夢のような話

※元ネタは田中貢太郎『中国の怪談一』の『愛卿伝』です。



 塩を商う御用商人の荷の護衛が、そのときの三上の仕事だった。もっとも、三上自身が直接に頼まれた仕事でなく、古い付き合いの友人から回ってきた話だ。
 前金の額を含めた報酬や護衛の間の待遇も悪いものでなかった。その分、危険があるわけだが、と友人の手紙には書かれていたが、三上は了承した。食うに困っている暮らし向きではないが、これはこれで退屈しのぎにもなる。
 その日の内に、屋敷を出て、三上は渋沢が知らせてきた荷が下ろされる港町へと向かった。
 途中で妓楼に寄ったのは、気まぐれだ。予想以上に早く、港町に到着してしまい、肝心の荷が届いていなかった。前金で懐もあたたまったし、三上は暇つぶしにと色町に足を運んだ。
 妓楼の格はそれほどでもなかったが、それなりに落ち着いた、客層も悪くなさそうな見世だった。仕事前に面倒事も面白くないので、都合良かった。
 妓楼の女将は、三上を侠客、それもかなり腕の立つ、懐具合も寂しくなさそうな客と見たらしく、上位の妓を侍らせてきた。
 その中に、将がいた。席に侍らせた女たちの中では一番若く、そのためか何事も姉たちを立てた。姉分の妓たちも将をそれとなく気遣う様子が見受けられた。
 将は黒目の大きな、何かの間違いじゃないかと思わせるあどけない子どものような容姿で、体もこれで客を取っているのかと驚くくらいに小さく、細く、やはり幼かった。気がつけば、目が吸い寄せられるのだが、目立つ美貌でもないので、大抵の客は自分の見間違いだと思い、別の妓女を敵娼に選ぶだろう。
 主に三上の相手をしたのは、二十歳と十八の妓女で、将はといえば、酒を運び、料理を運び、それとなく楽人に曲を奏でさせ、もっぱら宴席を影から支えていた。
 将が酒の追加を取りに、席を立ったとき、三上は口元まで持っていった盃を下ろし、女の一人に尋ねた。
「あいつは幾つだ、あの小さいのは」
 どこか剣呑な目つきを持つ男の興味を感じ取ったのか、妓女は幾分、小声のなだめるような響きの声で答えた。
「十四よ。まだ店に出始めて間もないの。だから、いじめたりしないで」
「誰が」
 三上は眉を顰めた。不機嫌とまではいかなくても、妙に苛立っていた。賑わっていた席が少しずつ、沈んでいく。
 そこに将が戻ってきて、酒を姉分の妓女に渡そうとした。三上は顎をしゃくった。
「お前がつげ」
 将はでも、と言いたげに、三上の左右に座る妓女を見やった。三上の右に座っていた妓女が腰を上げる。逆らわない方が良いと取ったのだろう。
「お酌してさしあげて」
 将はこっくりうなずいて、隣に座り、三上の盃に酒をそそいだ。
 飲む前に、三上は将の薄く紅が差されている唇をじっと見た。小さな鼻やなめらかそうな頬や、炎の揺らぎをうつして濡れているような瞳も見た。どこもかしこも初々しさが残っていて、それがかえってこんな妓楼では痛々しく見える。なのに清らかにも見えた。
 将は盃に口を付けない三上を、不安そうに見上げていた。
「どうせ、お前、酒は苦手なんだろう」
 将は素直にはいとうなずいた。
「なら、俺もいい」
 三上は盃を置いて、将の体を抱き上げた。
「お前の部屋はどこだ」
 訊ねれば、妓女たちの戸惑いが顔に表れた。その子は、と言いかけた妓女の一人を三上は睨むように見た。女たちは黙った。
 将は細い声で、三階の端から二番目の部屋だと教えた。稼ぐ女ほど、部屋は階上になるから、将が店に出始めて間もないのは本当だろう。
 三上は階段で三階まで上がり、扉を足で押して、将の部屋に入った。
 赤い布団の敷かれた寝台に、将を下ろし、小さな足に履いていた小さな沓を脱がせた。
 ちいさな足だなと三上は文句を言うように呟いた。事実、小さかった。三上の掌に載せても、まだ余りそうだ。桃色の爪は染めているわけではなく、元々の色のようだった。ならば、紅を落とした唇の色も知りたいとたまらないくらいに思う。
「あの」
 困り切った、泣きそうな声が上から降ってきた。
 沓を置き、帯に手を掛けていた三上は何だと問い返した。
「僕でいいんでしょうか」
「悪かったら、ここにいやしねえよ」
 三上は乱暴に言って、そのくせ手は、静かに将の帯をほどいた。
 将の声が細くなり、震えた。
