Tシャツ



 俺さあ、と藤代がベッドの上で、妙に真剣な声を出した。
「試してみたいことがあるんだよね」
 誰にともなく話しかけているらしい。一馬はちらりと鳴海を見たが、彼はまったくの無視だ。藤代には視線もやらず、ベッドで雑誌を広げている。ここに将がいるのなら、藤代の相手になるのだろうが、あいにく、姿が見えない。
 一馬は迷った挙げ句、何が、と聞き返してやった。途端に、藤代がベッドから勢いよく、上半身を起こして、満面の笑みを向けてきた。
「絶対、いいって! 最高だって! 真田も好きだと思うぜ!」
 大声を出すので、無視を決め込んでいた鳴海も藤代に向かって、文句を言う。
「うっせえ。静かにしろ」
「鳴海、聞けって。お前も好きなはずだって」
「なにがだよ、どうせ、下らないことだろ」
「違う! すっごいこと」
 こうなると、一馬の相づちもいらないようなので、彼としては安心して、放っておける。二人が話している側で、黙っているのも、気詰まりなので別室の友人のところへ行こうかと立ち上がりかけた。そこへ、藤代の遠慮のない声が耳に入ってくる。
「風祭、まだ風呂に行ってないんだよな」
「知らねえよ」
 言い方は素っ気ないながらも、興味を引かれたのか、鳴海が藤代に向き直った。
「ちび助に関係してるのか?」
「してる。してる」
 うひひ、と藤代は悪戯っぽく笑い、ベッドの側で中腰になっている一馬を手招きした。
「真田も来いよ」
「え、俺は……」
 しかし、風祭と聞いては無視しがたい。一馬は藤代のベッドの方へ近づいた。
「風祭、風呂に入る前に部屋に着替えを取りにくるだろ?」
 藤代はいきなり、妙なことを言い出した。
 藤代の行動や言動は、唐突なことが多いように見えるが、彼なりの基準や秩序があるらしい。あくまでも、彼なりの、であって、周りの者にはうかがい知れない時もあるが、そんなタイプが多いのが、東京都選抜なのだ。
「そうだな」
 とりあず、一馬はうなずいた。
「当たり前だろ。偉そうに何言ってんだ」
 鳴海が馬鹿にしたように言った。藤代はめずらしく、噛みつかずに、にやりと笑った。
「だからさ――」
 藤代の続けた言葉に、鳴海と一馬は、なんともいえない表情になった。面はゆげな、嬉しそうな、それを隠すような、複雑な表情だ。
「な、いいだろ? やってみようぜ」
「……」
 二人は返事を返さなかった。しかし、反対もしていないので、賛成だろうと決めつけて、藤代はわくわくしながら、将が部屋に戻ってくるのを待った。
 藤代の心が伝わったのか、鳴海も一馬も、無言の内に、ほのかな期待の表情を浮かべている。
 ――やがて、
「早くしろよ!」
 という翼の声に押されるように、将が勢いよく部屋に駆け込んできた。ぎくりと身を起こしたのは一馬だ。将は急いでいるらしく、ベッド脇に置いた自分の荷物からタオルと入浴道具、下着や着替えを取り出している。
 藤代がのんびりした声で話しかけた。
「風祭、風呂?」
「うん。翼さんと行くんだ」
 嬉しいのか、将は見飽きない笑みを藤代に向けて、荷物を持つとぱたぱたと軽い足音で、またドアに向かった。  鳴海は雑誌を読んでいる振りをして、将を見送っている。一馬は自分の態度や発言で、計画がばれるのを恐れて、むっつり黙ったままだ。将はドアを出かけて、あ、と振り返った。
「真田君」
 藤代に対するときのような親しさがひそめられた分、気遣わしげな将の声だった。
「なんだよ」
「あ、あのね、郭君と若菜君が呼んでたよ。談話室に行くからって」
 一馬の素っ気ない言い方に、少し声を沈ませて、将は言うと、それだけだから、ごめんね、となぜか謝って、行ってしまった。
「お前、伝言してやったのに、なんで謝るんだよ」
「だって、真田君……」
 翼の言葉が聞こえたが、将の返事の先は聞こえなかった。一馬はがっくりしながら、起きあがり、のろのろと歩き出した。
「真田は来ないのか?」
 藤代は自分の荷物をあさり始めた。鳴海も起き上がっている。
「談話室だったら、風呂上がりに通るだろ」
「じゃあ、郭と若菜にもそれとなく教えてといてよ。出来れば他の奴にも」
 鳴海が不満げな声を出す。
「他の奴にもばらすのか」
「黙ってたら後が怖いんだよ、こういうの」
 とくにキャプテンとか、杉原とか。藤代の言葉に、一馬は、心の中で英士の名を付け加えた。結人もほほえみながら、何か言ってくるだろう。想像して疲れそうになったので、一馬は止めておいた。
「伝えておく」
「頼むな」
