終わる日まで


 もうすぐ世界が終わるのだという。それなら、俺は最後に風祭に会いたいと思った。
 風祭の家まで、寮からはそれほど遠くない。授業なんて、あるようでないものだったし、さぼったって、誰も怒らないから――キャプテンは別だ――こっそり、学校を抜け出した。
 私服に着替えようと思って、寮に一度、戻ったら、途中で三上先輩に見つかった。もちろん、お互いにさぼっているから、そのことについては何も言わない。どこに行くんだよと訊ねられただけだった。
「秘密です」
「ばーか。顔に出てんだよ」
 三上先輩は鼻で笑い、俺の頭をこづくと行ってしまった。寮の中は、掃除が行き届かなくなっていて、埃っぽかった。三上先輩はわざと埃を立てるような歩き方で、角を曲がる前に、よろしく言っといてくれ、と呟いた。
 それって、俺の行き先が分かって、言ってんのかな。三上先輩が風祭によろしく、なんて、どういう接点があって、言うのだろう。訳が分からないまま、塀を乗り越えて、学校の外に出た。
 このころになると、あちこちに放置された自転車が転がっていたし、その中の何台かは、使えるくらいの状態で残っていた。今日だってゴミだらけの汚い道路から逸れた横道に、後ろに頑丈な荷台が付いている古い自転車が置いてあったのを見つけた。鍵がかかっているか確かめる。
 自転車は、サドルからスポンジが覗いていて、所々さび付いていたけれど、充分動くし、鍵は入れられたままになっていた。前後に動かして、車輪がなめらかになるまで試して、俺は自転車に乗った。
 道路は、どこもがらがらだった。遠くでは、騒々しい音が聞こえる。サイレンの音もする。人の声と悲鳴と、ガラスの割れる音、かな。自信がない。
 少し前なら、道路は人と車が溢れそうな道路と、ほとんど誰も通らない道路とに二分されていた。多い方は、どこか田舎や郊外に続く道で、避難したり疎開したりする人が使っていた。そうじゃない道は、たまに人の姿があるくらいで、道にはゴミや車から落ちたらしい家具なんかが転がっていた。通行の邪魔になるといって、最初は警察も片づけていたけれど、今じゃほったらかしだ。
 道の途中にあったブラウン管が割られたテレビの周りには、ガラスの破片が一杯散らばっていた。自転車のタイヤがパンクしないように、大きく迂回したら、そこには革張りのでっかいソファがあった。この道は避難道路だったのかもしれない。
 立ち止まっていると、足下に紙くずや細かい砂、ガラス片が溜まるので、俺はソファも迂回した。
 大きく、風が吹いて、電信柱にくくりつけられていた看板が、ばたばたと音を立てた。後にも先にも、誰もいない。道の両側にある店はシャッターが下ろされているか、ガラスが割られているかだ。ほぼ全部の壁に落書きがされている。ファック・ユー。エンド・オブ・ディズ。ハルマゲドン。涙みたいに垂れた汚いスプレーの文字。
 オリジナリティがないなあ。どっかで聞いた言葉ばっかりじゃん。俺なら、相合い傘書いて、風祭と俺の名前書いて、フォーエバーくらい付け加えてやる。ついでに、でっかい、ハートマークで囲んでやる。
 アホらしいことを考えながらも、障害物の多い通りを無事にやり過ごした。この辺りは、まだましだけど、都心部の大きな通りや繁華街になると、変な奴らも多いらしいし、風祭の家に着くまでは油断できない。気をつけなくちゃな。
 自転車をこいで、スピードを上げる。着ているパーカーのフードが煽られて、後ろに引っ張られような感じになる。坂道を下って、登り道を上がって、まっすぐな道を走って、近道もして風祭の家へ。たくさんのゴミ、たくさんの人が暮らしていた名残を、俺は乗り越えて、何度か訪れた場所へたどり着く。あやふやな記憶しかなかったけど、思ったよりは短時間で風祭のいるマンションの下まで着いた。
