昔、昔から、始まる話になる――。
昔、風に守られたある国があった。国は王が統べ、王には美しい妹がいた。彼女は、ある時、国を訪れた異国の騎士と恋に落ちた。最初、王は騎士と妹の恋をこころよく、思わなかった。だが、騎士が武術に優れ、また人品卑しからぬ高潔な人柄と知り、彼を友とし、また義理の弟として迎えた。
彼らは、やがて一子を成し、その子を将、と名付けた。国王と王妃の間にも王子が一人いたが、天からの恵みである子は、幾人いても愛おしい。二組の夫婦は互いの子、自分の子をこよなく慈しんでいた。
恵みの風は、収穫の喜びを絶えることなく、もたらしていた。国は富み、人々は慈悲深い国王の元、幸福だった。一人をのぞいては。
その一人とは、国王に仕える大臣だった。彼は邪悪な魔法を操る身分だと隠し、王に仕える内に、王妹と王位に思いを寄せていた。しかし、王妹は野心から来る大臣の求愛をしりぞけ、思いだけを捧げてくれた騎士を選んだのだ。
大臣は自分を拒んだ王妹と、名もない騎士との婚姻を許した王を、深く怨むようになった。表では王族たちの幸福や子の誕生に喜ぶ振りをしていたが、しかし、心の内ではたぎるような憎しみを育てていた。
一つの憎悪の種子を抱いたまま、国は栄え続け、国王夫妻、王妹夫妻の間に生まれた子たちは健やかに育っていった。
大臣はある日、王妹夫妻の子である将の姿を見かけた。将は幼いながら、すでに国一の美姫と呼ばれた母親の面影を強く宿し、その笑みは、誰もの心を惹きつけずにはいられないほど、愛らしいものだった。
父の猟犬と戯れる将に、大臣は邪心を起こした。黒髪、黒い瞳、なめらかな肌、可愛らしい形に動く唇、小さいながらもどこも形良く育った肢体に引かれ、大臣は将を我がものにしようと、近づいた。
猟犬の吠え声と将の叫びに、王子が駆けつけ、不埒な振る舞いに及んでいた大臣に斬りかかった。父である騎士伯爵もまた、我が子を傷つけようとした大臣をその場で縛めた。
妹と王妃から話を聞き、国王は激怒したが、大臣の長年の忠実ぶりを思い起こし、彼を国から追放するだけにとどめようとした。
だが、すでに憎しみに心まで侵された大臣は、その慈悲を嘲笑った。
「王妹ばかりか、その子まで、長年かしずいてきた私を拒む。それを諫めず、国王もその弟も息子も、私を蔑み、馬鹿にする。ならば、私は、すべてを呪ってやろう」
大臣が右腕を振ると、国王夫妻と王子、そして王妹夫妻は、輝くばかりの白い羽を持った白鳥と変化した。将は両親と伯父夫婦、従兄弟が人の姿から羽を持つ鳥へと変わるのを呆然と眺めていた。
城の人々が騒ぎ、恐れる中、大臣は左手を振った。
国中の音が絶え、土地も建物も鋭い棘を持つ茨に覆われた。人々の姿は消え、国に残ったのは将だけになった。
大臣は寛大な素振りで言った。
「お前が、永劫に私のものになると誓うのなら、この場で家族も国も元の姿に戻してやろう」
卑怯な約束だが、将に否とは言えなかった。将が誓いを口にしようとすると、周りで白鳥たちが騒ぎ、羽をばたつかせ、その声を遮った。
「邪魔者がいないときに、私の名を呼べばいい」
大臣は嘲りの笑いを残し、立ち去った。
将の側には白鳥五羽だけが残り、将はその首を抱いて、泣いた。涙は白鳥たちの羽根を濡らし、床を濡らしても、まだ涸れなかった。目にも唇にも笑みは、浮かばず、涙で濡れそぼった。
せめて皆が、鳥と化したのなら、まだ救いがあっただろうに。白鳥たちは口々に、悲しみの泣き声を上げ、只一人、人の姿で残された将に体を寄せた。それでも、将が大臣を呼ぼうとすると、白鳥たちはそれを邪魔した。
白鳥の嘆きと将の悲しみは、茨で覆われた国に重く垂れ込め、やがて、一人の善なる精霊が罪無き者の涙に哀れみを覚え、将の前に姿を現した。
