入浴中



「父上と一緒だ」
 それが、ゲオルグと初めて、風呂に入ったファルーシュの一言だった。
 にこにこ笑って、湯の中のゲオルグの下肢を見ている。顔にあんまり邪気がないので、ゲオルグも気が抜けて、そうか、とだけうなずいた。
「いいなあ。おそろいだ」
「まあ、そう見えんこともないな」
 ほのぼのとした物言いに、呆れることもできなかった。
 のほほんとファルーシュは笑っている。
 王子は馬鹿な訳ではない。それどころか、かなり聡明な、考え深い性質であると思う。それでも、たまにこちらの度肝を抜いてくれるような発言や行動をしてくれる。方向性は違うが、そこはフェリドに似ているようにも思えるし、それとも、いまいち、掴みにくいあの女王である母にも似たのか。
 ファルーシュは楽しそうに言う。
「カイルも、もじゃもじゃなんだけど、色が違うんだ」
「そうだろうな」
 俺は何を呑気に、この王子のこんな会話に付き合っているのだろうとゲオルグは考えたのだが、皮膚に染みてくるような柔らかい湯の温度に、そのような真面目な考えは似合わぬ気もした。
 王族の湯浴み用の湯は、地下から湧き上がるという温泉水を使っているだけあり、なかなかに良質だ。思えば、王子に一緒に風呂に入ろうと誘われたときから、その調子に巻き込まれていたのかもしれない。
 しかし、こうも気軽に臣下に風呂に入ろうと誘う王族は初めてである。赤月帝国時代にも王子と共に湯浴みしたことはあったが、あの場合は内乱の最中だったし、王子ももっと年かさで、主というよりも、戦友に近い立場だったから、こうも戸惑うことはなかった。
 目の前をぷかぷかと通り過ぎていったあひるに、ゲオルグはううむと眉間に皺を刻んだ。ファレナの王子がただ者ではないのは明らかだ。だがしかし。
「……こうして、気軽に皆と風呂に入るのか」
 先に出てきた金髪の騎士の名を思い出し、ゲオルグは訊ねた。
 ファルーシュはおっとりと首を振る。
「ううん。カイルや父上とだけだ」
 それに俺も入ったという訳だなとゲオルグは思う。何となく、そこに、あの堅苦しい女王騎士の一人が入っていないのに納得した。納得したと同時に、何かを残念に思った。何をだろうかと思ったのだが、ファルーシュがこちらを見上げて、少し首をかしげたので、そちらに気を取られてしまう。
「昔は母上や叔母上、それにリムとも入っていたけれど、さすがに、今はね」
 はにかんだように笑うファルーシュは目に毒だ。
「……確かに」
 眼をあらぬ方へやろうとしたゲオルグは己の行動の意味するところに気づいて、なぜ、そうしなければいけないのかを考えてみた。特に理由はない。
 ならばと、改めてファルーシュを見れば、やはり、目をそらした方がいいような気もした。
 濡れた髪を紐でくくり上げて、わずかに肩口を湯の上へ出しているファルーシュは、男とも思えぬ、色香がある。抜けるような白い肌が火照って、薄紅色に染まっているのを見れば、何とも妙なざわめきが体の中を過ぎる。
 考えれば、この国に来て、一月は軽く経ったが、何だかんだと雑事に追われて、そちらの方は構っていなかった。そのせいもあるだろう。
 それ以外、どんな理由があるのか。しいていうなら、この顔が悪いと思って、ファルーシュ眺めれば、伏せた睫毛のその長さ、上気した頬のなめらかな輪郭、甘く濡れ光る唇の赤さ。細い首筋に、濡れた後れ毛がからみついているのが、これまた――。
 ゲオルグはため息をつきながら、湯船の縁に寄りかかり、両手を出した。
 ファルーシュはまたもゲオルグを見てほほえむ。視線が自分の両脇にあるので、何を言いたいかを悟った。
「フェリドと同じか」
 ファルーシュは嬉しげにうなずいた。
「でも、胸毛は父上の方が多いと思うな」
 ファルーシュはざぶざぶとお湯をかき分けて、ゲオルグの側に近づいた。
 胸の先に桃色の花弁でも置いたかのような小さな乳首が見え、膨らみなどまったくない薄い少年の胸であるにも関わらず、ゲオルグは目を浴室の天井に上げた。
 まずい。意識し始めると、まったくもって怪しからぬ。
「ファルーシュ」
「はい」
「あまり側に来るな」
 途端、殴られでもしたかのようにファルーシュの顔が歪む。謝りながら離れ、上がろうとするので、ゲオルグは慌てて止めた。あの腰骨のくぼみもまずいのだ。臍もいい形をしている。
 あらぬ方へと行きかける考えを引き戻しつつ、言葉を続ける。
