若いんだからと言われても出かける気すらしない。湿度高く、気温高く、蝉の声大きく、空青く、雲白い。ということで母親の声を聞き流して、結人は家にいた。こんな夏の盛りの昼日中、どこにも行きたくない。家でごろごろして、麦茶でも啜って、扇風機に当たっている方がいい。
「ああ、邪魔邪魔。早く出て行ってくれないかな」
居間に掃除機をかけていた母が聞こえよがしに言う。
「涼しくなったら、速攻、出て行ってやるよ」
言ったが掃除機の音で聞こえていない。
自分の部屋に戻ってクーラーでも入れるかと考えていると、見透かしたように母が言った。
「あんた、今朝まで冷房付けっぱなしにしてたでしょう。体壊すわよ。サッカー選手目指してるなら、もっと気をつけなさいよ。電気代もかさんでるんだから」
健康情報に関して、息子は母に勝てない。そこに若菜家家計の事情も入ってきたらかなわない。扇風機の風を強くして、ぬるい風を楽しむのがせいぜいになってしまった。
午後にもならない内に、母は習い事があるといって、着替えて化粧して出て行った。きっと車には冷房を思い切り効かせるのだ。俺も早く免許を取ろうと、いささかずれた考えで気を紛らわせ、うつらうつらしていると、どこかでチャイムが鳴った。えらく、はっきり室内に響いたが隣家のものだと思い込む。立ち上がりたくもない。
床に寝そべったまま、目を閉じる。ぽろんぽろん音が鳴り続け、急に途切れた。
ずいぶんしつこかったが、やっと諦めたらしい。ふうとため息をついて、コーラでも飲むかと結人は立ち上がる。
そこに少し、冷え冷えした声が届いた。
「結人」
たじろぎながら振り返れば、庭に英士がいた。影がないから幽霊かと思ったが、よく見れば足下に真っ黒な小さい影がある。
「びっくりしたー」
英士はこっちの台詞だと呟いて、縁側から上がってきた。
「いるなら出ろよ」
「めんどかった」
溶けていそうな結人を見下ろし、英士はため息をついて、片手を差し出した。
「おみやげ」
「でかっ!」
ビニール紐でくくられたスイカだった。
「でかいよ、これ」
「でかくなかったら、結人が一人で食べるだろう」
「そんなことねえよ」
英士は冷蔵庫を開けて、麦茶を出した。自分で勝手にグラスに注いでいる。親のいない勝手知ったる親友の家では、みなこうなのだ。
結人はスイカを直接、手に持った。
「なんだよ、冷えてねえじゃん」
「文句言うなら、食べなくていいよ」
本気の口調を軽く、結人は聞き流す。
「一馬、呼ぼうぜ、一馬。あいつ、スイカ好きだから」
「聞いたことないよ」
「俺が決めたんだ」
電話しようとスイカを置いて、結人が立ち上がったところで、同じように庭に一馬が現れた。これはもう長年の親友同士の共時性とでもいおうか。チャイムを鳴らさなかったのは人の声を聞きつけて、直接、こちらに来たのだろう。
一馬も手に何か持っている。英士と結人はお互いをちらりと見やった。
不穏な空気を知らず、一馬が言う。
「安かったからみんなで食おうと思って。――スイカ」
ぐあっと結人が後ろにのけぞって、英士が小さく苦笑した。
どうしたんだと訊ねる一馬に二人揃って、背後を指さす。
「あ」
一馬のスイカに負けない大きさのスイカが一つ。仲間を見つけて、嬉しそうに床の上に転がっていた。
丸玉スイカが二つ。冷蔵庫に入る訳がない。新聞紙を広げ、ビニールを広げ、タオルを用意し、包丁を持ってきて切った。一馬の切り方は見ているだけで怖いと結人が文句をつけたので、途中から英士が交代した。なにしろ一馬の切り方は今にもスプラッタ映画になるのではないかと思わせるものなのだ。
「不器用」
「ほっとけ」
切ったスイカを抱えて縁側に出る。三人で食べる。スプーンなんて上品なものはいらない。おおざっぱにきったスイカに塩をかけて、かぶりつく。種は庭へ捨てる。
頭の中がスイカだらけになりそうだ、は結人。
スイカの脳みそ食べてるような気がしてくる、は英士。
こんなに食べて、トイレ近くなるだろうな、は一馬。
三者三様思いつつ、スイカを片づけていく。
「半分くらい、結人の家の人に残しておけばいいよね」
「まあね」
言いつつ、減る気配もないスイカ。なにしろ巨大なるスイカ一個半だ。汁気をたたえた赤い色が黒い粒々の種と重なって、笑っているようにも見える。
緑に波打つ黒い縦縞。つるつるした皮を両手に持って、しゃくしゃく三重奏で囓り続ける。食べ続けるのに飽きたのか、結人が一馬に種をぶつけ始めた。汚いから止めろと一馬が怒っても止めない。それで一馬が種を結人にぶつけ始めた。その種が英士の顔にあたった。英士は無言でスイカを食べ続け、口中に溜めた種を結人にお返しした。機関銃より怖いと結人は呟く。