将は精霊に、両親と伯父、伯母、従兄弟を人の姿に戻し、国を救うすべがあれば、教えて欲しいと頼んだ。だが、大臣の魔なる呪いは強かった。精霊とて、たやすく解けるものではなかった。
精霊は白鳥たちの目に浮かぶ涙を見つめ、茨に覆われた国を眺め、最後に、将の瞳から絶えることのなく溢れる涙を見た。
精霊は問うた。父、母、伯父、伯母、いとこを元の姿に戻し、国に人を帰らせ、ふたたび、美しく栄えた土地としたいか、と。
将は、はい、と答えた。
精霊は、また問うた。
そのために、お前自身がどれほどつらく、むごい目に遭おうとも構わないか、と。
悲しむ白鳥たちを押さえ、将は言った。
「どんなことでも、いたします」
「では、これより七年間、笑うことなく、泣くこともなく、話すこともせず、沈黙だけを守りなさい」
精霊は、かつて誰よりも表情豊かで、花が開くような愛くるしい笑みを浮かべていた将に、そう言い、壁に這う茨を示した。
「そして、茨を組み合わせ、白鳥たちみなに服を作りなさい」
将はうなずいた。
「一度でも笑えば、一度でも泣けば、一言でも口をきけば、すべては無に帰すだろう」
将は、深く、深く、うなずいた。
精霊は将を都の外にある森へ連れて行った。将は森にある湖の側で、白鳥たちとともに暮らし始めた。昼は茨を集め、夜はそれを細かく組み合わせ、衣を作った。
茨は固く、その棘は鋭かった。将の指先は常に血を流し、茨で編まれる服は赤く染まっていた。だが、涙で濡れることはない。
将は誓いを守り、決して、泣かず、笑わず、口を開かなかった。
どんなに鋭い棘が肌を傷つけても声を上げなかった。慣れない森の暮らしの中、笑うようなこともなかった。悲しみと沈黙だけが将の内に積もっていった。それでも、将は家族と国を取り戻すため、湖のほとりで、茨を編み続けた。
何年か経った頃、東にある大国の若き王が、茨に覆われたという国の噂を聞き、数人の友とともに、風の国へやってきた。王の名は渋沢克朗といい、友三人を従えて、山を超え、野を過ぎ、川を渡って、この国の都を目指した。
恐れを知らない王たちが風の国に辿り着けば、なるほど、国土はすべて茨に覆われ、禍々しい気配を宿していた。人の姿はどこにもなく、朽ちてなお鋭い、茨の棘がそれ以上の歩を阻んだ。剣を振るっても、火を放っても、茨は切れず、燃えなかった。この国を救うのは、人の身に余ることだと王たちは悟らずを得なかった。
探索を諦め、呪われた風のない都から離れ、渋沢たちは森へと入っていった。短い旅の間、猟を行い食料を得ていたので、その日も森で鹿を一頭しとめ、渋沢たちは湖の側で夜を過ごすことにした。
馬を引き、湖までやって来た王たちは、夕暮れ近い薄闇の中、光るほどに白い羽を持つ白鳥たちが湖を泳いでいるのを見つけた。
見たこともないくらい美しい白鳥に、狩る者としての心を騒がされ、王の友人たちは弓をつがえ、白鳥を狙った。
水面を騒がせる矢に白鳥たちは悲鳴のような声を上げた。逃れようとする白鳥たちになおも矢が襲いかかる。
白鳥たちが空に飛び立つ時を狙おうと、渋沢が弓をつがえたとき、草薮をかき分ける音が響き、白鳥と渋沢との間に、人間が飛び込んできた。
恐れることなく矢の前に姿を晒したのは、将だった。茨を集めている中、ただ事ならぬ白鳥たちの叫び声を聞き、駆けつけてきたのだった。
将は白鳥たちを狙う狩人に、懸命に身振り手振りで、止めてくれるよう訴えた。将の張り裂けんばかりに見開かれた瞳に、渋沢は弓矢を下ろし、友人たちに白鳥を狙うのも止めさせた。
安堵した白鳥たちは将の側にやってこようとしたが、まだ怯えた目で渋沢たちを見つめる将は、白鳥を追い払い、姿を隠させた。
