王子の寝起きはしどけない。
色めいたことなど何一つ知らない、清らな心身であるというのに、共寝の翌朝を向かえた女のごとき、しどけなさが身から溢れる。
絡まらないように左肩でゆるい一つ結びにされた髪が、乱れがちに肩や首筋にうちかかり、そこから見え隠れする白い肌を、やけに扇情的に見せる。
見つめる己の目を戒めながらカイルは瞼を擦り、小さくあくびするファルーシュに笑みかけた。
「おはようございます」
「おはよう」
昨夜、夜伽を務めた騎士へファルーシュは寝起きゆえか、普段よりも柔らかさを増した笑みと口調で挨拶を送った。
もう身支度を終えているカイルに気づくと、両頬や目に落ちてくる髪をかきやり、早いなと呟く。
「そりゃ、護衛が寝坊したら話になりませからねー」
とは言いつつも、昨夜は遅くまでファルーシュとのお喋りに興じていたカイルだ。扉の向こうでも同室にいても護衛は護衛とばかりに、ファルーシュと自分のために、夜食や菓子、つまみに酒まで用意し、寝室にて、昼間なら女官らの目や耳があってできぬ話を王子に聞かせたのだった。
カイルとフェリドとがこっそり教えた酒の味は、まだ美味とは思えぬようだが酔いを心地よくは思うらしく、杯に満たされた果実酒をゆっくり飲んでいたファルーシュはやがてその視線をとろりとしたものに変えた。
その頃になれば、カイルの話に返ってくるのは眠たげな相づちになり、やがてカイルの胸にもたれかかると腕の中で寝息を立て始めたのだ。
自分の子どもっぽい振る舞いを思い出したのか、ファルーシュは恥じらいを厳しさに隠そうとした眼差しを浮かべた。
「だって、カイルは僕よりも遅く寝たのに」
不満そうに漏らすファルーシュにカイルは目を細める。王子がこうして感情を自分にぶつけてくれるたびに嬉しくなる。常日頃は人の和を乱さぬよう、穏和におっとり振る舞う少年の生身を見ればそう思わざるを得ない。ましてや、それが家族にも滅多にないとあれば。
「一応、護衛ですよー」
カイルが言うと、わかっているといいたげにファルーシュは彼を見やる。伏し目がちなその眼差しは匂いやかなものでカイルは、しばし黙り込む。
ファルーシュは主人であり、欲情など抱くべき相手ではあり得ぬと分かっていても、胸がどこかざわめく。
と、ファルーシュの指が伸びてきた。くすりと微笑するファルーシュに己の胸内を読まれた上でそれを許されたかとカイルは焦りと、もしやという期待を持ったのだが、ファルーシュの指は、ためらいもおののきもなく、そして、カイルの目元の上あたりに触れることはないままに、とどまった。
「忘れてる」
囁く声が睦言にも聞こえそうだ。カイルは戸惑った。
「忘れている…?」
同じ言葉を繰り返すと。ファルーシュのほっそりした指先は己の目尻を示した。
「紅がない」
「え――あっ」
言葉と仕草の意味することに気づいて、カイルは、身を起こした。慌てて、部屋の隅に置かれた姿見の前に立つ。鏡面が濃紫の布で覆われているのは持ち主が容姿に執着せず、身支度の際に、女官たちにうながされて眺める程度であるからだろう。
布を払えば、騎士服姿の己といまだ寝台に乱れ髪のままで起き上がった王子の姿が写る。
寝間着の裾を払い、すんなりした足を腿辺りまで露にして、ファルーシュは寝台から立ち上がる。少年らしい活発な動きだったが見つめるカイルには、悩ましいまでだ。
「忘れてるだろう?」
ファルーシュが面白げに尋ねる。
カイルはぼんやりしている自分の顔を眺め、ゆっくりうなずいた。
「……はい。忘れてますねー」
