砂浜を歩きながら、俺は風祭に呼びかけている。風祭は振り返っては首を振り、早く行かなければ、と呟く。俺が呼びかけるたびに、距離は広がり、小さい風祭がなおのこと、小さく見える。それなのに、あいつの白い顔やあの黒い大きな瞳などは、はっきり見て取れるのだ。
どこまでも続く砂浜は、陽光にさらされて、白く眩しい。さくさくと足下で砂を踏み、こんな風に二人で出かけるときには、やたらと動きが軽やかになる風祭を追う。海岸の上を歩いていた風祭は、段々と波打ち際に近づいていた。
渚には寄り物が、無造作に転がっている。藻、海草、水母。死んだ魚が、貝や鳥にでも食われたのか、溶けた内臓と尖った骨を見せて、砂粒に覆われている。なぜか、不安からの混乱に襲われ、俺は目を逸らす。こんなものは、砂浜に限らず、めずらしくない。鳥や蜥蜴、蛙が道ばたで轢き殺されているのを何度も見てきた。人間や大きな動物ならいざ知らず、小動物類の死骸は日常に転がっているものだ。
それでも、点在する他のゴミに思わず、安堵する。焦げた部分がある板きれ、極彩色の花火かす、埋もれた空き缶、切り口に光を溜めたガラス片、プラスチックや発泡スチロールのパック、釣り糸、貝殻、捨てられたゴミと打ち寄せられた漂流物とが、ごちゃごちゃして、砂浜は白い割には汚らしかった。
いつのまに、拾ったのか、風祭が長い棒を振り回している。引きずりもしたらしく、あいつの後には、棒で引いた線が長々と続いていた。時に円を描き、とぎれがちにもなるじぐざぐの線の断片は、繋がる事もなく、風祭の足跡の横にあった。
「――早く行かなきゃ」
どこかに子供特有の甘さと高さを残した柔らかい声が届く。
そんなに急いで、風祭はどこに行きたがっているのだろう。もう、だいぶ歩いているというのに、行きたがっている場所も見えない。ずいぶんと前に、一軒だけあった海の家の側も通り過ぎていたはずだ。
波打つ海面は、鏡を砕いて、ばらまいたようだった。海を見ていても、日に照らされた砂浜を見ていても、光が目に染みて、目が痛かった。
風祭は砂浜を下がっていき、波打ち際を歩いている。満ち潮時には海に浸かった場所らしく、砂が湿って、色が変わっている。踏みしめると足が取られる乾いた砂の上よりは歩きやすかった。今は引き潮の時刻らしく、波が遠ざかりながらも、しぶとく打ち寄せていた。
風祭の足跡が濡れた砂に残っている。俺の足跡も、不規則に、風祭の足跡と混じる。あいつの靴跡を踏むと、俺のそれしか残らなかった。あいつの痕跡を俺が消していく。体も、手足も、俺より小さな風祭は、俺の前を歩いている。時折、振り返って、先輩、と困ったように首を振る。あいつは振り返るが、俺は振り返らない。ただ、あいつが導く方向へ歩いている。
どこへ行くのか問えばいいのだと、今さらに気がついた。だが、今は声を出そうにも体が気怠かった。黙ってついていく。いざとなれば、風祭を呼び戻せばいい。立ち止まった俺の元へ、あいつは駆けてくるだろう。先輩、疲れたんですか。そう言いながら、笑いながら、俺の世界から、あいつ以外の音を消してしまうだろう。
風祭の声の合間にも、あいつが背を向けて歩く間にも、ちゃぷちゃぷ、ざんざんと波が押し寄せ、遊んでいく音が耳に入ってくる。絶え間なく続き、体を攫っていくような波音は、規則正しく、それが眠気を呼んだ。
そう考えてみれば、今見つめる光景はまるで白昼夢のようだった。白い、白い、砂浜と、静かに歩く風祭、ただ追いかける俺。波の音に体を絡め取られ、じりじりと太陽に体を灼かれ、体を重く感じた。
濡れた砂は、足跡をはっきり残す。風祭はもう棒を捨てていた。俺が棒を蹴ると、棒は波に攫われ、ゆっくりと流されていった。側には、ひっくり返された水母がいる。死んだせいか、白く濁った体は、どちらが表か裏か分からなかった。
風祭の足跡は、棒の線跡が途切れても、まだ続く。あいつが履いていた青いサンダルが、一足、打ち上げられた別の水母の横に落ちていた。
俺が近づく前に、波が持っていく。舌打ちして、引いていく波を追いかけ、掬い上げる。急いで、後ずさったが、何秒か遅く、ざぶりと波に足を洗われた。引き戻される感覚。波打ち際で海に足首を浸していれば、味わえる感覚。体にまとわりつく重たい空気、潮の匂い。濡れた裾と足のまま、歩き出す。泥が足指の間に入り、足を動かすたびに、ざりざりと皮膚を擦った。
風祭の足跡は、右足が裸足、左足がサンダルののっぺりした形だった。途中で、サンダルをまた脱いだらしく、残る一足が、砂に半ば埋まるようにして、捨てられていた。打ち寄せる波がサンダルに残した白い泡は、俺の手の中で砕けていった。