 マンションの前には、元が何だったのか分からないくらい腐った生ゴミが散らばっていて、人気はなかったけど、臭いがきつかった。たぶん、魚とか野菜の切れ端、卵の殻だとは思うんだけど、見たって面白くないから、側を通るとき、足下を確認するくらいにしておいた。ゴミは見たかったら、そこいら中に散らばってるんだ。
 ところで、特に臭う、あそこのビニール袋の中身は本当に生ゴミかな。好奇心で見て、失敗した事が何度かあったので、俺は止めておいた。ペットの死体も埋める暇がないくらい急いでいる奴も多いし、中には冗談ですまされないものもあるらしい――こっちの方は伝聞だけど、俺だって、自分の目で見たいなんて思わない。汚いものは、その辺のゴミやら色々騒ぎを起こしている奴らを見ているだけで充分だ。
 エレベータはとっくに止まっていたから、階段で上がる。階段には泥や枯れた植木、空き缶や煙草のかすが落ちていた。なまっていた体を鍛え直すつもりで、走って上がっていたら、途中で太股が張った。そりゃ、腹が減ったせいもあるけど、情けないなあ。
 風祭の家のある階まで来ると、耳が痛いくらい静かになった。音が聞こえない。鳥だって鳴かない。人の声も車の音も、風の吹く音も何もかも、途絶えてしまった。こんな静かな場所に風祭は残っているのだろうか。
 鳴らないチャイムを押してしまい、俺は、ドアの前で風祭の名前を呼んだ。
「風祭? いる? 俺、藤代だけど」
 二、三回くらい名乗ったら、ドアの奥から、ぱたぱた足音が聞こえて、ドアが勢いよく開いた。
「藤代君!」
「よっ」
 うわあ、よく考えたら、風祭に直接、会うのってすごく久しぶりだった。いっつも風祭の事考えてたから、そうは思わなかったけど、やっぱり生で会うのと、頭の中で想像するのは違う。
「久しぶり。元気だった?」
 耳に響く声、にこにこ笑う口元、ちょっと赤くなった頬。絶対、本物が一番いい。
「元気元気。風祭も元気みたいだな」
「うん」
 風祭が部屋に上げてくれた。空気清浄機が動いているのか、乾いてひんやりした部屋の中は、風祭の匂いがした。
「風祭一人?」
「今はね。兄貴は切符探しに行ってるんだ」
「え、どっか行くの?」
「行けるなら九州。父さんと母さんがそっちにいるから」
 そこで、風祭は首をかしげた。
「でも、たぶん無理だと思う」
「そっかー。後、歩くしかないもんなあ」
 もう飛行機も電車もバスも動いていない。金額次第で動いたりするのもあるらしいけど、燃料や電力の供給問題で難しいらしいし、使える滑走路や線路も少なくなっている。切符の値段が上がったとき、買えなかった連中が障害物やゴミ、過激なのになると爆発物なんかを滑走路や線路に仕掛けていたんだ。
 そういや、俺も帰ってこいとか言われてたけど、どこに行っても、結局お終いなわけだし、それなら寮に残っておこうと思ったんだ。家族とどっかに行くより、こっちにいた方が、風祭に近かったし、キャプテンや三上先輩もそうしていたから。間宮もトカゲを、どこかの公園に逃がしに行って、寮に戻ってきていた。
「藤代君、お昼食べてきた?」
「まだ。ていうか、最近、まともに食ってない」
 寮で出される食事は、一日一回になったし、それだって日に日に量が減るし、頼みの綱は蓄えておいたお菓子と、キャプテンが乏しい材料で作ってくれる料理くらい。まあ、寮に残っている奴らと交代で食べ物探しに行ったり、家族が会いに来たときに置いていく食べ物とかもあるから、本当にひどい状況ではないんだけど、それでも育ち盛り、食べ盛りには、ちょっとつらい。
「じゃあ、僕、何か作るから一緒に食べようか」
 風祭は着ていたシャツの袖を上げながら、言った。
「マジ? 嬉しい。あ、それなら――」
 あるか、どうかなんて分からないけど、一応言っておかなきゃ。
 風祭は言いかける俺を見上げて、ちょっと笑った。