「でも、お姉さんたちの方が、その……」
 前をはだける。薄い胸だった。豊かな胸元の妓女たちとは、まったく違っていた。
「お客さんも、いいのかなと思うんですけど……」
 ぼく、やせっぽちですし、と恥ずかしそうに将は言った。
 三上は細い腰に左手を回し、残る片手で、上衣を肩から落とした。心臓の鼓動が、肌の上からでも見えそうで、三上が手を胸に当てると、将の体がひくりと震えた。
「なんだ、ここの妓楼は、妓女が相手を選ぶのか」
 将が首を振る。
 三上は自分の帯を解き、上着を脱ぐと、将を組み敷いた。おずおずと三上の首に手が絡んできた。手も小さいと三上が思うと、聞き慣れてきた、困ったような声がまた聞こえた。
「あの……」
「なんだ、今度は」
「僕、あまり、上手くないです……」
「そうか」
 ふっと息を吐いて、三上は微笑した。
「はい、楽しんでいただけないかもしれないです」
 将の唇に自分の唇を重ね、三上は将を黙らせた。
 ――うまくない、という将の言葉は当たっていたが、楽しんでもらえない、は違っていた。途中から、まずいなと思い始めるくらいに、三上は溺れた。

   翌日、将の部屋で朝食を取り、三上は妓楼を後にした。荷が来るまではまだ日にちはあったが、足は向けなかった。約束も何もしなかったし、一夜限りの客だと将も思っている節があった。それでも、荷物の護衛が仕事だと三上が言ったとき、将は気をつけて下さいねと本当に心配そうに呟いていた。
 何か言ってもよかったが、三上は止めておいた。何を言っても真実になりそうだった。どう言っても嘘になりそうだった。そんなときは、黙しておくべきだ。
 五日後、塩が到着し、三上は港町を発った。都までの道のりで、何度も賊に襲われたが、荷は一つして損なわれず、それどころか、本来の日程よりも早く、商人の手元へと届いた。
 満足した荷主によって、報酬には色が付いた。それとはまた別に、楽しんでくれればいいと商人は、護衛の男たちを色町に案内しようとした。
 都でもとびきりだといわれる妓楼へ行くとのことだったが、三上は断った。護衛仲間の藤代なぞは、馬鹿じゃないですかと言ってきたが、その脛を蹴り飛ばすだけにとどめ、三上は港町へと馬を可能な限りの早さで走らせた。
 港町へは二日後の夕刻過ぎに辿り着いた。妓楼の明かりは灯って間もなく、三上がその日で最初の客だった。
 朱塗りの扉をくぐり、迎えに現れた女将に、三上は、あいつは、とたずねた。
「あいつ?」
「ここでいちばん、小さいやつだよ」
「ああ」
 女将は、将のことねとうなずいた。女将は振り仰いで、大声を出した。
「将、将や! あんたにお客だよ」
 将ではなく、別の妓女たちが何事かというように、それぞれの部屋から姿を見せる。吹き抜けになった広間に立ち、三上は女たちの注視の中、将が顔を見せるのを待っていた。
 手すりから将が顔を出した。きょとんとした顔だったが、すぐに笑顔になった。
「お仕事、終わったんですか」
 三上は女将に金を放り、階段を上がると、将を抱きすくめた。香をつければいいのに、湯上がりの匂いしかしなかった。結われていない髪先もまだ濡れていた。
「店が開いたのに、まだ身支度も終わってないのか」
「僕はお風呂や髪の順番は最後なんです」
 言った将は頬を染め、嬉しそうに呟いた。
「ああ、本当にお客さんなんですね。また逢えるなんて、思いませんでした」
「俺もだよ」
 将の髪をくしゃりと撫でて、三上は部屋に入った。
 最初の夜よりも、三上は正直になっていた。思っていた日々を埋めるように、将に身を沈めた。将の腕にも力がこもって、それがなおさら、三上を煽った。
 吸い付くような将の肌から、やっと体を離したとき、夜も明けかけていた。
 水差しから直接、水を飲んで、喉を湿らせる。どうやら体を起こせない様子の将にも口移しで水をやった。
 唇の脇から流れる水をぬぐってやり、三上は将の頬の輪郭を辿った。将はくすぐったそうに目を細めた。
「――この土地で何か、しがらみはあるか」
 将の目尻はまだ赤い。三上がさんざんに泣かせたからだ。その瞳で将はまばたきした。
「僕、ですか」
「そうだ。親兄弟、親族、ヒモ、なんでもいい、お前に関係している奴だよ」
 将は悲しそうに、そんな人たちはいません、と言った。
