どこにある?



 ことの発端は、鳴海だった。
 鳴海が藤代を見ながら、さも親切そうに言ったのだ。
「おい、藤代」
「なんだよ」
「目の下、ごみついてるぜ」
 鳴海はにやっと笑った。
「マジ?」
 両手で両目の下を藤代はこすった。さきほどまでグラウンドで駆け回り、何度か土に触れたりもしていたため、手は汚れている。将が、藤代君、目がいたくなるよ、と下の方から言葉をかけている。
「取れた?」
 藤代が訊ねる。鳴海は首を振った。
「まだついてる」
 さらにごしごしと藤代はこすった。
「藤代君、目にゴミが入るよ」
「うーん、大丈夫」
 将の注意に、目をこすりながら藤代は言った。とくに根拠はない。
「今度こそ、取れただろ」
 藤代が赤くなったまぶたで言うと、鳴海は藤代を見て、また笑った。
「まだついてるぜ」
「嘘つけ!」
「ほんとだって」
 鳴海を信じるのはやめて、藤代は横の将に訊ねた。
「風祭、ついてる?」
「ゴミみたいなのはないみたいだよ」
「んだよ、やっぱり嘘じゃん」
 藤代はつっかかるような口調で鳴海に言った。
 鳴海は目つきをからかうようなものにした。
「でも、ついてんだよなあ。目の下に黒いの」
 そこで改めて、藤代を見て、一言。
「あ、わりい、それほくろか。ゴミかと思った」
 ――これで藤代が怒らなければ、それこそ嘘である。  ぎゃあぎゃあと喧嘩を始めた鳴海と藤代の側で、もちろん将は懸命に止めようとした。だが、効果は薄い。こういう場合、だいたい、騒音に耐えかねた翼がやってきて破壊的解決になるか、キャプテンとしての責任感を背負った渋沢がやってきて、平和的解決になる。
 なので将の行動は、あまり意味がない。いや、周囲の観客は辺りをちょこまか走っては、鳴海止めろってば、藤代君だめだって、などと背伸びしたり、飛び上がったりしている将にもだえたりしているから、藤代と鳴海の喧嘩にも、少しはいい部分があるのだった。なければ放置か、速攻で、他の少年達が黙らせているはずだろう。
「鼻くそみてえなほくろだな、きたねえ!」
「うっせえ。わかめみたいな髪しやがって、ばーか、ばーか」
「ばかって言った方がばかなんだよ、ほくろ!」
「ばかって言った方がばかって言った方がばかに決まってる! わかめ野郎!」
「ばかって言った方がばかって言った方がばかって言った方がばかだろ! ばかほくろ!」
「んだと? ばかわかめのくせして」
 非常に低レベルな争いに、ついに堪えきれなくなった翼の蹴りが飛んだ。
「うるさいんだよ!」
 容赦ない一撃に、鳴海と藤代は脛を抱えてしゃがみこんだ。
「手加減したんだから、感謝しな」
 言い捨てて、翼は将の腕を引いて、立ち去ろうとしたが、こういうとき、将はそれには従わない。自分もしゃがみ込んで、痛い? などと訊ねている。
 痛いのは当たり前であるし、だいたい、翼の荒っぽい喧嘩止めの方法に異議を唱えない辺りが、天然ぼけの超お鈍な将の将たる所以である。それでも、心配される方は、これはこれで嬉しいものだ。
 ましてや、ここ赤くなっているね、スプレーかけた方がいいかなと将の小さなてのひらで触られた日には、ハイジを追いかけようとするクララのように、すっくと立ち上がれるに決まっているのだ。
 藤代が立った。負けじと、鳴海も立った。が、苛立ちは薄れないのか、ぶつぶつ呟いている。
「くそっ。サッカーできなくなったら、どうすんだよ」
「お前が、天才でサッカー界の損失っていうなら話は別だけど、そんなこと、絶対百パーセントないしね」
「てめえ!」
 今度は鳴海と翼の口げんかが始まった。これは、一方的に翼が勝つので、誰も止めない。下手に割って入れば、矛先が自分に向けられる可能性も高いので、これは将としても傍観の構えであるが、今は藤代の方が心配のようだった。鳴海が翼を追いかけて、走り出したせいもあるかもしれないが。
「藤代君、本当に平気?」
「へーき。風祭がいたから、治った」
「また、変なこと言う」
 苦笑した将は、ふと藤代の顔をじっと見つめた。
「え、なに、本当に何かついてる?」
 将の前で、顔にゴミはつけていられないとばかりに藤代は表情を真剣なものに変えた。
 将は首を振って、自分も藤代と同じほくろの場所を押さえた。
「ううん、ここにあるの泣きぼくろっていうんだよね」
「へー。風祭って物知りだなあ」
「兄貴が教えてくれたんだよ」
「へー、よく覚えてるなあ」
 ほのぼのし始めた二人を見て、鳴海と翼は走るのを止めて、戻ってきた。出し抜かれてたまるかというのが理由だ。同じ思いを抱えた少年たちも、鳴海と翼に続けとばかりに、わらわら集まってくる。