「ニンジンは入れないよ」  
 風祭、最高。大好き。


 風祭の家には、かなりの量の食べ物が残っていた。なんでも、色々騒動が起こる前から、兄貴が買い集めて、蓄えていたそうだ。米と水もすごい量がある。乾パンとか缶詰も一杯。電池だって、でっかい袋一杯に詰まっていて、俺は風祭の兄貴を、素直にすごいと思った。
 俺らのところでは、まだ火は使えてたけど、風祭の所は止まることが多くなっているらしい。今も、コンロに火はつかなかったので、風祭はキャンプの時に使うような道具で、ご飯を炊いて、肉を焼いてくれた。
 肉だよ、肉。食うの久しぶり。すげえ、うまかった。
 焼き加減はもうちょっとレアでもいいんだけど、少し前のだからと、風祭は裏表、中までしっかり火を通してくれた。塩コショウだけしたり、日本人らしく醤油かけたり、残っている焼き肉のたれをかけたり、色々と味を付けて食べた。他にもゆでたジャガイモ、肉の脂できぬさやを炒めたの、タマネギのフライ。缶詰を開いて、とうもろこしも食べた。
 野菜も肉も食べたのは久しぶりだ。後かたづけはしなくていいと風祭が言ったので、ふくらんだ腹のまま、床に転がった。
 風祭も足を伸ばして、ミネラルウォーターを飲んでいる。一口もらって――あ、間接キスだ。ちょっと嬉しい――風祭に呼びかけた。
「なあ、風祭」
 風祭の膝小僧を見ながら、俺は目線を上げていく。
「俺。幸せ」
「良かった」
 風祭も笑ってくれた。そばに風祭がいて、腹一杯になって、本当に幸せ。来て、良かった。会えて良かった。
「飯、旨かった。ありがとう」
「うん」
「俺、今、風祭の言う事だったら、何でも聞く。何でも言って」
「ええ?」
 驚いた風祭はペットボトルを置いて、俺の顔を見下ろした。目が合ったから、俺は歯を見せて、笑った。きょとんとしていた風祭はまばたきして、考え込むような表情になって、あのね、と口を開いた。
「本当に何でも聞いてくれる?」
「うん。でもニンジン食べろっていうのは勘弁して。これだけは、マジで駄目」
 風祭は声を立てて、笑って、俺にちょっと近づくと、真上から俺を見下ろした。髪が下がって、風祭の頬にかかる。顎が細く見えた。
「じゃあ、海まで一緒に行ってくれる?」
 風祭の瞳には、少し不安が見えていたから、俺は間を置かない。
「いいよ。今から、行こうか」
 体を起こして、腕を回す。肉もご飯も野菜も腹に詰め込んで、今の俺はどこにでも行ける。
 風祭も立ち上がって、それから良いことを思いついたみたいに、にっこりした。
「藤代君。残ったご飯、おにぎりにして持っていこうか」
「いいね! 作ろう」
 さっき、風祭は、たくさんご飯を炊いていた。俺が腹減った、腹減ったって騒いでいたせいもある。
俺、どれくらい食べたのかな。風祭は、そんなに食べてなかったけど、俺は少なくとも三、四回はお代わりしたし。それでも、鍋のふたを開けたら、おにぎり作るには十分な量が残っていた。
「梅干しと……鮭もあるよ。ツナも入れようか」
 缶詰や瓶を出して、海苔も忘れずに出して、まだ熱いご飯に塩を入れて、混ぜる。しゃもじでそこからひっくり返すと、白い湯気が風祭の顔にかかった。
「何個ずつ、作る?」
「藤代君、何が一番好き?」
「何でも好き」
「じゃあ、五つずつくらいかなあ」
「オッケー」
 そう言って、握りはじめたものの、おにぎりって難しい。なんで、握るだけなのに、形にならないんだろう。指にくっついた米粒を食べながら、三角と俵の形をしたおにぎりを作っていく風祭をじっと見る。
 風祭の手首は柔らかく動いて、掌の中のご飯が、ちゃんとおにぎりになっていく。
「風祭、教えて」
 風祭は俺の方へ向き直って、片方の手の中に入れたごはんを見せた。
「これくらいご飯を取って、窪ませて」
 赤い梅干しが一つ、片手のご飯の中に入る。風祭の手が動いて、梅干しをご飯が包んでいく。