 父親と母親は病気で死に、借財のかたとして父親の知人親族に妓楼に売られた。彼らとはそれきり。よくある話だったが、三上は聞いて、その親族たちと知人とやらをいつかぶちのめしに行こうと決めた。
「ヒモは?」
 将が、じつにあどけない顔で、ヒモってなんですかと問い返してくれたので、三上は恋人みたいな奴だと教えてやった。そんな人いませんよと将は照れながら言った。
「じゃあ、決まりだ。荷物をまとめてろ」
 三上は起き上がると、だらしなく上着を羽織り、部屋を出た。忘れずに、昨日、放り出したままの荷物も手に持つ。階下に降りて、女将の部屋の戸を叩いた。
 ぼさぼさ頭の女将が腫れぼったい目を擦りつつ、扉を開いた。
 相手が三上だと認めて、なぜか視線がきつさと媚びを含んだものになる。
「話がある。部屋に入れろ」
「なんなんですか一体。だいたい、昨日からお客さんは、勝手すぎますよ。いきなり、部屋に上がり込んで、酒も飲まない、料理も取らないで。おまけに妓楼中に、あんな声、ひびかせて、おかげであたしゃ年甲斐もなく体が」
 怪しい方向に考えが行きかけた女将を部屋に連れ込み、三上は卓の上に荷物を置き、その結び目をほどいた。
 馬蹄銀が山とある。今回の仕事分の報酬と、手形で変えられるだけ変えてきた分だった。
 突然、部屋に現れた輝きに女将の目が丸くなった。
「これだけあれば充分だろ。将はもらっていくぞ」
「え、ちょっと、え、まってくださいよ」
 女将の視線が、銀と三上の顔を行き来した。
 三上が待つわけがない。さっさと将の部屋に戻った。
 将は三上に言われたとおり、荷物をまとめていたが、粗末な着替えが何枚かぐらいで、後は何もなかった。
「これだけか」
「はい」
 足りなければどこかで買えばいいのだ。仕立てさせてもいい、作らせてもいい。自分に及ぶ限り、将の身を飾らせる物を手に入れよう。
「行くぞ」
「お帰りですか」
 しゅんと将の顔が沈んだ。荷物をまとめた意味が分かっていないらしい。三上は舌打ちしたいのを堪えた。
「お前も行くんだ」
「だって、僕、ここで働いてるんです。年期が開けるのは二十歳ですし」
「身請けした」
「誰がですか」
「俺だ」
「え?」
 将は、まだ分かっていないようだった。
 出発が遅れたのは、将の鈍さが原因だと三上は後々、思ったものだ。自分に訪れた幸運や幸福を、将が自分のものとは思わないのが理由だった。ただ、今の三上はそれを知らない。
 ともかく、ここは分かりやすく説明することにした。
 三上は自分を指さし、俺が、とまず言った。そして、将を指さした。
「お前を身請けしたんだ。金も払ってきた」
 意味が分かったのか、将の目が真ん丸になった。見開かれた瞳が、みるみるうちに潤み、ぼろぼろと涙が落ち始めた。
 三上としては、手放しに喜んで欲しかったわけではないが、泣き出されて、衝撃を受けた。
「おい」
 将は涙を拭っては、鼻を啜り、ついにはしゃっくり上げ始めた。揺れる肩の辺りは、まだ子どもだった。痛みすらあるいとしさに、たまらなくなった。
「泣いても連れて行くぞ」
「ひっく、だって、みか、ひっく、さん、ひっ、ぼく、ひっく」
 落ち着いて話せと言いかけたが、無理だと考え、三上は単純でありながら、じつに怖い質問を口にした。
「いやなのか」
 将はぶんぶんと涙を飛ばす勢いで首を振った。たぶん、鼻水も飛んでいたかもしれないが、ほっとした三上は気にしなかった。
「なら、行くぞ」
「だめ、です」
「なんだと?」
 目をむきかけた三上に、将は嗚咽混じりの、鼻啜りつつの、声で訴えた。
 要するに、妓女たちにも女将さんにもお世話になったから、お礼をしていきたいです、待って下さいということだった。
 本音としては泣いている将を引っさらって、ここを早く出たい三上だったが、その頃には将の泣き声を聞きつけて、女将を初めとして、数人の女たちが集まってきたので、諦めた。
 女将が、将が身請けされることを打ち明けると、きゃあっと甲高い歓声が上がった。ぱたぱたと柔らかい足音があちこちに響き、将の身請けはあっという間に妓楼中の女の知るところとなった。
 泊まりの客を放って、次から次へと女たちが、寝乱れた格好でやってくる。
