恋のテレフォンナンバー



 昼間、あれだけグラウンドを駆け回り、一番最後にそこから引き上げたのだから、眠くなるのも当然だといえた。というわけで、くったりとソファに身を埋めてしまった将を誰一人として、とがめなかった。
 代表合宿夕食後のひとときである。もちろんというべきか、その時間は将を囲んでの雑談に、酒がなくても絶好調の盛り上がりを見せていた。もとより、海千山千のコーチ監督陣がそろうこの合宿に酒の持ち込みなど、恐ろしくてできようもないだろうが。
 それに何よりのつまみがここにいる。
 はるか遠く、ドイツから海を越えて、戻ってきた将は、三年前と変わらず眩しいばかりの笑顔と、三年前よりもいっそう強くなったサッカーに対する貪欲なまでの情熱を持ち、居並ぶ仲間たちをふたたび、魅了した。
 将を呼び寄せた西園寺自身が、たじろいだほどに、その存在は集中力と闘争心を高め、始まったばかりの合宿の成果が、どれほどのものか、誰もが確信するばかりだった。
 将の代表招集に対して渋い顔をするお偉方の説得に手間取った西園寺としては、合宿後行われる親善試合に、勝利でもしてくれれば高笑いの一つでも出ようというもの。そして、それは限りなく、現実に近づいている。
 そのような周囲の思惑はおいておくとしても、少年期をようやく脱しようとする若者らしい情熱に充ち満ちて、彼らは将を囲み、共に過ごせなかった三年分の月日を埋めようとしていたのだ。
 そのような談笑の中、将は目をこすりだし、いつの間にやらうつらうつらと船を漕いでいる。起こそうか、起こすまいかの意見は分かれたが、目を閉じた将の寝顔見たさに、自然、意見はこのまま寝かせておこう、見ておこうのほうへと流れた。
 日本サッカー界の期待を担う、若手選手たちの、この鼻の下伸びた横顔見れば、ファンも泣くだろうが、彼らにしてみれば、将を前に鼻が伸びない方がおかしいのだ。しかも三年ぶりである。鼻の下だって、三年分のびて、溶けて落ちない方が不思議だ。
  この将の寝顔を堪能する輪に加わっていないのは、ただ一人。ドイツから将と共に招集された、天城遼一であった。見事な身長と体格を誇る青年たちの中でも、その姿は西欧の血が流れているためか、ひときわ目立つが、どちらかといえば穏やかで落ち着いた物腰だ。
 お前は三年分、将の側にいたとばかりに遠ざけられていても、怒るわけでも嫉妬するわけでもなく、チームメイトたちの大人げない態度に――といっても、全員、十代なわけだから当然なのかもしれないが――たじろぎもせず、それもそうだなとばかりに納得して、天城は一人、離れて読書していた。
 そうして、この広い部屋は、関係者以外が見れば、たじろぐどころか、逃げ出したくなるくらいの熱気に包まれていた。
 実際、やけに静かな雰囲気に、疑問を覚え、様子を見に来たコーチの一人が、場のあまりの熱気の異様さに、仰天して、西園寺監督に報告するも、あらそうなの、まあしょうがないわね、との言葉と笑み一つであしらわれた、という一幕もあったのだが、そんなことは、U-19の若者達には、どうでもいいことだろう。
 ようやく、戻ってきた将の寝顔を眺める。どれだけの至福だろうか。
 そんな中で、一人、冷静さを維持していた天城なのだが、ふと本を持つ手を置くと、ちらりと時計を眺めた。時刻を確認した彼は立ち上がり、手になにやら紙袋を持って、皆の前にやってきた。
 今にもとろけんばかりの雰囲気に気圧されることもなく、すたすたと大股で、将の後ろから手を伸ばし、肩を揺する。
 ああとどこからともなくの悲鳴とため息。かまうことなく、天城は将を起こす。
「風祭、時間だ」
 ふにゃんと将の瞳が開く。この歳でここまで、かわいらしい寝起きの顔があるのかと悶絶気味の一同がそこにいる。
「え……」
