兄バカ



 将の元気が、ない。考え込むような、悲しそうな、そんな感じの横顔をよく浮かべている。この年頃の少年に、あまり干渉し過ぎるのもどうかと思って、しばらく様子を見ていたが、ついに我慢しきれなくなった。
 言葉巧みに将を連れ出して、ステーキハウスで夕食を取る。迷う将を尻目に、どんどん料理を注文し、サラダバーとドリンクバーとスープバーももちろん忘れない。将もどうにか選んで、俺たちは、サラダとドリンクとスープを取りに行く。
 ドレッシングがどうだの、何種類かあるスープの中でどれが一番うまいかだのと話している内に、油のはねる音を立てて、肉が運ばれてきた。
 おいしいね、と言いながら、将は、ナイフとフォークを使って、肉を口に入れる。確かに、評判がいいだけあって、焼き加減もいいし肉もなかなかの品物をつかっている。うまかった。
 が、それでも将の眉間の間の曇りは晴れていないのだ。
 目的が目的なので、俺は少しずつ訊ねていく。そのものずばり、何があったのか、なんて聞かない。周りから包み込むように、訊いていくのだ。
 ある部分で、将はふと言った。
「もっと、もっと、サッカー上手くなりたいんだ」
 それだけで、あんな顔するものか。そういう誤魔化しは俺には通じない。さりげなく、質問を続ける。
「……僕は選抜の中じゃ一番下手なんだ。補欠なんだから、当たり前だけど、それが悔しい。早く、いいプレーして……」
 ちょっと将の顔が沈んだ。
「迷惑にならないようにしたいんだ」
 なんだか、その表情が妙に引っかかり、俺は口を開く。
「だって、お前、そんなに下手な訳じゃないだろう? 選抜に選ばれたってことは、監督だって、お前に何か力がある、才能があるって、認めたわけなんだから」
 将は面はゆげに笑う。照れているだけにしては、表情がつらそうだ。ちょっとつっこんで、誘導尋問をしていくと、かわいくも心配なことに、素直な将はぽろりと本音らしき言葉を漏らした。
 さらに、うながして、話を続けさせたところによれば、将は、どうやら選抜の中で仲間外れになっているらしい。
 ――何てことだ! そりゃ、同年代で、みんなサッカーをしているからっていって、仲がいいと思うのは、幻想に過ぎないだろうが、それにしたって、なんでうちの将が。
 そこで思い出す。
「だけど、水野君がいるだろう?」
 同じ学校で、同じ部活仲間。それに、俺が見てきたところ、彼はいじめなんぞに参加する人間とはとても思えない。そうなら、俺は近づけさせないしな、うん。
 将はうなずいた。
「水野君は普通なんだ。あとね、翼さんも」
 将の目がまたたいて、顔を伏せる。
「だけど、他のみんなは……少し……少しだけなんだけど……」
 聞いているだけで、胸の詰まる声になる。いますぐ、その原因であるバカたちを潰しにいきたい衝動にかられつつ、将の話を聞く。
 将が水野君や翼さんという少年と話していると、必ず邪魔しに来る。中には露骨に睨みつけてくる者もいるし――将曰く、彼にはみそ汁を頭からかけてしまったから、だそうだが、それにしたって何て恨み深い奴なんだろう――遠巻きに窺われ、将を見ながらこそこそ何か囁き合っているやつもいる。話しかければ離れていくか、受け答えも、妙にしどろもどろして、そのうちに離れていくか、誰かが邪魔をして、将と話している相手を連れて行く。
 露骨すぎるやり方だ。なんて陰険なんだ!
 俺は怒りの余り、鼻息が荒くなった。慌てて、自分には似合わない怒りの表現を改める。そう、俺にはクールな怒りようがふさわしい。冷たい視線と表情と口調で、相手をちくりと刺さなければ。鼻息荒くして、顔を赤くして、拳を握りしめて机をどん、じゃ、まるであの親父だ。
「藤代君とね、小岩君は、僕に気を遣ってくれて、話しかけてきてくれるんだけど、杉原君もそうなんだけど……」
 言葉が切れてしまった。将はうつむいて、横を向いてしまった。
「ごめん、功兄、変な話で」
 将はずっと気にしていたんだろう。言葉が少しずつ早口になって、もつれ出していた。
「ちっとも変な話じゃない。教えてくれて、ありがとうな」
 デザート食えよと俺は将にメニューを差し出す。駄目だよ、いっぱい食べたしと言って、断ろうとする将を、たまにだからとなだめた。
 ごめんね、と将は言って、小さく笑い。気を取り直したように、明るい声を出した。
「なに、たべようかな」
「何でも食え」
 将はメニューを広げて、あれこれと悩み出した。しばらく時間がかかるから、俺はうつむいた将の顔を眺めた。
 こう見えても、将は出来の良い、自慢の弟だ。
 家事全般、この年にしては手際よく、やってくれるし、気の利くところなんて、店のホスト仲間に見習わせたいくらいだ。
 顔だって、まだ子どもっぽいけど、将来性を含めて見れば、さすがにあの薫叔母さんと謙介叔父さんの血を引いているだけあって、かなりなものだと思う。親族の贔屓目から見れば、ファンクラブがあるとかいう水野君にだって負けてないだろう。もちろん、彼と将とではタイプがまったく違うのだが、俺は将の方が好みであるのは付け加えておく。
 背だって小さいが、体の均整は取れている。肉付きだって、固さと柔らかさがほどよくて、意外に抱き心地がいいのには、男であり兄である、俺でさえどきっとさせられる。
