よく晴れた日のことと記憶している。
つと、空を仰ぎ、慣れ親しんだ太陽を見いだしながらも、改めてその威容と恵みに気づかされる。ザハークが謁見に臨んだのは、それほどに美しい空が広がる日のことだった。
間近に見る女王の神々しいまでの美貌は、二十一の男には眩すぎた。艶麗な笑みに、優しくも気品溢れる声、すべてが神にも近しい女王にふさわしかった。
謁見の間を出たときには、さすがに目眩がしたものだ。
女王騎士長フェリドにも引き合わされたが、一体、かの女神も妻にするというのは男として、いかような心持ちなのだろうか。
何とも落ち着かない感覚を抱きながら、ザハークは女王騎士詰め所を出て、貴族たちに与えられている控えの間へと戻った。
大貴族ともなれば、個別に室を与えられている。ファレナ貴族筆頭ともいえるゴドヴィン家も例外ではなく、かの一族の権勢を示すかのように、その控えの間は、二間つづきの広い、豪奢な内装の部屋である。そこで、ザハークの後見役ともいえるゴドヴィン家当主、マルスカール・ゴドヴィンは黒檀の椅子に腰を下ろし、彼を待っていた。
片手に杯を持ち、何やら書面を眺めていたマルスカールは、ザハークが小姓に導かれて、部屋に姿を見せると、卓に書類と杯を置き、立ち上がって、彼を出迎えた。
小姓に杯をもう一つ持つように命じ、ザハークにも腰掛けるようにすすめる。
ザハークは礼をして、マルスカールの向かい側にある椅子に座った。
固く、冷たい印象を与えるザハークの横顔に何を感じたものか、マルスカールは微笑を浮かべた。
「陛下は、お美しい方であろう」
「は」
「あの方をお守りするのだ。若い男としては剣の奮い甲斐があるというものよ」
マルスカールはめずらしく諧謔の言葉を口にして、笑い声を上げた。
幾つかの事柄を確認したマルスカールは、ゴドヴィン派の貴族たちに引き合わせようと、席を立った。彼の後に続いて、王宮の広く、静かな廊下を行く。
訳もない身震いは、王宮という場が持つ長い時とそこに流れた血ゆえか。太陽宮と名付けられた宮殿もしかし、人の気配のない場所は、暗く沈んでいる。
敷き詰められた深い赤色の絨毯の上を音もなくマルスカールは歩んでいたが、途中、角を幾つか曲がった時点で、ザハークは彼を見失った。
ザハークは立ち止まり、周囲を見回したが通りがかる者はいない。歩いていく内に女官や兵士にすれ違うだろうと思い、ふたたび、ザハークは歩き出した。
どこをどう歩いたものか。宮と宮を繋ぐ回廊に出た。腰よりも低い壁は一面、モザイク模様だった。模様から察すれば、ファレナ開国の神話を模したものだろうか。
色鮮やかなそれから目を移せば、周囲には緑が広がる。どれも瑞々しく、匂いやかだ。どこかで鳥が鳴いているが、人の気配はない。
迷うと分かって、庭に足を踏み入れたのは、なぜなのか。すでに迷い込んだものの諦めでもあったのか。
少し歩くと、年月を経たうす茶色の煉瓦が敷かれた小道に出た。遊歩道を歩いていれば、どこかに出るだろう。
時折、立ち止まって、息をつき、周囲を眺め回した。疲れた訳ではなく、そうするほどに庭は広大で、美しかった。当たり前だろうが、ゴドヴィン家の邸よりも遙かに優れている。
三度目の小休止のとき、視界の片隅で何かが揺れた。人かとザハークは道を外れ、幾つかの繁みの間を縫って、見えた人影を追った。
開けた草地に出たとき、目がくらんだ。
光の下でいっそう眩い銀の髪が風に揺れている。なぜ女王が、と戸惑ったザハークだったが、それも一瞬だった。女王にしては、あまりに小柄だ。
見間違えたのは、さきほど目にした女王の面影が瞼に強く焼きついていたからに他ならない。
