昔なじみ



 扉を開くと、ピアノの音がより大きく聞こえ出した。半地下になった店へと階段を下りていくと、テーブルの間を行き来していた給仕人たちが渋沢の顔を見て、そっと頭を下げる。外套を渡している間に、給仕人の一人が客と話をしていた将に渋沢の来訪を囁きかけていた。
 ゆっくり上がった視線に目顔で挨拶して、渋沢は案内された窓際の席に腰を下ろした。
「お久しぶりです」
 白髭の給仕人がにこやかな笑みと共に渋沢に挨拶した。
「今年もまたお目にかかれて光栄です。ご注文は、いつも通りでよろしいですか?」
「ああ」
 渋沢も笑みを浮かべ、うなずいた。この店は顔なじみの者ばかりで、渋沢が頼む品も、大抵、同じものだった。季節の魚料理とそれに合うワイン、それだけだ。
 注文した前菜とワインが運ばれてくる頃には、将が向かいの座席に現れた。影を揺らしながら椅子を引いて座る。黒い瞳がまたたいて、店に入ったときと同じように、ほほえんだ。
「元気そうでよかった」
「先輩も」
 渋沢は将の前に置かれたグラスにワインをそそいだ。将は手に取らず、黙っている。照明の一つにもなっている、グラスに入れられた蝋燭の火を見つめ、何を、どう言おうか、考えあぐねたように、唇をかすかにふるわせていた。
 こうして見る横顔にはレストランとホテルの経営者とは思えない幼い線が残っていた。初めて出会ったときの面影が濃い。わずかな間、両親の後ろで大きな目を見張って、渋沢と彼の両親を見上げていたとき、そのままの顔に見えた。
 渋沢は十歳になった年に、学校教師として赴任してきた父について、アリエステムの街に引っ越してきた。将の家族も、またアリエステムの街に住んでいたが、すでにこの小島を所有し、街と島とを行き来して生活していた。島には将の祖父が始めたレストランとホテルがあり、私立学校の校長も務めていた将の父は、新しい教師と家族を夕食に招き、その席で、初めて渋沢と将は顔を合わせた。はにかむような、それでも目を引かずにいられない朗らかな眩しい笑みを浮かべる将と。
 ホテルとレストランだけは戦争を経て、いまもなお、変わらずにある。時の変化が刻まれるのは訪れる顔ぶれにだけだった。
 正面を向いた将の顔は、やはり昔のままではなかった。時間と喪失の悲しみを味わってきた瞳が渋沢の目に映る。将のふとした一瞬に自分は慕わしい過去を重ねているのだと思う。
 硝子にうつる炎から、将は渋沢に目を移し、すぐに視線をやや伏せた。
 ピアノの演奏が終わり、拍手も静まる中で渋沢に伝えた。
「今日、連絡がありました。三上先輩の遺骨が見つかったって。飛行機の残骸も一緒に」
 共に過ごした時間が、あまりに短かったから、将はいまだに結婚前の呼び名で三上先輩という。
「遺品も戻ってくるそうです。お義母さんに返しにいこうと思っています」
 将は少し、笑んだ。泣く代わりに笑うことを覚えたのは二度目の相手、笠井が戦死してからだ。
 不意に三上の言葉が耳によみがえってきた。
 ――見ているだけなら俺がもらうぞ。
 風祭はものじゃないぞと渋沢が冗談めかして言うと、三上は馬鹿な奴だと微笑した。彼が将に結婚を申し込んだのは、そのやり取りから二日後のことだった。戦火がどうしようもない速度で世界中に広がっていく中、三上は強引に五日の休暇をもぎ取り、将と式を挙げたのち、慌ただしく、パイロットとして派遣された南方戦線へと向かった。
 激戦区といわれた場所からは離れていたが、深く広がる森林地帯を偵察中に通信が途絶え、以後、生死不明の状態だった。森に潜んでいたゲリラ兵に撃墜された可能性が高いと伝えられていたが将は待ち続けていた。五年待って、今日、戦死の報告が届いたのだった。
 渋沢はワイングラスを持ち上げた。
「俺一人……生き残ってしまった」
 将もグラスを持ち上げた。
「僕もです」
 グラスの縁とワインが、かすかに光った。

