将は小さな時から、人懐こかった。俺に抱かれても、お袋に抱かれても、ちっとも物怖じしないでにこにこ笑い、あの厳めしい顔つきの親父にも素直に抱かれて、うーうーとご機嫌そうな声を上げていた。
よく寝て、よく食べて、よく泣いて、本当に元気な赤ん坊だとお袋は話し、それを聞く薫叔母さんも嬉しそうに笑っていた。
それって、あの人に似てるのよ。言って、薫叔母さんは将をだっこしている謙介叔父さんを見ていた。謙介叔父さんは黒い目をぱちぱちさせている将に、自分の顔を寄せて、響くような優しい声で、あやしているところだった。
「将。将、ほら、お父さんって言ってみな」
薫叔母さんが笑う。
「あなた、まだ話せないのよ」
お袋も笑う。
「もっと待たなくちゃね」
「将、ほら、おとーさん」
将は小さな小さな拳を口に当てて、よだれでてらてら光る口で、ふにゃっと笑った。謙介叔父さんは目の端から溶けてしまいそうな笑顔で、将の口元をガーゼで優しく拭った。
この記憶は、たぶん、二人が将を連れて遊びに来た日曜日のものだ。畳に日が延びていくのどかな昼下がり、親父の横顔すら、やわらいで見えた。ここに現れた幸せは、どこまでも続くかと思っていた。そんな確かさを誰もが感じていたはずだ。
将が謙介叔父さんを、おとうさん、薫叔母さんをおかあさんと、呼び出し、舌足らずな口調で、両親だけでなく俺のお袋や親父までも喜ばせるようになった頃、二人が逝った。
交通事故だった。将を二人揃って、家へ預けに来て、行ってきますと言った二人の顔を、俺は忘れられない。おみやげは何がいいかな、と将や俺に話しかけ、にこやかに笑っていた叔父さんや、お袋と夕飯の献立について話していた叔母さんの横顔も、訃報の電話を受けたときから、胸に焼き付いた。その日を忘れてはいけないと、俺は自分に命じた。
ゆっくりした長い数日間が始まった。気がつけば、あちこちに黒い服の人々がいた。葬儀会社の人間、集まってくる親族の人々、黒と白の色が交互に、俺の視界から浮き上がって見えた。
誰かに声をかけられる。言葉を返す。相手がいなくなって、誰だと思う。分からないまま、また誰かに話しかけられる。答えを返す。俺は、葬儀の間、何をしていたのだろう。お袋の隣にいたのか。親父の隣にいたのか。二人から外れ、葬儀の進み具合を見ていたのか。
俺一人の意識が繋がっていなくとも、滞りなく、葬儀は進んでいった。棺を取り囲んで、白い菊の花が多く並べら、その生々しい匂いに、俺はむせた。強いとはいえない匂いも、何百本も集まれば、人を気押させるものになる。
けれど、俺の記憶に焼き付けられたのは、その生花の匂いでも、弔問客の喪服から漂う樟脳の香でも、線香の匂いでもなく、棺を開けたときに匂ったドライアイスや二人の遺体のかすかな腐臭でもなく、幼い子どもにありがちな、あの乳と汗が混じり合う甘臭い将の体臭だった。
将は、誰かに、おそらくは親類の女性たちに葬儀の間中、預けられていたのに、なぜ、俺の記憶の中に何よりも強く、将の姿や匂いがはっきりと、焼き付いているのだろう。
幼児服に付いていた食べかす、少しべたついていた手、ふわふわした綿毛のような髪、柔らかいパンのような白い腕、その手首の皺や首の皺、目をしばたかせて俺を見ている将を、黒と白の間に、確かに思い出す。
俺は将を抱き上げていた。将へ差し伸べた俺の手首には黒い袖が見える。誰かが、俺たち二人の様子を見て、目に手を当てている。泣き声も聞こえる。
あのときの将は居るだけで、人々を泣かせる存在だった。ものごころもつかない内に、ふた親を事故で亡くした可哀想な、悲しい、子ども。誰もが将を見ただけで、眉を曇らせた。不憫だといって泣いた。
俺は将を抱きしめる。将は意味の取れない言葉で俺たちがいなかった間のことを教えてくれている。何を食べた、公園へ行った、鳥、虫、おもちゃ、ねんね、将の世界は、どこにも区切りがない。終わりもない。広がっていくだけだ。
俺は将の話にうなずきながら、囁く。子守歌のように、これで将が眠れるのではと思っていたように、静かに、ゆっくりと、節すらつけて。
