冬はまだ深かった。凍てつくような空気と空が毎日のように続く。
功からの連絡があったのは夕刻過ぎで、すでにどっぷりと街並みは闇に浸かっていた。時間は水野の都合に合わせるということだったのだが、夕食も取らずに、水野は家を飛び出し、風祭家へと向かった。
走っていると耳が痛い。並の家なら数軒分の敷地を占める風祭家へ付いたときには、体温の上昇には関わらず、指先やつま先がひりひりと冷たく痛んでいた。
インターホンには、将の母が出た。通された居間にはすでに成樹も来ていた。置かれた湯飲みの中身からすると、成樹が来てからそれほど経っていないだろう。
成樹の向かい側に座っていた功が立ち上がって、水野を迎えた。一礼して、水野は成樹の隣に腰を下ろす。将の母親が茶を持ってくるのは分かっていたが、待ちきれなかった。
勢い込んだ口調で、水野は訊ねた。
「あいつが、見つかったんですよね?」
功は深く、うなずいた。
「やっと、分かった」
「どこに?」
成樹が水野よりも先に言った。彼の口調もずいぶんと急いたものだ。
「東京の×××の方になる」
古くから小さなアパートがぎっしりと建ち並ぶ下町の一角だ。近くには工場が多くある。将の生まれ育った環境を思えば、あまりにかけ離れた場所だといえた。
「そんなところに……」
水野のつぶやきに、功はほろ苦い笑みでうなずいた。
「カザには、会うたんですか?」
「いや。アパートの前までは行ったんだが……」
功は少し言いよどみ、目を伏せた。
「どんな様子でした?」
たまらず、水野は身を乗り出した。今すぐにでも、将がいるという場所まで行きたかった。
「……少し痩せてはいたが、元気そうだった」
成樹も水野も、ほっと小さく息を吐いた。将の健康のことが一番の気がかりだったが、とりあえずは大丈夫のようだ。
功はそこで、口調を変えた。
「二人に頼みがあるんだ」
膝の上で功は両手を祈るように組み合わせた。
「居場所が分かった以上、二人をこのままにはしておけない。将の体のこともある」
功は、成樹と水野に、将を迎えに行って欲しい、と言った。
「俺たちで、ですか」
「俺や両親が行くよりは、友人の君たちが迎えに行く方がいいんじゃないかと思ったんだ」
ためらいがちに功は訊ねた。
「お願いしてもいいだろうか」
「もちろんです」
勢い込んで水野はうなずいた。
成樹は黙っている。
水野は答えをうながすように、成樹を見た。成樹はややあって、口を開いた。
「カザは絶対に連れて帰ってきたほうがええですか」
「何言ってるんだ。当たり前だろ」
水野をちらりと見て、成樹は案ずるような眼差しになった。
「帰るの嫌や言われたとき、俺らはどないすれば? 無理にでも連れてきてかまへんですか?」
「このままにしておけないだろ!」
「……たつぼん、カザは、自分で行ったんやで」
「だけど」
苛立たしげな水野を優しく遮り、功は成樹と視線を合わせた。
「佐藤君。将は頑固だが、話が分からない子じゃないと俺は思う。……とにかく、一度でもいいから帰ってきてくれと、俺や父、母が願っていると伝えてくれないだろうか」
「――わかりました」
風祭邸を辞して、夜道を二人で歩く。
水野は待ちきれないというように提案した。
「早いほうがいい。明日、行こう」
「たつぼん、そないに焦らんでも」
「もう、これで半年以上、あいつ、病院に行ってないんだぞ。何かあってからじゃ遅い」
成樹はため息をついた。水野の言葉にも一理あった。ことに今は冬だ。この冷気が将の体や心臓にどう負担を与えているか、分からない。
それでも成樹は焦りを押さえた。
「週末の方が、ええやろ。いきなり行っても、おらんかもしれんし」
水野は渋々、うなずいた。
今すぐにでも駆け出したいと言いたげな切迫した横顔に、成樹はもう一度、今度は聞こえないようにため息をついた。
「将ちゃん、今日はもうあがっていいよ」
将は洗いものの手を止めて、振り返った。割烹着と三角巾に身を包んだ、奥さんが笑顔を浮かべている。
笑い返しつつ、将は壁にかかった時計を見上げた。
「でも、まだ六時ですよ?」
「いいよ。たまには、先に帰って、驚かせてあげな」
「でも、まだお客さんが」
「もう、そんなにこないよ。今日も、将ちゃんのおかげで、ほとんど、おかず、残っていないしね」
鍋と調理台の掃除をしていた主人の方が笑った。
「母ちゃん、違うよ。将ちゃんは帰りが遅い方が好きなんだよ。迎えに来てくれるからね」
「ああ、そうだった。じゃあ、うちで、待ってるかい?」
夫婦二人して、将にからかいの目を向ける。
「いえ、そんな」
将はぱっと頬を染めた。幼な顔に浮かぶ表情は初々しさに溢れ、目にした者誰もが、思わずほほえみたくなる。
「卯の花、少し持って帰りな。残ってても悪くなるだけだしね」
「いつもすみません」
将はまだ赤い頬のまま、笑んだ。
「これだけ片づけてから終わりにしますね」
流しにあった洗い物をすべて洗い終えて、将は手を洗うと、指先を擦り合わせた。ゴム手袋をしていても、指先がかじかむ。擦り合わせていると、奥さんの方が温かい茶を入れてくれていた。
受け取って、湯飲みを包み込む。飲んでいる間に、主人が卯の花を包んでくれた。
その間に、二、三人客がきて、残り少ない総菜が更に売れていく。夫婦は嬉しそうにからになっていく皿を眺めていた。
将は茶を飲み終えて、割烹着と三角巾を外し、たたむ。卯の花に野菜を入れて炒った総菜と共に手さげに詰め、頭を下げる。
「お先に失礼します」
「はい、また明日」
「気をつけてな」
もう一度、頭を下げ、将は通りに出た。商店街は、最後の賑わいを見せているが、これからは客は減っていくばかりだ。寝具店や洋服、和装店などは、すでに店じまいの準備を始めているし、早い店はもうシャッターも降りて、照明も消えている。
帰宅客や遅い買い物客の間をぬって、将は川沿いのアパートを目指した。
もらった卯の花和えのおかげで、夕飯の手間が一つはぶけた。後は、昨日のきんぴらが残っているし、常備菜も幾つかある。後は急いで米を洗って、ご飯を炊こう。味噌汁も作りたい。黒川の帰りは七時を過ぎるが、将の歩みはいつしか、早くなっていた。
洗濯物を取り込んで、夕食の用意をする内に、玄関先から物音が聞こえてきた。がちゃがちゃと鍵穴に鍵を差し込む音が聞こえる。将はエプロンで手をぬぐって、目隠に下げているのれんをくぐった。
ちょうど、扉を開けた黒川と目が合う。
「おかえりなさい」
「帰ってたんだな」
作業着姿の黒川は目を細めながら、靴を脱いだ。
将は台所に戻って、コンロに火をつけた。すでにちゃぶ台には、二人分の支度が調えられている。五分もしないうちに夕飯は食べられるだろう。
黒川は服を着替えながら、将に話しかけてくる。
「店、早じまいだったみたいだな」
「うん。今日はお総菜の売れ行きがよくて」
「そうか」
お櫃にご飯をうつし、将はちゃぶ台の下に置いた。座ろうとした黒川を軽く、睨む。
「ちゃんと手も洗って」
「はいはい」
苦笑しつつ、黒川が再度、腰を上げる。
将があたためた味噌汁を椀に注いで持ってくると、黒川はお櫃から飯をよそっていた。
「これくらいでいいか?」
自分の茶碗によそわれたご飯の量に将はうなずいた。
「うん。それくらい」
将は油揚げと大根の味噌汁を黒川の前に置いて、いつもどおり、二人きりの夕飯をゆっくり取った。冷たい風が窓ガラスを揺らすが、部屋の中ではストーブの上に置いたやかんが蒸気をあげている。部屋は暖かかった。
夕飯を食べ終えた黒川がふと思い出したように、そうだと言って、立ち上がった。
「松下さんからもらってきた」