 誰もが将を抱きしめ、言葉を掛け、頬ずりしていく。半分以上が目を潤ませ、ほほえみ、幸せにねと囁いていった。残り半分のおかげで、将の荷物は三倍に増えた。
 彼女たちは将への別れを済ませ、餞別を贈ると、むっつりと座っている三上の側に来ては頭を下げ、手を握り、どうかしあわせにしてやってくださいと告げた。
 顔は無愛想だが、そう言う女たちに三上は黙ってうなずいていた。たぶん、自分は、彼女たちの心の支えにも似た、大切なものを攫っていくのだ。ならば、彼女たちに何が言えようか。
 起き出してきた泊まり客も交え、妓楼中の者から見送られて、三上は将を連れて、色町を出て行った。将は振り返っては手を振り、それは大道の角を曲がり、誰の姿も見えなくなるまで続いた。
 夜の疲れもあってか、馬に乗り続けるのは、将にはきつそうだったので、三上は町で馬車を買った。寄りたいところがあれば寄るし、見たいところがあれば見ていく。そんな帰り道にしようと考えた。
 将は餞別にもらったというやけに派手派手しい外套にくるまり、馬車の帳の影から、陽に照らされ、賑わい出した港町を眺めていた。初めて、外に出るのを許された子どものような――それはきっと事実に近い事柄ではあったろうが――楽しそうな、そして不安そうな横顔だった。
 見るとも無しに眺めていた三上はやがて将に呼びかけられた。
 黒い目がまたたいている。
「僕、夢を見てるんじゃないんですよね」
 俺も夢を見ているようだと感じつつ、三上は将の手を握った。
「――そう思うか?」
 将は三上を見上げ、ほほえんだ。夢でもいいんですと呟いた。
 笑みと言葉の響きに、三上は幸福ですらある目眩を感じた。

 帰路は、そのまま蜜月の夢を結ぶにふさわしい旅になった。三上は将に手綱の操り方を教え、田舎道では将に手綱を取らせた。将が真剣な顔で綱を握り、前を見つめる。三上は隣に座り、ただ静かに二人、馬車で道を行った。
 宿に泊まる夜もあった。馬車に泊まる夜もあった。どんな夜にも、手を伸ばせば、将の体があることに変わりはなかった。
 未成熟に近かった将の肢体は日ごとに、三上の手に添うように妖しさを持ち始めている。いまだあどけなさと清らかさが残る顔と体にあらわれた、健気ともいえるくらいのその色は三上の情慾をそそる。時折、自分が溺れすぎていると自嘲するときもあったが、それを止めようとは思わなかった。一生に一度、巡りあえるか、あえないかの絆に、のめりこまずにはいられようか。
 この旅の中、将は三上にせがんで、様々なことを訊ねたが、不思議と三上の屋敷のある地については聞きたがらなかった。奥様は、などと聞きかけて、口をつぐんだときもあった。まるで、この一度の旅で三上との事は終わってしまうのではないかと怯えているようだった。
 三上自身も、終わってしまうのではと思うときがあった。おびえは三上の一言で消えるはずだったが、子供じみているからこそ認めにくいそれに、何でもないと言い出しかねている内、急ぐともいえない旅はついに目的地に着いた。
 将は屋敷の構えを見て、ひるんだ様子を見せた。
「立派な、お屋敷ですね」
「古いだけだ」
 三上が昔、貴族から購入した屋敷は、一時代前の様式で建てられた、雅やかな外観をしており、広くはないが、どこもよく手入れされた、いかにも住み心地の良さそうな佇まいだった。
 戸惑ったように馬車から降りてこない将に、三上は手を差し出した。将は指を引くようにも差し出すようにもして、震わせている。
 終わりでないと言うべきだと悟った。
「言っとくが、お前は妾とか側室とかじゃねえぞ。何考えてるか知らねえが、俺はお前以外、側に置くつもりはないからな」
 将は手を引っ込め、まばたきを二度ほどすると、三上にしがみついてきた。抱き留めた三上はその肩の向こうで、やるせないほどの切なさに押され、目を閉じた。
 


 今まで三上は屋敷の使用人たちに不満を持ったことはなかった。長く居着く事がない、主人だったが、彼らは不正をはたらくわけでなく、屋敷を守ってくれていた。給金をはずんでいたせいもあるし、三上がそこそこ名の知られた侠客というせいもあるだろう。
 しかし、将が屋敷に入って、明らかに下の者の雰囲気が変わった。みな、まめまめしく働くようになり、一挙一動に力が加わっている。表情にも明るさが混じり、どうかすると屋敷からは笑い声が溢れるようになった。三上が様子を見に行ってみれば、使用人たちに混じって将の姿が必ず、あった。