そこにいたのは、女王と同じ銀色の髪と、女王よりも明るい青色の瞳を持った子どもだった。幼い子どもの容貌というには、あまりに整いすぎ、美しすぎるその面に、ザハークは思わず、息を呑んだ。
長い銀色の睫毛が瞳をけぶらせ、視線をはっきりとさせない。そのせいか、どこか人ならざる雰囲気をたたえていた。
今にも消えそうな幻にも思える。顔だけをこちらに向けて、じっと動かない。
薄藍の肩揚げされていない単衣の左肩に一房だけ髪を緩く束ねて垂らし、後はそのまま背に流している。袖口をくくる紅色の紐と袖とが風に揺れ、若草にも似たすがしい匂いが鼻をくすぐった。
子どもは自分を見下ろすザハークを見返し、とくに驚いた素振りも見せない。
静かに見つめ返していた。こちらが身動きすれば、音もなく消え去ってしまいそうなほどに、その気配は静かだった。
淡い紅色した唇が動く。
「あなたは新しい女王騎士の方ですか」
幼いが、澄んだ美しい声だった。
「はい。今日より、女王騎士を務めさせて頂くザハークと申します」
胸に手を当て、ザハークは腰をかがめた。後から思えば、女王よりも間近で見たファレナ王族の美に、魅入られていたとしか思えなかった。直系王族の名、顔、年齢や性別などは、すべて覚えていたはずだが、まったく思い出せなかった。
いや、そうあるべきだという思いが強かったのかもしれない。
「――姫君、であらせられますか」
そのとき初めて、子どもの表情が動いた。
「違うんです。ごめんなさい」
申し訳なさそうな、そして悲しそうな顔だった。子どもの顔に浮かぶには、憂いが強すぎた。
「姫なのは妹です。ぼくは王子だから、おとこです。ごめんなさい」
「こ、これは失礼をいたしました」
王子は首を振る。跳ねた毛先が踊るように揺れた。
ザハークはその場に、膝をつき、目線を合わせた。青い目に自分の姿が映り、吸いこまれそうな心持ちになる。
「殿下」
大人にすら似つかわしくない、憂いを秘めた瞳とは対照的に、頬の線はまだ子どもだ。触れたら、きっと柔らかいのであろう。
王子は静かにザハークを見つめている。肩ほどにまで上げられたザハークの手にも、怯える素振りはない。
薄く開かれた唇から、白い真珠のような歯が見え隠れし、無心にこちらを見上げる瞳は、あどけなさの中に人を吸いつけ、とろかすようなものが感じられる。
指先に金色に透けたうぶ毛の気配を感じた瞬間だった。
凄まじい殺気が飛んできた。刃のような研ぎ澄まされた、重たくすらあるそれだった。
伸ばした手を宙にとどめ、ザハークはその場に凍りついた。背中に汗が流れるのを感じた。
王子が不思議そうに首をかしげた。
殺気が消える。
振り返ったザハークは、そこに意外な人物を見いだした。
女王騎士装束をまとう、男らしい眉目の顔立ちの男は、騎士長フェリドに他ならなかった。
「ファル、ここにいたか」
深みのある響き良い声音で言って、にっこり笑う。
両手がおいでというように広げられる。
王子の顔が輝いた。ふっくらした頬にえくぼが出来る。眼差しはまっすぐにザハークの後ろに立つフェリドに向けられていた。
「ちちうえ!」
弾んだ声で、王子が駆け出す。見送るザハークの目に銀色の髪がたなびくのが見えた。
フェリドも一、二歩、足を踏み出し、飛び込むようにして抱きついてきた我が子を抱き留めた。
「――また、遠くまで冒険に来たものだな」
「鬼ごっこをしてたの」
「そうかそうか」
両腕が伸び、軽々と抱き上げる。
抱き上げられた王子は、はにかんだ笑みを見せた。小さな手が支えを求めるように肩に触れてくると、フェリドが目を細めた。優しい横顔だった。