「おとうさんとおかあさん、二人とも、無事に、いったよ、終わったんだ」
将は俺を見て、にっこり笑った。手に握りしめていた白い幼児用の煎餅の欠片を口元に押しつけた。俺は唇を開き、将が押し込むに任せた。
塩気のない、湿気た煎餅は、その柔らかさでもって、俺の舌で溶けていった。味などなく、唾液を含んだどろどろの粘液に変わっていく煎餅を呑み込む。途端に、胃が重くなる。
俺は気がついた。これが、俺が二人の死の知らせを聞いて以来、まともに口にした食べ物だということに。火葬場でも、俺は何も食べていなかった。器に盛られた精進料理の表面が堅くなるのを見るばかりだったのだ。
「――将、まだお煎餅あるか」
「あるよ。おばちゃん、いっぱいくれた」
将は足をじたばたさせて、俺に下ろしてくれと頼んだ。俺は将を下ろし、手を繋いで、家に上がり、将が差し出す白い、薄い焼き色のついた煎餅を口に入れた。何枚も、何枚も舌で溶かし、胃に流し込んだ。俺が生き続けるための食物を将の手から与えてもらい、やましいくらいに激しい空腹を満たした。
謙介叔父さんと薫叔母さんの初七日が終わった日の夜、親父に呼ばれた。話の予想はついていたから、別に不思議に思わずに座敷に行った。
親父の話は想像通り、従兄弟の将を養子として家で引き取る事についてだった。そうなるだろうと俺も思っていた。俺たちの家は親戚係累に縁が薄い。祖父母だってとうに他界しているし、それは謙介叔父さんの家も同じだ。お袋の家は違うが、俺はこちらの親戚が苦手だった。親父に感じる反発とはまた別種の苦手意識と嫌悪を感じる。おかしい事に、それは親父も同じらしく、お袋の実家とは濃い付き合いではない。常識と礼儀を失わない程度の付き合いだ。
「――それと、もう一つ、大事な話がある」
明日にでも養子縁組の手続きに行くと親父は話し、その後、今まで以上に鬱蒼とした目になった。ちらりと背後にある仏壇を眺める。二人分の遺骨が骨壺と木箱に収められ、置かれている。せめて、四十九日が過ぎるまで、将が、謙介叔父さんと薫叔母さんの子どもでいられればいいのにと、ふと思った。
「将はまだ小さい。……私は将を、お前と同じように自分の子として育てていきたいと思う。潮見将ではなく、風祭将としてだ。あの子には」
親父が言いたい事を、俺は悟り、言葉途中で口を挟んだ。
「将に謙介叔父さんと薫叔母さんの事を教えない、ということですか」
「ああ」
「実の両親なのにですか」
「そうだ」
言い切った親父に、俺は黙った。俺がどうこう言って受け入れるような男じゃない。自分の価値観を迷い無く押しつけてくる男だ。
「……勝手すぎませんか」
「そう思うならそれでいい」
親父は、それ以上、何も言わなかった。俺もそれ以上、何も言わなかった。
将を俺たち家族が引き取ることに、誰からも異存は上がらなかった。
――弟みたいに。
落ち着かない葬儀の間、将の面倒を見てくれていた女性が、将が風祭の戸籍に入ると聞いて、俺に言った。
「弟みたいに可愛がってあげてね」
もう、家族なんですよ、と俺は返した。
将は、俺の家で暮らし始めた。最初は戸惑い気味だったが、一週間もしない内に家の雰囲気に慣れ、俺が学校から帰ってくると、廊下から将が、とたとた駆けてきて、お帰りなさいと迎えるようになった。
ふた親を亡くしても、まだその意味は掴めていないらしく、それでも自分なりに、ここにいなくちゃいけないんだと納得しているらしかった。ごくたまに、むずかっても、宥められれば受け入れる素直な子だった。
親父は時折、将を膝に抱いて、引きつるような横顔を見せていたという。泣けない、つらいとも言えない親父の内心の葛藤を伺わせるその表情を見られたのは、お袋だけだったのだろう。俺はついに、親父の弱さを知ることはなく、気づかないままだった。
お袋は俺たちの前では泣かなかった。けれど、薫叔母さんと謙介叔父さんが暮らしていたマンションへ荷物整理へ行ったとき、肩を震わせていた。ゴミを捨てに行った俺が帰ってきたのを知らずに、将の荷物が入ったタンスを開いて、泣いていた。