女王騎士の証しの一つでもある目尻に刷いた紅がない。カイルはふうっとため息をついた。
「ガレオンに知られたら怒られるよ」
からかうような言葉に、カイルは苦笑して、寝室の次の間へと出た。身支度に使った荷物はすべてこちらに置いている。あとで、宿舎の方へ女官が運んでいってくれる手はずになっていたが、その前に気づいて良かった。
革袋から、紅貝を取り出す。
女王騎士の目化粧のための紅は、とくに変わったものでもない。市井のものが使うような紅とは質が違い、持ちがよくしてあるのが特徴的なくらいだろうか。
ここでつけてもよかったのだが、カイルはそのままファルーシュの元へ戻った。
ファルーシュはまだ寝間着姿だった。寝台に腰掛けて、先に髪を梳いている。ゆるやかに波打つ髪に縁取られた横顔を眺めている内に、カイルは悪戯心ともつかない、何かを試したい欲求に駆られた。
「王子」
振り向いたファルーシュの側に膝をつく。
唇にとろけるような笑みを浮かべる。ファルーシュは大抵、この笑顔で警戒心を解いて、カイルの言葉を聞き入れてくれるのだった。
「目を閉じてくださいませんか?」
「え?」
どうして、と言いたげにカイルを見た後、ファルーシュは素直に両の瞼を閉じた。
「失礼しますねー」
ファルーシュの顎をとらえ、そっと固定すると、カイルは己の薬指に紅を付けた。
指で触れるファルーシュの唇はふんわりと柔らかく、あたたかい。淡い桜色の小さな唇を紅でゆっくりとなぞっていく。
唇の隙間からわななくような吐息が漏れる。それはカイルの指を湿らせ、紅の色をひときわ鮮やかにする。カイル、と吐息は告げていて、それでも言葉を漏らさぬファルーシュに、カイルは目を細める。
下唇を終えて、上唇へ。拒まないのはなぜだろうとカイルは己が手の中にあるファルーシュの面を眺める。ファルーシュが優しいからだ。リオンへの優しさとはまた違う優しさをもって、カイルに接する。
それは皆と同じようで、どこか違い、しかし、その違いの意味を、カイルもファルーシュ自身も推し量れない。
「はい、目を開かれて、結構ですよー」
唇に紅を塗りおえて、カイルは囁いた。
ファルーシュが目を開く。何をしたのか、と言いたげだったが、咎めだてする様子もない。それを危ういと思い、同時に、紅を引いたファルーシュに見とれた。
赤い紅だけで、艶が生まれた。少女でも、男でも持ち得ぬ、少年であるがゆえの性の曖昧さが生み出す蠱惑が、唇の赤さ一つで、妖艶なまでになる。おっとりとした態度に隠れていた眩いファレナス王族の血が匂い立つようだ。
「カイル」
唇から漏れる言葉ですら、紅の色を帯びたようだった。
「なんだか、変な感触だ」
「紅なんて、おつけになったことがないでしょうからねー」
「当たり前だ」
小憎らしげにカイルを眺めやる眼差しの何という妖しさ。背筋から腰に震えが降りて、それがカイルの心のどこかを駆り立てた。
「王子」
囁く己の声が、口説く女に呼びかけるときのものと酷似しているとカイルは気が付かない。
「ただ、拭き取るだけじゃ、もったいないですから」
ファルーシュの指が唇に伸びる。うっとうしいとでも言いたげな指先は白く、それが紅の赤さを引き立てる。
「もったいない?」
ファルーシュがくすくす笑う。顔を寄せて、カイルも忍び笑う。
「そうですよー。せっかく、塗ったのに」
「カイルが勝手につけたんじゃないか」
笑うファルーシュに、そうでしたっけ、ととぼけて、カイルは己の目元を指さした。
「ここに、くっつけてもらってもいいですかー?」
カイルが言うと、ファルーシュはまばたきして、手をカイルの手のひらにある紅貝に伸ばそうとする。その手をやんわりと拒む。