 とろんと危うい視線が、壁に掛けられた時計に止まる。いま何時なのかを理解したらしい将は、ああっと一声あげて、立ち上がる。わたわたと周りに群れ集っていた人並みを、その小さな体でかき分けて、やはりというべきか、すっころぶ。役得とばかりにその体を抱き留めたのは須釜で、助け起こすと言うには、いささか、長い接触の後、将から手を離した。
「ちび君、どうしたの? そんなに慌てて」
 ありがとうございますとお礼を言っていた将は、ぱっちりとした目を須釜に向けて、はにかんだようにほほえんだ。須釜、溶けはしないが、いささか、怪しさを孕んだ笑みを返す。横で山下圭介を筆頭とした数人が悪寒にかられた。
 そんなことには気づきもしない将は笑ったままこたえた。
「電話しなくちゃいけないんです」
「でんわあ?」
 なにやら、不機嫌そうな声を出したのは、翼だった。
「誰に」
「どこに」
「何のために」
 矢継ぎ早に飛び交う尋問ともいうべき問いかけに、将はあとで話しますと少し、くすぐったそうな笑い方をした。楽しい秘密を抱えている、と誰にも見当がつく。
 風祭が俺たちに秘密を――? いささか、動揺の走った面々をやり過ごして、将は天城の元へ近づいた。
 ほら、と天城が紙袋を差し出せば、中には、まだあるのだともはや懐かしささえ感じさせるテレホンカード。束で取り出し、将は公衆電話の受話器を取り上げると、手慣れた様子で、ダイヤルを押した。
 待つことしばし、やがて聞こえた声に、全員が耳をそばだてた。
「ごめんね。僕だよ」
 声の優しさ、柔らかさは、ひょっとしたら、初めて聞く種類のものかもしれない。
「うん、大丈夫。え、うん、うん。そうなんだ。明日も?」
 ドイツ語と日本語の混じり合う会話。峻厳な響きを持つドイツ語も、将の口から漏れれば、かのファンタジスタ曰く。
「風祭が言うと、ドイツ語まで可愛いな」
「……タツボン、やばいで」
 この友の行く先を心底、案じた成樹も、優しい将の声には頬がゆるむ。
「不思議やな、どうしてカザは癒し系」
「あ、途中まで五七五になっとるで、藤村。みやびやなあ」
「――ところで、誰と話してるんだ?」
 皆が、将の声に酔っぱらったようになっているとき、渋沢が肝心な部分を口にした。さすがキャプテンとでもいおうか。それとも、キャプテンにしては気づくのが遅すぎるというべきか。
 ともかく、渋沢に負けぬほどの重々しさを持った天城は告げた。
「俺の妹だ」
 その場に流れる微妙かつ、複雑な空気は、未来への危機感と警戒心を併せ持ったそれだ。
 さて、天城の妹と将の関係をどう受け止めるべきか。
「あいつに懐いているからな。日本にも一緒に来てるんだ」
 さらりと言い放った天城の言葉にも表情にも他意はないらしい。事実だけを述べる彼の横顔に、U-19の選手たちも一安心する。それでも心に、近い将来の恋敵ともなろう相手の存在をしっかり刻みつけ、皆の視線は将の背中に向けられる。
 十分ほど経っただろうか。電話を終えた将、戻ってくるのかと思いきや、ふたたび電話をかけ出した。今度はドイツ語だけの会話である。
 なぜだか、天城がため息をついた。今までの冷静な彼らしくもない、そこはかとこない苦労が滲む。
 敏感にも、そこに不穏な気配をかぎつけた翼が天城に訊ねる。
「おい、誰だ」
「ドイツでの……チームメイトだ」
 む、おや、なに、まさか、とその場にいた全員が、嫌な予感を感じたとき、将の声が、戸惑った響きを帯びる。
 当惑気味なのが、ドイツ語でも分かる。そのうちに、将はゆっくり振り返った。
「天城、みんなが話したいって」
「俺にか」
 ゆったり立ち上がった天城は受話器を受け取った。あいづちもなく、ただ、向こうの話を聞いているだけだった。しかし、彼の表情には、何とも言えない、苦々しさと達観が浮かんでいる。
 Ya、と短く呟いた彼は、受話器を一度、耳から外し、振り返った。
「風祭、耳を塞いでいろ」
「へ?」
 不思議そうな顔をしながらも、将は両手で耳をふさいだ。ぎゅっと、力を込めて、目までつぶっている。
 天城は受話器を皆の方へ向け、手招きした。
「受話器を囲むようにして、こっちに来てくれないか」
