天人愛憐

※元ネタは杉浦日向子著『百物語』中の一話「天女の接吻の話」です。



 昔、昔から始まる話になる――。

 昔、西国の某藩に、吉住の何某という男がいた。人に劣る事なき、優れた資質の持ち主ではあったが、生まれつきの性質か、それとも彼自身の性格か、何につけても、事を起こすのを面倒くさがる男だった。
 刀を扱わせても、弓を扱わせても、体術でも、藩中においては、五指に入るほどの腕前であったので、友人朋輩は吉住の無精なことを惜しがったが、本人は出世も、立身も望むところではなく、日々、のらりくらりと過ごしていければ、それで良いようだった。
 晴れては外をぶらつき、雨が降れば、書を読む。一見したところ風雅であるが、吉住の寝間は万年床で、周囲には汗くさい臭いの染みついた着物が散らかしてある。什器類も片づける訳でもなし、土間や床に適当に置き並べ、その間に書が散在する、という有様だった。歩けば埃が舞い上がり、足を踏み入れない部屋では、足跡が残るまでに塵埃が積もっているのである。梅雨時など、生えた黴が舞い、目を覆うほどの有様になる。
 たまに、昔、吉住家に仕えていたばあやがやって来て、文句を言いながら、部屋を片づけていくが、三、四日もすれば、元通りに戻る。汚いのが好きなのかと問われれば、どちらでもいい、と投げ遣りに言う始末だ。なにしろ、独り者であるし、すでに父もいなければ、母もなく、兄弟縁者といった養うべき者もいない。つまり、たまに訪ねてくるばあや以外、口やかましく言う者はいない。ばあやも最近では諦めて、掃除にも来なくなった。
 嫁を世話しようという話もなくはなかったが、着た切り雀の、髭も伸びていれば、風呂にも滅多に入らない、出世も望めない垢じみた生活下手な男のところに嫁ぎたい娘も、嫁がせたい親も居るわけではなく、吉住は独り身のまま、日々を呑気に暮らしていた。
 こういう男であっても、いや、こういう男であるからこそ、道を行けば、ムラの者も親しげに声を掛けてくるし、子どもなどは後を付けて、遊んでもらいたがる。
 そういうときの吉住は面倒くさがるわけでもなく、茫洋とした表情で、相手してやるのだった。子の親が野菜やら米やら、その日の菜などを分けてくれるときもあったので、大した禄がなくとも、何とか食べていけた。
 そんな日々を送る内に、吉住が武勇に優れた者であるということも、あちこちの書に通じているということも忘れ去られてしまい、中には面と向かって、阿呆、と罵る者も、馬鹿だ、うすのろだとも言う者も増えてきた。だが、それを気にする男ではなく、吉住は口に草っぱを加え、古びて垢じみた着物に懐手して、ふらりのらりと野を行くのだった。
 一応、侍らしく、刀を腰に差していても、あれは竹光だというのが、もっぱらの評判で、ムラの子どもは、やあい、やあい、へっぽこ侍、などといって囃したてる。吉住は怒るでもなく、そうやなあと笑って、その前を通り過ぎる。飄々、茫洋、春風駘蕩。何を言っても、のれんに腕押し、ぬかに釘。からかう甲斐もなく、悪童たちは拍子抜けして、ぼろをまとった吉住を見送る。何とはなし、吉住の茫洋とした表情に似た顔を浮かべて。
 吉住は歩いていても、目的など無く、風が吹いたから右、花が咲いたから左、日が陰ったから真っ直ぐ、風の吹くまま気の向くまま、そんな風にふらふらと行くのだった。
 そんな男なので、迷うこともめずらしくなく、今日も山に分け入る内に、ふとしたはずみで藪の中に入り込み、そのまま道無き道を進み、山の奥へとどんどん入っていった。疲れれば切り株や木の根の上に腰を下ろし、木の実を囓る。泉やわき水で喉を潤し、自分がどこにいるかも気にせずに、歩いていく。
 そうして気がついてみれば、不可思議な森の中にいた。空気は澄み、深い木立の中だというのに、やけに明るい。垂れ下がる木の実、果実は見たこともない形をしていたが、どれも甘くさわやかな薫りを漂わせ、たわわに実っていた。
