ある終わり方から

※212話読了直後に書き出したため、原作と違う展開になっています。



 目が覚めたときには、もう病院にいて、功兄が静かな目で僕を見ていた。
 僕には全部、分かっていた。功兄は僕が目を開いたのを見て、ちょっとかすれ気味の声で、将、と呼んだ。
「うん」
 うなずいて、僕は天井を眺めた。部屋は薄暗く、枕元の小さな明かりだけが部屋を照らしていた。窓の外はきっと真っ暗だ。
 功兄が僕の顔をのぞき込んだ。額に触れられた。功兄の手は、さらりとあたたかい。
「将」
「うん」
 功兄は僕を見ていた。僕は顔を傾けて、都選抜のユニフォームから病院着になっているのを確かめた。それから、ああ、終わったんだなと思った。何が、なんて言えないけれど、色々な事が。



 ――功兄が連絡したので、翌日の午前には母さんが来てくれた。母さんは病室のドアを開けて、手に持っていた荷物を床やテーブルに置いて、僕をじっと見た。功兄と同じような眼だった。泣き出しそうな、包み込むような、静かな静かな眼だった。心配と不安が抜けていくとき、人はこんな目になるんだ。
 母さんは手を伸ばして、僕の頭を確かめるように撫でた。指先が震えていたのは気のせいじゃないと思う。
「起きてて、大丈夫なの」
「うん」
 功兄が母さんに椅子を勧めた。椅子に座るときだけ、母さんは小さなため息をついた。父さんは今日の夕方に着く、と言っていた。
 母さんは僕に果物を買ってきてくれていた。りんごだった。お皿もナイフもなかったから功兄が看護婦さんから紙皿とナイフを借りてきた。来る途中で買ったのと話しながら、母さんはりんごを剥き、僕と功兄は、朝食代わりにそれを食べた。母さんは食べずに、僕と功兄が手でつまんでりんごを口に運ぶのを、皮を集めながら見ていた。
 りんごは瑞々しくて蜜がいっぱいに入って甘く、歯ごたえがあって、おいしかった。悲しくなるくらいに、とてもおいしかった。こんなときに、こんな風にして、食べる食べ物の味や匂いは一生、忘れられないんだと思った。
 入院の準備や手続きは功兄がしてくれていたけれど、幾つか足りないものもあったので、母さんは功兄と一度、家に戻った。僕は功兄が買ってきてくれた雑誌や漫画は、置いたままにして、窓の外を見ていた。テレビも点けてみたけれど、この時間のテレビは、あまり面白くない。
 窓から見えるのは病院の敷地にある緑とその向こうの家やビル。個室だから、一人になると、ちょっとした音が大きく響く。鳥の鳴き声、ざわめきみたいな人の声、車のクラクションや、遠くで聞こえる救急車のサイレン、うつらうつらしながら聞いて、いつの間にか眠っていた。
 どれくらい眠っていたのか、ぼそぼそした低い声に、目が覚めた。功兄の声でも、母さんの声でもない。飛行機の便を早めたという言葉に、僕は目を開いた。
 父さんが来ていた。功兄が持ってきてくれていた小さなデジタル時計を見ると、まだ夕方にもなっていなかった。
 目が覚めた僕に、足下で話していた三人が目を向ける。父さんが一番先に、僕の元へやって来た。
「将」
 父さんの声は固くて、強張っていて、ちょっと震えていた。起きあがろうとした僕を、支えているのか、押さえているのか、少し分かりづらい手つきで、手伝ってくれた。部屋には荷物が増えていて、花瓶には黄色と赤と白の花が生けられていた。
「父さん」
 僕は何か言わなくてはと思い、唇を動かした。声が上手く言葉になってくれなくて、苦しかった。父さんは腰をかがめて、僕の目を見た。母さんや功兄と違って、どこかにある暗い裂け目を覗き込んでしまったような眼差しだった。僕は不意に、僕の本当の両親が亡くなったときも、父さんはこんな顔をしたんだと悟った。
「――驚いたぞ」
「ごめんなさい」
 僕の言葉に、父さんは目を見張り、僕の頭に手を置いた。
「お前が謝る事なんて何もない」
 ちょっとぎこちない手つきで撫でてくれた。母さんとは違い、震えてはいなかったけど、少し冷たかった。
「大変だったな。疲れただろう」
 そう言って父さんの唇は一瞬、震え、すぐに固く結ばれた。への字みたいな形になり、僕は、おやっさんを思い出した。あの河川敷には、今度はいつ行けるのかな。
 そうやって、『いつ』なんて未来のことを思った瞬間、僕の中で何かがぷつんと切れた。あっという間に視界がかすみ、眼から涙が出てくる。堪えようとして、しゃっくり上げると、いいんだ、いいんだと誰かが言った。父さんとも母さんとも、功兄ともつかない声だった。それとも三人が言ったのかもしれない。
 ぼろぼろ涙をこぼして、鼻をすすり上げて、いつまでも泣いた。父さんは何も言わないで、僕の肩に手を置いて、黙っていた。片方の手で、時々背中をさすってくれた。うんと小さい頃、母さんがしてくれたように、でも、母さんよりはぎこちない手つきで。
 僕は父さんにしがみついて、もう、こんなには泣かないだろうというくらいに泣き続けた。父さんの背広は、僕の汗と鼻水と涙で台無しになってしまい、それでも僕を抱いたままでいてくれた。結局、そのまま眠ってしまい、僕は小さな子供みたいだった自分を後から思い出し、涙を堪えられなかったことを後悔した。