玄関からスーパーの袋を持ってくる。中にはみかんが十個ほど入っていた。さわやかな酸味を感じさせる匂いが立ち上る。
「あとで食べよう。松下さんにお礼を言っておいて」
ああと黒川はうなずいて、使い終えた食器を重ね始めた。
「僕がやるよ」
「お前だって、立ちっぱなしだろ」
重ねた食器を持って、黒川はさっさと流しに立つ。将はお櫃と残ったおかずを片づけて、黒川の横に立つ。
「みかん、喰ってろ。洗い物は俺がやるよ」
スポンジを手にとって、黒川は洗剤を含ませた。
まっすぐのびた背中に礼を言って、将はちゃぶ台を拭くと、袋に入ったままのみかんをかごに移した。こうしているとこたつが欲しくなる。
座布団と膝掛けを持ってくると、箪笥の上の籠にまとめていた繕いものや縫いものを手元において、裁縫箱を取り出した。
穴のあいた靴下、裾のほつれたズボン、膝や踵のすり切れた服。溜まっていたそれらの品を手際よく片づけていく。時間があるならアイロンもかけたい。
洗い物を終えた黒川がお茶を淹れてきてくれた。
黒川はかごに盛られたみかんを一つ、手に取った。
「一気にやらなくてもいいんだぜ」
黒川が、ここまで将を気にかけるのは、二週間ほど前に将が熱を出したからだ。ただの風邪だったのだが、すっかり良くなった今でも、黒川は将の体調を心配している。もっともそれは、風邪を引いたからだけとは限らないのだが。
「うん。でも、これだけ」
アイロンがけは明日か、また後にしよう。針をせっせと動かす将を見て、みかんを口に運ぶ黒川はからかいを含んだ声で言った。
「肩、こるぞ」
「じゃあ揉んでくれる?」
将が黒川に言うと、彼はいいぜと笑いながら立ち上がった。
節の目立つ長く、固い指が、将の肩を揉む。
膝の上の繕い物をまとめながら、将は黒川の指にほほえむ。
「こってる?」
「思ったよりもこってるな」
黒川の声に急に心配そうなものが混じったので、将はもういいよと黒川を振り仰いだ。
「黒川君、みかんの匂いがする」
「いま、食ったばかりだからな」
苦笑した黒川は将の頭に手を置いた。
「遅くなる前に、銭湯行くか」
「そうだね」
たらいに石けんとタオルを入れる。マフラーを巻いて、少し毛羽立ってきたコートを羽織る。
鍵をポケットに入れて、小銭入れを持つ。先に外に出ていた黒川は将にストーブを消したか訊いた。
「大丈夫――あ、ガスの元栓」
「あんまり急ぐなよ」
背中にかけられた声に、うんとうなずいて、将は部屋に戻ると、ガスの栓を閉める。
黒川は扉を開けて待っていてくれる。靴に足を入れて、外に出る。途端に白い息が口元を舞った。
黒川の指が伸びてくる。急いだせいでずれたマフラーを直してくれた。
目が合うと、黒川は照れたように顔をそむけた。
「――明日も寒いだろうな」
「うん」
肩を寄せ合って歩く。凍てついた空気のせいで、今の時期、このような都会の空でも星が光って見える。
電柱の下を通るたびに、影の形が変わる。細長い影、足下にわだかまる小さな丸い影、等身大の影、ふたたび影は伸びて、最後に風呂屋の灯りに呑まれた。
のれんをくぐって、周囲を見回した黒川は自動販売機の横に立つ将を見て、気遣わしげに眉をひそめた。
将は次の言葉を予想して、小さく肩をすくめた。
「ゆっくり浸かってろっていつも言ってるのに」
将は笑って、ごまかした。
置いて行かれたどうしようと風呂場で不安になるとは、黒川にも言っていない。
黒川はため息をついて、将のマフラーを締め直した。
「帰ろう」
「うん」
たらいの中の石けんが歩くたびに、かたかた鳴る。濡れたタオルからは、石けんのすがしい匂いがした。
二人だけの帰り道は、行きよりも不安が勝る。あたたまった体が徐々に冷えていくからだろうか。ふと身震いした将の手を黒川の手が包んだ。
手を繋ぐと夜道の恐ろしさは薄れる。近づいた黒川の体からは石けんの匂いがした。
さっきはみかんの匂いだったのに、とおかしくなった。
「なに、笑ってるんだ?」
「なんでもないよ」
将は言って、黒川の手を、しっかりと握り直した。寒くなかったら、この道がどこまでも続いて欲しいと思うだろう。けれど、今は、道の途中で別れていた昔ではなく、一緒に、二人の部屋へ帰るのだ。じわりと溢れてきた喜びといとしさを将は噛みしめた。それが、今の二人のいつもの帰り道だった。
部屋に戻って、まず黒川はストーブに火をつける。将は洗濯かごに洗濯物を入れて、たらいと石けんは外で乾かすために、廊下に出した。
最後の一仕事だと、将がアイロンとアイロン台を出してくると、黒川は明日にしておけ、と言った。
「そう言ってる内に、たまっちゃうんだよ」
「あんまり、根をつめるなよ」
「平気だって」
黒川は心配らしく、映像がたまにぶれるテレビを見ながらも、将をちらちらを見やっている。最後の一枚、黒川の灰色のハンカチにアイロンをかけ、皺を伸ばしてから、将はふうっとため息をついた。
「終わったのか」
「うん。ぜんぶ」
すっきりしたと言いたげな将だった。黒川はしょうがないというように笑った。
「俺は、別にハンカチに皺があっても構わないけどな」
「黒川君がよくても、僕は嫌なんだよ」
アイロンがけが終わった洋服類はたたんで、箪笥の引き出しに直す。
布団を敷く前に、二人でみかんを食べた。
「甘いね」
「ああ」
一房一房がみずみずしく、充分に甘い。部屋にみかんの匂いが満ちて、一時、冬らしくもある清々しい匂いに包まれた。
将は見るともなしに、黒川の指先を見ていた。機械の油が染みついて、爪先や指先はいつも黒く、固い。
――出会ってから二月ほどのことだっただろうか。
自分の手で将に触れるのが怖いと、黒川がぼそりと呟いたことがある。
あのとき彼は、人にぶつかられて、よろけた将を腕をつかんで支えてくれたのだ。それもたった一瞬だった。礼を言う前に、黒川は振り払うように手を離し、将はその態度に自分を突き放すようなものを感じ、立ちすくんだ。
歩き出しかけた黒川は、将の表情に気づいて、気まずそうに目をそらした。
ありがとうと将は言って、足を踏み出した。が、今度は黒川が動かない。
兄とそれほど変わらない年とは思えないほど老成した、苦渋の漂う声音で、黒川は小さく、呟いた。
――こんな手であんたに触れるのが怖いんだ。
将こそ、怖かった。感じていた最後の距離が、この言葉に含まれていた。
じゃあ、どんな手なら自分に触れてくれるのかと将は訊ねた。言葉を口にする間に、涙が浮かんできた。泣けば困らせると分かっているから、将は黒川の前で涙を見せたことはない。
詰まってきた声も嫌で、将は顔を背けて、歩き出した。距離を開かねばならなかった。 黒川は呼び止めなかった。かわりに、走って追いかけてきた。それから、最後の距離を縮めるため、名を呼んでその手を握ってきた。将はそれを握りかえせばよかった。
それほど昔ではないのに、遠い昔に思えるのは、今、彼のすぐ隣にいるからだろう。
将の視線に気づいた黒川が、おかしそうにまばたきした。
「欲しいのか」
「ちがうよ!」
感慨に浸っていたというのに、食い気と見られていたらしい。将が憤慨したように黒川を睨むと、彼は忍び笑って、残っていた二房の一つを将の口に放り込んでくれた。
「また、もらってきてやるよ」
「……うん」
おいしいのは確かなので、将はうなずいた。食い意地が張っていると思われるのが嫌で、言い訳めいた言葉を口にしようとすると、先に黒川が言った。
「喉にもいいらしいからな。しっかり食べろよ」
「うん」
心配しなくていいよとは、なぜだか言えなかった。
将が歯を磨いている間に、黒川が布団を敷いていてくれた。ストーブも消して、一時、灯油のきな臭い匂いが立ちこめたが、換気のために開けた窓からの風にさらわれていく。