 彼らを見つめる、ひそとも音を立てない、気配も殺す三上に、将だけがすぐに気づいた。三上の姿を認めると、花が開くようにほほえむ。そうして、三上の元へ駆け寄ってくるのだった。
 三上や屋敷の者の体には、日々、将の優しさが潤いのように染みてくる。それは何がどうと言葉に表すのが難しい類のものだが、かけがえのないものだった。それがなかった日々など考えられないくらいに、大切なものだ。
 いつの間にか、三上は前ほどには出歩かなくなっていた。
 渋沢たちとの付き合いが絶えたわけではない。仕事を頼まれれば、引き受けたし、自分から動くこともあった。気をつけてくださいと将に見送られ、お帰りなさいと将に迎えられた。出向いた先で見つけためずらしいものをいつもみやげにして戻った。
 寂しさを押し隠す将の素振りには気づいていたから、仕事の時以外は側で過ごした。辿々しくしか文字を読み書きできない将に文字を教え、自分が教えてやれないものは、教師を雇って学ばせた。
 仕事やら付き合いやらで、屋敷に戻らずに過ごしてから帰ってくると、こんなことが出来るようになりました、と将は、三上に嬉しそうに報せた。そのときの気分次第で、三上は褒めてやり、からかい、そのたびごとに将は愛くるしい表情を見せた。
 気候が良い季節には露台に出て、酒を飲んだ。三上が飲むので、将も少しずつ、飲むようになっていた。それでも三上ほど強い酒は体に合わないらしく、柔らかい甘い酒を将は選ぶ。
 その酒を将が飲んだ後に交わす口づけを、甘い酒は嫌いにもかかわらず、三上は好んだ。酔いに頬を赤らめ、一心に自分を見上げてくる将を抱きしめながら、三上は時々、これがすべて夢で、目を開いたとき、すべて消えてしまうのではと危ぶんだ。だが、そういうときほど、将の体は確かなあたたかさと柔らかさを持って三上を受け止めるのである。
 屋敷を離れ、血腥い仕事の中に体を置いていると、ふっと矢も楯もたまらず、将の元へ戻りたくなる。耳元で声が響くように思えるときもあった。指に将の肌の感触が思い出され、髪のすべらかささえ、感じられるのだ。
 そんなとき、心ははずむでもなく、落ち着くでもなく、不思議なまでの静寂に満たされた。将の面影を胸に抱いていると、どれほどの敵や賊に囲まれていても、三上は疵一つ、負わなかった。
 将を側においていることは、三上の身から荒廃を消し、ある種の涼やかさをもたらしたようであった。
 三上は適当な折を見て、今の荒々しい仕事からは、手を引こうと考え始めた。ひっそり暮らしていければそれで良い。いっそ、子どもでも作ってみるか。
 三上が渋沢からある話を持ちかけられたのは、そのようなときであった。うまくすれば巨万の富が得られる儲け話であり、三上や渋沢の腕を持ってすれば、九割方成功する計画でもあった。
「以前の三上なら、俺もどうかと考えたのだが、今のお前なら大丈夫だろう」
 そういった後、渋沢は、彼にしてはめずらしく、からかうような視線で言った。
「これが成功したら、お前の家に遊びに行くぞ。せいぜいもてなしてくれ」
 三上が港町の妓を一人、落籍して側に置いているという話は、仲間たちの知るところなっていた。余計なしがらみを持ちたがらない三上をその気にさせた相手の顔を見てやろうというほのめかしだ。無視していると、渋沢は、つけくわえた。
「藤代と笠井と間宮も行くそうだ」
「来るな」
 絶対に行くよと断言され、その前に引っ越してやると三上は決めた。

 ――何もかもうまくいった。全員が無事、莫大な財を得て、帰路についた。誤算といえば、馬に付いていた小者の裏切りだった。仲間を率いて、財を横取りしようとやってきたのだ。彼らを切り伏せるのに、それほどの時間はかからなかったが、三上は矢傷を負った。
 傷自体は深くはないが、鏃には毒が塗られていた。変わった毒らしく、三上は笠井が解毒剤を手に入れるまでの三日三晩、毒に侵され、高熱に苦しんだ。
 そのせいか、毒が消えても、奪われた体力はすぐには戻らなかった。起き上がれば目眩が起き、馬に乗るどころか、数歩、歩くのが精一杯だった。せめて、手紙をと思ったが、筆すら取れず、口上を書き写させようとしても、毒の名残か、舌が震えた。