「こうして、転がすみたいにしていったら……ほら、出来た」
 あっという間に三角形。俺に差し出されたおにぎりごと、風祭の手を掴んで、キスしてみたくなった。やらないけど、キスしたい。言わないけど、風祭が好き。
「出来る?」
「やってみる」
 風祭の手の動かし方を思い出しながら、ご飯を取って、今度はほぐした鮭を入れてみる。丸めて転がして、何とか、いびつな固まりが完成した。やっていく内に、こつが分かってきた。調子に乗って、ネズミの形をしたおにぎり――顔の部分の中身が梅干し、右耳が鮭で左がツナマヨ――というすごいのを作ってみた。二つ、作ったから、俺と風祭の分だ。
 風祭は美味しそうだねと言いながら、それだけ別に丁寧に包んでくれた。他の出来上がったおにぎりもアルミホイルに包んで、タッパに入れて、リュックに入れた。俺のリュックにはおにぎりと水。風祭のには俺が持ってきたお菓子とタオル、小さな救急セット。準備は整った。後は出かけるだけだ。
 風祭はテーブルにテーブルに兄貴宛の手紙を残していた。
「なるべく、外には出ないように言われてるんだけど、藤代君と一緒だし」
 ちょっと悪戯っぽく、不安を紛らわせるように言った風祭。うん。何があったって、俺は風祭を守ってみせるから。絶対、絶対に。
 階段を下りて、マンションの前に出る。置きっぱなしだった自転車は、まだあった。風祭の分は途中で見つけるから、それまでは二人乗りだ。
「ちゃんと掴まってろよ」
「大丈夫」
 どんよりした雲の下、俺は自転車をこぎ出した。風祭くらい、軽い軽い。
 目指すは海。風祭と一緒。
 肩に置かれた手が温かかった。後ろに風祭を乗せて、風祭と一緒に作ったおにぎりを背負っている俺には、ゴミだらけの道も、障害物も何のその。坂道で思い切り、飛ばしたら風祭が驚いた声を上げて、すごいやと笑う。
「気持ち、いいだろー」
「うん!」
 はしゃぎすぎて、バランスを崩して、転びそうになったので、慌てて安全運転に切り替えた。しばらく走ると、ゴミ捨て場に置かれていた自転車を風祭が見つけた。ずれてしまったチェーンを適当にいじくっていたら、直ったので、それが風祭の乗る自転車になった。
 今度は、二人並んで、自転車を走らせる。誰も住んでいない建物や街角を通り過ぎて、草ぼうぼうの公園で、少し休憩した。ブランコが風に吹かれて、寂しいきしむような音を立てて揺れた。誰も足を踏み入れなくなって雑草が伸び放題の公園の中、風祭とそのブランコで遊んだ。こいでもこいでも見えるのは、濃い灰色の空ばかり。晴れた空は、もう見えない。
 どこからか出てきた三毛猫と一緒にじゃれ合って、遊んで、再出発した。猫は公園の外まで付いてきたけど、自転車に乗ってしまったら、道路に寝そべって、俺たちを見送る素振りを見せた。風祭は鮭の入ったおにぎりを一個、猫のために置いていった。
 公園から海までは、すぐだった。曲がり角を曲がるたびに、潮の匂いが強くなる。ざわざわと音が広がってきた、と思った瞬間、海が見えた。
 海岸沿いの道路を走って、降りられそうな場所を探す。波を砕くブロック提が続いた先に、砂浜があった。自転車はそのままにして、持ってきたリュックを背負って、ガードレールを越える。一メートルくらいの段差を飛び降りて、草の生えた地面を歩くと、砂浜にたどり着いた。
「誰もいない」
 風祭がぽつんと言った。
「いないなあ」
 俺も言ってみた。
「二人きり」
 思わず言った言葉に焦ったら、風祭は周りを見て、うなずいてくれた。
「本当だ」
 嬉しそうだったのは、俺の見間違いかな。そのとき、砂粒が目に入りそうだったから、自信がない。


 二人きりで海岸を歩いていると、パラソルと、剥げ落ちたものの、白ペンキで塗られている建物を見つけた。軒先に赤と白と黄色、青ののれんがぶらさがっていた。すだれが立てかけてある。