「違うぞ。お前と入るのが厭な訳ではない。これほどに広い風呂だ。手足を伸ばして入ってみたくなっただけだ」
 本当、と言いたげに、ファルーシュがゲオルグを見つめる。この王子は、人に拒まれるということに非常に敏感だ。それと察すると、音も立てずに去ろうとする。一度、去れば、呼び戻すのは非常に難しい。
 安心させるようにうなずき、そうだと目で言うと、ファルーシュははにかんだ笑いを見せて、ふたたび湯に体を沈めた。よし、それでいい。後は、この王子様よりも先に風呂から上がるか、上がらせるかのどちらかだ。
「ゲオルグは手足を伸ばしたいと言っていたね」
「ああ」
「でも、僕は、もう少しゲオルグの側に近づきたいので、どちらの望みも満たせる、いい考えがある。ただ、多少、ゲオルグの我慢が必要だ」
 言い終えたファルーシュは、すいっと泳ぐようにしてゲオルグの側に近づいた。
 ゲオルグは目を剥く。ファルーシュが膝の上に乗ってきたのだ。つるん、ぺたん、ぷに、ふわん、何かそういう擬音でもしそうな体だった。
「これで、ゲオルグは手足を伸ばせるし、僕はゲオルグの側にいられる。お得だろう?」
「いや、その、お前……」
「父上が教えてくれた方法だ」
 フェリドの奴。ゲオルグは友を心で罵った。
「何か、変だろうか?」
「……いや。ただ、確かに、我慢が、必要だな」
 ファルーシュはすまなそうな顔を見せる。
「重たくなったら遠慮せずに言って欲しい。すぐにどくから」
 重いどころか――ゲオルグはため息をつくと、手を伸ばし、ファルーシュの腰を抱いた。どうせなら、楽しむ方がいいだろう。このようなことを教え込む父親が悪い。
 まったく、この王子様は、肌の感触まで、極上ときている。湯の中にあって、なお、吸いつくような感覚が指先にあるのだ。
「くすぐったい」
 ファルーシュが目を細める。こめかみのあたりで、くるんと無邪気に髪の毛が跳ねている。思わず、指を伸ばして、絡めると、ファルーシュはまたも、くすぐったいと笑った。
 別に嫌がる様子はない。そのまま頬の輪郭を辿ると、今度は気持ちよさそうに目を細めた。
 まずい。これはまずい。思うが、ゲオルグの指は止まらない。そのまま顎の下をくすぐる。ファルーシュはうつむくようにして笑った。睫毛に小さな小さな水滴がついている。
 笑うファルーシュの顔は湯煙で、なおのことふんわりして見えた。これは何の匂いだろう。甘い、それでいて、涼やかな、不思議な匂いだ。もっと嗅いでみたい。顔を近づける。
 ああ、ファルーシュの体臭か。なんともいい香りだ。こめかみに口づけたところで、ゲオルグは我に返った。
「……」
 ファルーシュはきょとんとゲオルグを見上げている。何でもないように顔を遠ざけ、ゲオルグは軽く、咳払いをした。
 ファルーシュはまばたきしたが、不思議には思わなかったようで、憧れの眼差しでゲオルグを見やった。
「早く、僕も父上やゲオルグのように、なりたいな」
 ゲオルグは、たじろいだ。いや、それは無理だろうと否定するには、ファルーシュの横顔は夢と希望に満ちあふれていた。
「父上が、立派な男には、立派なもじゃもじゃができるものだと話してくれた」
 吹かなかった己を偉いとゲオルグは思った。
「僕も立派な男になりたいと思う」
 勇ましいことをいうファルーシュの横顔は、しかし、あの護衛の少女の方が凛々しく見えるほどに、優しく、甘い。
「なんといっても、ちょっと腕を動かすだけで筋肉が盛り上がり、触ると固いというのが、いいんだ。傷というのも歴戦の強者の証しで素晴らしいと思う」
 そうかと相づちを打ちつつ、ゲオルグはファルーシュを横目で観察した。すんなりとした若竹のような首、広くはない肩幅、傷や染みが一つもない、柔らかでなめらかな皮膚が包む体は、触れた限り、骨細ではないにしろ、あのフェリドの血を引いているとは思えないほどにきゃしゃだ。やはり、数百年も続く王族の血は強い。あれほどにしぶとい男の血を美しくも残酷に打ち消してしまっているのだから。とすれば、この髪質や妹王女の髪色は、フェリドの努力の証しといってもいい。
 髪を撫でると、ファルーシュが父上みたいだと言って笑う。人前ではそうでもないが、なかなかにこの王子様も父親には甘えているようで、ほっとする。フェリドも嬉しかろう。
 手のひらを探ると、ファルーシュは自分の手とゲオルグの手を重ねてきた。