薫叔母さんと謙介叔父さんが、将のために一つ一つ買い集めたもの、必要だったもの。子ども服、靴、よだれかけ、おむつ、素朴なおもちゃ、絵本、食器、子供用の椅子、ベビーカー、その他のたくさんの品物。それから、アルバムを一冊に収まりきらなくなるほどの枚数の写真。
カメラには、まだフィルムが残っていた。お袋は、それを現像に出した。将がサッカーボールに模されたおもちゃのボールで、遊んでいる様子が写された写真だった。
将は、おじさんの膝の上でボールを両手に持ち、叔母さんに手を取られてボールを蹴り、テーブルの下でボールを探し、椅子の間から顔を出し、窓際でボールを見つけていた。見つけたよ、と言いたげな将の笑顔が大きく写されていた。
お袋はアルバムをきっちりと整理し、幾枚かを抜き取った。叔父さんと叔母さんが映っていない将の写真、このマンションで撮影されていない写真。それらを俺たち家族のアルバムに忍ばせた。未来の将に見せられるように。本当の家族だと信じさせるために。
黙々と、荷物を片づけ、将の日常品を俺たちの家へ移す。幾つかは物置や押入の奥に仕舞い、とくに叔母さんと叔父さんの存在を匂わせたり、明らかにするようなものは、みな処分されるか、将の手には届かない場所に厳重に仕舞われた。
それらが終わる頃、将は夜中にぐずるようになった。唐突に泣き出して、なかなか泣きやまず、顔を真っ赤にし、汗をびっしり浮かべて、夜通し泣き続ける。足をばたつかせ、体中を突っぱねて、抱こうとする母や父の腕を払いのける。泣いて、泣いて、泣き続けて、将が眠るのは泣き疲れてからだった。翌日、目が覚めたときは、けろりとして、いつもの人懐こい将に戻っている。
夜泣きとぐずりはかなりの期間、続いた。毎夜、親父とお袋は交代で将をあやしながら、なんとか将を寝付かせようとしていた。
俺は壁越しに、いつも二人の声を聞いていた。
将ちゃん。ねんね、ねんね。
将、ほら、将。
将の泣き声の合間に聞こえる親父とお袋の声は、かすれて低かったが、苛つきや怒りはどこにも感じ取れなかった。いや、必死に堪えていたのかもしれない。幼児の甲高い泣き声は耳に付く。隣近所からも、やんわりと嫌味を言われていたし、寝不足の影響は俺たちの生活に、確実に現れていたから。
それでも、親父やお袋は将を叱ることはなかったし、言い争うこともなかった。愚痴もこぼさなかった。むしろ、その責め苦にも似た泣き声を、受け止めようとしていた。それが、薫叔母さんと謙介叔父さんに対する償いだとでもいうように。
一言でも、将が、二人を恋い慕い、お父さん、お母さんと泣いてくれたのなら、俺たちは、楽になれたのかもしれない。当然の反応だと思い、まだ小さいから、それとも、こんなに小さくても、両親の死の不安を感じ取っているのだと思い、その傷を塞げるように、手を尽くしたかもしれない。欲しいものを与え、何本もの手で抱き上げ、言葉をかけ、触れて、抱きしめる。何でもしただろう。何でも与えただろう。甘やかし、その不安を覆い、逸らそうとしただろう。
無垢ゆえに、将は俺たち家族の支配者になった。親父に罪悪感を抱かせ、そこからもたらされる反発心を呼び覚ました。それはお袋の悲しみと無言の抗議すら、押し潰した。
将は自分の本当の両親のことは口にしなかった。ただ、泣き続け、その夜泣きが収まる頃、将は、親父とお袋のことを、おとうさん、おかあさんと呼ぶようになった。
言葉一つで、俺たち家族の間に起きかけた、不思議な亀裂は姿を消した。将が生んだ亀裂は、将が閉じた。父、母、長男、少し年の離れた次男――俺たちは四人家族になった。
残ってしまったいびつさは秘め隠され、口にはされなかった。おそらく、時が歪みを消すか、真っ当な形に戻してくれると信じていたのだ。
それが幻想だと知ったのは、いつだっただろう。人が信じたいものを信じる生き物だということを、知るとまではいかなくても、朧気に感じ取った日は。
将の手を引いて、遊びに出かけた時だったかもしれない。その帰り道だったのかもしれない。白昼夢のように白々した明るい町の中を俺たちは歩いていた。確かでない記憶の中に、かた、かちゃ、かた、と奇妙な音が混じっているのは、おもちゃを俺か将が手にしていたからだろう。