   主人と古馴染みの会話を邪魔する者は誰もいなかった。食器の触れあう音と、給仕人の静かな足音、すべてを包み込むピアノの旋律が人々の会話の向こうにあった。
 将と渋沢は、会わなかった互いの月日を言葉少なに伝え合った。一年ごとに訪れるやり取りだ。
 食事も終わり、渋沢がコーヒーを飲んでいると将がためらいがちに訊ねた。
「しばらく滞在されるんでしょう? お部屋を取りましょうか」
「いや。街の方に取ってあるんだ」
「いつも、そう言って、ここには泊まってくれませんね」
「そうかな」
「そうですよ」
言いながら、渋沢も気づいていた。レストランには何度も訪れているがホテルに泊まったことはない。どこにどんな部屋があるか、どんな内装なのかも、すべて知っているというのに、客になったことはないのだ。
「また次の機会に泊まらせてもらうよ」
 それもいつもの言葉だと将は呟いた。ほのかな明かりに照らされた将の輪郭が滲んでいる。
 本当なら、明るい日差しの元で幸福に笑っていられたはずだし、それが将の両親や兄、何より、渋沢自身の願いだった。
「――今度こそ、泊まっていってくださいね」
 渋沢が店を出る際、見送りに立った将は言って、渋沢を見上げ、笑んだ。
瞬間、渋沢は時が戻ればいいと強く、祈った。こんな溶けていくような笑みでなく、見ているだけで、目を細めずにはいられなかったあの笑みを浮かべていた昔にまで、時間が戻って欲しかった。
 渋沢はむなしい祈りや願いにありがちな激情の後の静かな声で言った。
「約束するよ」
 将はうなずいた。

 将の悲しみや翳りに、責任を感じるのは身勝手な思いなのかもしれない。そう思うことで、自身の悲しみから逃れられのではと我知らず、期待しているのかもしれない。
 ――三上の申し込みを受けることをためらう将を、うながしたのは渋沢だった。口の悪い男だが信頼していい相手だ、朋輩として見てきたから分かると言って。
 将はうなずいていた。否とも諾とも言わず、渋沢を見上げ、やがては夜の海を眺めていた。あのときの暗い静かな海が将の心だったのかもしれない。
 将はすでに二度、相手に死別していた。そのどちらもが、渋沢の後輩だった。
 最初は渋沢が休暇で戻ったアリエステムの街へ、遊びにやってきた藤代だった。駅で将と出会った藤代は将に一目惚れし、語りぐさになるくらいの熱心さで口説いた。
「僕、藤代君と一緒にいると、いつも笑ってしまうんです」
 冗談ばかり言うから、と将は笑った。
 夏の日だった。波のような白い帽子を被った将は海と同じ色の服を着て、庭の苔生した石塀の上に座り、隣の渋沢を見上げていた。厨房のコックが詰めてくれたバスケットから出した焼き菓子とサンドイッチ、紅茶が二人の間にあった。子どもの時と同じ時間の過ごし方だった。けれど、将が頬に菓子のかけらをつけることはもうないし、渋沢もそれを取ることはない。そして今、二人が話すのは藤代についてだった。
「学校でもそうだった。あいつは陽気な男だよ」
 若いからと反対する双方の両親を押し切り、藤代が情熱を結実させる前の会話だ。将は無事、式を挙げ、まるでさらわれでもしたかのように藤代と共にアリエステムから旅立った。藤代の家族への披露も目的とした新婚旅行だった。そのまま将は藤代の所属基地のあった街で新しい生活を始めたのだ。
 将からは絵葉書をよくもらった。文面からすれば藤代とも彼の家族ともうまくやっているようだった。アリエステムとは違う、藤代の故郷の風景がめずらしいらしく、当地の写真を使った絵葉書を必ず、使ってくれた。
 何気ない一節を渋沢は今でも覚えている。
 ――チエッタはアリエステムと違い、海がなく、山や丘ばかりです。ずっと緑が広がっていて、藤代君はこれがここの海だといいます。確かに草が風に吹かれて揺れているのは、さざ波が立っているように思えます――。