「ゲオルグの手は、大きいな」
 戯れにとゲオルグが指先を絡めてみても、動じる気配はない。フェリドの親馬鹿ぶりがうかがえて、ゲオルグはファルーシュに聞こえぬようにふっと息をついた。
 ファルーシュの手は武術を嗜んでいるために、手のひらは固いが、その指形は繊細だ。桜貝のごとき爪が自分の指やその間、手のひらを動いているのを眺める気分は決して悪くない。しかし、女も羨みそうな手だ。この手に三節根の緋色は映える。細身の剣を握っても、錦絵のごとき美々しく、凛々しい若武者ぶりだろう。
 女王が扱っていたというだけあり、あの三節根はどちらかといえば、膂力のある者が振るう武器ではない。むしろ、その逆だ。
 思いも掛けぬ動きで相手の目を惑わし、隙をついて打ち込む。あるいは、武器を絡め取り、また、急所をつく。それは体力や力には恵まれぬ者の当然の戦い方である。もう一つ考えられる、力のままに打ち据えるといった使い方は、この腕では無理だろう。
 ゲオルグがファルーシュと同い年の時には、横にも縦にももっと幅があった。武器は剣で、確かに大人のものよりは、軽く、細身のものを選んでいたが、おそらく、王子の筋力では、当時のゲオルグが扱っていた剣を持ち上げられはしても、振るう力はないだろう。
 しかし、ファルーシュの理想は、フェリドか、ゲオルグなのである。せめて、カイルと言ってくれればまだ、言いようがあるかもしれないが。
「……ファルーシュ」
「はい」
「精進しろ」
「はい」
 嬉しそうに笑うファルーシュは、やはり、柔らかく、いい匂いがして、ゲオルグは、今日の夜を思い、何とはなし、ため息が出た。
「重い?」
 ファルーシュが体をずらそうとする。案の定というべきか、手を滑らせて、ゲオルグの胸に寄りかかってきた。
 ファルーシュには聞こえぬようゲオルグは喉の奥で、唸ってみた。
 くっついている。それが不快ではない。
「ご、ごめんなさい」
 顔を赤くしたファルーシュが体を起こそうとする。慌てているのと湯質が幾分、ぬるついているせいもあって、またも手がゲオルグの腿の上を滑った。
「あっ」
「うっ」
 ファルーシュとゲオルグは同時に声を上げ、さらにファルーシュは謝った。
「ゲオルグ、ごめんなさい!」
「いや、大丈夫だ」
 手を挙げ、ファルーシュを制して、ゲオルグはそのまま手をファルーシュの両脇に差し入れるとひょいと己の膝の上から隣へと動かした。
「顔が、赤いぞ。もう上がった方がいいな」
 きょとんとしていたファルーシュは、すぐにうなずき、静かに湯から立ち上がる。
 肌の上を雫が撫でて、したたり落ちていく。横目で見ながら、ゲオルグは手足を伸ばした。今くらいなら、放っておけば、収まるだろう。しかし、思春期の少年でもあるまいし、情けない。
 ゲオルグの状態も感慨も知らず、濡れた足音を立てて、ファルーシュは浴室から出て行った。
「……」
 そこで、ゲオルグは、カイルとフェリドの名前が出たとき、一体、何を残念に思ったのか、思い当たった。ファルーシュが初めて一緒に風呂に入った男が自分でなくて、残念に思ったのだ。
「参ったな」
 それだけ呟くと、湯から上がり、冷水を幾度か、体に浴びせて、浴室を出た。案の定、ファルーシュは着替えの途中だった。ゆったりした寝間着姿は、普段の服装と同様に襟ぐりが深く取られ、裾も袖もゆったりしたものだ。上気した頬と肌が、よく見える。
 ゲオルグも簡素な衣服の上下に着替えた。王子を寝室まで送っていかねばならぬだろう。
 ファルーシュはゲオルグを待つ間、籐椅子に腰掛けて、用意されていた冷水を飲んでいる。美味しそうにふうっと息をつくファルーシュに、ゲオルグは我知らず、微笑した。無邪気なものだ。
  いつか喰われるぞとゲオルグは、水を勧めてくる王子に、ふと目を細めた。
「ゲオルグ?」
 男の獣めいた視線にも気づかず、ファルーシュは信頼しきった眼差しで見返す。
 側に近づき、水が注がれた杯を受け取る。
 ファルーシュの頭を撫でて、言った。
「――また、誘え」
 ファルーシュは唇をほころばせ、うなずいた。
 まだ、清らな、汚れないその心は、それゆえの誘惑を持ち得る。ゲオルグの感慨のまま、ファルーシュの笑みはどこまでも、無邪気で、無防備で、それゆえに蠱惑的だった。



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