空気を入れ替えて、黒川は窓を閉めて、カーテンを閉じた。
「明日も寒くなりそうだね」
「そうだな」
将が寝間着に着替えていると、布団の上で横になって、雑誌を読んでいた黒川が、何気ない声で訊ねた。
「今日は、そっち、行ってもいいか」
将は言葉の意味が、一瞬、つかめず、まばたきしたが、すぐにこくりとうなずいた。
病み上がりの将を気遣ってか、黒川はしばらく将に触れてこなかった。
黒川は起き上がると、箪笥の引き出しを開けた。買い置きはあったはずだ。手に小さな箱とティッシュの箱を持って、黒川が戻ってくる。
将は布団の上に正座して待っていたが、黒川が電灯を消すと、少し膝を崩した。
部屋は暗くなったが、雑誌を読んでいた黒川がつけていた灯りが、枕元にある。手を伸ばして、消そうとすると黒川がその手をひょいとつかんだ。
恥じらいにうつむくと、黒川が微笑した気配がうかがえた。
黒川が将の指をそっと唇に挟んだ。広がった熱に将は、そっと顔を上げる。
「ずいぶん、荒れたな。痛くないか」
「大丈夫……」
将は手を引こうとしたが、黒川が許さなかった。
黒川に出会ったとき、将の手のひらにあかぎれはなかった。なめらかで、ひびわれなどない白い手だった。その手で、黒川の手を握り返してから、一年近い時が流れている。
「どんな手でもあんたの手だろう。……俺はこの手がいい」
ぼそりと言った後、黒川は気恥ずかしげに目をそらした。
ありがとうと呟いた将の背中に黒川の手が回った。抱き寄せられる。将は黒川の胸元に顔を埋めた。二人して、今の時を確かめるように、しばらく黙っていた。
不意に黒川の腕に力が入り、将を布団の上に横にした。言葉はない代わりに、触れてくる手が熱かった。
黒川の背中を抱きしめ、将は目を閉じた。涙もろくなってしまった瞳から、一粒、涙がこぼれ、黒川の頬をほんの少し、湿らせた。
抱きしめる肩越しに天井が見えた。節穴や雨漏りの染みが残る天井に、不可思議な形の影が踊る。
初めて、抱かれたのもこの部屋だった。陶酔に流される体が、あのときの記憶を思い出させる。
羞恥でいっぱいだった将の体は固く閉じたままだったが、黒川は焦れることもなく、ゆっくりと優しく導き、静かに開いた。
終わりの時、痛みよりも、耳元で響いた荒い呼吸や汗ばんだ肌、押し当てられる唇やきつく握ってくる指先、体の重み、そういったことに感じる溢れるような愛しさが強くなった。
黒川の名前を初めて、口にしたのもそのときで、将の唇から発せられる己の名に、黒川の昂ぶりがよみがえってくるのを身の内で感じた。ため息を追った唇が、体の中の黒川と同じ熱さをもって、将の体を煽った。
開かれたばかりの体では、快楽などおぼろげにしか分からない。しかし、肌の向こうの黒川の心が溶け込んでくるようだった。幸福というものの一つの形が、確かにそこにあった。
体を割り入れてきた黒川が、将の肩口に顔を埋める。かすれた声が、すぐ側で聞こえる。荒い息を吐く黒川をしっかりと受け止めた。汗に濡れた肌同士が合わさって、鼓動まで一つになったようだ。
二人してのぼりつめた後は、凪のような、しかし満足に満ちた沈黙が残る。
まだ息の乱れる黒川は隣に身を横たえた。汗ばんだ肌が近くに感じられた。
肘をついて、黒川は将の顔をのぞきこんだ。
手を伸ばして、腰まで下がっていた布団を肩まで引き上げようとする。
「まだ、暑いからいいよ」
「そうか?」
「黒川君だって、まだ汗、かいてる」
しばらく、将の指にさせるままにしておいた黒川は、やがてその指に自分の指を絡めてきた。その手の思いがけない強さに将は、不安の気配を感じた。
「つらくないか?」
言葉が訊ねたのは今の時間のことだけではないだろう。
将は激しく、首を振った。
そんなことを訊ねる黒川が恨めしくもあったが、そう訊ねずにはいられない黒川の心も分かっていた。
将の心はきりきり痛む。この痛みがどんな種類のものか分からない。
だが、後悔だけではあり得なかった。
生きるという意味を、本当に知ったのは、黒川に出会ってからだ。
それまでの生は、居心地のよい、広く、あたたかい檻で、真綿にくるまれていたようなものだった。世界の広さも、恐ろしさも知らず、ただ愛されて生きてきた。
それも幸福の一つではあるだろうが、そこに戻りたいとは決して、思わない。生まれてきたのなら生きたい。黒川の隣で、傷つくことも苦しいことも悲しいことも味わって、喜びや嬉しさ、愛しさがどれほどかけがえなく、大切なことであるか理解したい。
絡めていた指先は小指だけを残して、ほどいた。
黒川はほどけてしまいそうな将の小指に自分から、指を巻きつけてきた。
「何の指切りなんだ?」
「さあ」
この日々が続きますように。胸の中で呟いて、将は黒川の手をそっと握りしめた。
功から教えられた住所の位置に立つアパートを見て、水野は愕然としたような表情だった。
古びたアパートの中でも、とくに古い建物で、壁にはひび割れも多く、鉄の階段や手すりも錆だらけだ。
「こんなとこに?」
呟く水野に成樹は苦笑した。
「たつぼんは、坊ちゃん育ちやから」
「お前だって、そうだろ!」
端正な顔をしかめて、水野は言うと、急ぎ足でアパートに行こうとした。成樹は後を追っていこうとし、はっと表情を変える。
「ちょお、待ち」
水野の腕をつかむと、路地の方へと引っ張る。
不機嫌そうに振り返った水野は、成樹の表情と視線に、何かあったと悟り、自分も同じ方向を見やった。
「あいつや」
いま、二人が向かおうとしていたアパートの一室から出てきたのは、親兄弟、友人を振り切って、将が選んだ男だった。
成樹も水野も我知らず、息を止める。分かっていても、目の前でその男を見かけると、奇妙な緊張感が沸き上がる。
苦み走った顔つきの、ちょっと目つきの鋭い男は、扉を開けたところで振り返って、何か話している。
横顔が笑った。うなずいて、手を挙げる。扉が大きく、開いて、将の小柄な姿が外に出てきた。男はそこで将の肩に手を置いて、押し戻した。
一言、二言、将に言うと、今度こそ、歩き出す。将は男を見送って、扉を閉めた。
しばらく、成樹と水野が無言だったのは、男と将の心通い合わせた者だけが持つ、馴れあった親しい仕草や態度のためだった。
彼らの知らない将がそこにいる。男の元で、将は彼らが認めたくはないある感情を日々、感じているだろう。それは、将の家族や成樹や水野では、決して与えられない種類のものだ。
「……どないする?」
気まずさを払うように、成樹が呟いた。
「風祭のとこに行くに決まってるだろ」
強い口調とは裏腹に、水野の瞳は沈んでいた。
「じゃあ、俺はあいつ、追うわ」
「なんで――」
言いかけた水野は、ゆっくりうなずいた。
「そっちがいいだろうな。……俺が行ってもいい」
成樹は苦笑して、男の後を追った。
取り残された水野は、もの思わしげにそちらを眺めたが、やがて気を取り直したようにアパートへと足を向けた。その足取りはさきほどまでよりは、幾らか重たかった。
本来、白い色をしているはずのチャイムは、黄色く変色していた。
鳴るのだろうかと疑いつつ、水野はチャイムを鳴らした。じーっと虫の鳴くようなひび割れた音が意外に大きく鳴る。
ボタンから手を離すと音は止んだが、かわりに軽い足取りがドアの向こうから聞こえてきた。かちゃんと錠が外されて、ドアが開いた。
「忘れもの?」
将の笑顔がのぞいて――すぐに固まった。
「……風祭」
「水野君」
将は呆然と呟いたが、すぐに微笑した。瞳に小さな諦めがちらつく。
「上がる?」