白鳥と人間との間の不思議な信頼ぶりに興味を引かれ、渋沢は水に膝までつかる将の側に近づいた。将は逃げようとしたが、渋沢は、もう白鳥を狙わないと約束し、ほほえみかけた。
将は渋沢を見つめ、静かにうなずいた。ぼろぼろの湿った衣を纏い、乱れた髪に小枝や木の葉をくっつけ、手足も黒ずんだみすぼらしい姿ではあったが、将が湖のように深く輝く瞳を持っているのに渋沢は気が付いた。
将を連れて、渋沢は陸に上がった。友人たちの呆れ顔を尻目に、渋沢は問いかけた。
「名前は?」
将は答えなかった。
「一人で暮らしているのかな?」
将は白鳥を指さした。その手は古い傷と新しい傷に覆われ、絶えず血を流していた。渋沢が傷薬を与えると、将は頭を下げた。塗りはしないで、傷だらけの手の中にそっと握り込んでいる。
鹿の肉を焼く匂いが立ちこめる森で、渋沢はなおも問いを続けたが、将が答えることはなかった。滅んだ風の国について問われたとき、ひどく悲しげな顔をしただけだ。
国の生き残りで、たとえようもなく恐ろしい目に遭い、言葉を失ったのだろうと渋沢も、また友人たちも思った。見捨てていくのも哀れなので、渋沢は将を自らの国へ連れて行こうとした。最初、抵抗した将も白鳥たちが周囲を飛び、鳴き声を上げたのを機に、おとなしく渋沢の馬に乗った。腕の中で、不安にか、か細く震える将に、渋沢は哀れみとは違う、別の感情を抱き始めていた。
将は渋沢の国へと向かう途中、茨を見つけては指を傷つけながらそれを摘んだ。そうして、森から持ってきた血の染みこんだ茨で編んだ服に、新しい茨を組み込んでいった。幾度、指が傷つくから止めるように、と渋沢が言い聞かせても止めなかった。茨を摘んでは、編み続ける。その横顔には白い狂気のようなものさえ漂うように見えた。
国を無くした恐怖で気が違ってしまったのでは、と友の一人が話し、他の二人もそれに賛同したが、渋沢は茨を編む将の眼差しに、確かに理性でしか浮かべ得ない深い悲しみを見つけていた。
風の国の唯一の生き残りとして、白鳥を付き従え、国へ現れた将を、東の国の人々は哀れみを持って歓迎した。湯を使い、髪をくしけずられ、新しい衣服を与えられた将は、見違えるほど愛らしく、同時に侵しがたい気品があった。
風の国の身分ある者として渋沢は扱い、闇よりも黒い艶のある髪と瞳を持つ将に、王宮の一角に住まいを与えた。
将は国王の庇護の元、東の国で暮らし始めた。
渋沢は様々な医師や学者を呼び寄せては、将の言葉を取り戻させようと、またその原因が何たるかを探らせたが、医師によって診断は異なり、学者によって説は違った。
どれだけ手を尽くしても、将は口をきかず、笑いもせず、泣きもしなかった。ただ悲しげな目で、茨の服を見つめ、付き従う白鳥たちを眺め、新しい血を流し続けるのだ。
数え切れぬほどの傷を持ち、いつも新たな傷を拵える将の指は、腫れ上がり膿んで、どんなひどい扱いを受ける奴隷でも、こうはなるまいというほどに、醜くなっていった。
渋沢は、幾度となく、将の手に傷薬を塗り、痛みを少しでも和らげる薬を、将に与え続けた。
笑うこともしない、泣きもしない、狂っているとしか思えない事を続ける、風の国の生き残りである人をいつしか、渋沢は愛するようになっていた。傍らにあって欲しいと強く願い始めていた。
変えようのない、諦めようのない思いだったから、渋沢は将に愛していると告げた。
将は渋沢といるとき、いつもそうするように、彼を黙って見上げていた。
「結婚してくれるかな」
将は、悲しげに、静かに、うなずいた。そうしながらも、やはり将の手は動き、血を溢れさせながら茨を編み続けていた。
渋沢は将の手に指輪を嵌めてやりたかったが、それを諦め、指輪を鎖に通して、将の首にかけた。将は指輪を見つめ、渋沢を見つめた。瞳が震え、唇が動きそうになった。笑いとも声ともつかない気配を感じ、渋沢は待っていた。だが、何も訪れはしなかった。