 渋沢が滋養強壮の薬草を、あちこちから都合してくれたが、三上が元の体に戻るには、三月を要した。病身を押して、発とうとする三上を、まだ養生が必要だとして、渋沢と笠井が押しとどめた。その頑ななまでのやり方に不審を覚え、問いつめ、白状させるまでに、さらに数月が過ぎていた。
 もはや、剣を抜くことも辞さぬと言う三上の眼差しに、渋沢は苦悶の表情で伝えた。
「孫楊で賊の乱が起きた。街という街が荒らされ、略奪されたとのことだ」
 孫楊は、三上の屋敷のある地方だった。三上は剣でなく、手綱を握り、止める渋沢を振り切り、孫楊へ向かった。

 孫楊はどこも、荒れていた。官兵たちの姿もあちこちに見受けられた。賊のほとんどは捕縛されるなり、殺されるなりして、乱は治まっていたが、田畑は焼かれ、建物は壊され、その焦げ痕も生々しい。道には瓦礫とともに、いまだ埋葬の終わっていない死骸が転がっていた。
 辿り着いた屋敷も、街同様、荒れ果てていた。門扉は崩れ、庭には草が生い茂っている。家内には打ち倒された調度や、その破片が散らばり、埃がつもっていた。壁の崩れた部分や、戸が壊れた入り口から光が差し込んでいたが、三上以外、人の姿を照らす様子はない。
 三上は呆然と立っていた。想像以上にすさまじい荒れようだった。
 だが、と三上は思った。将は避難しているだろう。屋敷の者に守られ、どこかへ落ち延びていったに違いない。そうでなければ、何の救いがあるというのか。
 街に行き、話を聞こうと三上はこの場を去ろうとした。と、片隅の方で、何かが動いた。風雨に晒された布の固まりとしか思えなかったのだが、それはぼろを纏った、かつての使用人の一人だった。
 彼は三上の顔をあおぎ、それが主人だと知ると、飛びかからんばかりの勢いで駆け寄ってきた。
「旦那様ではありませんか」
「ああ、俺だ。ここにいるのはお前だけか。他のやつ――いや、将は」
 老僕はうなだれ、さめざめと泣いた。
「将さまは――」
 言葉の先が想像できた。それは当たっていた。
 
 ――将は三上を待っていた。いつも通りに。今度、三上が帰ってきたときには、こっそり描いていた似顔絵を見せてみようと思っていた。けれど、三上はきっとへたくそだと文句を付けるだろうから、みなにまず、似ているか似ていないかを判断してもらわなければ。
 待つ間の、何でもない、少し寂しい毎日だった。それでも日々は穏やかに過ぎていくはずだった。官吏に追いつめられた賊が集まり、ままよとばかりに乱を興すまでは。
 乱の知らせを聞いて、将はまず、屋敷の者をそれぞれ、行く当てがあるものはそこへ、ないものには、ともかく河を越えるようにと言い、それぞれに当座の間の路銀を与えた。家具調度類の中でも価値がある、もしくは、三上の大切にしているものは、地下の倉に隠した。
 屋敷内の整理を終え、将は最後まで付き添っていた家内の者を逃がそうとしたが、賊は予想以上に剽悍で、すでに孫楊に入り、略奪を始めていた。小さな農家までもが、家捜しされ、荒らされる中で、三上の屋敷が目こぼしされるわけがなかった。
 野太い笑い声と武具の触れあう物々しい音が近づき、たちまち屋敷内は、垢と血の臭いをまとった男たちでいっぱいになった。
 衝立が蹴倒され、帳が引き裂かれる。櫃がこじあけられ、次々と物が奪われ傷つけられていく。
 将たちのいた部屋にも、賊はやって来た。将は部屋の中央にすっくと立って、年老いた使用人たちを背後にかばっていた。
 とくに身なりの良い、若い将の姿を見て、逃げ遅れた屋敷の主と思ったのだろう。賊たちは好色な目で、将を眺め回したが、これほどの相手を自分たちが横取りすれば、首領の怒りは避けられまいと、遠巻きに眺め、卑猥な言葉や笑い声をかけた。
 震える使用人たちをかばい、将は折を見て、彼らに屋敷裏手にある庭に出て逃げるようにと言った。だが、一人として逃げようとするものはおらず、使用人たちはかえって、将の側にひたと寄り添い、離れようとしない。
 部下から報せを聞いて、やって来た首領はじろじろ将の顔を見ていたが、ものも言わず、いきなり両腕を伸ばし、その体を抱き上げ、一室に入っていった。
