ファルーシュとうながすように名前を呼ぶと、少年の顔は思い切り、歪んだ。怖ろしいまでに整った造作だから、見苦しくはない。歪んでなお、美しい、というやつだ。
ファルーシュは首を振った。編み込めなかった髪がふわふわ揺れる。何度、櫛で梳いても毛先がはねてしまう柔らかい髪質は、今の心そのまま、右に左にふわふわと小さな円をくるんと描いていた。
もう一度、名を呼ぶと、かぶりを振る。左耳につけた飾りが大きく揺れ、かすかな音を立てた。
「いやだ」
ファルーシュは小さく、一語一語を噛みしめるように、言って、ゲオルグを見上げた。 唇がへの字になっている。ゲオルグが微笑すると、への字の角度がきつくなる。
腰をかがめて、ちゅと唇に口づけた。
「……ごまかされない」
しょうがないなとゲオルグはまた口づける。軽く舌を差し込んで、ファルーシュの舌を舐めた後、唇を離すと、ファルーシュが顔を赤くして睨みつけてきた。
「ゲオルグ!」
「唇を尖らせているからだ」
今度は頬を膨らませた。
ゲオルグは指を伸ばして、その膨らみをつつく。柔らかい頬をへこませて、包み込む。
口元は、まだ拗ねている。指先でつまんで、輪郭を辿った。唇がへの字になって、睫毛が湿り気を帯びた。
一番大きく、ぴょこんと跳ねた前髪をなでつけるようにしてやる。
きゅっとファルーシュの目が細くなる。いつも思うのだが、その様は、どこか猫科の獣を思わせる。まるで、優美でしなやかな姿態をもった獣を愛でているようだ。王族であるというのに、いや、だからこそなのか、この王子は内に激しいものを秘めている。ときにゲオルグでさえたじろがせる何かが。
しかし、今のファルーシュにその気配は薄く、ゲオルグの顔を妖しく、悩ましく、同時に凛とした清い眼差しで見上げているだけだ。
「……手紙書いてよ」
「ああ」
「約束だからね」
「分かってる」
「ゲオルグって、絶対、絶対、筆無精に決まってるから心配だ」
「努力しよう」
返事がお気に召したのか、ファルーシュの唇がほころび、両手が伸びて、ゲオルグの頬や唇を愛しげに撫でる。
触れてくる人差し指を唇で銜えると、一瞬だけ、今朝方までの名残である切なげな表情が浮かぶ。青い瞳を潤ませながら、それしか言葉を知らないように、ファルーシュは彼の名を幾度も呼んだ。触れられるゲオルグの唇も、言葉を覚えたての子どものように、ファルーシュの名だけを口にした。
ファルーシュが切なげに呟いた。
「浮気しないでよ」
淡い桜色の唇は動いていても可憐なのだが、次の言葉にゲオルグは黙り込んだ。
「ちょん切るからね」
薄く目を細め、ゲオルグをちらと見上げたファルーシュの瞳は怖ろしいまでに本気だった。どこか艶も含まれたその視線は、彼の母を思い出させる。今更ながらに、フェリドがかの女王に惚れた理由の一端を悟った。やはり、あの親友とは好みが重なる。
「ちょん切って、フェイタス河に放り込むからね。その後は、河を凍らせる」
紋章を宿した手をかざしての念押しにさしものゲオルグも冷や汗を流す。魔法に関しては使うのも使われるのも不得手な自分にそれを言うか。
動揺を何とか押し隠し、ゲオルグは低い声でささやいた。
「……お前も、浮気するなよ」
じわりとファルーシュの目が潤む。
「たぶん大丈夫」
その潤んだ甘い眼差しに見つめられるのも、ぎゅっと抱きつかれるのは嬉しいが、言葉には引っかかった。
「たぶん……?」
「うん、たぶん」
すっと目を細め、ゲオルグはファルーシュを凌ぐ剣呑な眼差しになった。
「――切り落とすぞ」
「……いいよ」
とろんとファルーシュの目が熱を帯びる。どうにでもして、と言いたげだ。
ゲオルグは喉の奥で軽く唸った。
可愛いのと小憎らしいのと欲情したのとで、しばし、言葉を考える理性を失ったのである。
いつもなら、建物の影か人気のない場所か、草藪に引っ張り込むのだが、残念ながらここは人の行き来のある港で、おまけに船の出航時間は近かった。せいぜい、いやらしく体を撫でて、ファルーシュの体をぐにゃぐにゃにとろけさせるくらいだ。
ぐったりと寄りかかってくるファルーシュの背中を、これは、そのような意図などない手つきで撫でる。ファルーシュは息を整えて、ふたたび、顔を上げた。
「会いに行くからね」
「ああ」
待ってるぞ、と笑うと、ファルーシュも笑んだ。
「死なないでよ」
「死なん」
あなたの場合、戦いで死ぬというよりも、糖分過剰摂取が原因の病死が心配なんだけれど、とファルーシュは思ったのだが、生真面目にうなずくゲオルグに、きゅんとしていたので、黙っておいた。
まだ目線を合わせてくれているので、それを幸いに、ファルーシュはゲオルグの顔に再度、触った。太く濃い眉を撫で、瞼に触れ、頬骨の感触を確かめ、頬の輪郭を辿る。朝や夜になると伸びている髭のちくちくした感触をファルーシュは指先でも体でも覚えていた。
しっかりした厚めの唇をなぞり、柔らかく押す。口角が上がっているからなのか、どんなときも、口の端が笑っているように見える。本当に大笑いしたときの顔も、闘いに挑むときの真剣な眼差しも知っている。
与え合い、分け合った男のすべてを脳裏に焼きつけ、己の皮膚に刻みつけた。
「――ゲオルグ、ありがとう」
声が震える。
「一緒にいてくれて、本当にありがとう」
金色の目が瞬いた。
「あなたに会えてよかった。一緒に過ごせて幸せだった」
ゲオルグはかがめていた身を起こし、ファルーシュの腰を掴むと抱き上げた。
驚きながらも、ファルーシュはゲオルグの肩に手を置いた。
見下ろしている彼の目が浮かべる心に切なくもなれば、嬉しくもなる。彼の中の自分の存在の大きさを確かめられるような気がする。
「ファルーシュ」
ゲオルグの目が細められる。ファルーシュの体は別れの悲しさからでなく、そのような眼差しで見つめられる喜びに震えた。
「お前がくれた言葉は、そのままお前のものだ。俺こそ、お前と出会えたことを嬉しく思っている」
「ゲオルグ……」
抱き合う肩越しに浮かべた眼差しは、互いには見えぬ。
そうして、最後の口づけを交わし終えた後には、別の道を行くと決めた者二人の静かな眼差しだけが浮かんだ。
桟橋から船に乗り込むファルーシュを見送り、一度だけ、手を振り合ってから、ゲオルグは港から離れた。
丘へと馬を急がせれば、帆を広げ、港から出て行く船があった。白い波頭が無数に浮かぶ中へと船は進み、やがてファレナと呼ばれる国の港へとたどり着くだろう。
いま、手放したぬくもりを思い出せば、胸の内は苦くすらある。しばしという形にした別れに世の無常を思い、遠ざかっていく船を眺める。
ふたたびの流浪、旅の空の下、いつかとだけの約束を胸に、ゲオルグはやがて、馬首を巡らせ、心の命じるままに、しばし馬を走らせたのだった。