海の骨



 今年も海へ来た。人気のない、誰かがつけた足跡が幾日も残っているような砂浜を降りて、波打ち際へ行く。水平線の向こうに昇っていく太陽がおぼろげに見えた。空の色は、もうすぐ薄桃色から、濃い赤へと変わっていくことだろう。
 朝の冷たい風に清められて、潮の匂いに生臭さはないが、やがて、陽光が海を温めれば、肌に張り付くような、あの臭いが戻ってくる。
 満潮の時刻なのか、波打ち際に立っていると、波が足を洗うようになった。足首まで浸されれば、じんと痺れるような冷たさが襲ってきた。そろそろと足を引いて、波が来ない場所まで行くと、歩き出す。この海岸にいる限り、場所はどこでも良かった。
 足跡が残る。大きな波が来れば痕跡は消える。足首や脛に、跳ね上げた砂が飛び、濡れた靴底が更に砂を含み、重たくなった。さく、さく、と風に築かれた、小さな小さな砂の小山を踏み崩し、歩く。
 太陽の光が眩しくなる。左頬に当たり、夜明けの冷気で冷えていた部分を暖めた。右頬は冷たいままだ。仮面を付けているような気にでもなった。
 足を踏み出すたび、影が伸びる。光が強くなる。風は暖かくなり、また冷たくなり、海の臭いを運んだ。砂浜が岩場へ変わる場所まで、辿り着いたので、振り返ってみた。途切れがちながら、足跡は続いている。誰かが追ってくるのなら、分かるかもしれない。しかし、それも後わずかだ。潮が満ちれば、足跡は消える。
 段差のある岩場へ、片足をかけ、そのまま体を持ち上げる。靴ひもの間に入り込んでいた砂が、ぱらっと落ちた。
 高くなった岩場を少し、歩く。ここを行く足取りも慣れたものだ。人一人腰掛けるにちょうどいい岩を見つけ、腰を下ろした。満潮になると、この岩場は海に沈むが、この岩だけは水面からぽつんと浮き出てしまう。そのころには、この岩には座っていないだろう。
 もっと先へ行けば、早朝の釣り客の姿が見られるかもしれないが、目的はそのようなことではなかった。釣りは何年もしていないし、二度としないだろう。
 かじかんだ指先を握り、薄紅に染まった空を見上げる。雲が桃色に輝き、波に映った光が黄金に変わる。つかの間、自分のいなければならない場所を忘れた。
 強いほどに儚い、空の生まれた尊い瞬間は、すぐに消え去り、戻ってきたのは、徐々に薄青くなる空と直視を許さない太陽だった。
 この海へ来るのは年に二度だ。一度は二人の友人と一緒であり、訪れる時間ももっと遅い。花を海に流し、何も語らずに、海だけを見つめる。潮騒が哀しみを絶え間なく呼び起こし、胸苦しい思いのまま、やがて海を去る。呼び覚まされる思い出への涙は乾いているが、悲しみが消えたわけではない。
 悲しみの始まりの日、誰もが俺の混乱と衝撃、悲しみ、そして狂気を想像していたはずだ。そこから免れたのは――いや、周りから気取られぬほどの早さで、俺は一気に落ちていった。海に見つけた風祭と共に、眩い闇へと。
 夢でしかないと思った。海へ絶望と共に潜った俺が、沈む間際に見た美しい夢なのだと。
 連れ帰ろうとすれば、風祭は泡となって消えてしまい、俺だけが岸辺に打ち上げられていた。体に張り付いた砂とべったり残った潮の匂いだけが、奇跡の名残だった。
 それ以降、その年には何度潜っても、風祭には会うことが出来なかった。幻のような、たった一度の冷たい交わりに、俺は縛られ続けた。
 翌年、儚い望みとともに、昨年と同じ日、同じ時刻に海へ入った。夢でないことを確かめるためでもあり、もしすべて、俺が見たむなしい夢なのだったら、始めに決めたときのようにそのまま海に砕かれようと決めて。
 風祭は待っていてくれた。口を閉じ、瞳だけを海のように深くきらめかせて、俺に腕をさしのべた。泡よりも白い躯が俺を絡め取った。
 いまや、海へ来るのは歓びでもある。それは心からの思いであるが、暗く、ひっそりとしている。太陽の下で祝福されるそれではないと、その影で、一人胸に秘めておかなければならないと知っているからだろう。
 波が勢いを増す頃に海へ入る。冷たい海の底には灰色の岩棚が広がり、細かい泡が光に照らされ、舞うように水面へ浮かび上がろうとする。波に体を揺らされて、視界は安定しない。いっそう深く潜り、探すこともなく、息継ぎをすることもなく、俺は短い時間、待つ。それは目には見えない。どこから来るのかも分からない。幻のようなものだから、とらえようとしてはいけないのだ。ただ、現れるのを待つ。
 そうしていれば不意に白い手が巻きついてくる。俺は腰に絡んできた手を外し、ついで握りしめながら、振り返ればいい。すぐそこに、髪を藻のように揺らめかせて、風祭が笑っているはずだ。白い顔にほほえみ返し、顔を近づければ、重ねた唇からは濃い海の味がする。塩辛い舌に自分の舌を絡ませて、ゆっくり沈んでいく。
 岩の間には、いびつな円の形をした白い砂地がある、俺は風祭を、その白い臥所へ横たえる。わずかに細かい砂が、舞い上がり、靄のように風祭の体を覆う。
 確かめるため、俺は風祭の体の輪郭を辿り、昨年から何一つ変わっていないのに笑う。冷たいのか、熱いのか。泣きたいのか。笑いたいのか。境界線上にいる以上、俺は決めることが出来ない。