どうせだからとのことで種とばしの競争をしてみた。連続噴射と単独噴射。二部門で英士が勝った。
「嬉しくないね」
「笑ってるぜ、英士」
親友の前では表情も緩むらしい。
したたった果汁と熟れすぎて、いつのまにか落ちた実のかけらには、蟻がたかっている。庭木が落とす濃い影と日に照らされて白々した地面。家々の瓦がきらめいて、風の音もない。ただ鳴き続ける蝉だけが夏の力の証明だろうか。
――静けさやスイカに染み入る蝉の声。
結人がもじると、英士も一馬も驚いた。
「お前でも知ってるんだ」
「すごい意外」
「失礼な奴らだな」
結人が憤慨しても誰も気にしない。
見てもスイカ、食べてもスイカ、飲んでもスイカの連続に、そろそろげんなりするころ、一馬がふうっと腹いっぱいの割には切なげなため息をついた。む、と英士が眉を顰め、結人がもしかして、と横目で見やる。
一馬は続けた。
「――ドイツって、スイカあるのかな」
「あー。言った! 一馬が言った!」
「まったく」
言わないようにしていた。思い出さないようにしていた。
いともたやすく沈黙を破ったのは一番、口の重かった一馬で、それゆえ英士も結人も半ば当然であるとして受け入れた。きっかけが欲しいのも確かだった。
こうなったら何も怖くないので、やけくそ気味に話題をそちらにうつす。
「うぉーたーめろんっていうくらいだから、あるだろ、スイカ」
「それは英語」
「英語だったらドイツ語にもあるだろ。ぼふぉっためろーんとか言って」
ドイツ語の発音を真似たらしい結人が自分で言って笑ったが、すぐに口をつぐんだ。
「あるかな」
一馬が問う。
「あるって」
結人が答え、問う。
「食べてるかな」
「食べてるよ」
英士が答えて、言う。
「スイカ好きそうに見えるけど」
結人も一馬も同意した。
「四分の一に切ったの両手に持ってさ、かぶりつきそうだよな。そういうとこありそう」
「そうか? ちゃんと切ったの喰いそうだけど」
「一馬は風祭に夢見過ぎ」
「そうそう。お前、ちょっとロマンチックすぎる」
「べ、別に俺は、風祭が先割れスプーンで喰ってるとか言わねえよ」
「ほらな」
「やっぱり」
「なっ、俺は!」
墓穴を掘った一馬をしばらくからかって、慰めて、またからかって、三人でじゃれ合っているとチャイムが鳴った。英士にうながされ、渋々、手を拭いて出て行った結人が、こぼれるくらいの笑みと弾む足取りで戻ってきた。
両手に箱を抱えている。何も言わないまま、にこにこ笑って、箱を差し出した。
異国のスタンプが押され、アルファベットが記されたひんやりした箱。差出人には見慣れた名前があった。
「あ」
「あ」
「な?」
噂をすれば何とやら。一馬の心が通じたものか、差出人の名前は風祭将。届いたのはソーセージ。おいしいので贈ります、と記されたカードが入っている。
「夜、うちでバーベキューしようぜ」
結人の言葉に異議は上がらない。
が、英士も一馬も、自分の所にはこないのかと心中ひそかに結人を羨んだ。そんな二人の家にもそれぞれ三十分遅れで、将からのお中元が届いている。喜ぶのは帰宅後になる。
とりあえず、最初の優越感を感じつつ、結人が提案した。
「俺たちもなにか贈ろうか」
「日本の名物がいいかな」
「名物……鮨?」
一馬の不用意な一言に、英士も結人も首を振る。
「腐る」
「発酵するでしょ」
「分かってるよ!」
名物ときいたから浮かんだ連想に、さすがにこれはないと恥じつつも、一馬は、では何が良いかと考え出した。
「梅干しなんて、ありきたりすぎるよな」
「米も向こうで買えそうだね」
「醤油もありそうだな」
あれやこれやと三人で相談し合う内に、手にしていたスイカも、後ろで切り分けられていたスイカも皮だけになり、庭には黒い種が散らばった。
夕刻過ぎには火がおこされて、蚊取り線香を焚きつつも網の上で大量の肉とソーセージと少しの野菜が踊る。
「うめー」
「うまい」
「おいしい」
明かりに虫がむらがって、煙にも負けない蚊に喰われ、こっそりビールを飲んだ。酔った勢いに任せて、少し切ない心情を吐露したりもしたが、肉焼く煙と匂いに混じってしまう。英士の唇噛む仕草も結人のぼんやりした眼差しも一馬のため息も、すべて夏の闇に消える。デザートとして出されたスイカはさすがに遠慮して、三人の夏の夜は過ぎていった。
――十五日後、ドイツの将の元にうどんと煎餅とスナック菓子が届いた。懐かしい日本の文字も、お返しの心遣いも将を喜ばせたが、何より将に笑顔を浮かばせたのは、三人が書いた、うまかった、の文字だった。
帰国するまで、あと一年。日本もドイツも夏の暑さはやわらいで、次の季節へと移ろうとしている。