ドアを大きく開く。将は水野を招き入れた。
広くはない室内は、玄関から一望できた。居心地の良い、二人の部屋に上がることを、水野はためらったが、結局、靴を脱いだ。
将は水野がコートを脱いでいる間に、彼の靴をそろえ、昔と変わらない明るい声で謝った。
「ごめんね。散らかってて」
ちゃぶ台の上には、畳まれている新聞、湯飲み、かごに盛られているみかん。部屋の隅にはたたまれている洗濯物や、アイロン台が出ている。
将はちゃぶ台の上を片づけると、座布団を裏返し、水野にすすめた。
「お茶、淹れるね」
「いいよ」
将はみかんだけを残して、他のものは台所へ持って行った。ストーブにかかっていたやかんも持って行かれたので、部屋は急に静かになった。
手持ちぶさたの水野は、みかんを眺めてから、室内へと視線を走らせた。
家具は多くない。箪笥、ちゃぶ台、ラジオ、テレビ、それくらいか。後から作りつけたらしい棚や、ハンガーに掛けられた作業着やコートには暮らしの気配がうかがえた。
将はまず、ストーブにやかんをかけ直し、それから盆の上に湯飲みを二つ置いて、戻ってきた。
水野はお茶をすすり、その熱さに、改めて、外の寒さを思い出した。成樹と男も連れて、この部屋で四人で話した方がよかったかもしれない。こんな話の後、一人待つことも、一人出て行くことも、そして、一人で帰ってくることも、どうしようもなく、寂しい。
将は湯飲みに触れただけで、口を付けようとはしない。
「……びっくりした」
「ごめんな、いきなりで」
ううんと首を振りながら、将は小さく笑った。口元に、自分の知らない生活の空気が漂う。あれほど幼いと思い続けてきた将は、いつの間に、これほど大人びていたのだろう。
そうさせた男の横顔を思い出し、水野は目を伏せた。言おうと決めていた言葉は、むなしく消えていく。
「体の調子は?」
「元気だよ」
将は口早に言った。
頬の輪郭を目で確かめる。言葉に混じった嘘の響きが切ない。
「みんな、元気かな」
「うん。変わりない……おばさんが、この季節だから、膝が痛いって言ってたくらいで」
初めて、将はうつむいた。手が震えていた。ちゃぶ台から手を引いて、将の手は見えなくなる。膝の上でも震えているはずだった。
「みんな、僕がここにいること知ってるんだね」
「それは……」
「分かるよ。水野君の顔見たら」
目を上げた将は哀しみを押さえるように、穏やかに笑った。
「――俺は功さんに聞いたんだ」
「そっか……」
ばれちゃったね、と将はまたほほえみ、唇を噛んだ。
沈黙が降りた。次に言い出すことを将は分かっているだろう。
「風祭」
水野の声の響きに、将がびくりと顔を上げる。言わないでとその目が告げていた。
「……お前がいないと、みんな悲しいんだ」
将は水野を見ていた。目をそらす前に、水野はコートを手にして、腰を上げた。
「ごめんな、邪魔して。お茶、うまかった」
外に出ると風は冷たかった。コートを着込んでもその冷たさは長く、残った。
呼び止めた男は、こちらに顔を向け、いぶかしげな表情を見せた。
成樹が名乗り、誰の頼みで訪ねてきたかを告げると、瞳が少しだけ動いた。その動揺の小ささに、彼がどこかで覚悟を決めていたことを悟る。
立ち話でするような話ではないからと黒川は成樹を誘って、喫茶店に入った。
コーヒーを二杯、注文した後も、黒川は無言だった。諦念が感じられる静かな眼差しで、成樹を見ていた。
成樹もコーヒーが運ばれるまでの間、外を眺めやっていた。このまま、黙って帰ってもいいかもしれないと思った。だが、それは無理だった。顔を合わせると、将を連れて行った男への感情はせき止められない。
「なにから、話したらええんやろうな」
「だいたい、分かるけどな」
黒川はため息をついて、笑った。受け皿の横に置かれた手が動いて、軽く握られた。
「あいつには、帰るのを待っている家族がいるんだろう」
成樹は小さく、笑んだ。
「ごっつ過保護な親父さんと優しいお袋さんと、兄貴の鑑みたいな兄さん、な」
「知ってるよ。会ったことはあるから」
そんな三人だったと黒川は思い出したように言った。
「カザの体のこと、知ってるか?」
黒川の表情が消えた。
成樹は、そこで彼と将が出会ったきっかけを思い出した。それは何よりも、黒川が日々、味わっている不安だろう。言い方を間違えた。
「……元々、あまり丈夫じゃなかったな。心臓も弱いし」
黒川は静かに言った。
「この間も、風邪を引いた。発作は起きなかったけど」
逸らした黒川の目に、その間、この男がどれだけの恐怖を感じたかが見て取れた。将の側にいればいるほど、不安は増すはずだろう。
「――発作は起きてるんか?」
「俺が知ってるだけで二回だ」
成樹は唇を噛んだ。将の性格から考えれば、男には発作の事を隠すだろう。
「今の暮らしは、カザの体には負担が大きすぎるんや。今、元気なのは、心で持っとるもんやろ」
分かっていると言いたげに、黒川は唇をゆがめた。
「兄さんから言ってくれへんやろか」
「俺に、言えると思うか?」
黒川はほろ苦い笑みを浮かべた。
「俺は、カザをこんな形で死なせたくないんや」
「死ぬかどうかなんて、誰にも分からない」
「試す権利は、誰にもないで」
黒川は押し黙った。言葉の響きは、何よりも重く、彼の胸にのし掛かっただろう。伝票を取り上げ、成樹は立ち上がった。振り向く必要も、これ以上の言葉も必要もなかった。
喫茶店での話が終わった後に、仕事場に寄ったので、帰りは遅くなった。アパートの部屋に灯りはついていなかった。
自然、急ぎ足になった黒川は悪夢を見ているような思いにかられた。覚悟を決めていたのではないか。続く限りは続け、終わるときは潔く諦めろと自分に言い聞かせていたはずではないか。
痺れたような指先で鍵を差し込み、ドアを開ける。暗い部屋には人影があった。
手探りで灯りをつけると、座り込んでいた将が顔を上げた。灯りをつけた黒川の胸へまっすぐ飛び込んできた。
その熱い小さな体を命ごと黒川は抱きしめた。
将の頬の涙はもう乾いていて、腫れてしまった瞼が痛々しかった。 かすれた声で、将が呟く。
「また二人で、どこか、遠くに行きたい」
同じかすれ声で、黒川はああとうなずいた。
抱きしめる体が細くなっていくのに気づいたのはいつだっただろう。そこから目を逸らすようになったのはいつだろう。
そうして逃げて、二人で暮らして、将の命を食い尽くしていくのか。
押さえつけていた苦い思いが胸の中に広がっていく。
失えない。離したくない。だが、殺したくもない。
選べない二択に、黒川は歯がみした。将を抱く腕に力がこもった。痛いであろうに、何も言わない将がいじらしく、いとおしかった。
抱き合っていた黒川の腕に、強い力がこめられた。息も止まるくらいに抱きすくめられる。滅多にない彼の激情の発露に、将は彼の心を悟った。もう、決めている。
どちらかが去るしかなかった。それしかなかった。見えてしまったものから、目をそらすことは許されない。
黒川は静かに腕をほどくと、将の両の手を取った。自分の手を支える黒川の手を将は見ていた。ゆっくりと、視界が夢のように滲みだした。
黒川が将の名をささやいた。
顔を上げなかった。
「悲しいか」
優しい声は、黒川の心そのものだろう。
静かに首を振ると涙が落ちた。
黒川は手のひらにのせていた将の指をそっと包み込んだ。
別れよりも怖ろしいものなど何もないと思っていた。今は、別離よりも、そして、死よりも、黒川の優しさが怖かった。
離してくれるなと願う。そう願うのも、別離が近いからに他ならない。