 抱きすくめられたときに将は震えたが、戸をくぐるとき、その横顔は落ち着き、もがくのもやめていた。
 首領は将に頬を寄せた。
 将はにっこりとほほえんだ。
「少しお待ち下さい。体が汚れていますし、もっときちんとした衣装を着て参ります」
 恥ずかしそうに囁かれ、首領も笑みながら将を下ろした。
 将はほほえみながら、その場を出て、浴室へ向かった。体を洗い、衣装を着替えるからといって、小さな小部屋に入った。
 それきり出てこなかった。あまりに将の訪れが遅いので、不審の念を覚えた首領は配下の者に命じ、自分もまた将を探した。
 小部屋の中で将は見つかったが、細帯で縊れていた。首領は驚き、すぐに体を下ろし、医師を呼び寄せるなどして介抱したが、将がよみがえることはなかった。
 大勢の賊を率いるほどの男ともなれば、将の死に何か思うところあったのか、それ以上、屋敷の者には手出しせず、将を白絹に包んで埋めると、賊たちは屋敷を出て行った。

「――どこに」
 三上は喉に張りつくような声で、訊ねた。
「どこに埋めたんだ」
「お屋敷の桃の木の下に」
「桃なんて、俺は知らないぞ」
「将さまが植えられたんです、旦那様がお帰りの時に、きっと花が咲くからといって」
 悲鳴にも似た呻きを三上は堪え、身を翻し、庭を目指した。
 庭の片隅に小さな桃の木が、瑞々しい若葉を生やしていた。花はとっくに終わっていた。その下に、土が盛り上がっているのが分かった。
 三上は土饅頭を掘り返し、墓ともいえないそれをあばいた。掘り進む内に、ちらりと白い布が見えた。手で掘り続け、三上は土に汚れた小さな布の固まりを掘り出した。
 布を開くと、そこに将がいた。何も損なわれてはいなかった。生々しいくらいに、生前の姿をとどめており、喉にもくくった痕などは見あたらなかった。
 白い顔で、目を閉じており、髪先が瞼にかかっていた。それは三上が何度となく傍らで、見つめてきた寝顔そのままだった。あどけない、愛らしい顔だった。
 指で髪の毛を梳いてやった。少しだけ乱れていた襟元を直してやった。
 三上はそのまま両手で顔を覆った。うめき声も漏れなかった。
 ――朝を迎えても、戻らない三上を案じて戻ってきた老僕は、将の遺骸を前に、顔を両手に埋めたまま、ぴくりとも動かない主人を見つけ、側に駆け寄った。心配する老僕に三上は将の埋葬の準備をしなくては、とだけ言った。
 将の体は屋敷に運ばれた。香湯で清め洗い、衣装を改めた。そうすると、将はいっそう清らに、眠っているように見えた。その体を棺に納め、三上は屋敷にある墓所へ葬った。
 諦めきれるものではなかった。それでもそうせねばならなかった。
 墓の前で、三上は乾いた唇で、ささやいていた。
「これが、終わりなのか。こんな風に終わるのか」

 三上は屋敷に戻ったが、それは暮らすというものではなかった。壊れた椅子に腰を下ろし、ただ無言で過ごすだけだった。
 ちりぢりになっていた使用人たちは三上が戻ったことを知ると、長年の恩義を忘れず、甲斐甲斐しく、三上に仕えた。食事を勧め、外を出歩かせ、疲れれば横になるようにさせ、何くれとなく、行き届いた世話をした。
 以前なら必要以上の干渉を嫌がり、将以外には身の世話もさせなかった三上だったが、今は拒むでも怒るでもなく、ただ黙って、それを受け入れた。
 使用人たちは屋敷の修繕を始め、壊れたり、壊されたりした場所を手入れした。将の墓にはそれぞれが花や菓子を供え、一日として線香の煙が途絶えることはなかった。
 その頃になると、三上は夜に部屋を抜け出し、ふらりと墓へ足を向けるようになった。気づいた使用人は、将の後を追うのではと心配したが、三上は墓前で、ただ呟くだけだった。
「終わりなのか」

 ある夜、部屋の暗がりに身を沈ませ、いつものように、三上は息づかいの音だけを響かせていた。それは昼夜変わることがない。息をするだけの日々だった。
 庭では虫が鳴いていた。風が吹けば梢が鳴り、雨戸がきしむ。全ての音を三上は遠くに聞いていた。時々、眠っているような気もしたが、目覚めているのがいつなのかも、よく分からない。
 そこに普段にはない、奇妙な物音が聞こえてきた。啜り泣きにも似ている。三上は声の聞こえてくる方へと耳を澄ませた。今度は、近くで聞こえた。