 ――ずいぶん後になって、あのとき何を考えていたのかと訊ねられた事があった。あのとき、というのが、どのときなのか、僕には意味が掴めなくて、上手く答えられなかった。時間の流れには幾つか区切りがあったから。
 目が覚めて功兄といたとき、母さんが来てくれたとき、父さんの前で泣いたとき、診察や検査のとき、それから出発までの時間。そんなに長くはない時の中、様々な一瞬があった。僕の考えは右に振れたり左にずれたりと、どんな方角にも揺れた。希望も絶望も、みんなそこにあった。
 だけど、あえて言うのなら――ぼんやりしていた、というのが一番正しい。これからのこと、これまでのこと、今のこと、誰かのこと、彼らのこと、あの人のこと。考えたり想像したりすることはたくさんあった。病院のベッドで、それらを思いながら、それでも僕は、なんだか遠いところから、僕自身を眺め下ろしているような感覚を持っていた。渦巻く思考には気づきながら、ぼんやりとしていた。感情が無くなったわけではなく、感じるにはあまりにも分厚い壁に阻まれているような、そんな感じだった。
 足について聞かされた後でも、前でもそれは変わらなかった。

 僕の容態について、どこまで話が広がっていたのかは分からない。けれど、大抵の人は、うすうす事情を察していたのかもしれない。見舞いに来てくれる人の態度で、それが感じられた。
 僕自身も、最初に目が覚めたとき、直感していた。得体の知れない不安の意味も、僕に接する父さんや母さん、功兄の目に、ちらつく悲しい影の理由も、優しさや、悲しさが、僕に向けられる意味も。あのときの僕は、自分が思う以上に、色々なことを知っていた。感じていた。だからといって、何が出来るわけでもなかったけれど。
 香取先生は僕の顔を見た途端に、ほとんど泣き出しそうな顔になっていた。何度も何度も、風祭君、と僕の名前を呼んで、それから我に返ったように、ごめんなさいとやっぱり何度も謝った。僕は慌てたけれど、上手く動けず、かわりに功兄が香取先生を慰めてくれた。呆れてしまうくらい、歯が浮きそうな台詞で。香取先生の涙が引っ込んだくらいだったから、よほどのものだったと思う。
 先生は授業のノートやプリント、クラスのみんなや、サッカー部のみんなからの手紙や寄せ書きを持ってきてくれた。美味しいと評判のケーキ屋さんのケーキも買ってきてくれた。先生と功兄と僕の三人でケーキを食べている内に、父さんと母さんが顔を見せて、香取先生はケーキを食べているのも忘れて、立ち上がり、食べかけのチョコレートケーキを床に落としそうになった。
 香取先生の慌てた様子に、母さんが堪えきれずにほほえみ、父さんが驚いて、功兄は苦笑した。香取先生は顔を赤くして、自分のそそっかしさを嘆いた。香取先生が持ってきてくれた明るさは、病室にしばらく残っていた。
 松下コーチはおやっさんとやってきて、お見舞いに何を持ってくればいいか迷ったんだが、と言いながら、大きなメロンをくれた。松下コーチと二人で買ったそうだ。花も持ってくれば良かったなと、花瓶を見ながらコーチが頭を掻くと、花なんてこっぱずかしくて俺は買えねえとおやっさんはむっつりした顔で言った。
 おやっさんが、怪我の具合は、なんて本当に難しそうな顔で言うから、大丈夫だと話すと、お前はいっつもそればかりだと、なぜだか怒られた。病院のご飯の話をして、おでんも出るんだと教えたら、おやっさんは鼻を鳴らした。今度、来るときはおでんを持ってきてくれるそうだ。楽しみにしてる、と笑うと、おやっさんは唇をとんでもない角度のへの字にした。
 このごろ、僕が笑うと、大抵の人が、一瞬だけしか浮かべなくても、何とも言えない複雑な顔をする。その理由に勘づいている僕は、そういうとき、少し困ってしまう。みんなのいたわりや悲しさや優しい同情が、あんまり心に染みて、痛みさえ覚えてしまう。