「ここに、紅はあるでしょう」
濡れたように赤い唇を示せば、ファルーシュの表情がふと変わる。
挑まれたのなら、真っ正面から立ち向かう。ファルーシュの雄々しさや凛々しさを知る者はまだ少なく、その一人であるカイルは、このようなからかいにも、真剣さを見せるファルーシュの稚さを胸が痛むような、甘い思いで眺める。
年上の狡さに気づかない、柔らかな心を噛めば、どのような血潮が吹き出るのだろう。
「目に紅が入っても知らないよ」
警告めいた言葉にカイルが微笑すると、ファルーシュは首を伸ばし、カイルの肩へと手を置いて、身を起こす。それから、護衛の騎士の目元へ唇を落とした。
言葉とは裏腹に、唇もカイルの肩に置く指先もわずかだが、震えている。強張った体の気配が伝わり、それを知ったカイルの胸には驚くほど強く、激しい衝動がこみ上げてくる。抱き潰してしまいたいとさえ思った。
ファルーシュの唇は目尻を撫でている。紅をつけているのだろう。感触はまるで、仔猫に鼻先をくっつけられているようだ。
体の横にあった手を上げ、王子の腰に添える。びくりと震えたファルーシュは、それでも唇を左の目尻に当て続けた。
唇から離れたかと思えば、次は右へ。カイルは間近にあるファルーシュの体温を感じ、芳しいまでの体臭を胸一杯に吸いこみ、陶然と目を閉じた。
唇が離れていく。はだけた胸元が、白い喉が、紅が乱れてついた口元が、ほんのり上気した頬が、どこか不安げな瞳が、順にカイルの視界に入る。
「……うまく、つかない」
ファルーシュがふいっと目を逸らす。
カイルは口元を笑ませ、手を伸ばし、その顎にそっと触れる。
「――唇が汚れましたね」
一瞬、カイルの唇が引き締められたが、彼はその指先で、ファルーシュの唇の周りの紅をそっと拭っただけにとどめた。
ファルーシュはむずかるように、首を振り、自分の手の甲で唇を拭った。泣き出しそうな横顔だった。
あえて見ないふりをするカイルは、明るい声を出した。
「お着替えにならないと、リオンちゃんが、そろそろお部屋に来ますねー」
うなずいたファルーシュは腰を上げ、帯に手を掛ける。
いつもどおり、手伝おうと手を伸ばしたカイルにやんわりと首を振った。
「一人でできるから」
「はい」
カイルは動かない。その場に立って、ファルーシュを見つめている。視線に戸惑ったようにファルーシュは視線をさまよわせ、結果的に、カイルを見返した。
「カイル」
ファルーシュは羞恥ゆえの固い声で、カイルの名を呼ぶ。
「やはり、目元の、紅は直した方がいい」
「はい」
それ以上、この場にとどまることを王子は許さないだろう。カイルは胸に手を当て、一礼すると次の間へと下がった。
ここにも姿見はある。布をめくり、鏡をのぞけば、乱れた目尻の紅が確かめられた。ぼやけ、あるいは、はっきりと唇の形を残し、細くもあれば、太くもあるその線は、ファルーシュの唇がどのようにあてられたかを如実に示していた。
指を上げ、カイルは己の目尻を、ファルーシュの唇の痕を撫でる。擦れた紅はぼやけ、滲んだのか、瞳がひりついた。じりじりした痛みを感じながら、紅のついた指を眺める。
唇にあてれば、紅の油っぽさを消すための香料の臭いと味がした。打ち消されてしまった本当の唇の味わいをカイルは探ろうとしたが無理だった。
もう一度、鏡を見つめ直す。映るのは、相手の優しさと無知に苛立ちつつも欲情する男の顔だった。己とファルーシュの心のように紅色に乱れた目尻をカイルはもう一度、撫で、熱い吐息を漏らした。