将は無表情に、茨を編み続けていた。血がしたたり落ちる。将の側にいた白鳥たちが細い声で、鳴いた。渋沢は将の髪を撫で、その場を去った。
王と将の婚儀が行われたが、祝福する者はわずかで、大半は呆れかえっていた。国王に対する敬慕が強い民人は、王が将に誑かされているとささやいた。
当初、寄せられていた同情も、将が黙々と、茨を摘んでは、得体の知れぬ衣のようなものを編み、衣も手も真っ赤に染めているので、消え失せていた。かわりに人々は、かすかな恐怖を抱き出していた。
王宮の手入れされた庭園に茨がある訳がなく、将は一人、街を歩き、荒れた墓地や屋敷の植え込み、都のはずれから茨を摘んでくるのだった。白鳥たちは常に将の側に従っていたから、人々は血とは対照的なほどの眩い白い羽を見た。不吉なほど真白い羽を。
それは将が国王と結ばれ、東の国で国王に継いで高貴な立場になっても同じだった。
謁見の人々に対し、将がちらともほほえむことはなく、黙って、茨を編んでいる。胸に下がった鎖の先には、王が婚姻のあかしに贈った世に二つと無い貴石を填め込んだ指輪が揺れていた。
どれほど、家臣や友から注進や忠告を受けても、渋沢は聞かなかった。
渋沢は将を愛していた。この静かに狂える、あるいはそれを装う、将を何物にも耐え難いほどに愛していた。同じ思いを将が抱いてくれていたら、どんなにか、素晴らしいことだろうと思い、その感情故に、将に常に従う五羽の白鳥に嫉妬してしまうこともあった。
閨でも、将は渋沢の手により、一通りの反応は示すが、結ばれたばかりの恋人たちにふさわしい情熱は現れなかった。無垢だった小さな体で渋沢を受け止める様子と、唇を必死に噛みしめ、愛撫を堪える様子が、痛々しく、切なく、渋沢はついに閨を別々にした。そのことに、将は安心したようだった。そう見えた。
渋沢の懊悩を知ることなく、将は相変わらず、都を歩き、荒野や藪から茨を摘んでは、黙って編み続けていた。
将の深い湖のような目が、自分の思いを反射する鏡のように思え、渋沢は人知れず、ため息をつくようになっていた。将は国王からの求婚を断り切れなかっただけなのかもしれない。瞳の中に、自分への優しい思いを見つけた気がしたのは、間違いだったのだ。
将のことを思いやらず、自分の心のままに振る舞ってしまった後悔と、応えることのない相手を愛し続けるむなしさと悲しさに遣り切れず、渋沢は一人、苦しんだ。
せめて、将がほほえんでくれたら、あるいは嫌だと拒み、泣いてくれたのなら、渋沢は、将のどの選択にも応えるつもりだった。それが別れだとしても、将が望んでいるのなら受け入れるつもりだった。将を手放すことが身を苛むほどの苦痛に変わったとしても、それが将の幸福のためなら、構わなかった。
しかし、将は厭がることも拒むこともせず、ただ黙って、茨を編み続けていた。渋沢を見上げるときの瞳の悲しさは、日に日に濃くなっていったが、それは自分を疎むがゆえかもしれないと渋沢は考え、将の前に姿を現すことを控えるようになった。
国王と将の仲が冷たいことが公然の秘密として、人々の間に知られ始めた頃、都に不可思議な風体の男が現れた。彼は自分を予言者と名乗り、この国の行く末が、どれだけの不吉に彩られているか語り始めた。
飢饉、他国の侵略、疫病、といった恐ろしいことが起きると語り、それは白い白鳥が連れてくる、と占者は言った。彼が指さす先には、茨を集める将と、その頭上を優雅に舞う白鳥がいた。
やがて、予言者の言葉をなぞるように、雨が降らなくなり、乾きの恐れが生まれた。熱波で人が死ぬと、それは得体の知れない病のせいだと恐れられるようになった。