 花々は色美しく、今を盛りと咲いているが、よくみれば、春に咲く花あれば、夏の花もある。秋冬の花も花弁を開いている。その周りを、蝶がひらひら舞い、よく太った獣たちが、急ぐ様子も見せず、のんびりと吉住の前を通り過ぎる。臆病な鹿も、吉住を恐れることなく、横に並んで、しばらく道を共にしたこともあった。小鳥も恐れげなく吉住の肩に留まり、ちりちり啼く。
 これはおかしい、と思っても、危険もないので、吉住は気にせず、歩いていった。歩くのが楽しい森であった。天上の森は、こんなとこやろなあ。一人ごちた吉住は、不意に泉の畔に出た。
 底まで透き通った恐ろしいほどに澄んだ泉である。風に吹かれ、水面が波立たないときは、鏡かと思わせる。吉住は、これもただ人の泉ではないだろうと悟り、水面には自身の顔を映すだけにとどめておいた。
 辺りに目をやると、吉住のいる場所から、少し離れたところに、葉の茂っていない立ち枯れた木があるのに気づいた。この森では何もかもが、生を謳歌しているというのに奇妙なことだ。木に近づきかけた吉住は足を止めた。
 鈴の触れあうにも似た、しかし、もっと美しい妙なる音が響いてきたのだった。音は天から降り、近づいてくる。音に聞き惚れながらも、吉住はゆっくり動いて、手近な木陰に身を隠した。
 見る内に、音は地上へと降り立って、姿を見せた。腕や足、耳や首を飾る細い環が、淡く光っている。それらが触れあい、あるいは、それぞれの環から下がった小さな鈴が鳴り、吉住の聞いた妙なる音に変わるのだった。音の波と共に、辺りには、かぐわしい、涼やかな香りが満ちた。
 音と香りの持ち主は、人の形をしていたが、人ではあるまい。身にまとっているのは、優しく光る薄衣で、風もないのに、揺らめいている。色はないようにも、またありとあらゆる色を秘めているようにも見えた。あれが、羽衣とよばれるものであろうか。ならば、身にまとっているのは、天人かもしれない。
 吉住が見る間に、天人は、音と香りの波を広げ、衣を揺らめかせ、木の下に降り立った。儚い音を立てて、衣を脱ぎ、木の枝にかける。木はぶるりと震えたようにしなると、その枯れきった枝に葉を茂らせ始めた。若芽が伸び、葉が開く。青葉のすがしい匂いに包まれた天人は、そのまま泉へと体を浸し、音も立てずに、泳ぎ出した。黒い髪と白い肌が、澄んだ水の中で楽しそうに、奔放な動きを見せている。
 ここに来て、初めて吉住は動いた。身を潜めていた木陰から出ると、天人が衣を掛けた木へ歩いていった。足運びはまるで夢見ている人のそれである。
 木には花の蕾が一つだけついていた。蕾は膨らみ、人を陶然とさせるような甘い匂いを放っている。ほんのりとした紅色で、蓮にも似ていた。
 天人の衣は、持ち主の手から離れていても、風に吹かれるがごとくに揺れていた。吉住が触れると、細かく震えた。感触は流れる水の中に手を浸したようでもあるし、真綿に包まれたようなあたたかさもあり、絹にも似ていながら、ずっとすべらかだ。そのくせ、何も持たないような軽さだった。色は吉住が瞬きする間に、色を変え、あわあわと光り、辺りを照らすようだった。
 吉住は目を細め、羽衣を見つめていた。この世にあっていいものではあるまい。やはり、天人がまとう衣らしかった。離すには惜しい感触を楽しんでいると、かすかな水音が背後で聞こえた。
 吉住が振り向けば、水から上がった天人が、こちらを見ていた。黒く、泉以上に澄んだ瞳が大きく見開かれ、震えている。柔らかい頬を強張らせてはいても、顔立ちはあどけなく、庇護したくなるようなものが感じられた。