不意に眼裏に湧き上がってくる鮮やかな色彩。青いバケツ、赤い柄をしたスコップと緑の熊手、いらなくなったプラスティックのコップには、流行が終わっていたキャラクターの絵。それらが触れあって、かた、かちゃ、かたと音を鳴らす。
「こう兄」
将は俺を見上げる。かた、かちゃ、かたん。将がバケツを揺らしたのか、俺が揺らしたのか。
「いいこでね、僕、いいこだったら、いいかなあ」
何だろうと思いながら、俺はうなずく。相づちを打てば、会話にはなる。ならば、これは俺が、将と過ごすことに、まだ戸惑いを覚えていた頃だったのだろうか。
「そうだな」
将はまばたきして、なぜだかほっとしたように、言った。かた、かちゃ、かた、の音が消える。
「そうしたら、いいんだ」
「ああ」
「そっかあ」
将は嬉しそうに笑った。ふたたび、音が聞こえ出す。将は俺の手を振って、遊び出した。
かた、かちゃ、かたん。やかましくなる音に、将の手を引いて、歩きながら、俺は泣きたくなる。
――いいこ。ずっと、ずっと、そうだ。将はいいこだ。羨ましいくらいに、悲しいくらいに。
「将、別に悪いこと、少しくらいしたっていいよ」
「だめ。僕、いいこで、待ってる」
肩が揺れる。腕の震えを何とか押さえて、さりげなく、訊ねた。
「将は誰か、待ってるんだ」
「あのね、お父さんとね、お母さん」
将はにこにこ笑っていた。
謙介叔父さんの事じゃない。薫叔母さんの事でもない。違う、違うはずだ。そのとき、すでに将は、俺の父と母を、お父さん、お母さんと呼んでいた。薫叔母さんと謙介叔父さん、二人の記憶すら無くしていた。
それでも、もしかしたら、親父かお袋の他愛ない一言を覚えているのかもしれない。うちにきた始め、家に帰りたがり、本当の両親を恋い慕っていた将に、いいこにして待っていたら帰ってくると、親父かお袋が告げたのだろう。それとも、自分でそう思うようにしたのだろうか。
分からない。たとえ訊ねたとしても、将の答えは、俺には意味が掴めないだろう。
ただ、俺は信じたかった。自分の中の悲しみを、それで晴らしたかったのだ。
将を生み出したのは、薫叔母さんと謙介叔父さんであり、将もそのことを忘れていないはずだと。
――だから、俺は信じたのだ。どんなに、親父とお袋が将を愛そうとも、そして薫叔母さんと謙介叔父さんの記憶を忘れさせようとしても、将は覚えている。自分でも知らないその記憶を、細胞の中に染みつかせている。
誰が忘れるだろう。父に抱かれ、母の乳房を吸ったその記憶を、原初から生まれ出でた最初の時に迎えてくれた両親を、人は忘れることなど出来ない。記憶の奥底に沈めたとしても、いつまでも抱えているのだ。
俺も逃れられない。自分の価値観を押しつけ、俺の道を決め、圧倒的なやり方で導こうとする親父から、逃れることは出来ない。彼が俺の父だから。彼なくば、俺が存在していない事実の大きさと尊さを認めるしかない。
「こう兄」
立ち止まっている俺を将が見上げてくる。何でもないよ、と歩き出した。泣き出せるなら、そうしたかった。産声のように、最初の泣き声を上げたかった。
それが出来ない代わりに、俺は家を出た。大学を止め、誘われて水商売の道に入った。今までとは何もかもが違う世界に夢中になった。その振りをしていたのかもしれない。反発することも、親父の存在を感じ取っているようで嫌だった。ふらふら流され、楽しいと思いこみ、やがて、本当に楽しくなっていった。
将の影を忘れるように、忘れられないことを知りながら、出来ると信じているように、自分がしたいことをやった。それが、楽しいことなのか、自分の本当にやりたいことなのかも理解しようとせずに。
将が反対を押し切って、武蔵野森学園から桜上水中学へ転校したときに、あいつは自分が養子であることに気づいていた。それを人に気づかせもせず、また隠し続ける俺たちを責めようともせず、将にとっての生きる糧ともいえるサッカーに専念し続けた。それしか、すべがなかったのだと思うのは、俺の穿ちすぎなのだろうか。
あいつは、どんな瞬間に、曖昧な形でしか知らない、実の親を思ったのだろう。俺たちが隠す理由をどう想像したのだろう。