 自分たちを取り囲み始めた輪に気づかない将は、藤代といまだほくろ談義を続けている。
「泣きぼくろがある人って、哀しいことが多いんだって」
「えー、俺、いますんげえ幸せなんだけど」
 満面の笑みに藤代につられて、将もにっこり笑う。
「なら、いいよね」
「うん、しあわせ」
 藤代は笑み崩れる。
 お前の頭だけがな、と誰が突っ込みを入れたものか。もちろん、藤代の耳には届いていない。
 将はそういえば、と思い出したようにまた口を開いた。
「あと、藤代君、背中にもいくつかほくろがあるよね」
「え、まじ?」
「うん。二つか三つくらい」
「知らなかった。自分じゃ見えないもんなあ」
 聞き逃さない、見逃さない、言い逃さない、翼が鋭く、口を挟んだ。
「将、そんなとこにあるほくろに、よく気がついたね」
 えっと将は翼を驚いたように見た後、藤代に目を移し、なぜか、頬を赤らめた。
「う、うん、偶然……その、見たんだ」
「えっ、そうなの? 一緒に風呂、入ったときかと思っ……」
 将が藤代の腕をつかむ。
「藤代君!」
「へ、なに?」
 意味のつかめないまま、藤代はともかく、将の怖くしているらしい顔に、何か言おうと口を開いた。さらに墓穴を掘るわけだが、気づくわけもない。
「あ、風祭にもあるよな、ほくろ。背中じゃなくて――」
 藤代は自分の腿の上をぽんと叩いた。
「腿の付け根んとこに小さいの一個」
 将の頬が真っ赤になった。その表情と聞き流すには、微妙すぎる場所が、全員の注目を集めた。
「おい、なんで、そんなところにあるの知ってるんだ」
 翼が藤代に向かって言うが、答えたのは将である。
「偶然、見たんだって!」
 横で藤代がくびをひねった。
「あれ、偶然かなあ? だって」
「偶然!」
 偶然だってば、と一生懸命に将は言う。首どころか、手首まで真っ赤だ。きっと全身、赤く染まっているに違いない。
 かわいいなあと目を細めながら、藤代は言った。
「だってさ、していいって俺、一応きいたじゃん? 風祭はだめって言ったけど、結局……ぶは」
 将が、背伸びして、藤代の口元を押さえた。必死に背伸びしている甲斐があってか藤代の言葉は途切れた。しかし、沈黙は守りつつも、藤代は反撃した。
 唇に届いた将の指を噛みだしたのだった。
「や、やめてよ、藤代君」
 将の顔が赤い。照れているだけでない赤さだ。藤代はやだもーんなどと少年たちの神経を逆なでするような言い方と共に、将の指を甘噛みしている。
 誰か、とめろ。全員が思った。でないと、俺たちにダメージがくる。ダメージの名は失恋といおうか。ああ、にくらしきバカップル。いつの間に、そんなことになっていたのやら。
「藤代、もうやめろ。でないと」
 苦渋に満ちた渋沢の声の後に、
「お前、明日からサッカーできなくなるよ?」
「夜道に気をつけなくちゃいけなくなるしね」
 翼、英士の言葉が続いた。
 将が側にいることにより勇気がみなぎったのか、それともただの天然恋愛ぼけなのか、八割方後者だろうが、藤代はのほほんと、幾分、不満げに言った。
「えー、まだ他にもあるとこ知ってるのに」
 どこだよ、そこ。とつっこむ気力もない面々だった。
 いや、例外がいる。
「ちなみに、どこなわけ?」
「タッキー!」
 これ以上聞いたら絶交だからねと言わんばかりの将の迫力に、さすがの杉原も口を閉じた。
 ――もちろん、これで皆が追求を諦めるわけでもなく、ショックを隠しきれない青い顔の水野と相変わらずの無表情の不破が、照れて無口になってしまった将と共に帰った後、居残った都選抜の面々は藤代に詰め寄った。
「いつから、そうなんだよ!」
 ふくれっ面で結人がたずねる。
「三ヶ月前からかなあ」
「なんで、そうなったんだ?」
 苦虫を噛み潰したような顔で、翼が渋々、聞いた。
「えー。俺が風祭好きで、風祭が俺のこと好きだからに決まってるだろ」
 全員、撃沈しそうになるが、まだまだくじけない。ネバーギブアップの精神で質問を続ける。そうでなければ、サッカーはできない。恋愛だってできない。
「おい、ちび助とどこまでいったんだよ、ああ?」
 喧嘩腰の遠慮無しに訊ねる鳴海に、藤代は笑み崩れた。
「どこまでかなあー」
 その頬をつねってやりたいと思ったのは、翼だけではないだろう。全員が全員、藤代の体中をひねってやりたいと思いつつ、皆を代表して、キャプテンが訊ねた。
「で、どうなんだ?」
「おしえないっす! 俺と風祭だけの秘密なんですから!」
 詰め寄る面々に得意満面の幸福そうな笑顔で、大きくそう答えた藤代の夜道が無事なのか、どうかは月だけが知っている。

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