 天人は衣を奪われたと思ったらしく、手を差し伸べて、返してくれるように訴えかけてきた。どのような業か、肌も髪も濡れてはいない。一糸まとわぬ肌が、羽衣以上になめらかに思え、また胸の二つの蕾や、黒い目、黒い髪、瑞々しい唇といった天人の姿に見とれ、吉住はしばらく、息をするのも忘れ、天人だけを見つめていた。
 天人は小さな手を組み合わせ、吉住を拝むようにした。目に涙が湛えられている。衣を指さし、天を指し、地上を示し、吉住をまた拝んだ。涙が玉を結んで、頬を滑っていったとき、吉住はやっと、我に返り、苦笑を浮かべた。
「すまんなあ。あんまり綺麗やったから、見とれてしもうてん」
 衣片手に吉住は天人に近づくと、怯えて体を震わせている天人の体に羽衣を着せかけた。 天人の体は、近づけばいっそうかぐわしく、また華奢で、吉住は悪いことしたなあ、と素直に反省した。
 天人から離れて木の下へ戻り、吉住は頭を下げた。
「堪忍してな」
 天人は衣の端を握りしめ、吉住をじっと見つめていたが、言葉の意味は伝わったらしく、 最後の涙を落として、にっこり笑った。日も陰るかと思われるほどの、まばゆい笑みに、吉住は目を細め、かなわんなあと首を振った。
 天人は羽衣をまとったが、すぐには飛び立たなかった。視線の先を追えば、吉住の背後の木に咲いた花を見ているのだ。すでに蕾を開いた大きな、蓮に似た花は甘い匂いを漂わせ、摘んでくれとでもいうように揺れている。
 吉住が指さすと、天人は、こっくりうなずいてから、そろそろと吉住の方へ自分から近づいてきた。しゃらんと、手足の飾りや鈴が触れあって、また美しい音を響かせた。天人は腕を伸ばし、花に触れようとした。
 花は天人の手よりも、ほんのわずか高いところにある。吉住は思わず、手を伸ばしていた。花弁に触れたと思ったとき、花は吉住の手にほとりと落ちた。天人が、目を丸くして、吉住を見上げた。
「取ったらあかん花?」
 吉住が訊いても、天人は答えなかった。花と吉住の顔を見比べて、まばたきしていたが、やがて、またほほえんだ。唇が何事か、囁いたが、りんりんと鈴が鳴るような音にしか聞こえない。卑しい人と天人とでは、言葉も違うのだなと吉住は少し残念に思った。
 天人に花を差し出すと、天人は細い指で受け取り、自分の髪に飾ろうとした。さらさらと指の間からこぼれていく髪が邪魔をして、花はなかなかおさまらない。吉住は、手を出し、花を天人の耳の上へと挿してやった。
 天人は吉住を見上げ、りん、と何か呟き、頬を染めた。唇に小さく浮かんだ笑みが愛らしかった。天人が自分を怖がらず、嬉しそうにしていることが、吉住には嬉しかった。この笑みを見られるなら、幾らでも花を摘み、髪に挿してやりたいと思った。
 天人は、やがて天を仰ぎ、少し哀しそうに目を伏せた。
「帰るんやな」
 吉住は呟いた。天人は、哀しそうな面のまま、ふわりと舞い上がる。ひらひらとたなびく裾があでやかだった。
「まあ、気いつけて」
 吉住が昇っていく天人の姿を追い、天を仰いで、そう言うと、空気が動いて、甘い匂いが吉住を包んだ。ほんのりと冷たく、ほんのりとあたたかいものが頬に触れる。
 天人が吉住の頬を撫でているのだった。無精髭でざらつく、汚れた頬の感触をなぞるように指が動いていた。
 吉住がくすぐったそうに細い目を、いっそう細めて、微笑すると、天人もほほえみ、やがて羞じらいを含んだ目を、そっと閉じた。甘く清らかで涼しい感触と吐息が、吉住の唇に触れ、軽くついばんでいった。この世のいかなるものでもない感触だった。
 空気が震えて、吉住の耳に、鈴の音が人の言葉を成して、流れ込んでくる。
 ――天人の名は、風祭将、というのであった。
 口づけと名を与えた天人は、振り返らず、衣を揺らめかせながら、遠ざかっていった。吉住は天人を見送って、泉と森を後にした。気がつけば、見知った田畑の中を歩いており、辺りには夕暮れの気配が落ちていた。