渋沢は流言飛語を戒め、予言者を追放したが、彼は人々にある言葉を残していった。
「白鳥を追い払え。五羽の白鳥はそれぞれ飢え、乾き、病、殺戮、死の使者だ」
恐怖は恐怖を生み、人々は将の連れた白鳥を恐れた。茨を編む将の元へ貴族高官たちが訪れ、剣、杖、槍、弓矢で持って、白鳥を追い立てた。将は必死に止めたが、無言の抗議に誰も構わなかった。
白鳥は、それぞれ羽を散らし、傷つきながら、甲高い悲しげな声を上げて将のいた露台から飛び立っていった。
白鳥が残した羽毛を焼き払ってのち、人々は恐怖をしりぞけた喜びを分かち合った。だが、あれほど白鳥を愛し、側に付き従えていた将が涙も見せないで、醜く腫れ上がった手で散らばった茨を集め、何事もなかったように編み出したのに、新たな恐怖を抱いた。しかし、そのとき王が姿を見せたので、貴族高官たちはその場から下がった。
足跡と焼けこげた後が残る露台を片づけさせながら、渋沢は将に、必ず、白鳥を見つけると約束したが、将はかぶりを振るばかりだった。
渋沢は、その首に下がる自分が与えた指輪を見つめていた。王の伴侶の指に輝くはずの指輪は、決して指に嵌められることがないのだった。茨の棘だけが、将の指に刺さる。
「俺のことが嫌いか」
将は顔を上げ、渋沢を見た。悲しげな目に、渋沢は自分から目を逸らした。
「すまなかった」
渋沢は、白鳥のいなくなった露台から、去った。
五日後、東の国情が不安定と見て、北の国が大軍を寄越した。不可侵条約を結んでいた国の裏切りに、人々は動揺した。
渋沢は国境付近の軍からの急報に、援軍を送ったが、戦いの状況は思わしくなく、自ら、軍を率いて、いくさの場に向かうことにした。国王自ら戦場に出ると聞いて、士気は上がり、街道の要にある砦は、何とか持ちこたえたようだった。
別れの夜、渋沢は、いくさが始まってから久しく訪れていない将の元へやって来た。足下には、すでに完成したらしい茨の服が四枚あった。それでも、将はまだ編み続けている。それも半ば、出来上がっていた。
将は渋沢に目を向けたが、以前の細さなどどこにも見当たらない、腫れ上がった醜い手を動かし続けていた。茨を求めて、将は荒野を歩き、草薮を行くので、体には傷が絶えなかったがそれでも、手に比べれば、まだましだった。
棘が膿んだ部分を刺せば、血と共に黄色い汁が流れた。赤黒い痣、黄色い染み、黒みがかり、青ずんだ腫れ。爪も腫れた肉に埋もれている。
手以外のなめらかな美しい将の肌を知る渋沢は、将に近づき、その足下に膝をついた。
懐から薬を取り出し、将の手に塗った。将の手が止まる。薬に含まれた蜜の薫りなのか、甘い匂いが漂った。
薬を塗り終えた後も、渋沢は将の手に触れていた。腫れのせいか、将の手はいつも熱く、固かった。
「明日、発つよ。しばらくは戻らない」
将はうなずいた。
「激しいいくさだ」
引かれようとした将の手は震えていた。
「この都を敵兵には渡さない。二度と君の目の前で、都が滅ぶことはないから、安心してくれ」
将に返事を望むことを渋沢は諦めていた。瞳をのぞき込んでも、悲しさだけしか見つからないのも知っていた。
「大丈夫だよ」
将の頬を撫で、渋沢は囁いた。まるで自分に言い聞かせるがごとく。
「大丈夫だ」
唇が震え、将の瞳は陰った。色のない悲しみに覆われた面だった。
「――名前を知りたかったな」
将のまばたきは、普段のそれよりも長いように思えた。渋沢は唇でなく、親が子に与えるような口づけを頬に送って、自分の寝所へ引き取った。二人はもう幾年も同じ寝床で休んでいなかった。口づけるたびに、将が震えるので、渋沢は将に触れることも遠慮していた。