 榊さんやマルココーチ、中村コーチも来てくれた。そんなに長居はしないで、お見舞いの品と言葉と、心配そうな眼差しをくれると、静かに帰っていった。
 西園寺監督は一人でやって来た。監督はまず、僕に頭を下げた。それから父さんと母さんにも。そのときの病室の空気は息苦しく、不安に満ちあふれたものだった。
 ごめんなさい、なんて言われる必然性はない。僕が出たかった試合、僕が続けたかった試合、僕が勝ちたかった試合。途切れた記憶の後に聞いた、試合の結果。そこに、ごめんなさいなんて言葉は必要ない。
 上手く繋がらない言葉で、僕は自分の思いを監督に話した。監督はうつむいて、すぐに顔を上げ、笑顔と言うには泣き顔に、泣き顔と言うには笑顔に近い、不思議な表情を浮かべた。その後、父さんと母さん、功兄、西園寺監督の間で、どういう言葉が交わされたのか、僕に知る機会はなかった。誰も教えてくれなかった。監督の管理能力や責任問題が問われ、揉めていたと聞いたのは、ずっと後からだ。

 監督がお見舞いに来てくれた頃には、検査結果も、はっきりと出ていた。噂は、そこで事実に変わった。やっと、形を与えられて、現れることが出来た。
 入院当初に何度か検査をして、その後、足の怪我について、説明を受けた。父さんや母さん、功兄は事前に、簡単ではあるが聞いていたらしい。そこでの事実は、最初僕には伏せられていたが、今度は僕も交えての詳しい説明だった。僕が何かを感じ取っているのを、みんな気づいていたんだろう。
 僕の右に母さん、左に父さん、後ろに功兄が立って、僕たち四人は、先生の説明を聞いた。超音波写真やレントゲン写真、専門用語の解説を加えながら、先生は丁寧に、僕の足の状況を柔らかい口調で話した。途中で、僕の肩に置かれた功兄の手が、僕の肩を一度強くつかんだのが分かった。父さんの手は膝の上で拳を作っていた。その手は父さんが先生に質問をするときだけ、ゆっくり動いていた。
 先生の言葉は穏やかだった。言葉を選んで、話してくれた。そのどれもにむなしさを感じてしまう自分が情けなかった。
 ――今、僕が持つ箱を開ければ、ひょっとして、ひょっとすると希望が入っているのかもしれない。でも、ほぼ確実にその箱には穴が空いて、残念だけど、希望はどこかへ落ちてしまっている。歩けるようにはなるだろう。もしかしたら、走れるくらいにだってなれるかもしれない。つまり、普通に暮らしていくぶんには何とかなる可能性は高い。
 簡単に言えばこんな感じだった。
 普通。僕の暮らしの中にサッカーは普通にあった。それがなくなった後、僕にとっての普通は、どこにあるんだろう。頭にじわじわと、どうしようかなあという思いが湧いてきた。不安がきちんと形になったので、やっとそう思えた。
 僕は、どうしようか。
 僕は、どうしたいんだろう?
 淡々とした疑問なだけに、答えへの手がかりも見つけられなかった。
「――将」
 病室へ戻った父さんに何度か名前を呼ばれる。顔を上げると、父さんの顔が目に入った。
「まだ、先は分からない。何が変わるかも分からないんだ、諦めないでくれ」
 僕はうなずいて、笑った。とても惨めったらしく、見える笑みだったと思う。
 母さんはくるくる動き回って、病室のあちこちを片づけようとしていた。黙りがちな父さんは椅子に座って、母さんがいつの間にか入れていたお茶を飲んでいた。僕も熱い湯飲みを持たされていた。功兄は父さんとはベッドを挟んで向かい合っている。少しずつ、時間が経っていく。父さんと母さんが功兄のマンションまで来てくれて、四人で夕飯を食べたのが、ずっと昔に思えた。夕日だけが病室の中を動いていった。確かに、このとき、また一つ何かが僕の中で終わっていた。