 竹の隙間から覗くと、暗がりの中にテーブルと椅子が見えた。他にも冷蔵庫みたいなのとか、かき氷作る機械、後は壁にはられたメニュー――やきそば、たこやき、フランクフルト。
「海の家だな」
「そうみたい。藤代君、あれ」
 風祭が指さした。建物の横に、『氷』と書かれたのぼりが仕舞われずに、はためいていた。見ていると、寂しくなりそうだったので、風祭の腕を引いて、波打ち際を歩いた。
 ここがまた、感傷に浸れないくらい、汚い。ばらばらにされた椅子やタンスとか、ぱんぱんにふくらんだゴミ袋とか、ぬいぐるみとか、とにかくゴミばっかり。海に捨てたのが打ち上げられたのかもしれない。
「すごく汚いね」
 風祭が感心したように言う。本当、俺もそう思う。汚いって、極めてしまったら、感心するしかないんだな。
「あ、ヒトデ」
「こっち、クラゲ」
 まだ、生きてるクラゲを、板きれでつついて、海に返してみた。だけど、すぐに戻ってくるんだ。手で持って、思い切り遠くに投げてみた。カーブを描いて、クラゲは海に落ちた。
 クラゲが水に浸かったちゃぷんって音が、風に運ばれて、俺たちの耳にまで届く。他にヒトデ三匹、クラゲ四匹を海に投げた。風祭も一緒にやろうとしたけど、なまこを見つけてしまい、波打ち際から遠ざかってしまった。
 なまこを持って追いかけようとしたら、風祭が本気で泣きそうな顔になったので、海に放り投げた。
 海水で手を洗って、風祭に近づく。靴が濡れてしまい、砂がスニーカーの先に固まった。
「風祭、ごめん」
 風祭はすぐに許してくれた。良かった。
 それからは、波打ち際には寄らないで、二人で砂の上にしゃがみんで、砂で山を作って遊んだ。
 砂遊びなんて、幼稚園以来だ。貝殻が出てくる砂で作った山に、トンネルを掘ってたら、俺の向かい側から穴を作っていた風祭と手が触れ合った。砂のせいでざらざらして、あったかい手だった。
「繋がった」
 笑った風祭の顔が、日も出ていないのに、眩しく見えて、俺も笑うしかなかった。ここで、手を握りしめたら、風祭は困るかな。迷っている内に、ぽつんと頬に冷たいものが落ちた。少しねばねばした水滴は雨だった。傘を持ってこなきゃいけなかったのに、すっかり忘れていた。
 風祭が立ち上がった。俺も急いで立った。砂を払い、雨を避けるために走り出す。雨は前みたいに透明な雫じゃない。灰色っぽいような黒いような、変な色だ。
 フードを被って、砂が付いた指で、悪いと思ったけど、風祭の肩を抱き込んだ。
「藤代君、僕は大丈夫」
「駄目だって」
 むき出しの風祭の頭を覆うようにして、走る。走りながら、腕で感じる風祭の体に、こんなときだっていうのに、どきどきしていた。
 雨がひどくなる。油っぽいような変な匂い、でも、海の側だから、潮風が混じって、町中で嗅ぐより、まだましだ。
 海の家まで走って、入り口のすだれを蹴飛ばして、屋根の下に入った。ばらばらっと雨が屋根の上を叩く音がする。風祭はリュックからタオルを出して、俺に手渡してくれた。 服を拭いて、顔を拭いたら、タオルが黒く汚れた。持ってきた水で、もう一度、顔や服をぬぐう。
 風祭はその間に、ベンチの埃を払って、座りやすいように動かしていた。俺がベンチに座ったら、風祭も何秒か遅れて座った。
 ちょっとだけ、雨の音しか響かない沈黙が続いたと思ったら、風祭が言った。
「藤代君、ありがとう」
「別にいいよ。ほら、俺フード被ってたから、全然濡れてないし」
 風祭は俺を見て、もう一回、ありがとう、と言った。
 心臓が早くなる。痛いような、苦しいような、変な感じだ。風祭の顔を見ていると、胸が掴まれたみたいになる。頭が無茶苦茶になりそうなほど好き。風祭が好きで好きで、たまらない。
 会話が続かなくなりそうだったので、俺は、口を開いてみた。
「あのさ」
