昇降口で、将に声をかけられ、右足をスニーカーに突っ込んでいた水野は振り向いた。
「水野君、いま、帰り?」
「そう」
将は自分の靴箱から靴を取る。左足もスニーカーに入れ、水野は傘立ての前で将を待っていた。
梅雨も明けたが、空気は湿り気を残して蒸し暑い。汗と埃と土を混ぜこね、少年少女の体臭を合わせた臭いが、昇降口一帯に漂っている。
将はほどけかけていた靴ひもを結び直して、小走りに水野の側にやって来た。
将が隣に立ったとき、水野は、あ、と小さく、声を漏らした。よどんだ空気の中だから、鮮明なくらいに感じた。
将はまばたきを一回して、水野を見上げてくる。どうしたのかと訊かれる前に、水野は自分から言った。
「体育、プールだった?」
「うん」
将はにこにこ笑いながら言った。というよりも、こいつが笑っていないところを見る方がめずらしい、と水野は思い、自分も微笑した。
「なんで、分かったの?」
「におい」
将は、その言葉を訊いて、何を思ったのか、右腕を鼻に持っていった。手首のやや上辺りを嗅いでいる。
うつむいた将の髪からも、水野は匂いを見つけたので、言った。
「プールのにおいがした」
「そう? するかな」
将が手を下ろし、不思議そうに言う。
「する」
「するかなあ」
歩いて、昇降口を出て行く。昼と比べても衰えない勢いの太陽が光っている。足下に影が伸びる。影と共に校門へ肩を並べて向かう。
「涼しかっただろ」
水野が問えば、
「うん」
将はうなずく。
「シゲはさぼりか?」
「ちゃんと出たよ」
でも、といって将は笑うような、困ったような、表情になった。
「水着がね」
「忘れたのか?」
「ううん。スクール水着じゃないの着てた」
「気にするな」
どんな水着を着ていたか、想像できて、水野は幾分、げんなりした顔になった。目立つ上にも目立つ男だ。
「シゲさん、泳ぐの早いよ」
「風祭は」
「……普通かな」
その返事から、ちょっと遅いのではないだろうかと水野は推測した。ついでに、これくらいのからかいは許されるかもしれないと、半ば本気に近い提案をした。
「夏休みに、一回くらいサッカー部で海、行くか」
「えっ」
「プールでもいいけど」
将は水野を見て、うなずいた。少しだけあった戸惑いも、サッカー部全員で、という言葉に消えたようだった。
「テスト、終わったら、みんなに言ってみるか」
「いいね」
校門を出て、日陰を選びながら歩く。蝉が鳴いているが、まだ数は多くない。夏がすぐそこで足踏みしているようだった。
「テスト勉強してるか」
「まあ、一応」
「でも、夜は河原で練習してるんだろう?」
将は照れたように笑った。水野が、ちょっと視線を鋭くすると、慌てて首を振る。
「だけど勉強もしてるよ。本当だって!」
「分かってるよ」
水野は笑う。
と、酒屋を見つけて、足を止めた。店先にはよしずで日陰を作ってあるが、そこにアイスボックスが置かれている。
「アイス、買っていこうか」
水野はポケットから、財布を出した。将が、いいのかな、という顔になったのは、買い食いを気にしているからだろう。
「たまにはいいよ。普段、真面目にしてるだろ、俺たち」
シゲを思い出せ、というと、将がくすりと笑った。了承のサインと水野は蓋を開けた。
立ち上るひんやりした冷気に、将が目を細めた。
「どれがいい?」
「えーっと」
「早く決めろよ」
「じゃ、一回、閉めていい」
「迷うほど、種類ないぞ」
「いいから」
一分半ほどして、店番の女性に小銭を渡し、アイス片手に、近くに置かれた木の陰が落ちているベンチに座る。人の気配を感じてか、鳴いていた蝉が飛んでいった。街路樹に留まるのが、水野と将の目に映った。また同じ鳴き声が響き出す。
空が青い。雲との境目が、夏のくっきりしたそれに近づいている。
三分の一食べたところで、水野は口を開いた。
「テスト終わったら……」
ソーダアイスの先端が口の中に崩れてきた。水野は言葉の続きと共に飲み込んだ。
「終わったら?」
将がうながすように問う。
「……夏だな」
「うん」
溶けそうだった部分を、二人して慌てて、食べた。固く凍った部分にたどり着いて、水野は将を見た。将は固い部分を少しずつ、かじっている。
水野は左手を動かした。ベンチに置いて、つるつるした感触を掴むように、わずかに指を曲げる。
将はアイスを左手に持ち替えた。右手は腿の上に置く。すぐに、制服のズボンの感触が、今の陽気には気になるから、と自分で言い訳して、ベンチの上に置いた。
飛行機がはるか頭上をよぎっていく。ほんの少し、将の手が動いて、水野の手に近づいた。
じっ、と羽音が聞こえ、蝉が後ろの木に止まった。鳴き出し始めたのに驚いて、水野は手を浮かせた。将の手に近づく。指先が触れる。
しっとりした感触に、水野はうつむいて、将もうつむいた。アイスが、いつの間にか、溶けて、地面にしたたり落ちていた。将の方の染みには、蟻が集りだしている。
「テスト終わったら……」
水野のつぶやきを将が、小さく繰り返した。
「終わったら?」
「二人で、どっか、行こうか」
「うん」
水野の方から動いて、将の手を握った。染まった耳たぶを見せるように、横を向く。将は握られた手に、力をわずかにこめて、やはりうつむいていた。