 肩を鳴らし、吉住はいつものように、ほんの少し背を丸めて家まで戻っていった。

 吉住の口から、芳しい、えもいわれぬほどの芳香が漂うというのは、まず朋輩たちの間で話題になった。あれはなんだ、怪異にしては、あまりにもいい匂いだと、みな首をかしげ、不思議がった。
 吉住は、口に香でも含むような雅男でもないし、第一、着ているものは、相も変わらず、垢じみた古い着物である。ぼさぼさの髪に、うっすら伸びた無精ひげ、ひょろりひょろりと歩いて、眠たげ顔に似合う大あくびをする。身なりと態度を注意しても、怒鳴っても、はあはあとうなずきはするのだが、改めはしない。
 生まれたときからこうやっきてんから、今更、変えられへんねん。諦めたってな。そう言う声も、ぬるりぬるりと掴みどころがなく、まったくもって頼りない。そんな男の口から、どんな花の香をも凌駕する、よい香りが満ちあふれてくるのだ。
 一体、どうしたことかと問われても、吉住は、へらりと笑うだけで、答えようとはしない。問いつめても、ちょっとした縁や、と呟くだけだった。
 吉住がいるだけで、甘く涼やかで、うっとりするような香りが辺りを満たすので、匂い嗅ぎたさ、吉住見たさで、城詰めの武士たちが、老若問わず、こっそりやって来る。中には奥女中やら御殿女中やらの華やかな姿も見られ、町でも、吉住が歩くと、鼻をうごめかせる人々の姿が見られた。領内の評判となった噂はついに、藩主にまで及んだ。挙げ句に、御前に召されることとなった。大方、奥女中の話を聞いたご側室が、吉住見たさに藩主にねだったのであろう。
 公な謁見でなかったから、某年寄の開いた茶席の後、藩主が庭の見物に出るので、そこに吉住が控えている、という形を取った。
 藩主に会うのだから、周囲がこれまでになく、やいやい騒ぎ立て、よってたかって、吉住の髭を剃らせ、髷を結わせ直し、こざっぱりした着物に着替えさせた。外見は凛々しい、堂々たる武士に変わっても、吉住は吉住のままだった。茫洋としたどこを見ているのか分からない表情で、懐手をやりかけて、つきそいの上役に手を撲たれた。あくびをすれば叱咤される。くどくどと、無礼はまかりならん、武士としての礼節と振るまいを心がけられよ、と何度も何度も繰り返されて、吉住はそっとため息尽きつつ、首を振った。かなわんなあというところであった。
 庭で吉住が訪れを待っていると、衣擦れの音と共に、藩主が、やって来た。脂粉が匂い、視界の端に、華やかな色がちらついたから、藩主はご側室殿を伴ってきているらしかった。
 許しを受けた吉住が顔を上げると、藩主はのどかな陽光の下で、人の良さそうなふくよかな面立ちを笑ませていた。横には、ご側室のゆうさま他、二人の女が控えていた。
 緊張にやや声を上擦らせた上役が挨拶し、吉住も名乗った。途端に、あたりに芳香が満ちて、女たちも我知らず、うっとりとした目でため息をついた。
 藩主も頬を揺らせて、笑った。
「ああ、ええ匂いや。寿命が延びる」
 藩主は呟き、ひょいと身を乗り出した。
「ゆうがこないな香が欲しいといって、ねだる。どや、どこで手に入れたか教えてくれ」
 直答を許されていた吉住は、茫洋とした眼差しを遠くに向けながら、ぼそぼそと返事した。
「天人に情けをかけられまして、こないな匂いを得ましたんや。一人ではどうにも出来まへん」
 藩主は、きょとんと目を丸くした後、まじまじと吉住を見つめ直した。
 言葉を口にするたびに漂う芳香とは、かけ離れたぼうとした男だ。浮世離れした、掴み所のなさが、なんとはなし、藩主の気に召した。
「天人か。そりゃええわ」
 膝を打って、藩主は大きな声で笑った。上役はひたすら、恐れ入るばかりだ。
 藩主は扇子でもって、側室を示した。
「このゆうもな、天人には負けておらへん。そやけど、人には人のものやろうな。天のもんなんぞ、与えん方がええな」