黒川は将の涙をぬぐわずに、ただ抱きしめた。髪を撫で、背中を撫で、自分の腕の中に閉じこめた。まるで、自分の肌身に将を刻み込むかのような仕草だった。
将も彼と同じように、黒川の腕や体温、息づかいを肌ばかりか心に染み込ませた。思い返すとき、この記憶は何色に見えるのだろう。
何を処分すればいいのか、何を片づけていけばいいのか。わずかな時間だけで、将がいたという痕跡は薄くなった。それが二人の短い暮らしを暗示していたようにも思え、やるせなかった。
黒川は早出の日で、早朝に家を出た。用意していたにぎりめしと漬け物は持って行っていた。行ってくるなと靴を履きながら振り返り、いつもの笑い方で笑った。自分も同じように笑い返していただろう。
話し合って決めたことではないから、いつ去ってもそれは、将の自由だった。明日に、明日にと引き延ばしていくのも可能だ。それを続けて、すでに半月にもなる。
黒川は何も言わなかった。いつもどおり、そして、いつもより、少し優しかった。
このまま、二人暮らしていけば、いつの日か、帰ってこない彼をこの部屋で待つだろう。そのとき、扉を開けるのは、黒川ではなく、将の家族だろう。
去るのと去られるのと、どちらがつらいのか。いずれにしろ、どちらかを選ぶしかない。
総菜屋にはおととい、辞めさせて欲しいと頭を下げてきた。元々、将が事情持ちなのは分かっていた夫婦だ。しきりに残念がったが、引き止めはしなかった。寂しくなるねと二人、小さく笑って、将を見送ってくれた。
その日までの給金で、切符を買った。動いておかなければ、ほんの一時でも手を止めたら、何も出来なくなる。
手紙を書こうとして止めた。何も残していかない方がいい。
扉を閉め、鍵は格子付の窓の隙間から室内へ落とした。帰宅して、それを拾い上げる黒川を想像するだけで、全身が痛んだ。
いま、ここで死んでしまいたいと思った。出て欲しくないときに発作は起きて、死にたいときには起きてくれない。
北風が舞うホームで、電車を待つ乗客は将一人だった。冷たく強張った頬が一筋の涙で濡れた。窓から遠ざかっていく景色を見るのが嫌で、ずっとうつむいていた。
こんな形で離れるのなら出会わなければよかった。けれど、会っていなければ、この世界がどんなに色褪せたものになっていたことか。悔やめば悔やむほど、思えば思うほどにマフラーに涙が染み込んでいった。
部屋はあの日のままに、いつ戻ってきてもいいようにしてある。礼子がすることといえば、掃除をし、風を通すくらいだ。
時折、部屋で一人、時間を過ごすこともある。高校入学を期に、学習机から買い換えた将の勉強机の椅子を引き、腰掛けていると、最後に見た将の背中が思い出された。
書斎で父に黒川とのことを諭されていた将だったが、二時間半後、赤く腫れた目で書斎から出てきた。
台所から様子をうかがっていた礼子は、将に濡れたタオルを渡した。
将はまだ涙が残る目で、それを受け取った。椅子に座って、目に当てて冷やしている将を横目で見ながら、ココアを作る。
テーブルの上に甘めに作ったココアを置くと、将は湯気の向こうでやっと、笑った。
向かい側ではなく、隣になるように腰を下ろす。
将は湯気の上がるココアの表面を見ていた。一口すすると、表面が揺れる。
「――母さんも、黒川君と会うのは、反対?」
黙っていた将が、かすれた声で訊ねたのは、ココアの中身が半分ほどに減ってからだった。
「反対はしないわ」
そうなんだと将はマグカップを包み込んだまま、寂しそうに笑った。
「……父さんも、功も、今まで知らなかったような人だから、不安なのよ」
「母さんも、だよね」
否定せずに礼子はうなずいた。
一度会っただけの黒川の瞳は、こちらをたじろがせるような荒々しい野性味があった。粗野、と片づけるのが出来なかったのは、その瞳が同時に老成していたからだ。若さにそぐわない老いたそれは悲しみによく似ていた。
将はそこで、初めて顔を上げた。瞳には礼子でも見たことのない、優しさと落ち着きが漂っている。愛しげでもあった。
「黒川君はね」
その名の響きが、礼子にすら甘く感じられる。そんな声だった。
「時々、子どもみたいにみえるんだ」
将は少し首を傾けた。
「子どもっぽいって訳じゃないよ。時々……すごく、寂しそうにみえて、だから、僕は側にいたいって思うんだ。あんなに強い人なのに、どうしてなのか不思議だけど……」
将は静かに笑った。話しすぎてしまったというように、少し恥ずかしげに、同時に、自分の心を隠すように。
「――僕、もう寝るよ」
台所を出るとき、将はココアをありがとうと呟いた。
二階の自室へ戻るため階段を上がっていく。その背中を礼子は見上げていた。
予感? そんなものではなかった。子が親の手元から離れていくその瞬間だった。きっと、世の親なら気付くともなしに、ある日、ふと思い知るその瞬間を礼子は見つめていた。
その翌日に、将は家を出て、黒川と共に旅立った。
愕然とする夫や功よりも、礼子が落ち着いていられたのは、最後に将と話し、その表情や心をのぞいたからだろう。
将はわがままな子ではなかった。自分の体のことを心配する者に心配をかけまいとつねに一歩引いてしまうような子だった。家族に対しても、友人に対しても遠慮がちで、そのくせ強情だった。これと決めたら絶対に譲らない、そんなところがあった。
その将が家を出た。
夢も家族も友人も、黒川という男より重みを持つ存在は、すでになかったのだろう。
それを思えばほろ苦い哀しみが沸き上がる。
いくつになっても、たとえ離れていっても、我が子を我が子と思わぬ時はない。
帰れ、とは言わない。けれどほんの少しだけでいい。いつかまた旅立つ将に、戻ってきてほしかった。手元で、身体を休めてほしかった。
夕食の下ごしらえをしている間に、功と護から立て続けに電話があった。仕事が忙しいから遅くなる、というのだ。今夜は一人ね、と礼子は肩をすくめ、夕食の支度を続けた。
一人で夕食をすませてから、礼子は戸棚に仕舞っていた毛糸玉の入ったかごを出した。編みかけの帽子は友人に頼まれていたものだ。今夜中にも仕上げてしまえるだろう。
指を動かし始めると、その作業に没頭してしまい、インターホンの音を一瞬、空耳かと思った。
けれど、音の響きがまだ耳に残っている。手を止めて、インターホンに出る。
応答はなかった。やはり聞き間違いだろうか。もう年ね、と礼子はため息をつく。
インターホンの受話器を戻しかけたとき、ためらいがちな小声が聞こえた。
「……あの」
このところ痛む膝にも構わず、走るようにして、玄関へ行き、扉を開ける。
将はくたびれたコートをまとい、使い古しのマフラーを巻いた姿で立っていた。白い頬と顎の尖りが痛々しかった。
つとめて、礼子は唇を優しく笑ませた。
「……寒かったでしょう」
将はうつむいた。
肩を抱いて、将をうながした。
「あたたかいものを飲んで、ゆっくり休みましょうね」
「母さん」
血の気のない唇で将は呟いた。その一言に目が潤みそうになるのを堪え、礼子は冷え切った将の肩を抱きしめ、あたたかい部屋へと招き入れた。
灯りがついていない部屋を見上げるのが嫌で、早めに家に戻った。将の様子から、おそらくはここ、二、三日だろうと予想していた。
覚悟を決めてからも、ドアを開けると、すまなそうに笑う将がいて、黒川は期限が一日延びた喜びと安堵を感じていた。翌日になれば、これが最後と言い聞かせて、部屋を出るのだが。
アパートが見える場所にさしかかり、黒川は足を止めた。部屋の場所を確認する。小さく、うなずいて歩き出した。見届けなければいけなかった。
――小さなたたきに鍵が落ちていた。靴先にぶつかったそれを拾い上げ、黒川は握りしめた。