 思いがけないくらい、きりっとした表情を見せるときもあれば、笑うと、いきなり無防備になって、いつまでも見ていたいような、眩しいような、そんな気持ちになる。兄という観点から、やや逸脱しているのは充分、承知しているが、ま、俺にとっては、文句はない。サッカー馬鹿なのも、ひたむきだと思えば、可愛くなる。
 俺ぐらいの年齢になると、将みたいな目的に向かってまっしぐらな純真さは羨ましくも危うくも思える程度になってくるが、同年代の子には、目障りなのだろうか。
 それが、将を目の敵にする理由なのかもしれなかった。何か違う、妙だ、というのは、排斥の理由になりやすいし。
 店を出て車に乗り込みながら、ふと呟く。
「……気にするな、っていっても無理だろうしな」
「大丈夫。サッカーしたいし、本当はこういうの気にならないくらい、集中しなくちゃいけないんだ」
 そう言って、瞳に決意を浮かべる俺の弟。手を伸ばして、頭を撫でた。
「無理だけはするなよ」
「うん」
 うなずく将は、健気としか言いようがなく、俺としては、もはや放ってはおけなかったのだ。こちらでの保護者でもあるし、何より、怒っていた。
 そう、激怒していた。そのバカたちの顔を目にして、とにかく、大人げないが、一言、二言、釘を刺しておかなければ、という気持ちを抑えきれないくらいに、俺はむかむかしていたのだ。
 見ておけよ、この水商売仕込みの俺の嫌みを。ああ、兄馬鹿というなら言え。将を悲しませるやつは、許しちゃおけないのだ。
 次の都選抜練習の日を、カレンダーで確認しておく。決戦は十日後だった。
 その日、俺は上得意の女性との約束を終え、すぐさま将が練習しているというグラウンドに向かった。
 車を降りると、少年たちの声が聞こえてくる。声変わりがまだの子や、とっくに終わって、変化した声、まだ途中の掠れた低い声。この年頃の若さが声にまで満ち溢れているそちらに近づくと、フェンスがあった。
 とりあえず、ここから様子を見よう。ミニゲームをしていたようだが、俺が来て二分くらい経つと、終わってしまった。休憩に入ったのか、少年たちが散っていく。俺は見つけておいた将のいるところへと、フェンス越しに近づいていった。
そうして知ったのだ。決して許せないと思うべき、いじめの真実を。
 ――将。お兄ちゃんは何て言えばいいんだ。仲間はずれだなんて、いじめだなんて、とんでもない。地球が逆さまになって、お月様がとんぼ返りしたって、お前が嫌われているだなんてあり得ない。絶対にない。百パーセントない。
 少年たち――と書いて、ガキ共と呼びたい心境だ――の視線。あの態度、あの雰囲気、あの表情。恋じゃないか。
 好きで好きでしょうがない相手に対する複雑な気持ちと、恋敵に対する牽制。それが、乱れ飛んでいる将の周り。俺が目にした限りではそうだった。
 ほら、今も水野君が話しかけるのを、さりげなく、ふわっとした髪の子と切れ長な目の子が邪魔して、その隣で、ちょっと目つきの鋭い子が赤くなっている。
 将の腕を引っ張る同じくらいの身長のやたらに綺麗な顔をした子が、泣きぼくろのある子を蹴飛ばしている。と思えば、眠そうな目の細い子が、後ろから近づいて、リーゼント頭の子をそっと押しのけている。
 それだけでない。向けられる視線の多さ、彼らが将に向ける表情、切ないようなひたむきなような、それを隠そうとして滲み出るどうしようもないあの片想いの感情。
 弟のサッカー馬鹿ぶりと天然ぶりに、俺もいささか、同情したくもなる。目の前で恋敵宣言されても、何も気づかない、恋愛方面にはうといもいいところの将だからなあ。
 だが、しかし。
 俺の可愛い弟に手を出そうなんて、十年(ほんとうは億年とでもいいたい)早い。せめて……そうだな、最低限、十五年先までの生活設計のプランと預金総額一千万は越えていていなければ。年収の額ももちろんだが、あと、生命保険にはきっちり入っておいてもらおう。もちろん、遺言書も書かせよう。
 たとえ、条件を達成したとしても、それで将が手にはいると思ったら甘い。そう簡単にはいかない。俺が許したって、後には、堅物頑固の最強親父と外柔内剛のラスボスお袋が控えている。
 少年たち、先は長く、つらく、厳しい道なのだ。悲しいが、俺は手は貸さない。邪魔するのみだ。むしろ、積極的に邪魔させて頂こう。
 というわけで、俺は将だけに見せる、とっておきの笑みを浮かべ、フェンスの向こうから将を呼んだ。
 びしばしと突き刺さる視線に、もはや優越感すら感じながら、俺は言う。
「早いけど、迎えに来たんだ。飯食って、帰ろうかと思って」
 俺に向けられる将の笑顔といったら。
 さあ、少年たち。心の中でせいぜい、泣いてくれ。明日か、一週間後か、一年後か、はたまた十年後か。顔でも心でも泣くのは、俺になるはずなのだから。
 俺は兄貴だ。少年たちに残された可能性すら、ないんだから、これくらいの役得はいいだろう。駆け寄ってくる将を両手で迎え、俺は彼らに向かい、思い切り、意地悪そうに笑ってやった。


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