ファルーシュはフェリドからザハークへと視線を向け、彼が自分を見ているのに、もじもじしたようにうつむいたが、すぐに愛らしい声音で言った。
「ちちうえ、あの方は新しい女王騎士の方だそうです」
「ああ」
フェリドはうなずき、ザハークへと目を向けた。今の殺気は本当に、彼のものだったのだろうか、そう思わせるほどに、フェリドの眼差しは穏やかで、静かなものだった。
いつ、背後に近づいたのか、どこから見ていたのか。それを窺わせるものはどこにもない。物腰や佇まいは、武人らしく隙のない、きびきびしたものだが、剥き出しのぎらついた殺気は欠片もうかがえない。
「ザハーク」
声音にも、変化はなかった。
「息子のファルーシュだ。これから、何かと顔を合わせる機会も多くなるだろうから、よろしく頼むぞ」
言って、フェリドはファルーシュへと視線を移す。
「ファル、こちらは、今日、女王騎士となったザハークだ。ご挨拶を」
フェリドは一度、ファルーシュを下ろした。
ファルーシュはザハークを見上げ、生真面目な顔になった。
「ファルーシュです。ザハーク殿、お見知りおきを」
あどけない声であるが、そこには人の上に立ち、人に命じることを知る王族の響きがあった。
ザハークは胸に手を当て、頭を下げた。ザハークの礼を見て、ファルーシュは、ほんの少し面はゆそうに笑んだ。
フェリドは大きな手のひらをファルーシュの肩にそっと置いた。
「母上のところに行くか」
「はい」
笑みがいっそう深くなり、子どもらしい喜びを押さえきれないそれに変わる。フェリドはその頭を撫でると、ザハークへ眼差しだけ向けた。
「ザハーク、宿舎までの道は分かるか」
「はい」
「そうか。迷うなよ」
フェリドはふたたび、ファルーシュを抱き上げた。
「自分で歩けます、父上」
「よし、ではあとで、父と競争だ」
仲良く、この場から去ろうとする二人をザハークは見送った。
見送るだけでなく、動こうとした。背後を襲い、奪われた時間を取り戻そうかと、考えた。
フェリドはザハークが動く前に振り返り、わずかに目を細めた。微笑とも忠告ともつかない眼差しであった。
遠ざかっていく親子を眺め、彼らの姿が視界から消えてしまうまで、ザハークはその場にたたずんでいた。
手を挙げ、額を拭った。べっとりした汗が甲を汚す。袂から布を取り出し、手を拭うと歩き出した。
ほどなく、大きな遊歩道に出て、その側で庭木の手入れをした男を見つけた。
女王騎士装束を見て、男は丁寧に一礼した。彼に道を訊ね、王宮内に戻った。
貴族たちの集まる部屋へ向かおうと廊下を行く内に、呼び止められた。
「ザハーク」
マルスカールは咎める様子も見せず、彼の隣に立った。
「迷ったか」
否とも応とも言わず、ザハークは一言、言った。
「王子殿下にお会いしました」
フェリドの殺気のことは黙しておいた。
「――そうか」
マルスカールは不可思議な眼差しを浮かべた。
「では、御髪とお目の色を見たか」
「はい」
「ファレナの王族の血を凝り固まらせたようなご容姿であろう」
「行く末、頼もしき方とばかり」
ふっとマルスカールは笑む。
「姫君であればな。さぞかし――」
マルスカールの言葉は口中で消えた。どこに目と耳があるか分からぬ太陽宮であると思い出したのかもしれない。
彼は歩んでいく。その後ろ姿を追いながら、ザハークはふと振り返った。
誰もいない。王宮の廊下は、静謐な空気を保っている。
ザハークは口に薄い笑みを浮かべた。しかし、彼は女王騎士だ。女王と、その家族を、王族を守る騎士だった――王子もまた、彼が守るべき主人である。
どこか底冷えのする眼差しを浮かべ、ザハークは冷たい足音を立て、マルスカールの後に続き、己が定めの第一歩を踏み出していった。