部屋は片づけられていた。将の分の生活用品はどこにもなかった。
ちゃぶ台の上に夕食の支度がされている。伏せられた茶碗と汁椀、箸、大根と魚のあらを炊いたものに、白菜漬け、里芋のごま和え。鍋の中の味噌汁は冷えていた。
少しくらい料理以外の痕跡を残していけばいいのにと黒川は苦笑した。けれど、すぐに唇は歪んで、拳が握りしめられた。
一人に戻っただけだった。始まりに戻っただけだ。
では、この虚ろさはなんだろう。
小さな窓からは、沈みきる前の弱々しい西日が差し込んでいる。
将と見た日差しの眩さとはほど遠い。窓に寄りかかり、なぜ、出会ったのだろうと、ほろ苦く思った。
別れがあるのならば、最初から会わなければよかった。だが、将と会わなければ、自分の人生は味気ない乾いたものになっていただろう。
夕空を眺めやり、少しだけ弱くなることを黒川は己に許した。思い出すのは、これが最後だ。空を焼く紅色が目に痛かった。
一人には慣れていた。父には五つで死に別れたし、母は働きづめの生活を送った後、黒川がもうすぐ十八という頃にあっけなくいってしまった。悲しいというよりも、こんな形で、やっと体を休められた母の生が寂しかった。
葬儀やら何やらで、わずかな蓄えは消えてしまい、結局、母が必死の思いで通わせてくれた工業高校も退学することになった。
幸い、担任教師が勤め口を世話してくれたので、黒川は小さな整備工場で働くことになった。工場主は割に人のいい男で、家賃の安いアパートを紹介してくれた。仕事が決まった最初の週の土日に、わずかな家財をまとめて、引っ越した。
月曜日から工場で働き始めた。最初の頃は昼もなく、夜もなかった。どれだけ眠っても疲労は消えなかった。
仕事に慣れたと思ったときにはすでに一年が経っていた。少し余裕が出てきた頃には、二年が過ぎていた。このまま年月を重ねていくのだろうかと自問をし始めたのが三年目だ。
煙草や酒の味、女を知っても、打ち込めるものは何もなかった。この先、どうしたいとも、何かしたいとも思えなかった。
何に対してもどこか醒めていると、ある女に言われたことがある。ひょっとしたら、自分はそんな人間なのかもしれない。何をどう変えればいいのか。その何かは見つかるのか。それともこのまま、一生が終わるのか。
答えは見つからないままに三年目は過ぎていこうとしていた。
繁多期でもない限り、工場は水曜日が休みだ。といっても、とくにすることはない。原付の整備をしてから部屋でごろごろしている内に、夕方になってしまった。財布の中身を確認して、黒川は早めに夕食を取ろうと馴染みの定食屋へ出かけた。晩酌を許すくらいの余裕はあったから、ゆっくり飲んでもいい。
近道のためにあちこちの小路を抜けていく。
あと五、六分ほどで定食屋のある通りに出られる、というところで、黒川は足を止めた。
五メートルほど先に人影がある。歩いているわけではなく、ブロック塀に手を置いて、前へかがみがちになっている。
おそらく、学生だろう。制服には見覚えがあった。この辺りだけではなく、県下でも名高い、進学校であると同時に、良家の子弟が多いことでも知られている高校の制服だ。
人相がいいとは自分でも思えない黒川は声をかけるのをためらった。
なにしろ、周囲は薄暗くなってきているし、この道ときたら、街灯はぽつぽつとしか立っていない上に、空き地も多い。下手に声をかけて、悲鳴でも上げられては困る。
関わり合いにならず、通り過ぎるのがいいのだろうが、それは同時に他の誰かが通りがかったとき、悪意を持って、この生徒に接するという可能性も見過ごすことになる。
逡巡している間に、生徒は地面にうずくまってしまった。苦しそうな息づかいを聞いていられなくなり、黒川は側に寄り、自分も膝をついた。
「気分が悪いのか」
声をかける。ほんの少し、相手の顔が見えた。薄暗さの中でもそれと分かるほど顔色が悪い。額や鼻先に汗が粒になって浮いている。
「薬」
唇の隙間から、絞り出すような声で言って、鞄を差した。
地面の上に放り出すように置かれた鞄を、黒川は開いて、中の教科書やノート類をかき分けてみたが、それらしいものはない。思いついて、外側のチャックを開いてみると中に、小さな円形の銀色をしたケースがあり、その中に錠剤が幾つか入れてあった。手にとって渡そうとしたが、相手は胸を押さえて、首を振るばかりだ。噛みしめられた唇を見て、薬を飲むのは無理だと判断した。
おぶって、通りの煙草屋まで走り、救急車を呼んだ。一人だけ乗せるわけにもいかなかったので、黒川も乗り込んで、搬送先の病院まで行った。事情説明に、通りがかりの者だというのが、何とはなし、自分でも間抜けに思えた。
相手の生徒手帳から連絡先が分かり、家族が駆けつけてきた。
黒川が立ち去る前に来たのだから、よほど急いできたのだろう。緊急の待合室に姿を見せたのは、父親と母親、それに兄らしき若い男性の三人だった。
急いで来たのだろうが、その分を割り引いても、三人とも身なりも良く、上品な家族だった。おぶった相手の育ちの良さそうな顔立ちを思い出し、納得した。
救急員、医者と看護婦にしたのを加えれば、今日で三回目になる事情と状況を、家族に説明していると、処置室から医者が出てきた。
力強い眼差しで、もう大丈夫だと言う。安堵した大きなため息を、家族三人が一斉についた。母親など涙ぐんでいる。ちょうど良い頃合いだと黒川はその場を辞した。
そのままでは終わらないところが、立派とでもいうのだろうか。救急隊員にでも聞いたらしく、後日、菓子折を持って、将の父親と母親が自宅アパートに訪ねてきた。幾度も頭を下げて、何度も礼を言って、帰っていった。あれが家族だよなと菓子折の重みを確かめつつ思う。
ふと、考えた。自分にも家族が出来たなら? 埒もない考えに苦笑が浮かんだ。
もらった菓子折は工場に持って行った。かなりの数あったその洋菓子を、工員で食べ終えてしまう前に、今度は将が工場を訪ねてきた。
応対した同僚が、おかしそうな羨ましそうな目で、黒川を呼びに来た。
「お客だよ」
出入り口を親指で差す。振り返ると制服姿の将が、ものめずらしげに工場内を見回していた。
こちらを見た黒川に、ぺこりと頭を下げる。
タオルで汗をぬぐいながら黒川は将に近づいた。将はそっと頭を下げた。
「忙しいのにごめんなさい」
「いや」
工場主が休憩を取ってこいと勧めてくれた。好奇心の視線を浴びながら、黒川は将を連れて、外に出た。
といっても連れて行く場所がある訳ではない。休憩所とは名ばかりのトタン屋根がある日陰に将を連れて行った。椅子代わりの木箱が乱雑に置かれている。その上にあったアルミの灰皿を取り上げ、黒川は座った。座るよううながす前に、将は黒川に深々と頭を下げた。
「本当にお世話になりました。黒川さんがいなかったら、僕、死んでました」
父親から一通りの事情は聞いていたので、黒川はうなずいた。
「苦しいときは我慢しない方がいいな」
はいと将はうなずいた。素直そうな口元が、将の育ってきた環境を如実に示しており、黒川は奇妙なたじろぎを覚えた。近づいたら壊れそうな気がしたのだ。
手で自分の横の木箱を叩くと、将はちょこんと腰掛けた。
近づいていっそう分かる小さな肩だ。こんな肩の持ち主と一体、何を話せというのか。
急に煙草が吸いたくなった。間が持てそうにない。
気まずさに視線を落として、爪先を見ていると、将がおずおずとした声で訊ねてきた。
「あの……僕、重くありませんでした?」
黒川は顔を上げた。顔を赤くしている将が目に映る。
「おぶって運んでくれたって聞いたので」
「ああ、ごめんな。急いでたから、つい、な」