 藤代は自分のバッグをまだ探っている。
「これがいいかな。な、やっぱり鳴海のがよくねえ? 俺よりお前のがでかいもんな」
「当たり前だ」
「色は何だった?」
「白」
 一馬はふとため息をついて、部屋を出て行った。楽しみでもあったが、しかし本当に成功するのか心配だった。なにしろ、将の側には毒蛇より恐ろしい翼がついている。
 そわそわしながら、友人の待つ談話室に行った。二人ともソファに座って、一馬を待っていた。
 消灯までには、まだ時間があったので、ちらほらと他地域の選抜の姿もあった。それぞれにくつろいで、仲間同士や他のメンバーとで話している。目が合った須釜に、とりあえず挨拶めいたうなずきを返して、一馬は結人の横に座った。
「あのな」
「さっきさあー」
 言いかけた途端に、結人も言葉を発したので、一馬は思わず、黙ってしまった。英士が一馬の声に気づいていたのか、話をうながしてくれた。
「どうしたの」
「なに、一馬、何か言った?」
 結人がきょとんした様子で問いかける。
「あのさ……」
 そこで、藤代と鳴海が連れ立って、浴場の方へ歩いていくのが見えた。一馬は目で見送って、成功を祈った。なんだかんだ行っても、本心では見てみたかった。
「一馬、なんなんだ?」
 ふたたび、今度は結人がうながす。
「……実は」
 風祭、と言った瞬間、部屋中が静かになった。ばらばらっと顔がこちらに向けられ、視線が一馬を突き刺す。
「ちび君が、どうかしたんですか〜」
 遠くからでも大きな須釜が近づいて、より大きくなった。
 こいつ、確か、部屋の奥にいたよな。一馬は思った。それとも、声というのは高い場所に届くものなのだろうか。須釜の地獄耳に、周囲の視線に恐怖しながら、一馬はぼそぼそと藤代と鳴海の計画を語った。
 誰かが立ち上がり、部屋を出て行ったかと思えば、仲間を連れて、戻ってくる。一馬が呆然とまばたきを三十回ほどしている間に、その回数以上の人間が談話室に集まってきていた。暑苦しいくらいに、人でいっぱいだ。
 こんなに風祭に興味のある奴が、もとい恋のライバルがいたとは思いもしなかった一馬は黙り込んだ。結人と英士は談話室に来た人間をチェックしては、何やらひそひそと会話している。聞こえた内容が恐ろしかったので、一馬はその時が来るまで、口を閉じていた――触らぬ神に祟りなしとも言う。
 異様な熱気が立ちこめる中、藤代が笑いながら駆け込んできた。手には白いものを握っていた。
「成功、成功!」
「ばーか。仕掛けただけだろ」
 鳴海も相好を崩して、談話室に入ってきた。
「風祭だもん、絶対、気づかないって!」
 うきうきとした調子で藤代はなぜか皆が納得するようなことを言うと、通りがかった渋沢に手を振った。
「キャプテーン」
 容赦ない大声に、渋沢が顔をしかめる。
「藤代。騒ぐな」
「どこ行くんすか」
「部屋だ」
「ここにいた方が、いいもん見れるっすよ」
「いいもの?」
「将たい、将!」
 どこからか飛んできた声に、渋沢の表情が変わった。
「何をしでかしたんだ、藤代」
 藤代は楽しそうに笑った。
「これ、なーんだ」
 得意げに、手に持ったものをかざしてみせる。
「あ、カザ君のシャツ」
「藤代。盗みは駄目だぞ」
 杉原の言葉に渋沢が視線を鋭くする。
「そうそう。それじゃストーカーだって」
 結人が口を挟む。
 途端、数人かの視線が、ある方向に向けられた。
「……なんで俺を見るんだ! 欲しいけど、俺は我慢してるんだ」
 何対もの目が水野に据えられ、やっぱりと逸らされた。水野は不満そうな顔をしながら、誰ともなく、自分の潔白を述べようとしたが、渋沢の落ち着いた声がそれを遮った。
「で、風祭のTシャツをどうしようというんだ?」
「鳴海のとすり替えただけっす」
「なに?」
「だから、俺のシャツとちび助のシャツをすり替えたんだよ、意味分かるだろ」
 渋沢は黙った。そして、ややためらう様子を見せながらも談話室に入ってきた。彼とて、男だ。見逃したくはなかった。
 そして、部屋は静かになった。期待に胸膨らませ、待つこと三十分。
「――大バカのほくろ野郎!」
 頬を赤らめたまま、まず、翼が駆け込んできた。藤代を見つけるなり、襟首掴む勢いで、詰め寄る。
「なんで俺が怒られるんだよ」
「お前だろうが。あんなこと考えるのは!」
 決めつけだが、翼の指摘は正しかった。
「違うって。あれは俺のシャツじゃ……」
「ほら、お前だ!」
 口を滑らせた藤代に、翼が首を絞めようと手を伸ばしかけたところで――。