 時々、来てくれる見舞客だけが、唯一の変化のように、淡々と病院での日々が過ぎていく。回診に来る先生の名前、担当の看護婦さんの名前、功兄が来ると、ナースステーションがちょっとした騒ぎになる。開け放たれた窓から聞こえてくる街のざわめき。梢が揺れる音。鳥のさえずり。眠って、起きて、誰かと話す。非日常にいるのに、とても穏やかな毎日。
 病院の食事にも慣れた。一日三回、決まった時間に出てくる。それ以外にも、功兄が毎日のようにして色々なお菓子や食べ物を持ってきてくれた。太ってしまうと言うと、次からは、これはカロリーが少ないから大丈夫だといって、また別の菓子や総菜を持ってくる。母さんも料理を作って持ってくる。父さんは呆れた顔をする。病室で僕たちは家族団らんをしている。もっと前には、こんなことはなかった。四人揃っていても、ちぐはぐした空気があった。
 お互い、思い合っているのに、優しくしていたいのに、父さんと功兄はどうしてもやり方を見つけられなかった。でも、最近はよく喋るようになっている。それもごく自然に。功兄はあしらうような話し方もしないし、父さんは叱咤するような響きの声も出さない。ぎこちなさはまだ残っているけれど、段々と薄れていく。それを見る母さんの目は嬉しさとあたたかさと、僕に向ける切なさで一杯だ。
 ――僕たちには悲しさもたくさんあったけれど、確かに幸福もあった。日本を離れてからも、僕はうたかたのように儚い、けれど不思議なほどあたたかったこの日々をよく思い出した。そして、そこには、いつも刺すように苦い大きな後悔があった。
 僕は功兄にも父さんにも母さんにも訊ねようとはしなかった。松下コーチにも、西園寺監督にも、訊かない。そして、僕から口を開こうとしない限り、誰もそれを伝えはしない。今の僕に許された特権。自分の思いに浸る事を許されている。世界を遮っても、その卑しさを、ずるさを、誰もとがめはしない。
 ――他のみんなはどうしていますか?
 僕にはたった一言が言えなかった。訊ねられなかった。
 理由はたくさんあるんだろう。そこいら中に転がっているものを、たった一つ取り上げれば、さも、もっともらしく聞こえるだろう。でも、全部嘘だ。心の負担になるからなんて、治療に専念したいからなんて、どれだけ正しく見えても、それは嘘だ。
 二度と行けなくなってしまった道を歩き続ける彼らを、僕は羨んでいる。嫉妬している。悔しがって、後悔して、誰かを恨みたい気持ちを必死で抑えている。
 監督の顔。泣くような、笑うような、いつまでも残る悔恨の表情。そこに重なる横顔がある。あわなくちゃいけない。そう思いながらも言い出せない。どうしようという問いを持ちながらも、動こうとせずに見つめるばかりだ。
 人の優しさに胡座をかき、僕は誰のことも考えていない。思い出そうともしない。卑怯者と自分自身を罵ることで、小狡く逃げようとさえ、している。