体に触れたことを気にしているのだろう。
謝ると将は首を振った。
「僕、重たかったでしょう?」
「いや、別に」
虚をつかれ、黒川はたじろいでしまった。将はこちらをじっと見上げている。
「ほんとですか?」
心底、真剣な顔だ。それがなぜだか妙におかしくて、黒川は忍び笑った。
「あんなときに、体重なんか気にしなくてもいいだろ」
はっと目を見開いた将はやがて、こくりとうなずいた。
「ほんと、そうですね」
まだ子どもの甘い線が残る将の横顔が黒川を見上げ、恥ずかしそうにうつむいた。
自分の何を気に入ったのか、それとも普段、接触の無いような人間への好奇心からか、それ以来、将は時々、工場に姿を見せるようになった。
最初は黒川の表情をうかがうようにためらいがちに、黒川が嫌がっていないと知ると、嬉しそうにやってきた。――そう、嫌ではなかった。戸惑い、ためらいはしたが、うっとうしいとも嫌だとも思わなかった。
学校帰りの将が、家とは反対方向の工場に寄るのだから、必然的に帰りが遅くなる。日が暮れるのが早くなる時期にさしかかっていたから、黒川は仕事帰りに将を家の近くまで送っていった。
疲れた体には一手間になるはずが、将と一緒にいると、そうはならなかった。むしろ、工場の前で柱や壁によりかかって自分を待つ将を見ると、一日の疲れが消えるようになった。
黒川を認めると、将の顔がぱっと明るい笑みを浮かべる。こちらに駆け寄ってくる姿、終わったのかと訊ねてくる言葉、見上げてくる表情、黒川が答えずにじっと見ていると、恥ずかしそうに目を伏せてしまう仕草まで、将の存在は日々、黒川に染み込んでいった。
決して、激しいだけの思いではなかったからこそ、止めようがなかった。熱情が先行する恋ならば手遅れにならない内に、黒川は身を引いただろう。それくらいの理性はあるつもりだった。
もとより、交際を許されるような立場とは思っていない。将とは住む世界が違いすぎた。諦めるというよりも、目に見え、立ちふさがっているものを否定はしなかった。
将はいつか自分の前を去るだろう。そのとき、追わなければいいだけの話だ。言い聞かせて、黒川は沈黙を守った。
もともとが饒舌ではない男だ。そして、将は黒川が話さない分、自分がよく喋った。
将来、教師になりたいと思っていること、心配性な家族に輪を掛けたような心配性の幼なじみが二人いること、学校でのこと、部活のこと、委員会のこと。それを聞く黒川はうなずき、あいずちをうち、将を取り囲むその日々への、不思議なまでのいとしさに目を細めた。
時折、黒川は将に問われるまま、自分のこともぽつぽつ語った。
分かってはいた。二人の間にある距離を埋めるのは、互いの過去や家族の話ではない。必要なのは言葉ではなくなっていた。沈黙を生じさせないための会話の種がつきたとき、一歩、踏み出すか、将を突き放すか、それを決めなければならなかった。
将に触れるのが怖いと誰に言えただろう。
出会った日、おぶって駆けたのをのぞけば、黒川は将に指一本触れたことはない。ただ二人、肩を並べて、ゆっくりと歩くだけ。それだけといえば、それだけだった。そして、これほど大事だと感じた時も黒川にはなかった。
その時を自分の側にとどめておきたいと強く、願ったとき、黒川は将の手を取った。将の手は震えを伴いながらも、しっかり握りかえしてきた。
日に日にあたたかくなるばかりの毎日に取り残されたような二人だった。
将の瞼には赤い腫れが残るようになった。黒川を訪ねてきた兄は、苦渋の表情を浮かべていた。会うのを止めなければと、そうしたいと思いつつ、将と会い続けた。ほんの数分でも、一時間でも、会える時間を見つけて、将に会いに行った。将も会いに来てくれた。
家族の目を盗んで黒川に会いに来た将に対して、もう会わないようにしようと言うのは簡単だった。それが、どうしてもできない。
渇きが潤されたとき、人は以前の乾きを経験したいと思うだろうか。
今の思いさえあれば、ゆく道に立ち塞がるものをすべて乗り越えていける気がした。恋人の存在さえあれば、何も恐れるものはないと思えた。
若かった。二人で見た夕陽はあまりに眩し過ぎた。
目を細めて振り返ると、同じように眩しげな顔をしている将がいた。
離せないなとただ、思った。
「二人で暮らすか」
呟いた言葉を聞いた将の目は夕日に照らされて、潤んでいるように見えた。
「うん」
うなずいた将は黒川に寄り添って、手を握りしめた。握り返して、黒川は、沈む日とは思えぬほどに眩しく、美しい夕陽を眺めた。将も空を見上げていた。
やがて、目と目を合わせて、ほほえみあった。悲しいほどに幸せだった。
――あの日から、何も変わっていなかった。あの時間で時は止まったままだ。
夕陽はいずれ沈み、夜を迎えるだろう。将が去った今、時は動き出した。それだけだった。ぬぐいようのない喪失感は、朝を迎えると消えてくれるだろうか。
日も暮れ、暗くなるだけの部屋に、黒川は立ちつくしていた。いずれ、動かなければならないから少しだけ、休もう。自分に言い聞かせ、黒川は両手で顔を覆った。今は本当に一人きりだった。
二週間ほど自宅と病院とを行き来して、残りの二週間を静養して、過ごした。父も兄も、母同様、何も言わなかった。おかえり、とそれだけ言って、将を迎えてくれた。
大学は家族が休学届けを出していてくれたために、復学できた。ふたたび、大学に通いながら、遅れた分の勉強を始めた。
将の駆け落ちの話は、当たり前ともいうべきか、大学内にも広まっていて、好奇心をもて訊ねられたり、うわさ話の的になったりと、将の周りはなかなか落ち着かなかった。
一人ならば耐えられても苦しかったに違いない。質問のたびに胸をよぎる黒川の面影に、崩れそうになる将を支えたのは、家族と友人たちだった。塞ぎようのない穴を抱えながらも、将は始まった日々を過ごした。
水野は将の先輩になったが、成樹は留年し、将と同じく一年生からやり直すことになった。それを知ったときの水野の憤激ぶりは、将と成樹の間で長く、話の種になった。
「そんなら俺も留年するいうてな、提出済みのレポート、奪い返しにいったんやで」
呆気にとられた教授はそれでもレポートを離さず、そればかりか、優をつけた。
友人たちの元に戻ってきた水野は、憤懣やるかたなし、と言いたげな表情を浮かべ――。
「どうして、俺は留年しないんだ、って怒鳴ってなあ」
その場にいた留年組の怒りを買い、全員にラーメンを奢らされたらしい。
ラーメンごときで留年できるならとなおも呟いた水野の話で、将をひとしきり笑わせていた成樹は、そこで急いで立ち上がった。
「カザ、あれでたつぼんは過激派やから気いつけなあかんで」
言い終えた成樹は素早く身を翻し、逃げ去った。
それを追いかけるように苛立たしげなつぶやきが、背後から聞こえた。
「あいつ!」
顔をしかめた水野に微笑し、やがて、彼に気づかれないよう将は目を伏せた。
こうしたときに感じる罪悪感は一生、消えない。それで良かった。
そうして、一日、一日が積み重なっていった。三ヶ月が過ぎる頃には、噂は自然に消えて、時折、おもしろ半分に話題を持ち出してくる者をのぞけば、将の駆け落ちの話は誰も口にしなくなった。友人が増え、彼らと遊ぶことと単位を取ることに専念すれば、毎日はあっという間に過ぎ去っていく。
相変わらず、兄と父は過保護で、将はそれを振り切るように、よく遊び、動いた。心臓は、まだ時々、言うことを聞かず暴れ出すが、以前、持っていた死への恐れは消えていた。
黒川との日々で燃え尽きてしまわなかったのなら、どこで息絶えてしまっても同じだ。