渋沢が部屋の扉を押して出て行ったとき、将は椅子から立ち上がったが、震える膝に歩むことが出来ず、椅子に座り込んだ。手が茨で編んだ服を探り、棘に当たった。自ら、指を棘に押し当て、将は新しい血を流すと、五枚目の服作りを再開した。
そうやって、幾年月も将は茨を編んでいた。王が居ても、居なくても、それは変わらなかった。将にはそうするより他がなかった。
王が戦に向かったというのに、心配する様子も見せず、茨を編み続ける将を、人々は非難した。都に残った王の友人が、将を庇ったが、それにも限界があった。
雨はわずかばかりしか、国を潤さなくなっていた。都には深い井戸が幾つもあったから、すぐに乾く訳ではなかったが、熱波のせいでないたちの悪い疫病が流行り出していた。病にかかった者は、嫌な臭いを発したので、すぐにそれと分かった。
次は飢饉が来ると、人々は囁いた。その視線の先には、茨を集め、さまよい歩く将がいた。
王のいない都には、予言者がふたたび、現れた。彼は不吉な予言を口にした。
王は戦に破れ、この都は北の荒々しい兵たちに蹂躙される、と。
口々に救いを求める人々に、予言者は言った。
「風の国から呪いを運んできた者を焼き殺せ。炎と血で、都の禍を払え」
人々は将の死を望んだ。将が茨を編むのは、自らの国を滅ぼしたときのようにこの国を滅ぼすためだと信じた。東の国は王の死と共に戦に負け、茨で覆われてしまう。その前に、乾きと飢えと死病が、蔓延するのだ。
思わしくない戦況の様子が、伝えられる中で、将は茨を摘むのを止めた。ついに茨を使った服は編み上がったのだ。だが、白鳥たちは戻らなかった。
声を出さない将に、白鳥を呼ぶすべはない。露台に出ては、将は白鳥たちの去った方角を眺め、祈るように手を組んだ。茨を編むのを止めても、その手はもはや元の形には戻らず、あちこちが節くれ立ち、醜いこぶと痣が残っていた。
醜い手を組んで、将はまた、渋沢が軍を率いて向かった方角も見つめていた。その姿すら、王が敗退し、戦場で死ぬように呪っているのだと恐れられていることも知らずに。
やがて、王が負傷したとの知らせが届けられ、将は裁判にかけられた。一言の答弁もしない将に、国と王を呪った罪として火炙りの刑が科せられることとなった。
王の友人は渋沢へ使者を送った。処刑が嘘ではないあかしとして、鎖がついたままの指輪を彼らは手紙に同封した。
その頃、戦場では、北の国の兵が自分たちの国へと敗走を余儀なくされていた。苦しい戦いではあったが、王の号令の下、東の国はついに勝利を収めていたのだ。
使者は戦いを終えた慌ただしい陣中の中で王に、将の処刑の日取りを伝えた。
知らせを聞き、指輪を目にし、渋沢は戦装束も解かず、単身、都へ馬を走らせた。夜も昼も駆け続け、馬が倒れれば、新しい馬を得て、また走らせた。
都は遠かった。王が都を目にした日、すでに火炙りの準備は整えられ、広場には人々が集まっていた。予言者も人垣の中に立ち、狂信者めいた瞳で、処刑の時を待っていた。
牢から引き出された将は、薪の上に作られた処刑場に上げられ、丸太に後ろ手に縛られた。足下には茨の服が、共に炎で清められるため、置かれていた。
将は自分が死ぬことは悲しくなかった。茨で服を作り始めたときから、漠然とではあるが、服を作り終えたとき、死ぬのだと思っていた。そうすることで呪いが解け、五人も国もふたたび元の姿に戻るのだと信じていた。そうなるのなら、喜んで自分の命を差し出しただろう。
悲しいのは、渋沢に何も言えないまま、別れることだった。将は渋沢の手が好きだった。癒えようもなく傷ついた自分の手を、いたわってくれる手が、いや、渋沢のすべてが好きだった。見ていると、堰きとめている心が溢れそうになった。二人きりの閨でも、声を発さないようにするのはつらかった。