 嗚咽する、押し殺した泣き声だった。一瞬にして、体に力をよみがえらせ、三上は壊れた扉を押しのけ、外に出た。
「――将」
 ひたひたと足音が近づいてきた。暗闇からふっと白い姿が浮かび上がった。将は生きているときと何一つ変わらない。ただ首筋に黒い布を巻きつけ、垂らしている。それだけの違いだった。
 将は悲しげな目で三上を見つめていた。三上が足を踏み出すと、こらえかねたように自分も駆け寄ってきた。
 お互い近づき、そうしたと気づかずに、指を絡めた。
「いくのか――いってしまうのか」
 三上のかすれたささやきに、将はうなずいた。
「もう一度、世に生まれてきてもいいと許されたんです」
 貞節をまもったむくいに、ここよりももっと東の国の風祭という家に、赤子として生まれることを許されたと将は打ち明けた。本当は、すでに生まれていなければならないことも。
「でも、冥府のお役人の方に、お願いして、待っていてもらったんです」
 なぜだと三上は問わなかった。終わりだと改めて、知っただけだ。
 将の指が、げっそり窶れた三上の頬に触れた。痛ましげに、無精髭の浮いた頬を撫で、ぱさついた髪を撫でつける。素手で土を掘ったためか、爪が割れ、黒く膿んだ三上の指を見たとき、堪えていた将の声は、ついにかすれ、涙に潤んだ。将の指が三上の背にまわった。
「あ、あいたかった……あいたかったんです、一度だけでいいから、あいたかったんです」
 泣きじゃくる将の顔が胸元に押しつけられる。そっと髪を撫で、三上は目を閉じた。
「それでも全て、忘れてしまうんだな」
 それがいいのだと言い聞かせるように、三上が言うと、将は顔を上げた。
「忘れません。思い出します」
「赤ん坊が、どうやって、俺を思い出すんだ」
「僕は、あなたの顔を見たら、きっと笑います」
 将をかき抱き、三上は泣くような笑うような声でたずねた。
「――いつもそうだったな。そんなに俺の顔はおかしかったか」
 いいえいいえと腕の中で首を振り、将は三上をいっそう強く、抱いた。もう離すまいというように。
「顔を見るだけで、幸せなんです。嬉しいんです。だから、だからきっと……」
 その先は声にならなかった。
 夜明けまでという約束で、将は三上の元にとどまった。感じるものは以前と何一つ変わらない、だからこそ苦しかった。
 鶏の鳴き声に、将は身を起こした。
 静かに衣服を纏って、寝台を降り、外へ出た。
 数歩、歩いて振り返る。昨夜と同じように、涙で濡れたままの頬だった。
「これでお別れです。どうかお元気で、無理をしないで。爪は、きちんとお医者さまに診てもらってください」
 三上は短く、言った。
「見つけるからな」
 将は目をしばたかせて、三上を見ていた。きらと目の端が暁の光に照らされたかと思うと、将の姿はどこにも見えなくなっていた。

 三上は得た財を全て渋沢に預け、東へと向かった。道のりは長くなかったが、楽だというわけでもなかった。人に訊ね、やがて辿り着いた街で、三上は奇妙な話を耳にした。
 この辺り一帯で名の知られた家の主人の妹がみごもったが、何と二十数月も腹に子がいたという。それが、ようやく今朝、生まれ、家内中が安堵したが、今度はその子が泣きやまないのだった。
 三上は風祭の家を訊ね、主にすべての事情を話し、赤子に会わせてくれるように頼んだ。
 半信半疑の主人は、それでも妹の夫にうながされて、三上を産室へと通した。赤子の泣き声は廊下にまで響いていた。
 三上は帳を手で押し開き、母親の胸に抱かれ、泣き続ける赤子を見た。赤子は黒々とした眼で三上を認め、泣きやんだ。
 みなの驚きに構わず、三上は赤子を抱き取った。赤子は確かに三上を見上げ、にっこり笑った。無垢なはずの赤子の笑みに、純粋な喜びがあった。
 赤子は小さな小さな手を三上に向けた。三上が自分の人差し指を差し出すと、赤子の五本の手指は三上の指を握りしめた。
「ちいさな手だな」
 三上は呟いた。わずかに声が震えていた。
 ――赤子は将と名付けられた。三上はこの日より、風祭家の親族となり、かの地にとどまった。将が十四になると、三上は将を連れ、いずこともなく旅立ったが、風祭家との往来は絶えなかったという。




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