 なんだなんだとざわめきながらも、皆は素直に受話器を取り囲む。藤代に受話器を渡した天城は人の輪を抜け、一人立って、耳を塞ぎ、目を閉じる将の背後に立つと、その大きな手のひらで、将自身の手によってふさがれている耳を覆った。
 ぴくんと将の体が揺れたが、それに構わず、天城はドイツ語を口にした。
「Beendigung der Vorbereitung」
 日本語で訳すならさしずめ、準備完了、とでもいったところか。
 天城の言葉を受けた途端に、電話機を壊さんばかりの勢いの大声がその場に響いた。
 長くはない言葉の後には、声とも言えない気合いの雄叫び、さらに、おそらくは俗語であろう悪態の響きが続いた。
 そして、最後の雄叫びのあと、電話は乱暴に切れた。受話器を戻す音が聞こえるくらいだったから、相当に荒っぽい置き方であっただろう。
 振り返った仲間のすさまじい勢いの視線を受け、天城は口を開いた。問われずとも、彼らの言いたいことは分かる。
「――お前らには負けない、将は俺たちの仲間で、俺たちのものだ、と言っている。後のは、よく聞き取れなかった」
 あとの言葉を言おうが言うまいが、彼らの怒りは変わらないだろうし、むしろ、火に油を注ぐことにもなるのは簡単に予想できたので、天城は口をつぐんでおいた。
 チームメイトには口が悪いのもいたが、それにしても、ひどい言葉だ。将の耳を押さえていて良かったと天城はほっとした。
 将がごそごそ身動きしたので、天城は手を離した。
 瞳を不思議そうにまたたかせて、天城に訊ねる。
「なんだったのかな?」
「さあ、俺もよく聞こえなかった」
 嘘、というよりも悪しき情報を遮断したく、天城は硬い顔で言った。それで将は納得したらしい。
 おさまらないのは将と天城以外の面々である。
「くっそお! なに言ってるかはわかんないけど、すんげえ悔しい!」
 拳握りしめて、藤代が悔しがれば、
「ビールばっかり飲んでるやつらに負けてたまるか! こっちは日本酒だ!」
 若菜が気合いを込める。
 かと思えば、九州のでこぼこコンビがお定まりのぼけとつっこみを繰り返す。
「俺たちは、日本男児たいね。侍魂もって切腹しちゃあ!」
「死んでどうするとか、こんのあほが!」
「あんな風にいわれたら、こちらもそれ相応のお返しをしないといけませんねえ〜」
 極寒の須釜の笑みに、暗黒を漂わせる笑みを返し、杉原もうなずく。
「そうだね。もらったものは倍返しが礼儀だし」
 渦巻く妖気を吹き飛ばすほどの怒りを見せているのは、もちろん翼だ。
「はっ、いってくれるぜ。ガタイと口ばかり大きくなって、肝心の頭はソーセージでいっぱいのやつらが」
 この後には黒川でさえ、目をつぶりたくなる言葉が続いた。騒ぎに紛れて、自分以外の、とくに将の耳に入らなかったのは、黒川にとっての幸運といえるかもしれないが。
 興奮を抑えきれない青年達の声は大きくなるばかりだが、そこにひときわ深みのある、威風堂々たる声が響いた。
「――いいか、みんな。こんなアナウンサーのような言葉は恥ずかしいが、絶対負けられない戦いがあるんだ、分かるな?」
 締めた渋沢の言葉の後には、うおおおっというすさまじい気合いの雄叫びが沸き上がった。突き上げられる拳は熱気を貫き、ドイツまで届こうかという勢いか。
 それを眺めやる将はにっこりとほほえんで、天城を見上げた。
「天城」
「うん?」
「みんな前よりも、ずっとずっとサッカーに夢中みたいだね」
 将の瞳はうれしそうに輝いている。
「……そうだな」
 一体全体、何を食べ、どこで育ったら、ここまで鈍くなれるのだと天城は苦笑し、将の頭を大きな掌で軽く、叩いた。その感触に、将がぱっと頬を染めたのに、肝心の天城も周りの者も気づいていない。
 U-19の合宿の夜は、そうして今日も更けていく。

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