ちび助が怒っている。それは、もう、あいつに出来る最大の怒りの表情で、怒っている。それでも、俺から見れば――きっと、俺だけじゃないだろうが――ただ、拗ねているようにしか見えない。ちび助は、あだ名の通り、顔も体も子供っぽいが、怒り方までそうらしい。
少し頬を膨らませ、目を合わせようとしない。動作の一つ一つが、むくれている。口もほとんどきいていなかった。
ちび助は、家まで来た俺に、入れば、と一言、乱暴に言い、部屋に上がった俺に、ジュースを出して、飲めば、とぶっきらぼうに言った。
もっとも、ちび助のやる事だ。ぶっきらぼうだろうが、言葉が短かろうが、それでも俺に話しかけているのは間違いない。ジュースだって、こぼれないように、そっと置いたし、それも俺の取りやすい位置にだった。
だいたい、怒りの対象である俺を部屋に入れ、飲み物を出すと言うところからして、ちょっと変な話だ。あいつらしい。本当にあいつらしい。だから、怒っていても拗ねているように見えるのかもしれない。
いつもなら、ちび助がちょっとばっかりむくれてたり、拗ねていたりしていても、からかって、腕に頭を抱き込んで、触り心地のいい髪をくしゃくしゃにして、笑って、抱きしめる。くすぐったりもして、ちび助を苦笑させ、それから本当に笑わせる。
恥ずかしいから、誰にも言わないが、ちび助のくすくす笑う声を耳元で聞くのは、どんな歌や曲を聴くよりも、最高だった。学校の部活仲間や友達、都選抜の奴らとは、同じ男でも全然違う声だ。高くもなく低くもなく、柔らかくて、聴き心地のいいちび助の声。
今、俺がちび助を近づけて、その声を聞こうとしないのは、さすがの俺にも罪悪感というものがあるからだった。
正直に認める。俺が悪い。これは、全面的に俺が悪い。愛想を尽かされたって、無理ないくらいに俺に非があった。ちび助を好きな奴らに知られたら、俺は夜だろうが、昼だろうが外を出歩けないし、自分の部屋にだっていられない。殺されたって、不思議じゃない事をした。
俺は一体、何をしたか。
――浮気だ。恋人や旦那や女房がいるというのに、てめえの相手以外の奴と、それなりの事をする、というやつ。人それぞれ、どこまでが遊びだとか、ここまでなら許せるとか、色々な線引きが出来るだろうが、俺の場合は、誰が、どこからどう見ても、立派な浮気だ。
俺から仕掛けたナンパじゃなかった。女が声をかけてきたのだ。まあ、一目見て、どういう種類の女か分かった。その日の内に、ホテルに行くくらいだから、俺の勘は当たっていただろう。
俺が自分の年齢を口にしても、驚かず、笑う始末だった。――えーっ、じゃあ、あたし、インコーしちゃうの? 綺麗な形の唇をほころばせて、女は言った。年上風吹かされたのも、別に悪い気はしなかった。中学生じゃお小遣い、足りないよね、とホテル代を出してくれた女と、ご休憩して、携帯の番号を交換し合って、出てきた。
それで、そのまま、ちび助に会いに行った。女の香水の残り香や、服の襟に付いてしまった口紅の跡、興奮した女が噛みついて出来たキスマークまで、何も隠さないで。
ひょっとしたら、もっと別の臭いも漂わせていたかもしれない。汗や精液、唾液、相手の体臭なんかが、ホテルの部屋の臭いと混じり合った、情事の臭い。生臭い、男と女の臭い。女はシャワーを浴びたが、俺は浴びていなかった。
前のちび助なら、気づきもしなかっただろう。俺から漂う香水の匂いに、鳴海、なんだかいい匂いがすると言い、口紅の跡は、何か付いているよ、で終わり。キスマークなんて、虫に刺されたの、と見事にぼけてくれるだろう。
それが変わったのは俺のせいだ。舌を絡めるキスも、その間、息継ぎをする方法も、どうやって相手の服を脱がせていくのかも、俺が教えた。ちび助は真っ赤になって、それでも俺が教えたとおりに、していった。
くすぐったいという感覚を、あえぎ声が漏れるようにして、誰も知らない、ちび助自身も思いもしなかった箇所に触れ、舐めて、摘んで、噛んで、貫いて、快感を教えた。もう、前のちび助じゃない。清らかなんて、ほど遠い、いやらしい体にしてやった。