 思いがけない見舞い客が来たのは、母さんと功兄が偶然、病室にいないときだった。父さんはどうしても休めない仕事のために、一度九州へ戻っていた。
 本当なら、とうに戻らなくてはいけないのを、ずっと引き延ばしていてくれたのだ。こんなときに子供の側にいないで、何が親だ。――帰った方がいいのではと僕が言ったとき、父さんはそう言って、僕を叱った。
 僕は読みかけの本を読もうか、それとも新しい漫画雑誌を読むか、簡単な迷いへの答えを決めかねていた。そのとき、するりとドアが滑るように開いたのだ。隙間から、のぞいた顔に、僕は、あっと小さく声を漏らした。
「先生」
「元気そうだな。どうしてるかと思っとった」
 入ってきた山下先生は、ずっしりと重たいつつみをくれた。先生の奥さんが作ったおはぎとお団子だそうだ。
「なに、惚けた顔をしてる」
「すみません。椅子をどうぞ。そっちの方が、座りやすいです」
 先生は椅子に座った。椅子には母さんの持ってきた座布団が敷いてある。お茶を入れたかったけど、今の僕には無理だった。どこへ行こうとしても、人の手を借りなくてはいけない。
「茶なんかいい」
 先生は手を振った。ぎしぎしと椅子がきしんだ。
「――功から聞いていたんだ。もっと早く、来たかったんだが」
「いいえ。来てくれて、嬉しいです」
「……少し、痩せたか」
「大丈夫です」
 先生は目をしばたいて、僕の全身をざっと眺めた。足にも視線が向いたのが分かる。
「――全部、聞いたよ」
「はい」
「きついか」
「時々。でも、父さんも母さんも兄もいます」
 先生は眼を細め、少し、笑った。
「少し見ない間に、お前たちはすぐ大きくなるな」
 先生、と僕は言った。舌がもつれた。だから、もう一回、先生、と呼び直した。
 僕は大きくなんかなっていません。何も分からない、わがままな子どものままです。だから、教えてください。どうしたらいいんですか。もう、僕には自分で、見つけられそうにもないんです。
「先生、やらなくちゃいけないことがあるんです。でも、やりたくないんです」
「それは、何なんだ?」
 深呼吸なんてしたら、言葉を飲み込んでしまう。一息に、言った。
「みんなにあいたいんです」
 言いながら、僕は思う。みんなとは誰のことなんだろう。
 先生はうながすように、僕の顔を見て、まばたきを一つした。
「でも、嫌なんです」
「ああ」
「会ったら、僕は……」
 言葉が続かなかった。先生は手を伸ばして、僕の頭を撫でた。
「一つ、一つ」
 先生が呟いた。
「最初に一つ決める。何もかも全部を一度にやるんじゃなく、目の前の一つから片づけていく。終わったら次の一つ。それも終われば、次の一つ。そうしたら、ある日、目の前が開けている」
 僕はまばたきした。
「したいこと、しなければならないこと、楽しいこと、苦しいこと、何だっていい。……何だっていいんだ」
 先生は少し、笑った。笑ったら、眼鏡の奥の目が、どれだけ優しくなるか、僕は思い出している。
「――説教くさくて、すまんな」
 先生は眉を下げて呟いた。
「そんなことないです」
「歳のせいだ。気にせんでくれ」
 先生はうつむいた。
 お茶を入れられたらいいのに。動けたのなら、きっと時間も重たくならなかったはずだ。
「ありがとうございます」
 それだけしか言えなかった。

 誰が、心に、罪悪感を、悲しみを、後悔を抱いたか。誰のせいでもないのに、どうして僕たちはこれほど、悔やみ、苦しむんだろう。どうして、僕はその人たちにうなずきかけられるほど、傲慢になれなかったんだろう。
 失った時間は取り戻せない。その間、心によぎった感情の記憶も消せない。悔いて、哀しんで、それでも、先へ行かなければならない。
 今、何がしたい? 自分に問いかけて、僕はすぐに答えを出した。
 簡単だった。自分自身が作った迷路で迷っていたようなものだ。目を固く閉じて、歩き回っていたんだ。目を開いて、僕は出口へ向かった。そこは、たぶん、新しい迷路の入り口だろうとは思うけれど、進むしかない。僕が自身を守るための障壁は誇りと言われるようなものではなかったのだ。
「功兄」
「ん?」
「みんな――ほら、トレセンで一緒だった人たちって、今、どうしてるか分かる? シゲさんとか水野君とか、不破君も。香取先生が持ってきてくれたサッカー部の人たちからの手紙や寄せ書きに、名前がなかったし、僕、試合途中で病院に来たから、その後、会ってないし、色々、聞きたいことがあるんだ。話したいことも、なんだか、いっぱいあって――」
「将」
 萎れた花を花瓶から抜き取っていた功兄はうなずいた。
「そうか」
 短い言葉の中に、功兄の思いが見えた。僕は、自分が守られていたことを知る。でも、この壁の中に居続けてはいけないんだ。