素足になった風祭の足跡を追う。俺がサンダルを二度も拾っていたせいで、あいつは、もうずっと遠くにしか見えない。声すらも、とぎれがちに聞こえなくなった。
振り返っているのは分かる。困ったように俺に呼びかけているのも、声の断片で分かる。寄せては返し、また這い上がり、戻っていく波音に紛れて届かないだけだ。潮騒に体が、ざわついた。
なぜ、風祭は素足になったのだろう。砂浜にはゴミが多いから、気をつけなくてはいけないと言ったのはあいつだった。
砂が入るからって、サンダルを脱いだりしないで下さいね。砂浜に続く階段を下りながら、風祭は確かにそう言った。あいつが食べていたアイスの味、俺が食べていたアイスの味、思い出しかけて、甘さよりも塩辛い味が口に広がった。まるで、海の水を思い切り呑み込んだような。
潮の匂いが、やけに鼻につく。波打ち際にいるのだから当たり前なのに、胸がむかむかした。海の側に居すぎるからだ。肌もべたついている。
海に来たがったのは風祭だった。俺は早起きと寝不足のせいで腫れぼったい目を擦り、空いた電車とバスに乗って海岸まで、風祭とやって来た。小さな海岸だった。そう、海岸の端まで見渡せるくらいの小さな海岸。ペンキが剥げ落ちたぼろぼろの貸しボートが、底を見せてひっくり返り、側にカモメが隠れていた。風祭は打ち寄せられた砂だらけのワカメを拾い、その長さに驚き、すごいと笑った。風祭が幾ら笑っても、声を上げても、風に攫われ、波とともに砕けるような人気のない砂浜だった。世界から取り残されたように寂しい砂浜だった。そこで気まぐれに、流木を集めて、燃やしたりもした。
炎の色は、木が塩を含んだためか、青や緑に染まり、風祭は魅入られたように、炎を見つめていた。やがて、炎の色が金と紅が混じり合った、いつも通りの色に戻ると、照り返しで赤くなった頬のまま、風祭は辺りを見回した。
人がいませんね、先輩。季節はずれだからだろう。僕、水着、持ってくれば良かった、今なら、泳ぎ放題だから。莫迦、水母だらけだよ、刺されたいのか。水母に刺された事がないんです、痛いんですか――。
俺の返事に何がおかしいのか、風祭が笑う。
たまに、痛いくらいに思ったものだ。俺はこいつが笑っているだけで良いときがあると。あいつの笑い顔が、俺の世界すべてになったとき、そう思った。
俺はお前となら……だって、いい。ある日、冗談のようにして、無意識に呟いた言葉に真実が籠もっていたと、俺は言った後で気づく。風祭はなぜだか、息を止めて、俺を見上げ、僕だって、それでいいと静かに呟いた。
約束じゃない。誓いでもない。これは甘い会話でもない。俺の何気ない呟きに、あいつも囁きで返した。それだけのこと。それなのに、俺たちは二人して、彫像のように動きを止めていた。
そうだった。時々、俺たちには、時間も息も凍りつく瞬間があった。それは、孤独の中に愛おしさを閉じこめきってしまったような、お互い触れるのも叶わないような、哀しい尊い瞬間だった。それを壊すために、俺と風祭は手を伸ばそうとしていた。何度、繰り返しても、見当違いの方向に伸ばし、お互いを傷つけてしまうだけだったが。
重たい首を振り、足下を眺める。風祭の足音は波に消されようとしている。
人が残していったゴミは、どこにもなく、死骸だらけの海岸を俺は歩いている。水母、魚、貝、蟹、大半が腐りかけている。生臭い潮の匂いと腐臭。小さな死骸は、それと気づかずに踏みつけてしまう。死骸は足下で柔らかく崩れ、砂の中に埋もれていく。
風祭の足跡は、それらの間を縫って、続いている。次の波が寄せれば、消されてしまう儚いその跡を、俺は追う。あいつが踏みしめた足跡を辿る。
走ろうとすれば体が重く、歩こうとすれば、風が風祭の声を運ぶ。先輩。先輩。三上先輩。その声には哀しみと困惑、ついてくるなという意思が秘められている。
どうしてなのか、ひょっとしたら、俺は分かっているのかもしれない。脳裏を幾つかの映像がかすめる。被さってくる波。海の中で揺れる風祭の体。黒髪が、まるで不吉な水草のように、ひるがえり、あいつの青白い頬や耳にからみついている。抱きしめるように、光を求めるように、両手はゆるやかに広げられているが、指先は決して触れ合う事もないまま、閉じられる。風祭の青いサンダルは落ちていく。暗い海に、一筋の光が混じったような眩しいその色は、しかし毒々しい。唇から溢れた泡が幾つも弾ける。声にならなかった言葉である白い泡が、海面を目指し、俺たちが追いつけないくらい早く、昇っていく。
俺はそれを彼方に思う。今や、小指の先ほどにしか見えない風祭よりも遠くに思う。