 何を話そう。適当な、世間話とか、とにかく何でも良いから思いつかないと、黙ったままになりそうだ。
「――三上先輩が、よろしくって。風祭に」
 風祭は思い出したみたいに、小さく微笑した。
「そっか」
 俺の言葉に風祭は驚いた様子もない。そうなると、どうしてなのか、気になってたまらなくなる。どうして三上先輩で、どうして風祭なのか。知らないところで、何かあったのかなんて、想像したら、背筋が熱くなった。――俺、妬いているんだ。
「……なんか、三上先輩とあった?」
「お米、あげたんだ」
「え――あっ!」
 俺も思い出した。そういえば、キャプテンと三上先輩が二人して出かけて、米を山ほど持って帰ってきた事があったんだ。早速、炊いて、食べてたら、もっと味わって食え、って二人から怒られたっけ。
「あの米、風祭がくれたんだ」
「ううん。僕じゃなくて、功兄が先輩たちにあげたんだ」
「でも、ありがとうな。あれで、俺たちしばらく食っていけた」
 それで、三上先輩がよろしくなんて、伝えようとしていたわけだ。
 あれ、でも、なんで、三上先輩、風祭の家に行ったんだろう? キャプテンも一緒だったんだよな。米をもらいに行ったって事? 
 訳が分からなくて、風祭に訊ねたら、教えてくれた。
「渋沢先輩と三上先輩が松葉寮に来ないかって言ってくれたんだ。功兄があちこち出かけて、一人になることが多くなってたし……ほら、避難する人が多くなって、事件も多くなってたから、心配してくれたみたい」
「そうすれば良かったのに」
「うん。でも、兄貴を一人にするのが嫌だったから」
 さらりと言った風祭の横顔は、俺よりも先輩たちよりも、ずっとずっと大人びていた。
 風祭は、食べ物や動く交通手段を探して、あちこち出歩く兄貴を一人で待ってたんだ。時々、降る黒い雨を眺めて、一人でご飯を食べて、遠くから聞こえる物音に耳を澄まして、あの部屋で、一人、兄貴の帰りを待っていた。
 俺は寮にいて、帰ったり出て行ったりする友達を見送りながら、どこにも行かなかった。同じ考えの奴らとサッカーしたり、人がいなくなっていく街に出かけて、食べ物を探したり、探検したりして、みんなでわあわあ騒いで、結構、楽しかった。キャプテンは、どんな先生たちよりも落ち着いていたし、三上先輩はどんなときだって、あの斜めに構えたような態度を崩さなかった。
 落ち着くっていうか、まあ、こんなもんか、みたいな諦めと開き直りが出来たのも、ひょっとしたら、先輩たちがいてくれたからかもしれない。
 どこに行くより、寮が一番ましだった。それでも、世界のあちこちに見えるほころびが怖くなったとき、思ったんだ。
 風祭に会いたい。終わるなら、風祭に会いたい。気まぐれで、自分勝手な最後の願い。
「風祭、一人でいるとき、寂しくない?」
「時々、寂しくなるよ」
「――俺、もっと早く、風祭のとこに行ってれば良かった」
 風祭は、ふわっと笑った。どういう意味の笑いかは分からなかったけど、喜んでくれたのかもしれない。そう思いたいから、そう思うことにした。
「……雨、止まないね」
「ほんと、よく降る」
 雨は、まだ降ってる。いつもは、さっと降って、さっと止むのに、今日は長いような気がする。
 砂浜がどんどん濡れていく。波の音が雨音にかき消され、海も降ってくる雨に遮られて、まともに見えない。長い、黒い線みたいな雨が空と地面を繋いでいるので、檻に入っているような気がした。
 どこかに足を伸ばして、適当な建物を覗けば、残っている奴らなんて、まだまだたくさんいるだろうし、ラジオとか無線とかでも、人がいるってのは確認できる。それなのに、こうして雨音を聞きながら、雨降る砂浜を眺めていると、世界中に俺と風祭しかいないような気がしてくるのはなんでだろう。
「――藤代君、海に連れてきてくれてありがとう」