 シゲさんが来たのは、次の日だった。病室の扉が開いたと思ったら、金色が揺れていた。
 僕はぽかんと口を開く。
「シゲさん」
「――なんや、ポチ。少し、色、白うなったんやないか」
「なってませんよ。こっち、椅子がありますから、どうぞ」
 良かった。声は震えなかった。シゲさんの顔を見てからの方が落ち着いた。
「広い部屋やなあ」
「そうなんですか」
「間違えて、一階下の病室、入ったんやけど、そこはもっと狭かったわ」
 シゲさんは、思い出したように手に提げていた袋をベッドの上に載せた。袋越しにもじわりと熱いのが分かった。ソースの香ばしい匂いもする。
「これ、俺とノリックから。こんなん病院じゃ食べられへんやろ」
「お好み焼きですか? あ、たこ焼きかな」
「奮発して、どっちも買うてきた。味は保証するで」
 袋を覗き込んだら、ふわっと熱い蒸気が顔にかかった。
「熱い内が美味しいですよね。食べましょうか」
「そう言うてくれると思ってな、割り箸入れてもらった」
「本当だ」
 僕は割り箸を二本取って、シゲさんに渡した。ベッドの上にテーブルを引っ張って、その上に袋を載せると、紙パックに入った熱いたこ焼きとお好み焼きを取り出す。
「大きいですね」
「タコもなかなか大きいで」
 シゲさんは割り箸をゆっくり割った。綺麗に二つに分かれる。僕は右側に力を込めすぎて、左の方が細いいびつな形になった。シゲさんは僕の手の震えを、見ないようにしてくれた。
 二人で、たこ焼きとお好み焼きを食べた。ソースをからめて、マヨネーズを付けて、口に運んで、熱くて口から息を吹き出しながら、おいしいおいしいと繰り返して、食べた。シゲさんは色々な話をしてくれた。滑らかなその口調の裏で、どれだけ僕に気を遣ってくれたんだろう。
「シゲさん」
「んー」
「これ、また持ってきて下さい」
「お前、いっぱい食い物もろうとるやん」
 シゲさんの視線が棚に置いてある箱や果物に移る。
「じゃあ、持って帰っていいですから。僕、こっちが食べたいです」
「……」
 シゲさんが僕を見た。今日は後ろで束ねている髪が揺れる。目がぎゅっと細くなった。
 ――シゲさん、ここに来るまで、ずっとそんな顔をしてたんですか。それなら、僕は自分を許さない。一生、この思いを抱えていくべきだ。
「あほ。このポチ」
 シゲさんは手を伸ばして、僕の頭をぐしゃぐしゃにした。手にソースが付いてるのにも構わずに、あちこちかき回すと、最後に僕の額をはじいた。
「毎日は無理やで。それから、お好み焼きもたこ焼きも一緒なのは贅沢やから、どっちか一つな」
 僕は笑って、シゲさんも笑った。そうして、僕は残ったお好み焼きを食べながら、ついに泣いてしまった。
「あーあ、ポチ、泣いたら鼻からキャベツ出てくるで」
「大丈夫です。シゲさん、ごめんなさい」
「カザ――」
 シゲさんの言葉が途切れた。僕は首を振った。
「違うんです。いいんです。何でもない――」
「分かっとる!」
 思いがけない激しさでシゲさんは叫び、黙った。
 僕は鼻を啜って、お好み焼きを呑み込んだ。
「シゲさん、おいしいです」
 シゲさんは僕を見た。一瞬だけ、顔が歪み、すぐに顔中が笑みになった。
「泣くほど旨いなら、次はお好み焼きやな」
「お願いします」
 シゲさんが帰った後、部屋に入ってきた母さんは、まばたきした。
「将、この匂い何?」
「お好み焼とたこ焼き」
「功が持ってきたの?」
「ううん。友達」
 母さんは僕に近づき、そっと顔を近づけると、くすりと笑った。
「髪にも匂いがついてるじゃない」
「また、持ってきてくれるから、そのときは母さんの分も残しとくよ」
「――お願いね」
 新しい花を生けて、母さんは呟いた。