「翼さん?」
 ひょこりと将が顔を出した。途端に、部屋がどよめいた。みなが、みな、藤代が何をたくらんでいたのかを理解したのだ。
 どういう種類かは分からないが、とにかくそこには、ある種のロマンの結晶が誕生していた。
 たとえるなら、それとも想像するのなら、背景としては、二人で遊びに出かけた帰り道に突然の雨に降られたと考えたい。
 ずぶぬれになりながら、慌てて部屋に戻り、先にシャワーを浴びてこいよと、うながす。手渡すのは自分の服。恥ずかしがる相手はやがて、ありがとうと言いながら、浴室へ向かう。
 シャワーの音を聞くこと十数分、戻ってきた相手は、大きいね、などと言いながらも、自分の服を嬉しそうに着ている。赤い頬、濡れた髪、きらきら光る黒い目。細い首筋、のぞく鎖骨、そして否応なしに気づいてしまうのだ。シャツ一枚で覆われてしまうその体に。
「――俺、最高!」
 藤代が万歳をした。
 翼はその腕を避け、仏頂面で彼を睨みつつ、将の姿もしっかり見ている。実は、脱衣場でいたずらに気づいたとき、将に自分のシャツを渡そうとしたのだが、翼さんに悪いからと断られるし、かといって上半身裸という眼福状態を他人に見せたくもないし――その判断の結果がこれだ。ここまで来たなら、嫉妬はとりあえず置いておき、しっかり目に焼きつけておくしかないではないか。
「藤代グッジョブ!」
 鳴海も叫んだ。たちまちの内に辺りは藤代を褒め称える声に満たされた。
「ナイス、藤代」
「やるな、藤代」
「サッカー以外でも、たまには役に立つね」
「これは認めんあかんな」
「いやー。ええもん見たわ」
「お前の分のニンジンを、食べてやってもいいぜ。あ、トマトと交換ね」
「この場合の興奮の理由とはつまり、他人のシャツという部分に風祭の小柄な体が――」
「このまま、持って帰って食べて閉じこめてしまいたいですねえ〜」
「な、な、なに、危険な発言してんだよ、スガ!」
「……可愛い」
「カズさん! しっかり見とかんと!」
「うるさか! 言われんでも見とうったい」
 お国の方言が混じりつつ、性格もしっかり伺わせる発言で、部屋が湧いた。
 将はきょとんと少年たちを眺め、困ったように立ちすくんでいる。
「カザ君、下は?」
 杉原が訊ねた。
「下? シャツの?」
「うん」
 将はぺろりと裾をめくって見せた。短パンだ。色気はないが、最初から見えるのと、見せられるのとでは、また別の刺激がある。長い裾をめくるというその仕草に、ふたたびのどよめきが沸き上がる。
 さすがに将も、自分のことで何か起きているのだと気づき、しゅんとうなだれた。
「ごめん。みっともなかったね」
 誰にともなく謝って、その場を去ろうとする。後ろ姿が、また悩ましい。
「待て」
 不破が呼び止め、手招きする。将は振り返り、まばたきしている。今の動きで、襟から肩がのぞいた。少し不安そうな表情が、これまた、たまらない。
「ここにいろ」
 不破は部屋を指さした。みながうなずいた。
「でも、着替えないと……」
「いいよ」
「シャツ、間違えたみたいだし」
「いいから、いいから」
「でも、これ誰のシャツか」
「風祭に着てもらえた方がシャツも本望だろう」
「そーそー。こんなむさ苦しい奴よりも、絶対、いいよ」
 藤代が鳴海を肘でこづきながら言うと、将が目を丸くした。
「これ、鳴海の?」
「まあ、いいから、いいから」
「そうそう、いいから、いいから」
 いいからいいからの合唱に誤魔化され、将は談話室に入った。
 まだ生乾きの髪がうなじにまとわりついている。湯上がりゆえか、それとも注目されているのを感じているからか、ほんのり上気した肌が、幾人かの純情な少年の鼻と某所を刺激した。
 ソファに座らされ、将は何となく不安そうに周りを見渡した。
「あの……」
 それを遮るように、ぽん、と誰かが手を打った。
「そや、せっかくやから、写真取ろか。記念写真な」
 関西出身の某少年の提案は、満場一致の賛成で採用された。将自身も目の前で展開される事の意味が分からないままに、うなずかされている。
 そういう訳で、その場にいた少年たち(人数は定かではない。ついでに、焼き増しの注文ものちのち、相次ぎ、数十枚にも及んでいる)は、ぶかぶかのTシャツを着ている将を中心に撮影された集合写真を持っている。個人写真の撮影時間があったことは言うまでもない。

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