木田圭介はいじめっこな訳ではない。それでも、その光景をしばらく眺めておきたい心境には駆られた。小箱にはまりこんでしまった小犬や子猫が困る様子を、眺めておきたいような感情とでもいうのだろうか。
木田がいる場所は、書店だったので、この場合は、背伸び、だった。
足を突っぱね、手を指先までぴんと伸ばし、ぐらぐら震えながら、どうにか目的の物に手を届かせようとしている。誰が、と訊かれたのなら、木田は風祭が、と答えていただろう。
風祭将。都選抜で一緒の少年だ。そして、一番背の低い、少年でもある。木田が一番身長が高いので、この場合、見事な対比が完成する。この間に、他の少年たちが入り、木田の方へ行けば、高身長、将の方へ行けばそれが低くなるという図が出来る。
ともかく、木田は後ろ姿と髪の分け目、つむじの形で、少年が風祭だと分かったので、しばらく、彼を見ていた。何をしているのだろうと思ったのだった。
将は、最初、本棚の前を行きつ戻りつしながら、上を眺め、次に左右を見回していた。不審といえば、不審だが、まさか、怪しい行為に走る訳でもあるまい。将ほど、そんな犯罪行為と縁遠い少年を木田は見たことがない。
将はやがて、意を決したように、彼にとっては遙かに高い、木田にとっては、目の前にあると言ってもいいような、一番上の書棚へと手を伸ばした。あの書棚は参考書と辞書の区画だ。
将は手を精一杯伸ばし、平棚に置かれた本にはなるべく、手をつかないようにして、背伸びしている。爪先がぐらぐら揺れ、危なっかしい。木田は将がバランスを崩す前に、近づいて、肩に手を置いた。
「あ」
将が驚いたように声を上げて、足裏を床に戻した。また数センチ、背が低くなる。
「取ろうか」
木田は、少し前から見ていたので、将が何をしようとしているかは分かる。といっても、書店の棚の前で背伸びしていたら、何を目的としているかは、大抵、分かるだろう。
「お願いします」
「どれ?」
「わかりやすい英単語、ポイント100って」
「これ?」
「その右の方です」
背表紙が赤い方を木田は棚から引き抜いた。棚一杯に本が詰められていたので、引き抜くときに、多少力がいった。
「ほら」
「ありがとうございます」
礼を言い、将がほっとしたような顔を見せた。
「店員に言えばいいのに」
「そうなんですけど」
将は決まり悪げにうつむいた。木田には、その辺の機微が分からない。椎名なら、毒と共に、明快に説明してくれるだろうが、まさか、プライドが許さないとは、生まれてこの方、背が届かない苦労をしたことがない木田には分からなかった。
「台があれば、一番良かったんです」
将がそっと悔しさを噛み殺しつつ、言う。木田はうなずいた。
「あったけど」
「え」
「台。レジの横に置いてあった」
「……」
そこで、不覚にも木田は吹き出してしまった。将の目が、真ん丸になってしまったからだ。これくらいで驚かなくてもいいじゃないかと思う一方、将が驚いたのが、なぜか嬉しかった。
「木田さん」
「ごめん」
失礼だと思ったので、木田は素直に謝った。将は少し恥ずかしそうだ。
「全然、気が付かなかったです」
「そうか。ごめんな」
「木田さんが謝ることじゃないですよ」
将は本を腕に抱え、慌てて首を振った。ふわんと髪が揺れて、男がもつにしては、甘い匂いが漂った気がした。
「――木田さんも本を買いに来たんですか」
「ああ。これ」
木田は手にしていた大判の雑誌を見せた。カラー写真や図版が載っている薄い雑誌だ。
将は興味深げに表紙を見ていたが、そのうちに、気になるように訊ねてきた
「コーヒーの匂いがしません?」
木田は微笑した。
「俺の荷物にコーヒー豆が入ってる。それに、さっきまで店にいたから匂いが移ったのかもしれない」
将も微笑した。
「ああ。木田さん、コーヒーが好きなんですよね」
今度は木田が驚いた。
「なんで知ってるんだ」
「この間、上原君や桜庭君と話してるの聞いたんです」
そんなところだろうなと木田は納得した。木田自身も、将がキットカットが好物だとか、牛乳をよく飲むとか、知るともなしに知っている。木田の周りが、将のことをよく話題にするからだ。
「風祭はキットカットが好きなんだよな」
木田がそう口にすると、将がまた木田を見上げた。首が痛いだろうなと、申し訳なく思ってしまった。
「どうして知ってるんですか」
「さあ」
まさか、将の好物が話題になるくらい、周りが将に興味を持っているとは話せない。
将は気にする素振りを見せつつ、ちょっと目線を下げた。木田の手が持つ雑誌辺りだ。