 吉住はふくふくした外見の藩主に深々と頭を下げた。
「殿」
 不満そうに口を挟んだ側室に、藩主は鷹揚に手を振った。
「着物こうたるから、香は諦めるんや。大丈夫、香がなくてもええ匂いなんやから」
「わ、わたくしは……」
 頬を染める愛妾に、笑みを向けると、藩主は吉住の隣で平伏する上役らにねぎらいの言葉を掛け、吉住に礼を述べた。
「今日は、すまなかったな」
 吉住には真新しい着物ひとそろいと五十両が与えられた。
 その後、藩主が、吉住をお気に召したという噂が広まったので、これは、どうかすると出世の糸口になるやもしれぬと、今まで近づきもしなかった者たちが吉住の周りに集うようになった。中には娘をもらってくれ、妹を、出戻りの姉を等々、縁談の話まで持ち込まれるようになった。
 こりゃあかん、と吉住は病を理由にして、家へ籠もった。見舞いも断って、倉の蔵書に読みふけった。城では、吉住の昔を知る、とある側仕えの男が、あれでなかなかに優れた男なのです、と藩主に申し上げていたのだが、それを聞いた藩主は、首を振った。
「天人が情けをかけるような男は、人の世に引き込まんと、好きにさせとくのがええ」
 そう言って、後は笑うばかりである。
 そんな訳で、吉住の身辺には何の変化もなかった。当初は、近づいてこようとした者も、日が経つに連れて、何もないと知り、そそくさと散っていった。
 ようやく静かになったので、吉住は蔵書あさりにいっそう熱を入れた。黴と埃くさい蔵から、数冊取り出して来ては、頁を繰り、吉住はのんびりと、それらを読んでいた。目的はあるようで、ないようだった。
 先々代だか、先々先代かの吉住家の当主の蔵書は、おとぎ話や怪異、霊異といった類の話を集めた書が多い。その中に、目的の記述が見つかればそれが運だろうし、見つからなければそれも運なのだ。家の蔵書だけでなく、他所を当たっても良いだろうから、吉住は関係のない話も面白がりながら、読んだ。時々、ため息が出ることはあったが、慌てることも、急ぐこともしなかった。そういう類の問題だった。地上と天の時間の流れが違うのを吉住は承知していた。
 変わらない毎日だったが、吉住は蔵から蔵書を引っ張り出すのを、ある日、突然、止めた。一冊だけ、手元に置いて、何度となく読みふけった。
 懐手して、部屋を行ったり来たりし、散らかした着物や書や意味のない書き付けを踏み、最後に墨汁を蹴り飛ばし、壁と畳に黒い染みを作った。
 立ち止まり、そうやな、と一人ごちた。嗅ぎ慣れてもなお、夢見心地がするような匂いが、辺りに漂っている。吉住はため息をついて、目を閉じた。そのまま眠って、起きたときには決めていた。
 虫が知らせでもしたのか、翌日、吉住の家を訊ねる男が二人いた。旅の疲れも見せず、ほとほとと戸を叩く。
 隙間から一瞥して、吉住は戸を開け放した。
 久しぶりやなあ、と男二人は言った。
 帰ってきたんか、と吉住は言った。
 連れ立って訪れてきたのは少年時代の友人だった。家柄も良く、文武に優れていたので、二人ともそれぞれ若くして、かなりの地位にまで昇っていた。今は確か江戸詰ではなかっただろうか。吉住が思い出したことを訊ねると、二人は、吉住の噂を聞いて、うまく用事を取り付け、江戸から戻ってきたと言った。
「お前らまで、わしの匂い嗅ぎにきたんかいな」
 吉住がぶつぶつ言うと、二人は気にすることもなく、鼻を動かし、感心したように言った。
「ほんまにええ匂いや。江戸かて、京かて、こないな匂いの香は売ってへんで」
「そやそや。これで、悪所がよいしてみい。もてるで」
「めんどくさいわ」
 吉住がぼそりと言うと、友人二人は吉住の肩やら背中を思い切り叩き、大笑いした。
