その日の夜のための仕込みは、普段と比べて特別という訳でもなかったが、やはり手つきや動き一つに、喜びがこもってしまうのだった。金髪の押しかけ弟子にも、オヤッサン、イツモトチガウネなどと、呟かれたことだし、どうやら自分では普通通りにしているつもりでも、心は表に出てきてしまうらしい。
「なにいってやがる、いつもと同じだ」
そう言ってみても、時計を気にしてしまうし、自分が河川敷へ早く行けば、相手もそれだけ早く来るのではないかとも思ってしまう。七時頃、という約束をしていてもそうなのだから、困ったものだ。
電話や手紙で、たまのやり取りもあったので、まったくの音沙汰無しの相手ではない。それでも、うきうきしてしまうのは、喜ばしい帰国だからである。ならば、自分が老人にありがちな頑固さを保っていてもみっともない。素直に、喜ぼうということで、おやっさんは、その日、いつもより、一時間早く、河川敷に屋台を開いた。
ゆるゆると準備を整え、全て終えてしまっても、時間は余る。椅子に腰掛けて、キセルで一服していると、ベンチを並べていた押しかけ弟子は、ほうきを手にして掃除を始めた。
「おめえ、少し、座ってろ」
「ダメ。今日、オヤッサンノオトモダチガ来ル日。ダカラ、掃除モ、トテモテイネイニ」
弟子はにっこり笑うと、まめまめしく働いている。ファンだという漫画キャラが描かれたTシャツを着た彼の大きな背中を眺めながら、たそがれてくる空を、ぼんやり眺める。
雲が夕日に薄紅色に染められ、たなびいている。気温が下がっているが、これくらいならかえって、酒もすすみ、熱いおでんや焼き鳥が美味く感じられるはずだった。
細く煙を吐き出して、足を組み替えた。
三年前、このキセルを持つ手で、泣きじゃくる将の頭を撫で、肩を抱いた。それきり、自分の中では、将はそのままでいるようだ。――まだまだ成長途中の頼りなさと若芽の生命力とが混在した小さな将のままで。
物怖じしない、へこたれない、決して弱音を口にしないあの少年が泣いて、悲鳴のような声を上げ、怪我をした足を厭った。
『いらない。サッカーできないなら、こんな足、いらない!』
突然、のれんをくぐって、にこにこ笑いながら、電源を貸してくれ、と言ったときの明るさは影を潜め、駆けつけた兄や友人の前でもためらわらず、こんな足はいらない、と叫び続けた。
思えば、泣く姿を見るのも、これほどうち沈んだ様子を見るのも初めてで、戸惑う反面、不憫で仕方なかった。何時間も途切れさせることなく、壁に向き合い、ボールを蹴り、少しずつ少しずつ、前へ進んでいった少年が、突然、足をもがれたような状態に落とされたのだ。伸び盛りだというのに、みなに置いて行かれるのは、どれほどつらいものか。
一体、なんだってんだ、どうして世の中ってやつは頑張る奴をこんな目に遭わせるんだと、世の不条理を、半ば分かっていながらも思わずにはいられなかった。
ドイツへ行くと告げに来たときには、泣き叫びながら見せた真っ暗な瞳は消えて、前のように笑っていたし、希望も抱いていたようだった。
願い通り、旅立った先では、無事、手術が成功し、やがてはサッカーが出来るほどにまで回復したとも、兄から伝え聞いた。将から直接、話を聞いて、明るい声にこちらが慰められたこともあるが、やはり、怪我した足を抱えて、いらない、と叫んだ将のことが忘れられず、どうしても胸が塞がれるような気持ちが晴れなかった。
将がドイツへ発ってからの三年間、変わらず、屋台を開いていたが、彼がよく来ていた時間になれば、今にものれんをくぐって、おやっさん、と呼びかけてきそうに思えたし、サッカーの練習を終えていた時間になると、外に目をやってしまってもいた。
将のことを知る常連客に、ふと物語ってみれば、おやっさんは気苦労しいだなあと言われ、バカ野郎、まぜっかえすんじゃない、と返したものの、いつまでも気にしているのは自分の方なのだった。