どうかするとあの日が夢のように思えた。すべてをひっくるめて、混じりけなしに幸せだったからだろう。本当の幸福は思い出か、夢でしか、味わえない。 もう二度と、あのように人を愛することも、愛されることもない。それを思うとき、我が身が抜け殻のようにも思えた。
しかし、将の心も、体も、深い悲しみを残してなお、絶望に浸りきるには、まだ若かった。
黒川のことを思い出すと走る痛みはゆっくりゆっくり鈍くなっていた。痛みが消えるわけではない。痛みの種類が変わるだけなのだろう。
抱える痛みが胸を突き刺す鋭いものではなくなった時、将は黒川が働いていた工場へ行ってみた。休みのため、門は閉まっていた。錆の浮き上がった鉄格子に指を絡め、将は同じようにして門をのぞいた日のことを思い出した。
どうしても自分の口から礼を言いたくて、兄に彼の勤め先を聞いたこと、学校帰りに、行こうかやめようか迷いつつ、歩いていたものだから、思ったよりも遅くなってしまったこと。門をくぐるときと、工員に声をかけたときの心臓の高鳴り、それを凌ぐほどだった黒川を待つ間の息苦しさと緊張感。
呼び出してもらった黒川は首にかけたタオルで汗をぬぐい、こちらにゆったりした足取りでやってきた。背は高いが、威圧感はなかった。どこか影のある眼差しだったからかもしれない。
日焼けした腕が動いて、外に出ようと示した。彼の後に続いて、導かれるままに歩いていった。
礼を言った。黒川は寡黙だった。将に来られて、少し困惑しているようでもあった。
恥ずかしくて、落ち着かなくて、申し訳なくて、だからこそ、黒川の表情が和らいだ時は嬉しかった。
笑うと彼の目は途端に、優しくなると知ったのだ。それからは怖くなくなった。あのとき、激しくなる鼓動を知られないように、将はうつむいた。また会いに来てしまうと予感していた。同時に、この人の側にずっといたいと、淡い予感とはまた別の強い思いがこみ上げた。
――黒川と共にあった日々は、すでに遠い。
二人で暮らそうと決めた春から、やがて、一人、社会へと出る春を迎えるのだ。
黒川君、と将は小声で呼んだ。その後に続けるべき言葉が、あいたい、なのか、さようなら、なのか、それは未だに分からなかった。
「黒川君」
門を握っていた指の間から錆が落ちて、風に吹かれていった。
「せんせい、ばいばーい」
校門をくぐったところで、声を掛けられる。
振り返ると、二人乗りの自転車が一台と、その後を追いかけるようにして、もう一台の自転車が通り過ぎていった。
乗っている三人は、将の受け持ちのクラスの生徒だ。
「二人乗りは危ないよ!」
「慣れてるから、平気平気。一馬、運転うまいし!」
途端、自転車がかしいだ。
ふらついて、電柱にぶつかる前に、自転車は止まった。
「結人、降りろよ」
「やだ」
「先生に言われただろ」
「あ、ずりい! 一馬だけ良い子になるのかよ」
将は微笑して、軽い口論を眺めていた。
と、横に自転車が止まり、澄ました顔の生徒が二人のやり取りを尻目に、声を掛けてきた。
「先生、乗せていきましょうか?」
前の二人が振り返り、声をそろえて、英士ずるい、と叫んだ。
もちろん、将は後ろには乗らず、歩いていった。三人もそれぞれ、自転車を押すなり、歩くなりして、四人で駅まで行った。言葉を交わしながらも将はほほえまずにはいられなかった。春には三人とも反発していたが、今ではすっかり懐いてくれる。それが嬉しい。
途中、一人が好奇心旺盛な眼差しを将に投げかけてきた。
「先生さ、恋人いないの?」
「いないよ」
三人は視線を交わし合い、また一人が訊ねた。
「つくんないの?」
「まだ、いらないよ」
こんな話をしても胸は疼くだけだった。五年という時間は痛みを消してくれた。けれど、後で一人きりになったとき、ため息が出るだろう。きっとそれだけだ。
何も惜しくないと思った初めての、そして最後の思いは、そんな残り火を残している。一生、胸に埋めていこうと将はすでに決めていた。
駅前で三人と別れる。これから、育ち盛りの胃を満たすために寄り道と買い食いをするのだそうだ。あんまり遅くならないように、と釘を刺し、将は人の絶えない駅構内へと入っていった。
兄との待ち合わせ場所までは、一度、乗り換えなければならない。それでも、お互い、余裕を見ていただけあって、約束の時間には充分、間に合うだろう。
腕時計を見た将は途中にあった書店に寄った。気になっていた文庫本を一冊、買った。明日からの通勤途中に読むつもりだ。カバーをつけてくれた店員が不慣れなのか、少し、時間がかかってしまったが、とくに焦る歩調でもなく、改札を通り抜けた。
ホームに上がる前に時間を確かめる。やはり、ちょうど良かった。三分も待たないうちに電車は来るだろう。
階段を上がって、ホームに出ると、ベンチに腰掛けていた男と目があった。
二人、同時にまばたきして、将は立ち止まり、男は目を見張った。
「風祭?」
「黒川君」
少しずつずれて、互いの名を呼び合った。
黒川は微笑した。顔つきは以前よりも精悍さを増しているが、先に目を細めてから、唇でも笑う、笑い方は変わっていなかった。
「久しぶり」
黒川は言って立ち上がったが、それ以上、将には近づかなかった。年月分の距離だ。
「元気そうだな。体は?」
「調子、いいよ」
「そうか。顔色もいいもんな」
黒川は優しげに笑い、将に座るようにうながしたが、将は首を振った。
電車が来るまでには間がなかった。それに気づいたのか黒川の口調はほんの少し、早口になる。
「いま、何してるんだ?」
「学校の先生」
「へえ」
黒川の目元がなごむ。しばらく疎遠だった肉親の現在を聞かされたような、懐かしげな目元だった。彼にとって自分は懐かしさの中にいるのかもしれない。若すぎたあの頃の苦みと甘みをともなう思い出の中に。
「小学校?」
「中学校」
「大変だろ」
「大変じゃない仕事なんて、ないよ」
黒川は少し、目を見開いてから、そうだなと微笑した。
「黒川君は?」
「知り合いと工場経営してる」
「社長さん?」
「そんなすごいもんじゃねえよ」
「忙しそうだね」
「まあ、何とかやってるよ」
黒川の言葉を追うように、ホームにはアナウンスが流れた。
将が線路の先を見たのに気づいた黒川が訊ねた。
「こっちの電車か」
「うん。黒川君は下り?」
「ああ」
ホームに入ってきた電車が起こす風に髪が揺れる。ふと胸をかすめたのは、風の強い日、黒川が乱れた髪をかきやってくれた指先の思い出だった。
「気をつけてな」
黒川は短く言って、手を挙げた。
小さくうなずいて、将は電車に乗り込んだ。扉はまだ開いている。発射のベルが鳴り響いた。
黒川は笑った。その目を将は見た。
「先生、がんばれよ。夢だったんだろ」
扉が動く振動音が足裏に伝わる。
後から、何が自分をそうさせたのか、将は思い返してみたが、その理由も答えも見つけられなかった。だが、その瞬間、将は選んだのだった。
扉の隙間に体を滑り込ませるようにして、将はホームに戻っていた。
黒川が大きく、目を見開いた。その向こうで、下りの電車が近づくベルが鳴る。
「――会えたのに」
自分でも声に出たか定かではないささやきだった。
黒川が将に一歩、近づいた。将も引かれるように、一歩、黒川に近づいた。
彼の目に、激しい迷いが浮かんだ。黒川が待っていた電車がホームに到着した。
どんな永遠よりも長い一瞬だった。その時間が終わったとき、黒川が将の指先に触れた。見覚えのある眼差しだった。
互いの肩の向こうで、乗り込んでいく人々と降りる人々がすれ違う。
握っているわけでもない。絡めているわけでもない。だが、この手はもう二度と離れないだろう。