「なんだか、僕の方が子どもっぽいですね」
どうやら、キットカットとコーヒーを比べたらしい。
「好物って、そんなものだろう」
「コーヒー飲んだら、背が伸びるかな」
将がほとんど無意識にだろう、ぽつんと呟いた。あまりにしみじみした口調だったので、木田はふたたび笑い声を上げた。
将が我に返ったのか、赤くなる。その表情に、目を細めながらも、木田はくっくっと笑い続けた。
「……」
将がじっと見上げてくる。自分の発言が招いた笑いなので、止めろとは言いにくいようだ。それでも、黒い、もの問いたげな瞳だった。
「悪い……くっ」
込み上げてくる笑いを奥歯で噛んで、木田はまだ、唇をほころばせたままで言った。
「どっちかというと、背を伸ばすには牛乳だろう?」
「毎日、飲んでます」
木田は将の足から頭まで、思わず眺めてしまい、そこで将の恨めしげな視線に気付いた。あまり効果が出てないなと感じた心を読まれたようで、少し焦った。
「コーヒーの方が効き目があると思うなら牛乳入れて、飲んでみたらどうだ」
将がうなずいた。
「カフェオレ」
将には悪いが、なんだか、カフェオレよりも、コーヒー牛乳の方が似合う似合う表情だなと木田は思った。――今、自分がどちらかを選ぶのなら、コーヒー牛乳を選ぶかもしれない。甘くて、牛乳の匂いが強い、懐かしさがある飲み物の方を。
将がレジへと歩き出したので、木田も付いていった。自分も本を買うからだ。歩きざま、木田は将を見つけたときに見ていた本も取り上げた。漫画の単行本だった。
「僕も読んでます」
将が単行本の表紙を見て、次に木田を見上げて、言った。
「面白いよな」
共通の話題を、言葉短く交わしつつ、レジに並んだ。将が順番を譲ったので、木田は先に雑誌と単行本を買い、将は参考書を買った。おそろいの紙袋を持って、出入り口へと歩く。
ドアを抜けるとき、木田が少し腰をかがめたのを、将は羨ましげに眺めていた。ビルに入っていた書店なので、少し歩けば、エスカレータがある。木田は、ゆっくり歩いた。将は急ぎ足で歩き、途中ですれ違った三十代ほどの女性に、ほほえましげな視線を送られた。
「僕、兄貴を待つんで」
将はエスカレータの前まで来て、そう言った。登りのエスカレータに視線を向けていたから、下のフロアから上がってくるのだろう。
木田は足を踏み出さず、場つなぎめいた事を訊ねてみた。まだ、降りたくなかった。
「家族は低い方なのか」
「そういう訳じゃないです。普通かな。兄貴は百八十越えてるし」
「じゃあ、伸びるだろ」
将は、ふと何かを思い出したような、一瞬、暗い目になった。すぐに消えた翳りだったが、木田は気になった。
「どうかしたか」
「何でもないです。僕の……お父さんも高いから僕だって伸びると思ってます」
将ははにかんだように笑った。木田は、ああ、とうなずいて、将をじっと見つめ、そうするのが急に恥ずかしくなり、目を逸らした。今、いつまでも将を見つめていたいような、それなのに、そうしていると落ち着かなくなるような気恥ずかしさに襲われた。
「木田さん?」
「何でもない」
自分の心境の変化に戸惑いつつも、木田は将にまた目を向けた。何も変わっていないように見えるが、眩しく見えた。将は木田の視線を受け止め、笑う前に、彼を見つめた。
ほんの一瞬だったが、確かに、親密で居心地のいい空気が生まれた。同時に笑みが浮かんだ。はにかみと、心通じ合う者同士が見せる、気安い笑みだった。
「あ、兄貴だ」
将が手を上げた。エスカレータに乗っていた長身の男性がそれに答えるように、大きく手を上げた。
「じゃあ」
「ああ」
言ったものの、将はまだ兄の元へは行かず、木田を見上げて、目を細めた。
「今日は、ありがとうございました」
「いいよ、楽しかったし」
木田自身も驚いた言葉が、口からこぼれた。同時にそうか、俺は楽しかったのだと気づく。
将は目を見張った後、しっかりうなずいた。
「僕も楽しかったです」
さっと横を通り過ぎた頬が赤かった。あれ、と思う自分の頬も熱い。落ち着かないような、弾むような、不思議な心で将を見送った。
将はフロアを回って、登りのエスカレータ側へ行っていた。兄の隣に立ち、木田へと振り返った。将が手を振った。木田も小さく、手を振った。
将の唇が、また、と動いた。木田も、またな、と言った。二人で距離を挟んで、笑い合って、別れた。次に会ったとき、二人が感じる距離は、身長差だけになるとは、お互い、まだ気づかなかった。