 一年半の生活のあと、植民地の境界問題から発した最初の戦争が始まった。折から戦争になるとは囁かれていたから空軍に所属していた藤代は当然のごとく、召集を受け、別基地へ派遣された。
 渋沢は当時の前線にいた。一生、残る傷跡を負う負傷もしたが、死にはしなかった。藤代の戦死を知ったとき、どうして俺が代われなかったと絶望に近い後悔を抱いた。誰彼と区別無く、人が死んでいく。それが戦争であると分かっていながら、そう思った。
 藤代の機体が撃墜され、戦死したとの知らせを将に伝えたのは笠井だ。飛び立ったのは五機だが生還したのは一機、それが笠井の機体だった。
 渡された遺品代わりの私物が入った箱を抱いて、将は笠井に礼を言った。上がって、お茶を飲んでいくようにも勧めた。笠井は迷いながら、それを受けた。
 藤代について語ることが慰めになるのか、いっそうの悲しみを呼ぶのか分からないまま、笠井はぽつぽつと言葉を口にした。
 私物の中には将の送った手紙と何枚かの写真があった。
「この中から、一枚、藤代は出発前に持っていっていました」
「きっと……旅行に行ったときの写真です。一番、気に入ってましたから」
 将は渡された箱の中の細々した品物を見ていた。ガム、煙草、小銭、写真、手紙、書き損じのメモ用紙、ペン、壊れたゴーグル、時計。
 将は一つ一つ、手にとっては見つめていた。そこに藤代のかけらがあるのではないかと信じるような仕草だった。
 笠井は自分がいれば将は泣けまいと思い、早々にアパートから去った。すでに将の面影が胸に刻まれていたのだろう。
 ためらいながらも、もう一度、将の元を訪れたときに渋沢と顔を合わせて、驚いた顔をしていた。渋沢は藤代の訃報を聞いて、将に会いにきていたのだ。そうして将から笠井の訪れを聞いた。――そのとき予感したのだろうか。将を託せる二人目の相手を見つけたと。
 同じ時間に部屋を辞したため、帰り道は一緒に歩いた。二人で夜が近づく街を酒場にも寄らず、足音を響かせていた。
何ブロックか歩いて、笠井が静かに言った。
「先輩のお知り合いだったんですね」
「幼なじみというのかな。子どもの頃から知っている」
「そうですか」
 横顔に浮かんだ感情が、同情というには、もはや真摯すぎた。
 それからを渋沢は見ていた。生き残ったという罪悪感を抱きながら思いを芽吹かせていく笠井と、おいていかれたという絶望の内になおも抗おうとする将の二人を。
 一度、笠井が迷うように訊ねてきたことがある。
「友人の相手を……愛するのは、許されることでしょうか」
 自問するように笠井は言った。彼の瞳を見て、渋沢はうなずいた。
 罪ですらない。そう言った。
 笠井は彼らしい、淡く優しい接し方で将の側に居続けた。戦争が混乱の内にもどうにか終結を迎えたのち、渋沢が立会人になり、数人の友人の参列の元、将と笠井は式を挙げた。
 幸福に。藤代の時以上に、渋沢は強く願った。果たされないむなしさを知っているのなら、これほどには願えまい。
 将と笠井の静かな生活は三年間、続いた。反対していた将の両親も、ようやく二人を許し、将は笠井と共に心安らかな日々を送った。
 将はふたたび笑うようになった。藤代がいたときと同じとはいかない。名残というしかない、かすかなものだ。もはや、あの笑みを見ることは叶うまい。だが、傷は癒えるものだ。跡は残ろうとも、必ず癒える。そして、いつかと信じなければ、人は生きてはいけまい。
 渋沢の願いは、もっとも残酷な方法で砕かれた。ふたたびの死別だった。
 笠井は戦死ではなかった。政府要人を狙った列車爆破事件に巻き込まれたのだ。列車の下から発見され、病院に運ばれたがその時点で意識は失われ、ついに戻ることはなかった。
笠井の葬られた墓地で、どうして、と将は呟いた。その問いに答えられる者は、この世に誰一人としていない。溢れて止まらなかった涙を終わらせても、それは将のすべてに染み込んで、刻印を残していた。