ほほえみかけてくる優しい王に、ありがとう、と言いたかった。ごめんなさい、と言いたかった。好きだとも、愛しているとも言いたかった。だが、何より、口にしたいのは渋沢の名だった。
一度、声に出して呼びたかった。その名の響きを楽しみ、声に答えて、彼が振り向いてくれるのを見たかった。すべて、今となっては無理な願いだった。
将は黙って、油をまかれた干し草に火が付けられるのを見ていた。煙が立ちこめ、炎が上がる。薪がはぜるたびに、火の粉が舞った。熱が迫り、息をすると喉を灼いた。煙が目に入れば涙が出そうになるので、将は目を閉じていた。
薄れゆく意識の中、将は、渋沢の悲痛な声を聞いた気がした。それは幻でなかった。ようやく、都に辿り着いた王は火を止めるように人々に命じていたが、炎はすでに誰の手に負えようもなく、燃えさかっていた。
激しい炎に肌をなぶられる将の頭上を五羽の白鳥たちが旋回していた。鋭い鳴き声を上げながら、炎の上を飛ぶ白鳥たちは、人々が大声を上げ、石を投げても、逃げようとしなかった。
炎が茨の服の近くにまで赤い舌を伸ばしてきたとき、善なる精霊の声が響き渡った。
「七年の誓い、確かに見届けた」
その時、笑うことも、泣くことも、言葉を口にすることも出来ない将の七年間が終わった。
将は腕を縛っていた縄がほどけたのに気づいた。燃え狂う炎に周囲を包まれていても、熱くはなかった。精霊に守られ、将は足下の茨の服を取り上げた。まだ熱を持ったそれを白鳥たちに向かって、投げ与えた。
茨の棘が羽根に刺さると、白い羽毛が飛び散った。羽毛は地に落ちて、眩いばかりの黄金となる。茨の服は、香木となり、血の染みこんだ部分からは紅玉の花が咲いた。白鳥たちは次々と地上へ降り立ち、黄金の光と共に人の姿になった。
威厳溢れる王と王妃、気品に満ちた王妹と騎士の姿に人々はどよめいた。最後に人に戻った王子が、その場で予言者に掴みかかった。
彼が邪なる魔法を操る大臣であると、白鳥だった王子は気づいていた。誓いを守り通した人間へ天は加護を与えたので、大臣はその力を振るうことが出来なかった。
王子は、自分たちの身と国に起きた悲劇を語り、大臣を討つ正当性を知らしめた。渋沢は自らの腰の剣を王子に手渡した。王子は大臣の首を落とした。
首の切り口から流れる血は黒く、嫌な臭いを発し、死骸はぐずぐずに溶けた。その臭いは、疫病に冒された人間から漂う臭いと同じだった。
人々は疫病の原因がなんたるかを知り、予言者の言葉に惑わされ、罪もない人間を火炙りにした自分たちの罪を悔いた。そのとき、都を包んでいた邪気が去った。
すべてを清め、洗い流すため、善なる精霊は雨を降らせた。雨は炎を打ち消し、炎が消えた処刑台の上には、生きた将の姿があった。
その目に涙が溢れているのを、渋沢は見た。煤で黒くなった頬を雨と涙が、白く清めていく。雨と涙は将の喉を潤していた。
澄んだ甘い声で、将は七年ぶりに言葉を口にした。
「渋沢さま」
風が吹き、人々の心から最後の疑いと恐怖と不安を運び去った。
渋沢は処刑台の上から将を下ろした。握った将の手には、腫れもこぶも傷もなく、淡い桃色をした爪と細い指があった。
渋沢はその指に、指輪を嵌めた。あつらえたごとくに、指輪は将の指に入り、雲の切れ間からのぞいた太陽に照らされ、光った。それよりも眩い笑みを浮かべた将に、渋沢は口づけた。
風の国には人の姿が戻り、かの国を覆っていた茨は比類ない美しい薔薇をつけた。薔薇の甘い匂いは、風に運ばれ、東の国にも届いた。その香りの中、改めて、王と将との婚姻の儀が行われた。風の国の王と王妃、王子、王妹とその夫である騎士も見守り、これを祝福した。
長い沈黙の果ての甘い語らいと恋を得た、渋沢と将は常に仲睦まじく、寄り添い合い、幸福に暮らした。東の国と風の国もまた、末永く繁栄した。