「いいよ、俺だって飯食わせてもらったし、海にも来たかったから」
「僕、藤代君と海に来たかったんだ。だから、会いに来てくれて嬉しかった。一緒に来られて、本当に良かった」
 ちょっと照れたようなはにかんだ風祭の笑い方。この笑顔も好きだ。
 俺は、風祭のどこが好きだなんて分からない。難しすぎる問題だ。好きな人のどこが好き? どうして、その人を好きになった? どんな公式や法則を使っても、解けっこない。
 会いに来ようと思ったときよりも激しく、唐突に思った。こんなに好きな奴がいるのなら怖くない。悔いもない。結構、いい人生じゃないか。好きな奴に出会えて、手料理食わせてもらって、一緒に海に来て――俺、最後に一花咲かせたってことかな。
 俺は、へへと笑った。風祭も俺を見て、またにこっと笑った。
「――なあ、風祭」
「なに? 藤代君」
「明日、寮に来いよ。体育館使って、サッカーしよう。晴れてたら、グラウンドでもいいや。それからさ、選抜の奴らとか、桜上水の奴らが、まだ、こっちに残ってたら、みんな集めてサッカーしよう。ずっと、ずっと、サッカーしてさ……」
 うわ、俺、かっこわるい。言葉に詰まってしまった。
「うん。サッカーしよう。みんなを探すときにはまた、おにぎり作るよ。それ持って、一緒に探しに行こう」
 本当に不思議で、風祭がどうして、そんな風に晴れ晴れと笑えるのか、不思議で、俺は急に胸が苦しくなった。こういう気持ちをなんていうんだろう。きゅっと胸を掴まれて、鼻の奥がかすかに痛くなって、悲しいというにはもう少し、寂しいというには何か足りない。俺、切ないのかな。
 風祭を見てると、体の色々なところから、知らなかった感情が湧いてくる。何遍、思えばいいんだろう。好きだって気持ちが振り切れそうになる。
 目の前が歪んだ。まばたきして、袖で擦って、それでも目の前がぼやけてしまう。風祭の心配そうな顔が、ぐにゃぐにゃになってしまった。
「藤代君、泣かないで」
 そういう風祭の目からも、涙が落ち出した。
「だって、風祭だって、泣いてるじゃん」
「うん。ごめんね」
 風祭の眼、涙が溢れると、こんなに大きく、黒く見えるんだ。
 俺たちはお互いの涙を見ながら、ぼろぼろ涙をこぼして、泣いた。声は立てなかったけど、いっぱい泣いた。風祭は俺の片手を握ってくれて、俺も片手で握り返した。湿った砂でざらついて、ほっこりあたたかかった。
「風祭、俺、わがまま言っていい?」
 俺は風祭の右手を両手で挟んで、額に当てた。まるで、お祈りするみたいな格好だ。顔を伏せたから、涙が落ちていって、砂の上で、変な形の泥玉になった。
「サッカーするときは、ずっと笑ってる。みんなを探しに行くときも、俺、いつもみたいにする。みんなの前でだって、そうする。だから――だから、今日の夜だけでいいから、俺の側にいて」
 雨の音が聞こえる。波の音も聞こえる。でも、風祭の返事はない。
 顔を上げて、俺が風祭の目を見るまでの時間が、とても長かった気がした。その間に、後悔と開き直りを、何十回も繰り返す。
 俺と目を合わせると、風祭は、音がしそうなくらいゆっくりまばたきした。
 あの濡れた黒い目の中に、今の時間を閉じこめたんだ。俺もまばたきして、そうした。十四年の中で、たとえ俺がこの先、生きることがあったとしても、この時間くらい、大切で切なくて、幸福な時間は二度とない。
「いる。藤代君の側にずっと、いる」
 一語一語を風祭は噛みしめるように言った。その一語一語が、俺の心に積もっていった。
 取り残されていた風祭の片手が、俺の手を包んだ。
 俺は風祭を見ていた。風祭も俺を見ていた。
 きっと、俺は目を閉じるまで、風祭を見ている。きっと、風祭も目を閉じるまで、俺を見ていてくれる。
 本当の最後まで――終わる日まで風祭と一緒だなんて、最高だ。心からそう思った。


<<<