんが言うなんて、ずるい」
「カザとは、もう酒、飲まへんから……」
「ずるいです!」
将が拳でテーブルを打った。皿が跳ね、コップが揺れる。
怒りのような音が静まってから、成樹は最後の最後まで卑怯者でいようと決めた。
「どないしたら、ええねん。教えてや」
「……僕に聞くんですか」
将は片手で顔半分を隠した。成樹から見える残り半分の顔が震えて笑う。
「シゲさんが僕に聞くんですか」
「そうや」
将は、はは、と笑って、顔を背けた。
「――カザが、俺をどうするか決めてくれ」
言葉を聞き終えた瞬間、将は立ち上がると拳を作り、テーブル越しに成樹の頬を殴った。この殴り方は将の方が痛い。コップが倒れて、白い飛沫を飛ばしながらテーブルの上を転がっていく。成樹はテーブルから落ちる前にコップを立てた。将はそのコップを払いのけ、テーブルから落とした。割れはしなかったが、罅は間違いなく入った。
「卑怯です」
「そやな」
将は成樹を見つめた。肩で息をしている。苦しそうだった。
視線を合わせたくなく、成樹はうつむいた。
「全部、嘘にするんですか」
「カザのしたいようにしてくれ」
「僕が……!」
将の声が一度膨れあがり、しぼんでいった。
「僕が言うことに従うんですか」
「ああ」
「最低だ」
将は顔を伏せた。
「帰ってください」
成樹は立ち上がった。将は背を向けていた。テーブルには透明な雫が落ちている。
コップを持ち上げる。罅が入っている。成樹の手の震えで完全に割れた。かけらになったガラスをテーブルに置く。
かちゃりという音に将の肩が揺れる。うつむいた首筋に赤い痕がある。目を逸らした。
靴を履いて、冷たいドアノブを回す。成樹は扉を閉め、歩いていった。廊下が延々と続いて、自分を永遠に迷わせてくれればいいと思った。
エレベータの扉が見えた。ボタンに手を伸ばす。エレベータが停まっていたのは、すぐ上の階だった。ぐんとモーターの動く音が聞こえた。ベルトがするする動いて、箱が降りてくる。
ドアが開いた。たった今、閉めてきたのと同じ音の後、足音が響いた。
無理して歩けば傷に響くのに。思った成樹の背中に、一晩中感じ続けた熱が寄り添うというには激しすぎる勢いでぶつかってきた。
「シゲさん……シゲさん……」
将が囁きながら嗚咽を混じらせた。
扉が開く。クリーム色の箱の中を見つめ、成樹は目を閉じた。
長い長い数秒後、成樹は振り向き、将を腕に強く抱いた。胸の中で将が泣く。成樹も将の頭を撫で、背中を撫でながら、涙をにじませた。
何が始まるのか何が終わったのか、分からないまま、手を伸ばし合っていた。