「なんていうんだかなあ……」
こんな年にもなって、孫ほど年の離れた子どもに、新しい世界を示唆されるなどとは思ってもみなかったのだ。将が教えてくれたサッカーに、自分でも驚くほど、興味を抱き、ワールドカップとやらに乗じて、日本中、ぐるぐる回ってしまっていた。
おやっさんにしてみれば、将のいない間の日本のサッカー事情をしかと見極めておきたいなどという使命感じみた思いもあったが、それは、予想以上に楽しいことだった。俺一人、楽しんでいいものかとふとためらいを覚えつつも、あの熱狂の渦に身をゆだねてみるのは、実に心地よく、面白いものだったのだ。
手を使って文明をこさえてきた人間が、足だけしか使わず球一つを奪い合う、ということが、簡潔なだけにいっそう興味深い。識者とやらが語る小難しい理屈などを置いていても、無数の人々がサッカーに心を駆り立てられるのは分かるのである。
ルーペや老眼鏡を使って、サッカーの関連書籍を読み、様々な国の様々なサッカー事情を見聞きするにまで及んでいるから、将にサッカーの存在を教えてもらったとはいえ、今や充分に、自分の中の血肉の一つとなっているといえる。
そうやって、サッカーとの縁が深まり、それを知れば知るほど、原点ともいえる将坊のことが思い出されて仕方ない。もちろん、無事に復帰して、U−19に選ばれたことも、試合に出たことも知っている。活躍ぶりは新聞やテレビで、見ているのだが、逆にやきもきしてしまうのだ。
どれだけ、取り上げられても、様々な面から語られても、おやっさんにとって、将は、のれんをくぐって、すみません、と笑いかけてきた少年であり、夢を失いかけて泣いた少年であり、緑のグラウンドを駆ける一人の少年であるのだった。そして、おやっさんは、そんな少年のファンであるのだ。今までも、これからも。
川下から吹いてきた風が、人の話し声を運んできた。草のそよぎが混じる声に、おやっさんは屋台に戻り、おでんの具合を確かめた。誰がいつ来ても大丈夫だった。
食器棚に張った様々な記念写真を見つめ、ここに将坊の写真を貼らなくちゃいけねえ、と今更ながらに気がついた。
どんな写真が良いだろうか。先日の試合で、得点を決めたときの素晴らしい笑顔のものがいいか。それとも、激しくボールを競り合っている際の苛烈な表情のものがいいだろうか。ともかく、何を張ろうか迷うほどの将坊の写真を持っているのだ。
あれもいい、これもいい、と考え出した途端、数年先の客とのやり取りまで想像し始めて、落ち着くようないっそう待ち遠しいような、奇妙な気分になってくる。
(おやっさん、これ風祭選手じゃない?)
(ああ。実は、ちょっと縁があってねえ)
得意がる自分の顔が目に見えて、苦笑一つ浮かべると、おやっさんはのれんを掲げた。
「マイコー。店を開くぞ」
OK、と妙に威勢良い返事が返ってくる。彼も客の気配に気づいていたらしい。
さあて、と土手の上を眺めた。見間違いでなければ、あの黒い影は、人間のものだ。一、二、三、四、五。数えてみた。五人もいる。誰が誰か、距離もあれば暗くもあるので、定かではないが、どれが将なのかは、すぐに分かった。
あんなとこから駆けてきて、とおやっさんは腰に手を当てながら、笑う。
手を振って、昔のようににこにこ笑っているのだろう。軽やかな動きは、テレビで見たとき以上のものに思えた。あんな調子で芝生の上を走り回っているのだ。嬉しいだろう、楽しいだろう。
一人、飛ぶように駆けてきた人影は、見る間に大きくなった。予想通り、手を振っていた。街灯が照らし出した顔は、嬉しくて楽しくてたまらない、というように笑っている。
「おやっさん!」
三年ぶりの直接の声と姿に、おやっさんは、いつものしわがれ声で、なんでい、将坊のやろう、慌てやがってと呟いて、目に浮かんだ涙に、自分でもおかしくなり、手の甲で目を擦りながら笑った。