 夕方には制服姿のままで水野君がやって来た。すごく緊張した顔で、母さんに挨拶した。お見舞いの花とケーキを母さんと僕のどちらに渡すのか迷っていたので、母さんが花だけ受け取った。
「花瓶に生けてくるから、ゆっくりしていってね。お茶は、ここにおいてあるから」
 扉の閉まる音と一緒に水野君が動き出した。棚からお皿を出す。フォークを出す。箱を開けて、なんだか困った顔で僕を見た。
「お前、甘いの平気だったよな?」
「うん」
 どれがいい、と水野君が言ったから、僕は果物がたくさん乗っているスポンジケーキを選んだ。水野君は、俺はこれにするとコーヒームースを選んだ。ムースの上の生クリームにコーヒー豆がのっていて、その色はとても黒くて、濃かった。
「苦くない?」
「ケーキだから甘いはずだ」
 銀紙が光る。クリームが付いたセロファンがぺらぺらと、窓からの風に揺れる。
 一口、食べて、水野君は顔をしかめた。
「甘いな」
「おいしいよ」
 水野君は、今度はうろたえたように時計を見た。
「夕飯、もうすぐなんだろ。こんなの食って大丈夫か」
「ケーキ一個くらい、平気だよ」
「そうか、そうだよな」
 水野君はフォークでムースを食べている。僕はスプーンを使って、ケーキを食べている。どっちも、同じ時にそのことに気がついた。
「引き出しに、紙のスプーン……」
「フォークで食べられないわけじゃないだろ」
「うん」
 もうこれ以上、言葉が見つからなかった。だから僕たちの沈黙は長くなかった
「ごめんね。僕は、大丈夫だよ」
 フォークですくわれたムースが揺れて、カップの中に落ちた。
「泣かないで」
 水野君は首を振って、うつむいた。前髪が垂れて、顔も何も見えなくなった。ぽとん、ぽとんと雫だけがムースの上に落ちていった。
「水野君」
「俺も……大丈夫だ」
 震えた声でそういって、水野君は黙った。
「ケーキ、早く食ってくれ」
「うん」
 スプーンだったからケーキは食べやすかった。フォークの方は、どうだったんだろう。

 それからは、何人もの人たちがお見舞いに来てくれた。僕は普通に話せた。自分でも不思議なくらい、普通に、当たり前に、笑って、言葉が出てきた。むなしくも悲しくもなかった。楽しいくらいだった。
 僕は自分に見える世界が、幾らか変わったように思えた。それは当たり前のように享受してきた今までの生活がなくなってしまうという事から生じた変化だったのかもしれない。
 けれど、どんなに悲しくて、泣きたくて、むなしくて、仕方がないだろうかと想像した世界とは違い、僕がいる、僕が見る世界は何事もない、いつもの世界のままだった。時々、水に透かしたようにぼやけて、揺らぐときはあったけれど、それは思ったよりも簡単にやり過ごせた。
 こんなに平和だなんて思わなかった。もっと、無茶苦茶になってもおかしくないと思っていた。どうして、なくしたはずなのに、何も変わっていないんだろう。全部、終わってしまったはずなのに、何が続くんだろう。
 毎日、毎日、いつでも、どんなときでも、気がつけば、胸が騒ぐ。どきんどきんと心臓が、不思議に早くなる。これは、何なんだろう。厭な感覚じゃない。でも、さびしいような、苦しいような、それでいてあたたかいような。
 鼓動にあわせて、どこかから、大丈夫だよと変な声が響く。僕の願望か、気休めか。何かがそう囁く。終わったのに何が大丈夫なんだろうと考える。
 ふとおかしくなる。僕にとって、これ以上悪くなりっこないのだったら、確かに大丈夫だ。
 それでも無性に胸が騒ぐ。大丈夫。大丈夫。鐘が鳴るように、思いが響き合う。この感情を、どう呼ぶのか、思い出せない。僕は確かに知っていたはずなのに。