 一年、将は喪に服し、アリエステムへと戻った。政情不安が続いていた。対戦国は不利な条約を結ばされたため、争いの種は蒔かれたまま、芽吹く時を待っていたのだ。
 渋沢は戦地へ派遣される前に一度、故郷へ戻った。同時期に、アリエステムにほど近い街に避難してきた両親の元を訪れていた三上が渋沢の帰郷を知って、やって来た。
 そうして将に会った。将はすでに喪服を脱いでいたが、渋沢はその目に黒い諦めを見つけていた。その暗さすら魅力になっているのだとしたら、誰が三上の心を責められるだろうか。
 三上はすでに将を見知っていた。飛行士養成所で、渋沢へ届けられる手紙の中に、必ず、将の名前があったからだ。藤代や笠井との結婚も知っていたし、笠井との式には三上も立ち会っていた。いつから思っていたのかまでは話はしなかったものの三上は率直だった。渋沢を連れ出し、将に対する想いを告げた後、訊ねた。
「どうして結婚しないんだ? 惚れてるんだろう?」
「違う。風祭とはそんな関係じゃないんだ」
「俺には分かってないだけに思えるな」
 違うと言えば言うほど、信じてもらえずに、もどかしさだけが胸に残る。
 将の兄、功と話したときも同じだった。
 藤代と将の結婚が決まった後、誘われて飲みに行き、式の次第や藤代との人となりについてなど話した。
 ほろほろと酔っていた功は思いがけない言葉を口にした。あるいは、これを言うために、渋沢を誘ったのかもしれない。
「俺は、君と将がくっつくと思っていたんだ。そうなればいいと思っていた」
「まさか」
 そういう未来もあると思わなかった訳ではない。しかし、あるのかもしれないと思うのと現実とは違う。また、この現実を、渋沢は心から祝っていた。自分でも驚くくらい、真実の思いだった。
「難しいな」
 功は言って、低く笑った。その功も今はいない。
 二度の戦争で幾人もの友を失った。生き残ってしまったという思いは渋沢を疼かせる。それとも一人でそこにいて、いつまでも悔やんでいるがいいということだろうか。
 早くに死んで人を悲しませるのも罪ならば、こうして一人生き続けるのも罪だ。いや、それこそが渋沢が背負うべき業なのかもしれない。

 アリエステムを発つ前に、ある噂を聞いて渋沢は将にもう一度、会いに行った。昼に見る小島は、緑が石造りの建物に馴染み、海の色とあい重なる優しい風景を訪れる者に饗していた。テラスに幾本もの白いパラソルが咲いて、午後の茶や軽い食事を楽しむ人びとの姿が見える。
 ホテルに出向いて、将に会いたいと告げると、渋沢の顔を知る支配人が、庭にいると教えてくれた。
 案内を断って、渋沢は風祭家の人びとが代々、住んできた居住空間の方へ足を向けた。そこはホテルと密接するように建っているが宿泊客が立ち入れるようには出来ないように設計されていた。
 大きくはないが住み心地の良い家屋があり、よく手入れされた庭があり、渋沢は幾つもの季節をこの庭で過ごしてきた。父と母が今も住むポーチのある一軒家が我が家なら、ここは少年時代の象徴のような場所だった。
 変わらずに、草木が繁り、花が咲いている。石畳の道は土塀と同じように苔が生え、石と石の間からは、芝草ものぞく。庭を縫うように続くその道を辿った。
 庭の端近くに造られた、海が見える四阿には茶器が置かれていたが、将の姿は見えなかった。渋沢はベンチに腰掛け、船が走り、飛空挺がゆく海と空を見ていた。
 海からの風はさわやかで、梢を鳴らし、眠気を誘った。疲れているのかもしれないと瞼を押さえていたが、いつの間にか、うたた寝をしていた。
 目が覚めると、将が隣に座って、海を見ていた。渋沢が姿勢を正すと振り向いた。
 将の口元がほころんだ。心そのままを映した明るい笑みはもう見ることは出来ない。そのかわり、胸に染み入るような笑みを浮かべる。