 風祭は声もなく、笑う。それとも泣いているのだろうか。そのたびに、水が揺らめき、砂が舞い上がる。分からない俺をおかしがるように、瞳がまたたいた。
 人差し指が伸びる。俺の口元を差し、自分の口元を差す。風祭が唇をゆっくり動かす。始まりは、か、次は、く。俺は風祭の唇を塞ぎ、その後に、自分を指さす。風祭がうなずく。そのとき、確かに風祭が俺の名を呼ぶ声が聞こえる。魚の鱗がはがれるときのような、淡い、聞こえるか聞こえないかの曖昧な声が。
 言葉の響きは、わずかな水の乱れとなって、俺たちの唇の間でゆらめく。声が届かず、聞こえないことを風祭は哀しまない。俺もその素振りを見せない。多くを望めば、それ以上のものを失ってしまうと、分かっている。
 それなのに苦しくて、指を絡めてしまう。俺の手は年ごとに風祭よりも大きくなる。掌も、指の長さも、変わるのは俺だけだ。今では、握りつぶしてしまえるのではないかと思うくらい、風祭の拳は小さい。体も抱いたら壊れてしまいそうに思える。
 そんな風祭を抱く。冷たい泡と潮と涙で出来た体を、自分の体で、少しでもあたためようとする。風祭から感じられるのは、波の鼓動だけ、掬い取っても流れていく砂の感触だけ。それでも体を重ねる。冷たい膝の間に腰を進め、ぬるんだ潮のような交わりを続ける。見下ろした風祭は苦しげに目を細め、唇をわずかに開いていた。
 快楽があるのか、ただ苦痛を味わうだけなのか。
 泡が風祭の姿を曖昧にする。砂が俺の目をぼやけさせる。魚が尾を翻して逃げ、海草には逃げ遅れた小魚たちが潜む。水面をとおし、俺たちがいる砂底に、ほんの少し、光の欠片が落ち、俺は意識を明らかにする。
 ここがどこなのか、彼が何なのか、疑問に思う。それもまた、俺たちが動けば舞い上がる砂の靄に埋もれていく。
 年一度の逢瀬に恋い焦がれた。再会の口づけに魂を抜き取られた。これからも抜け殻のように生き続けていくのなら、ここで朽ち果てたい。
 風祭に囁いた。風祭は無邪気に、笑った。瞳に嬉しげな光がきらめいた。それとも、悲しげな眼差しを浮かべたのだろうか。躯を重ねても、俺たちは互いの心を推し量る事が出来ない。海の外と海の底に別れて生きる者が、分かり合える事など、永遠にない。
 抱き合い、海流に流されながら、二人でまどろむ。とろとろと、風祭の肌の上を光が撫でる。俺は風祭の肌をまさぐる。これと同じ感触のものは、どこを探しても見つけられない。指に感触を刻みつけていても、海から上がれば、俺は、それが柔らかかったのか、固かったのか、鱗があったのか、何一つ覚えていない。残るのは肌に光る塩の粒と海の臭いだけだ。
 今だけの感触を味わい、俺は風祭を抱き続ける。唇を塞ぎ、波に揺られ、交わり続ける。潮が俺たちを運ぶ。周りの流れはあたたかくなり、冷たくなり、そこに浮かびつつ、沈みつつ、どこまでも流れていく。流されていく。時間は消える。天も地も俺たちの周りはなく、すべてが渦巻き、どこかへ向かい、元の場所に戻り、また先へ進み、ねじ曲がり、やがて消える。
 やがて風祭が宝物を見せる子供のように、そっと俺の腕を引き、水底を指さした。
 海草が黒や紫、緑に揺らめき、風祭を守っている。捉えた贄は決して離すまいとその腕に、腰に、足に、頸に巻き付いて、海面へ向かって、伸び上がっている。それはまるで、自分たちの宝を誇るかのように、自慢げだ。
 魚貝の口づけを受け、砂と水に磨かれ、風祭は白く清められていた。
 周りで群れる魚が、砂底に隠れる貝が、この海に生きるすべての生物が、何より、彼らをはぐくむ海が、俺にとっていとおしくなる。風祭の髪の間に潜り込んだ小魚も、その指先を飾る貝も、風祭の一部を我が身に収めたはずだ。海に溶けた風祭、海に喰らわれた風祭。俺も今、その中に在る。包まれる幸福に、満たされた歓喜に、俺は笑う。これ以上の幸福はない。あるのなら、それは失う前にしかなかった。
 伸ばした手も、とどかなかった。しぶきを被り続け、まばたきする時を惜しんでも、現れなかった。潮に灼かれ、喉が嗄れ、体が凍りついても、見つけられなかった。声も、祈りも願いも拒まれた。
 俺の内へは水底に沈む微生物の死骸のように白い、細かな粒が積もる。静かに、静かに、凍るよりも冷たく、恨は積もっていく。
 これが、風祭を引き寄せたのだろうか。俺は海へ迎え入れられたのか、それとも魅入られたのか。
 時間は泡に閉じこめられ、地上へ上がっていく。海面には光の網がたゆたう。俺は二度とあの水面へ浮かび上がることはない。指を絡めたまま、風祭と漂うだけだ。
 誰もが思うだろう。俺は君の後を追い、海に沈んだと。
 いつからか、思うようになっていた。それとも、この海の底で、白く揺らめく風祭を見つけたときから、俺は己自身でも知らない内にひそかに決めていたのだろうか。
 いや、失ったときから、この日が来ると分かっていた。このときを待っていた。ようやく約束を果たせる。別れに、逢瀬に泣かずともいい。
 海ではなく、骨に抱かれよう。海ではなく、骨を抱こう。
 風祭。俺は君の骨に抱かれ、君の骨を抱くために、海に戻る。

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