 二人とも酒とつまみを携えていたので、そのまま散らかった座敷に上がり、酒盛りが始まった。酔いに任せた埒もない話の中で、ふと、友の一人が、吉住の芳香について、理由を尋ねた。
 吉住は、細い目をいっそう細め、ううんと唸り、空を睨んだ。いや、睨むにしてはやけに切なげで、優しくもあった。
「天人の情けやろなあ」
「お前が、情けかけられるほどのええ男か」
「お前でそれなら、俺は天に連れていかれてしまうなあ」
「……匂いがあるから、忘れられへんねん」
 吉住はぼそりと呟いて、くすんと鼻を鳴らす。交えられた感傷に、二人が気づく前に、吉住は杯を天にかかげ、晴れ晴れと笑った。
「この酒は、うまいなあ」
 誘われて、二人の男も笑って、杯をかかげ、互いにかちりとぶつけあった。
 ちきちきと虫が鳴く。青みがかった月の光が、草の生い茂った前庭と障子の開け放たれた座敷へ座る三人の男を照らし、奥の部屋にまで忍び入った。文机の上に広げられたままの書に、細い筆で書かれた羽化登仙の四文字を照らした月は、やがて雲に隠れた。酒の酔いを撫でるような夜風が、頁をひらりと何枚かめくり、それきり動かなくなった。この書は、家の主の手によって閉じられることになる。夜風がめくった頁に書かれていたのは、天人を娶った男の話だった。
 翌々日、吉住の姿は、家から消えた。訳あって行く場所がある、とだけ記された手紙だけ、文机の上に残されていた。
 山へ向かって歩いていく吉住を見たという者もいたが、早朝の薄闇の中のこと、本人かどうかも定かではなく、結局、出奔したのだろうということで落ち着いた。
 吉住の匂いを惜しむ者は多かったが、吉住自身を惜しむ者は少なかった。元々、大した仕事をしていた男でもないし、いなくなって困ることもなく、かえって、汚い姿がなくなっただけ、こざっぱりしたようなものだと、何人かは語り、吉住の上役は彼の後釜が、まめまめしく働くのにほっとしていた。
 吉住の家は、遠縁の次男坊が継ぐことになった。親しくしていた友人二人も一時は心配したが、思い出してみれば、あの夜が別れの宴だったのだろうと考え直し、探すことはしなかった。ある日、ひょっこり戻ってくるかもしれないし、そちらの方が吉住には相応しいようだった。そう思わせる男だったのだ。
 吉住に相手してもらった子どもたちだけが残念がり、ぼんやり侍を囃し立てる歌を口にして、寂しさを紛らわせた。それも十年、二十年と過ぎ去る内に忘れられ、やがて三十と五年目、ある山に、夜道を行く男の姿が見かけられた。
 国元へ急いで帰らねばならぬ用事が出来て、時間を惜しんで夜道を行っていたのだが、どこで道を間違えたものか、街道から外れて、山の中へ踏み込んでいた。月が出ていることが救いだった。藪の中の気配に用心しながら、男は歩んでいく。夜露をしのげそうな場所が見つかれば、腰を下ろしたいのだが、この藪だらけの道とも言えない獣道では、それもままならない。
 草を払い、藪をかき分け、なおも歩み行く中、男は森の中の開けた一角に出た。月明かりの下、庵がある。人の手で、というよりも、突如として草木が形を為したとでもいうような庵を、怪しむ気持ちはあったが、薄ら寒い気配もない。むしろ、虫の声と月の光を楽しむために作られたような風情であった。
 一夜の宿を頼もうかと足を踏み出したとき、男はある香りを嗅いだ。この匂いを知っている。かつて、これと同じ香りの吐息を持つ男が友だった。予感に胸を騒がせ、男は庵をのぞく。
 庵の真ん中で、ごろりと寝転がっている男がいた。ぼさぼさ頭に、眠たげな顔、着たきりのよれた衣。三十五年前、姿を消した男が変わらない姿形で、ぐうぐういびきを掻いて、眠っていた。
 驚くより、この男らしいと納得するものがあり、男は縁側に腰を下ろした。月明かりを遮った影に、吉住は目を開き、おや、と笑った。
「なんや、藤村かいな。なにしてんねん」
 三十五年ぶりの挨拶がこれだ。