 将が茶を淹れてくれた。
「行き違いになったみたいですね。先輩が来たのと同時にお客様がいらしたんです」
 渋沢はふっと胸に浮かんだ名を口にした。
「水野男爵?」
「どうして、分かったんですか」
 将が目を見張った。琥珀色の茶から白い湯気が風に流されていった。
「分かるさ」
 今でも絶えない求婚者の一人で、とくに熱心な相手だ。夜、レストランで将と話しているときも、ちらちら視線を投げかけてきたから覚えている。
「金持ちだが、ずいぶんと人のいい男だと聞いたよ。陸運の会社を経営していたな」
「趣味で飛行機に乗るそうなんです」
 そこで将はからかうような、おかしがるような目を渋沢に向けた。
「空輸の会社を経営して、車を走らせるのが趣味の先輩とは逆ですね」
「俺の会社は、向こうほど大きくないよ」
 どんな種類のためらいを感じたのか間をおいて、渋沢は訊ねた。
「――結婚を申し込まれたんだろう?」
 将は渋沢を見て、笑う。
「もう、空を飛ぶ人とは結婚しません」
 自分に言い聞かせるように将は呟いた。そうかと渋沢は呟いた。
 静かに午後の時間が過ぎていった。不意に静寂を破って、将が立ち上がる。
「先輩」
 渋沢の手を引っ張った。渋沢はカップを受け皿に置き、引かれるまま立ち上がった。
 将は庭の茂みを抜けていく。木漏れ日が頬や肩に落ち、軽く上下する体の上で踊っているように見えた。
 庭の終わり、古びた石塀の前まで行って、将は足を止めた。
「ここによく座りましたね」
 将は身軽く石塀に上がり、腰を下ろした。目線が近くなる。渋沢も手がかりと足がかりを使って石塀に昇った。ぱらぱらっと軽く、小石や砂埃が落ちていった。
 庭の内側と違い、外側は思ったよりも高さがあった。足下に小さく、石塀をくみ上げたときの足場が見える。将の手が苔の生えた石塀を軽く撫でていた。
 木陰の落ちたここから見える海は、いつも同じだった。雲の形さえ、同じに思えたものだ。
 刻々と変わりゆくものが本当は何一つ変わらない。そう知った日の心の開放感を思い出す。初めて、将を乗せて飛んだ日だった。空の色そのまま、鮮やかに目に浮かぶ。
 上にも下にも広がる青と碧の中、焼き菓子のような雲がぽっかりと浮かぶ。全身に震動を与えるエンジン音、耳の中で風が吹いていた。凪いでとろりとした海を、小さな船が行く。甲板の水夫たちが手を振ってくれた。
 その上を渋沢の飛行機は飛んでいた。将を後ろに乗せて。どこまででも行けると渋沢は、ふと思った。そして水平線の向こうに、いつか辿り着き、飛行機乗りの話す延々と続く空と雲の庭を飛べるのではないか。
 振り向くと、ゴーグル越しに将の目が大きく、輝いているのが分かった。言葉も、動作も必要なかった。飛んでいるだけで心を重ねられた。
 どれほどに年月が流れ過ぎていくのだろう。過去はいよいよ美しく、それらを知る人々は先に歩み去ってしまう。それでも、その時に至るまで、自分はこの空の下にいなければいけないのだ。
「同じ空……」
 将が空を見上げて、呟いた。  将も思い出していたのだと渋沢は知った。同時に、ようやく将への思いを悟った。
 幼なじみだ。二人の間には思慕があり、肉親同士のような慈しみがあり、幼い頃の記憶がある。それゆえに一心に将の幸福を願っている。それらすべてを含めて、幼なじみというなら、これ以外に相応しい言葉も思いもないだろう。
「風祭」
 将が空から渋沢に視線を移す。
「俺は君より、先にはいかないよ」
「先輩はいつだって、僕の前を飛んでいるのに」
 将はほほえんで、独り言のように囁いた。
「――ありがとう」
 肩を並べて、渋沢と将は澄んだ空を見上げた。涙のように雲がぽっかりと一つ、浮いていた。

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