将の心は読めない。まっすぐだからこそ、眩しくて、俺にはあいつが、どれだけの思いを抱えているか、分からない。あいつが、誰よりも強かっただなんて、知らなかった。その優しさに、俺も父さんも甘えていたとは、思いもしなかった。
夢に向かって走ろうとする姿は、謙介叔父さんを思わせた。降りかかる出来事を静かに受け止める姿は、薫叔母さんを思わせた。あいつの中に確かに宿る二人の面影を知ったとき、俺たちはそれを受け止めなければならなかった。
時と記憶が解放され、封じられていた言葉が語られるようになっても、それで終わりという訳にはいかない。俺たちが背負うべき罪は、確かにある。償いにも似た気持ちで、時折、俺が語る謙介叔父さんの話に、将は控えめながらも目を輝かせて聞き入っていた。将の方からは訊ねてこなかった。聞くことをためらわせているのは、やはり、今の両親の存在だろう。それは、どちらかが悪いわけでも良いわけでもない。俺たちが選んだ選択と時間に当然あるべき結果だった。
親父とお袋が出てきた折りに、四人で行った潮見家の墓に、将はたまに一人で行っている。将はその前で、泣くのかもしれない。あるいは、幸せだと告げるのかもしれない。何も語らず、黙って手を合わせているのかもしれない。どうしても踏み込めない領域が、そこにある。将が俺と親父との間を見つめながらも、足を踏み入れてこないように。
それでも――自分に言い聞かせるわけではない。それでも、俺たちは幸福だった。俺たち四人なりの形で、幸福だった。四人それぞれが抱えていた心が、どれだけ哀しくても、俺たちは幸福でしかなかった。
だが、それが、どれだけ脆い基盤の上に築かれていたか、その淡く見えた幸福を将が一歩一歩踏み固め、確かなものにしようとしていたか。気づかされたとき、俺に出来ることは何も残っていなかった。あるとすれば、愚かさを噛みしめることだけだ。
監督からの電話を受け、俺は九州への連絡を済ませると、将の運ばれた病院へ向かった。電話向こうのお袋の無言の恐怖が、俺を怯えさせた。俺たちは何度、この恐れを、電話からもたらされる哀しみを味わうのだろう。
病室のベッドに横たわる小さな体、汗だらけで、髪に草の切れ端が残る俺の弟の体。泣くなんて事が、将の前では出来なかった。
疲れ果てて、怪我を負い、倒れた末、将は眠っている。寝顔に、常日頃、見かけるあどけなさはなく、長い時間を生きた果てに命を手放す人間のような、侵しがたい静かで澄んだものがあった。
目覚めないで、眠っているままの方が幸せなんじゃないか。不意にそう思い、俺は唇を噛む。
目が覚めた将は、何を思うだろう。俺は何を伝えればいいのだろう。足の怪我、ただそれだけでは済まされない可能性を俺は考えている。いや、悟っている。
将の額を撫でた。汗が冷えて、乾いた肌だった。
「いいこ」
呟いた。将は動かない。ゆっくりした寝息が唇から漏れる。
「将は、いいこだな」
それでも、誰も帰ってこない。待ちもしない。将の時間も俺の時間も戻らず、ただ明日からの日々に怯えるだけだ。
――これは祈りなのだろうか。俺は誰に、そして、何に祈るのだろう、願うのだろう。自分が無力だと知っているから、そうしようとしているのだろうか。それとも、奇跡でも信じているのだろうか。悲しみを遠ざけようとしているのだろうか。
そうせずにはいられない時がある。数多の神を、唯一の神を、大いなるいかなる存在を信じずとも、どうしても願わずにいられない、祈らずにはいられない時がある。
俺からは何を奪ってもいい。だが、こいつからは、これ以上、何も奪わないでくれ。
不安と恐怖の終わり際にある、ぼんやりした疲れを感じつつ、俺は将の側に座っていた。慌ただしい時間は、すでに終わっている。これからは、長い長い日々が始まるだろう。それが、誰かが、いつも何かを失っていくような日々になることを俺は知っている。これからの日々を決して忘れられないことも、知っている。
将は、まだ目覚めない。俺は手を伸ばし、もう一度、頭を撫でた。
「いいこ――」
※話中の家族親戚類の設定は私個人の想像です。