女と会った後の俺を見て、ちび助は何か変だと気が付いたらしい。とまどって、聞こうか聞くまいか何度も迷い、ひょっとしたら、と怖がり、少し怒り――感情の揺れが顔から全部、読みとれていた――結局、最後に、ぎゅっと唇を噛み、ちび助は俺を見上げ、袖を引き、訊いた。
「鳴海、誰かと会ってた?」
「ああ」
短くうなずく。ちび助は一瞬迷った後、質問を続けた。
「誰?」
「女」
「女? 友達?」
ちび助の顔が、自分自身でも気が付かないくらいの短い時間、泣きそうになった。俺はそれにとどめを刺す。
「知らない女」
「え?」
「なんか、声かけられたから付いていった」
ちび助は首を絞められたような顔で、立ち止まり、俺の服の襟を指した。
「それもその人がつけた?」
「ああ」
「この匂い、その人の香水?」
「たぶん。俺、女物つける趣味ないし」
もうちび助の瞳は限界だ。声が震えている。
「じゃあ、それつけたのも、その女の人?」
「それって、何だよ」
「鳴海の首の、ところの……」
ちび助が自分の首を指す。ちび助の首は俺の片手でも掴めそうな細さに見える。
「首? ああ、これか」
襟をくつろげて、ちび助に見せる。舌打ちする。日の光の下で見ると、結構濃く残っていた痕だった。
「目立ってるな」
ちび助はすっと青ざめて、俺の腹の辺りを軽く撲った。
痛くねえよ。もっと強く殴れよ。出来るだろ。
「もう、いいよ」
「何がだよ」
「もういい!」
ちび助は言うと、人混みの中に消えた。小さいから、すぐに見えなくなる。俺は追いかけなかった。独り言みたいに言ってみた。
「最低、最悪、だろ」
その日の約束は、もちろん無しになった。そのまま家に帰って寝た。本当なら、夜にちび助を抱いて寝る予定だった。
鳴海、力込めるから、痛いんだよ。朝、起きたときに文句を言うくせに、それでも一緒に眠ってくれる、お人好しな奴。そいつを俺は裏切った。
「お前、最悪。最低すぎる。どっか行け。消えろ」
設楽に話したら、こんな言葉が返ってきた。
「電話で消えるも何もねえだろ」
「じゃあ切る」
電話があっさり、切れる。もう一回かけ直す。
「なんだよ」
心底、呆れたような声音。これくらい、冷たかったら、俺だって出方が分かるのに。
「どうしようか」
俺自身のことだっていうのに、他人事みたいに、訊いてみた。
「別れろ。お前みたいな奴、彼氏にもった方がかわいそうだ」
「相手は俺に惚れてんだよ」
「ばか。惚れてんのは、お前だろ」
そうだよ。そうだから、腹立たしい。どうして、俺の方がちび助の事を好きなんだ。それって、俺が選ばれてるってことにならないか。あんな奴に、俺がなんで、えらばれなきゃいけないんだ。
「謝るか別れるかしろよ」
「お前だって、浮気や二股くらいやってるだろ」
設楽は鼻で笑う。
「俺はお前と違って、最低限のルールは守ったぜ」
「うっせえな」
この低レベルな争い。あまりに不毛過ぎる。情けなさを通り越し、笑いが漏れてきた。
「へへ」
「頭にきたか」
「はは」
「鳴海、お前さあ」
「俺は最低最悪のバカだ。じゃあな」
電話を切って、俺は家を飛び出した。
どこに行くかなんて、分かりすぎているから、腹立たしい。
一体、あいつの家以外、俺が行く場所なんてあるんだろうか。あいつがいる以外の場所で、俺が行きたい場所なんて、あるんだろうか。
ちび助は、ちび助らしい、怒りのやり方を見せながら俺を迎え入れ、俺はジュースを飲みながら、ちび助の様子をうかがっている。顔には反省、胸には罪悪感、そんな感じの気配を漂わせて。
ちび助は俺の視線に気づいて、あえて無視しているらしい。バレバレの態度に、俺は状況も忘れて、おかしくなった。横を向いて、笑っていたら、ちび助はかちんと来たらしい。いきなり、怒鳴ってきた。
「鳴海!」
「なんだよ」
「なにか、言うことあるだろ!」
「何を?」
ちび助は顔を真っ赤にして怒っている。
「この間のこと」
「ああ」
「謝ってよ」
「謝れば、お前、俺が何してもいいのか」
ちび助は、俺を睨む。目が、泣きそうに震えた。