同時に、自分の体から雫が垂れているのに気づく。風祭も同じように濡れている事を、俺はすでに知っている。波に揺さぶられ、もつれ合いながら、最後には離れた体、それでも一度は抱きしめた体だった。
口を開けば、辛い海の雫が入ってくる。またたけば、瞼から潮が散る。あいつは、泣いているのか。それとも、俺のように水滴を体中からまき散らしているのか。肺まで海水に満たされ、放つ言葉も塩辛い。
――風祭、俺も行く。
風祭が遠くで振り返った。辛い風が言葉を運ぶ。
――いいんですか。先輩、本当にいいんですか。
最初もそうだった。俺が、風祭の好きだという言葉にうなずくと、あいつは泣きながら、そう繰り返した。俺は自分の返事を思い出せない。ただ、あいつの言葉には嘘をつけなかった。問いかけられて、返した答えが、俺の真実だった。
――無理しなくてもいいんです。まだ、止められますから。
初めて、口づけたときも、体を重ねたときも、あいつは言った。
風祭は俺といるときは自分が自分だという事に、いつも遠慮していた。俺は何も言わなかった。優位な側になるのは確かに心地よかったが、それ以上に、俺にも、どうすればいいのか分からなかった。俺は、それで自分が、どうしようもない、風祭よりもずっと幼い、独りよがりなガキだと気づかされた。あいつの不安一つ、恐れ一つも解放してやれない、自らの想いだけに囚われる子どもだと。
風祭に対する心を、どう言えばいいのか分からない。側にいるだけで、満たされるときもあった。餓えるときもあった。あいつを憎み、いとおしみ、泣かせ、ほほえませ、傷つけ、抱きしめたかった。これほどに激しい感情を巻き起こさせ、それを隠したいと思う相手はあいつだけだった。
それを、何と呼ぶのだろう。愛と呼ぶのか。恋と呼ぶのか。感情を表現する言葉の陳腐さに、いつも嗤った。
――先輩、僕は大丈夫です。だから。
強がりではなく、風祭は本気でそう言う。そのたびに、俺は無力さに歯噛みする。伸ばしかけた手を引く。あいつは心に触れられるのを怖がった。俺は触れたとき拒まれるのを恐れた。俺たちは互いへの気持ちの深さに恐怖するだけで、飛び込まず、ただその縁に立ちつくすだけだった。それでも、一緒にいた。離れられないと、お互いに悟っていた。
いいんだ、俺も――。
俺は戻れる事を知っている。一人で戻れる事を知っている。あいつを連れ戻す事は不可能だし、あいつに追いつけば、俺も永遠に戻れはしまい。それでいい。海と陸の狭間を歩く俺は振り返らない。足も止めない。ただ、風祭の元へ向かう。
朽ちた死骸が増える。腐臭は潮の匂いに消される。一歩ごとに、踏みつけた藻が髪になり、蹴り飛ばした木片が、白い骨になる。肉は食われ、骨はいつか砕け、浜にある砂の一粒になる。どこまでも白い砂がさらさらと音を立てて、誰かの足下で散る。
空は晴れていない。厚い雲が鉛色をして、俺たちに覆い被さっていた。海は凪いで、静かに波音だけを立てる。それは子守歌のようにも、鎮魂歌のようにも聞こえる。
風祭。
先輩、ねえ、僕は本当にいいんです。大丈夫です。だって、こんなのいつか、来ることでしょう。遅いか、早いか、それだけなんでしょう。
ああ、そうだな。
うなずきながら、俺は思う。それだけの事に、俺は永遠に泣くだろう。どんな深海も、悔恨と喪失の悲哀を呑み込んでくれはしない。
俺はすでに言った。たとえ、呟いたときには、戯れか冗談にしか過ぎなかった言葉も、お前が真実にした。お前が教えてくれた。お前に導かれるままに、俺も行こう。お前となら俺は構わないんだ。たとえ、死のうが、生きようが、お前のいる場所なら。
風祭。俺は呼びかける。唇からは潮水が溢れる。
風祭が振り返る。足を止め、こちらを見つめている。
風祭、赦してくれるか。終わるときにしか、気づけない俺を、このような想いしか抱けない俺を。最後まで、独りよがりな俺を。
風祭の顔が見えない。前髪からしたたった海水が目を刺し、水を含んだ服が枷となり、駆けるのを止めさせようとする。それでも、俺は近づいていく。風祭の元へ、のろのろと、這うように、砂に足を取られながら、あいつの側に向かう。
追いついた、あいつに何を問おう、何を言おう。ここは、どこだと? 俺たちはどこへ行くのだと? 辿り着いたどこかでなら、伸ばした手に傷つく事もなく、言葉に迷う事もなく、お前と抱き合えるだろうか。ともに沈み、ともに朽ち果て、魚たちにその身を食わせ、骨になり、砂になれるだろうか。
――波が騒ぐ。俺は風祭に手を伸ばす。風祭はもう歩き出さない。ともに生まれ来た場所へ還るために、真っ青な足で立ちつくしている。