 退院の話が持ち出されて二日、経っていた。通院しながらのリハビリになるんだなと僕は、すっかり馴染んでしまった病室を眺めていた。
 そろそろ、父さんたちが来る時間だ。特にちらかっていた訳じゃないけど、気になって、雑誌を片づけた。コップや湯飲みや、タオルも、出来るだけまとめるようにして、片づける。
 花びらの萎れていた花を一本、抜き取った。そのまま捨てるのは、何となく、申し訳ない気がして、少しだけ握りしめて、ゴミ箱に落とす。
 ティッシュの箱を枕元に置き直していると、ドアがノックされて、父さんが入ってきた。母さんが扉を閉めて、笑いかける。
「あら、綺麗にしてる」
 気づかれたことが、少し恥ずかしくって、さっき片づけたんだと僕は口の中で、呟いた。
 めずらしく、父さんが自分からお茶を淹れはじめた。わたしがしますからと母さんが手を出したけど、父さんはいいと首を振る。
 また扉がノックされて、父さんは三つ用意していた湯飲みを、一つ増やした。
 功兄が部屋に入ってきて、僕を見て、にっこり笑った。あげた手には紙袋を持っていた。また、何かおみやげを買ってきたんだ。このごろじゃお見舞いに来てくれたみんなが食べてくれるので、余らずに済むからいいんだけど。
 功兄は父さんの横に座り、差し出された湯飲みを受け取った。
 功兄が、親父、と父さんを見た。父さんは、一瞬、僕を見たけれど、すぐに功兄に視線を戻して、首を振った。
「功、それはお前が言うことなんだ」
 父さんはかすかに笑っていた。母さんが椅子に座り直したのか、きいっと、金具のきしむ音が聞こえた。
 功兄が僕を見た。やっぱり、少し笑っていた。こうしてみると、やっぱり父さんと功兄は似てるんだ。笑った顔も、真剣な顔も、色々なところが。
「将、ドイツに行こう」
 功兄の言葉に、僕はかなり間抜けな顔を見せた。ドイツと聞いて、僕の頭に浮かんだのは、馬鹿みたいなイメージだった。ビール、ソーセージ、ジャガイモ。食べ物のイメージばかりの中で、不意に刺すみたいに、ぴしりと天城の面影が浮かんだ。見送ったときに交わした言葉を、僕は手放そうとしていたんだ。
「ドイツ?」
「お前の足を、治してくれる可能性がある医者と施設がある」
 功兄の目が小さく光る。
 父さんは功兄の肩に手を置いて、ゆっくり口を開いた。
「完全に治る、という保証はない。だけどこのまま日本にいるよりは、ずっと高い可能性がある。もちろん手術してすぐに動かせるわけじゃない。向こうでリハビリを続けて……それでも元通りになるとは限らないんだ」
 僕はうなずく。息が出来ないくらいに苦しい。
「どれだけ長引くかは分からないんだ。あっちでしばらく暮らすことになる。何ヶ月、という単位じゃない。言葉も環境も違う。何もかも変わってしまうだろう」
 父さんは息継ぎして言った。
「――じっくり考えて、お前が選びなさい」
 父さんの顔を、母さんの顔を、功兄の顔を、今この瞬間を焼き付けるような思いで見つめた。
「行く」
「将」
 父さんと功兄が声を揃えて、僕の名前を呼んだ。母さんが僕の腕にそっと触れる。
「行くよ」
 僕は言った。胸の内で鳴り響く思いが、何なのか分かった。
 僕は諦めたくない。
 諦められない。
 それだけだったんだ。そして、それだけで僕は次の道を歩いていける。

 ――出発までの慌ただしい時間の中で、僕はお父さんとお母さん、僕の生みの両親のお墓参りへ行った。前にも来た事がある。父さんが、潮見のお父さんとお母さんのことを初めて話してくれた後に、家族で揃って来た。それから、僕は時々、ここへ来ていた。思い出は僕の中に残っていないけれど、振り返るような気持ちで、僕を生んでくれた二人のお墓へ来た。
 功兄が墓石に花を供えた。僕は線香に火を付けて、功兄に渡す。みんなで手を合わせた。もう一人のお父さんとお母さんに心の中で挨拶した。見せてもらった映像と写真の顔を思い出し、頭を下げた。
 開いた箱から落ちた希望、探すことが出来るのは僕自身しかいない。そして、見つかっても、見つからなくても、その過程を希望と呼ぼう。諦めきれないなら、諦めなければいい。何度でもあがこう。どんな細い糸にもすがろう。苦しんでも、のたうち回っても、みっともなくても――ありとあらゆる苦しみも痛みも、今から行く道の中にある何もかもを、僕は見つめてみせる。受け入れてみせる。もう一度、緑の芝生の上にあるあの青い空を見られるのなら、どこまでも続く広い青い空をこの目に映すことが出来るのなら。
 僕は、このときに一番、ふさわしい言葉を思い出した。対になる言葉を言えるのはいつになるんだろう。
 どんなに遠い日になっても僕は戻ってくる。
「――行ってきます」
 ただいま、と言える日まで僕は諦めない。

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