「謝ってお前が許すなら、俺はまたするぜ」
すうとちび助の目が冷えた。哀しさが凍りついたら、こんな目になるんだろうか。
「……なんで?」
俺だって知らない。理由は全部、俺じゃなくて、お前が知っているはずだと、言いたいくらいだ。
「分からないのか」
「分からない」
「だろうな。お前は、女じゃないから」
ちび助の劣等心を、ぐっさりやる一言。心地よさと同時に、俺自身の胸にも、穴が空いて、とんでもない痛みが走った。
ちび助の方の穴と痛みは、瞳からでも覗けた。ちび助が俺から顔を背けた。今、出来た傷は痛いか。血を吹き出しているか。その血は熱くて、俺への想いを少しは滾らせてくれているか。
「帰ってよ」
「嫌だ」
「鳴海」
顔を近づけたら、突き飛ばされた。床に手を付いて、体を支えた俺に、ちび助が言う。
「鳴海なんか」
俺は、一瞬目を閉じる。感じた目眩が、どんな種類のものか、分からない。
「嫌いだ」
間もおかず、俺は言う。
「好きだ」
「嫌い」
「好きだ」
「鳴海なんか大嫌いだ」
「好きだ」
「嫌い、大嫌いだ」
「好きだ」
「嫌い」
「好きだ」
「……」
ちび助が泣いた。俺から顔を背け、頬にぼろぼろ涙をこぼしている。色気なんか、全然ない子供みたいな泣き方。それでも、俺よりずっとずっと大きな奴だ。
「ずるい」
「誰が」
「鳴海。ずるい」
肩を抱いて、引き寄せた。もっと大きくなれよ。片手で引き寄せられるような体つき、してるんじゃねえよ。抱き潰してしまいそうな気がして、怖い。本当に怖い。
腕の中でちび助が泣く。ずるい、ずるいと涙をこぼす。前髪をはらって、うっすら汗をかいている額にキスした。首を振って、厭がるちび助の瞼に唇を当てた。裏切りに、嫉妬に泣くちび助の、風祭の涙は、渇きを覚えるくらいに塩辛く、溺れそうなくらい甘かった。
俺、馬鹿じゃねえの。抱きしめる腕が震えている。
ちび助が胸を撲つ。無茶苦茶痛い。直接、心臓を殴られているみたいだ。
「嫌いだ」
「好きだ、好きなんだ」
呪いみたいな言葉を、悲鳴みたいな言葉で打ち消した。ちび助が顔を上げる。歪んだ大きな目、涙がこぼれて濡れている。
「俺は好きだ」
唇が一文字に引き結ばれている。嫌いなんて言葉も漏れない。親指で唇をなぞって、もう一回、好きだと言った。
嫌い、と言われない内に、顔を近づけた。閉じられた唇を吸った。好きだと言った。ちび助は何も言わない。俺を見ている。目を閉じないで、キスを続けた。唇をこじ開けるみたいにして、舌を入れる。逃げもせず、かといって俺を待っていたわけでもない、ちび助の舌に絡めた。
ちび助が目を閉じた。涙が頬を落ちていった。その場に組み敷いて、服を脱がした。ちび助が俺を睨む。シャツのボタンを外して、ズボンのチャックを下ろして、全裸にして、体中舐め回した。ねとねとになるくらい、しゃぶって、舐めて、いじくって、自分のを突っ込んだ。
ずるい、ずるい。逃げられない、ずるい。
ちび助があえぎ声を上げながら、言う。俺は笑って、ちび助に噛みついた。
莫迦じゃねえの。お前、本当に莫迦じゃねえの。俺から逃げられない?
それは俺だ。掴まっているのは俺の方だ。お前が指を動かすだけで、俺の頸はあっさりもげる。いつ、気づくんだ? 支配しているのは俺じゃない。お前なんだよ。身も心も絡め取られて、そうした方が気づかないなんて、お前は最低だ。
好きだ、と泣いた。ちび助は、何も言わず、俺の腰に足を絡めた。両腕が背中に回る。それだけで、馬鹿のように悦ぶ俺がいる。飼い主から、やっと餌を与えられた犬のようだ。尾の代わりに俺は腰を振って、ちび助をあえがせる。貫いて、えぐって、ちび助をよがらせた。
こいつが、俺をずたずたにして、壊したって、いい。すべて奪われて、がんじがらめにされて、なおも風祭に縛られることを望み続けている。打ちのめされて、ぐちゃぐちゃに心の中をかき回されて、俺はこいつに捕まっている。心臓を握られ、いつか、俺はこいつに殺される。今でも、殺され続けている。
もう一度、好きだ、と泣いた。ちび助が、泣きながら、僕も好きだ、と言った。