「客を放っておく高いびきの主をにくらしゅう思うてんねや」
 成樹が笑って言うと、吉住は、また笑った。
「すまんかったな」
 吉住はあくびを噛み殺して言い、のろのろと起き上がった。
 着物のたもとを払うと、その手には白いとっくりが握られていた。
「ま、一杯やろ」
 これもいつの間にか現れていた杯に、酒がそそがれる。すばらしい酒だった。水かと思うほどの清涼さを持ちながら、ふくよかな甘さと味わいがある。一口に飲んだだけで、長い旅路の疲れも忘れるようだった。
 差しつ差されつ、のんびり飲み交わす。語ることあれば、語ることなし。月だけ見上げて、酒の味を楽しんだ。
「うまいな」
 やがて、成樹が呟くと、吉住はそうだろうとうなずき、言った。
「みやげに持っていけ」
「残ってへんで」
 成樹がとっくりを逆さに振ると、吉住は、ほほえんだ。
「新しい酒が来る」
 視線がついと動き、空を見上げる。成樹も誘われたように、月光の満ちた夜空を見上げた。
 月の光がふと蠢いたように思え、目を凝らすと、淡い光りの固まりが、揺れながらこちらに向かってきた。
 吉住の吐息によく似た、それよりももう少し、柔らかな匂いが漂う。鈴の音が聞こえた気がした。光は、やがて人の形になり、揺れているのが、やって来る者がまとう衣の裾なのだと分かるほどにまでなった。
 光は庵の前庭へと降り立った。立っているのは、月明かりに照らされてながら薄衣を揺らす小さな少年だ。両手にとっくりを持って、ほほえんでいる。酒のせいでない酔いが生まれそうな笑みだった。
 少年に酌してもらい、成樹は、みやげだというとっくりを受け取った。少年は舞うような足取りで吉住の元へ行くと、彼に寄り添い、幸せそうに目を細めた。
「なんや、こないな山中で、寂しいやろなあ思って同情しとったんが阿呆らしいわ」
 成樹は苦笑して、手酌で酒をそそいだ。吉住は、はは、と笑い、少年の頭をそっと撫でた。
「こいつとな、月観て、花観て、酒飲んでれば寂しゅうない。たまに、人も迷い込んでくるしな」
 吉住が言うと、少年も笑い声を立てた。目にも耳にも綾な、涼しい笑顔と声だった。なるほど、世を捨てても、なお余りある存在だと成樹は納得した。
 月明かりの下で飲み続け、やがて、酔いの回った成樹は目を閉じた。芳香と酒の味と涼やかな笑い声が、夢の中でも成樹を楽しませた。
 目が覚めてみれば、庵も吉住の姿もなく、成樹は柔らかい草の上に、夜露にも濡れずに、横たわっているのだった。藤の花が垂れ下がり、ひらりひらりと花びらが顔に降りかかる。
 横にはとっくりが置かれていた。いい酒やった、と成樹は大あくびしたのち、誰にともなく、礼を言って、山を下りた。どんな加護があったのか、疲れを感じないまま、遅れを取り戻す早さで、町に辿り着いていた。
 用事を済ませてのち、成樹は、とっくりを携えて、ある屋敷へ足を向けた。
 みやげにもらったとっくりに満たされた酒は飲んでも減らず、杯に注げば、いつでも、かぐわしい、清涼な味の酒が、舌を楽しませた。幾度、飲もうと飽きのこない味わいの酒だった。
 成樹はもう一人の友の元を訪れ、吉住の時と同じように月を観ながら、二人で飲んだ。
 成樹は、吉住に会った、と一言だけ告げた。
 なるほど、と光徳はうなずいた。
 それ以上は語らなかったが、美酒を飲み干した光徳は、呟かずにはいられなかった。
「天上の酒やな」
「俺らも地上で羽化登仙や」
 杯片手にそれぞれ呟けば、空には満天の星、満ちていく月がある。目をこらせば、羽衣たなびかせる天人と雲に乗る仙人が見えそうな、明るい夜空であった。
 成樹と光徳は思い果たした友人へ、祝いの杯を捧げた。



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