誰が言い出したのか、サトシはよく覚えていない。
いつの間にかそういうことになっていたのだ。
そういうこと、というのはエイプリルフールである。
4月の一日の嘘は許される。この習慣により、サトシは毎年シゲルに騙され続けてきた。それこそ、初めてあったときから、最近に至るまで何度となく騙され続けて、騙されまいと思うほどに騙されてきた。もうイヤになるくらいに騙されるのだ。
嘘が顔に出るサトシと違って、シゲルは平気な顔でとんでもない嘘をつくから、サトシはついつい騙されてしまう。
エイプリルフールの二日前になると、サトシはその日のことを考え、今年こそシゲルの言うことは信用しないでおこうと決意する。だが、必ず、騙される。そうして、今度こそは、と誓うのだ。
今年も、今度こそ騙されない、とサトシは決意したのだが。
「――バカね、騙される前に騙すのよ」
サトシの決意にカスミがこう言った。
「そう。攻撃こそ最大の防御なりってね」
タケシがうなずいた。
「でも、俺、あいつを騙せたこと一回もないぜ」
「それはしょうがないわよ。サトシだもん」
カスミはあっさり言ってのけ、なんだかイヤな雰囲気の笑みを見せた。
「だからね、サトシじゃなくなって嘘をつけばいいのよ」
――サトシは思い出した。言い出したのはカスミで、実行したのはタケシだ。
用意されたのは金のカツラ、ふわふわしたドレス、大きなリボン、白い靴下、黒の靴。
タケシとカスミが笑顔を浮かべる。
「さ、やってみようか」
どうしてあそこで逃げ出さなかったんだろう。サトシは、あの瞬間の自分を呪った。
(俺のバカ……)
こんなピエロみたいな格好で、シゲルが騙されるわけないではないか。
肩から落ちてくる金の髪をかき上げて、サトシはため息をついた。
下を向けば、裾にレースの飾りがついた可愛らしいドレスが見える。黒く光る靴も見える。
「バカみたいだよなあ……俺が一番、四月バカじゃないか」
サトシは、なんだか情けなくなって、シゲルの家に向かう道からそれると、近くの茂みの影に座り込んだ。
結果を聞きたがってタケシとカスミがまだ家にいるので、夕方頃まで時間をつぶそうと思ったのだ。
足を投げ出してぼうっとしていると、なぜかシゲルの顔が思い浮かんでくる。
「やだなあ……こんな格好見られるの」
シゲルのことだから、一度でサトシのことを見破って大笑いするに決まっている。カスミとタケシはシゲルとのつきあいが短いから分からないのだ。
サトシは空を見上げて、またため息をつこうとしたが、スカートの上に何か柔らかいものが振ってきたので、驚いて声を上げた。
「わあっ!」
サトシのスカートの上で、イーブイが無邪気な目をまたたかせる。
「えっ?」
「イーブイ!」
茂みを揺らしながら、イーブイの主が姿を見せた。もちろん、シゲルだ。
イーブイはサトシのスカートからシゲルの肩へと駆け上がっていく。
サトシは体中を強張らせ、シゲルがさっさとここを去ってくれることを願った。できることなら自分だとは気がつかない内に、だ。
ところが、イーブイを撫でたシゲルはじっとサトシのことを見つめだした。
何気なく顔をそらし、サトシは冷や汗をかいた。
(早く、行ってくれよ……)
「君、どこかで会ったことある?」
サトシの胸が飛び跳ねた。
「さ、さあ……」
なるべく高い声で応える。
「いや、会ったことあるよ」
シゲルは膝をついて、サトシと同じ目線になると、サトシのうつむいた顔をじろじろと眺める。
「どこで会ったんだろうなあ……」
「気のせいだってば」
サトシは立ち上がった。
「そうかな」
シゲルは膝をついたまま、サトシに向かってほほえんで見せた。いつものサトシには見せてくれないような優しそうな笑顔だった。
(う……なんだよ、なんでこんな顔するんだよ)
「初めてあった気が全然、しないんだ」
膝の草を払って、シゲルも立ち上がる。
「今からお茶でもどうかな? おいしいお菓子があるんだ。――もちろん、君さえ良ければってことだけど」
サトシはもちろん断ろうと思っていた。行けるはずがない。
けれど、なぜか首をこくりとうなずかせていたのだ。
「ありがとう。家まで案内するよ」
手を差し出されて、サトシは真っ赤になり、さっさと一人で歩きだした。くすりとシゲルが後ろでほほえんだ。
「どうぞ」
笑顔とともに差し出されたのは、温められたティーカップに注がれた紅茶だ。
「ストレートの方がおいしいと思うけど、お砂糖を入れた方が好み?」
シゲルは如才なく、砂糖の入った容器をサトシに進めた。
オーキド家の自宅の方の居間に通されて、シゲルのもてなしを受けているサトシだった。
「おいしい!」
シゲルが手渡してくれた莓の乗ったカスタードパイを一口食べて、サトシは感嘆の声を上げ、あわてて下を向く。
「口にあってよかった。こっちもおいしいからどうぞ」
一口大の小さなケーキの盛られた銀皿を指し、シゲルはカップを傾けた。
その優雅な仕草に、サトシはちょっとみとれかける。
テーブルの上は、さながら小さなパーティでも開けそうなほどのお菓子で埋められている。皿に盛られたクッキーやサンドイッチ、タルトやパイ、色鮮やかなお菓子は、味も最高だった。
シゲルの入れてくれた紅茶を、砂糖は入れずに飲んでから、サトシは上目遣いでシゲルを盗み見た。
(気づいてないのかな?)
勘のいいシゲルらしくもない。タケシの腕がいいせいなのかなとサトシは思い、ほくそ笑んだ。
(これなら、シゲルのこと騙せるかも……)
安心したサトシは、それでもできるだけおしとやかに振る舞いながら、お菓子を食べ、シゲルと午後のひとときを楽しんだ。
正体をいつばらそうか、それともばらす前にもうひとつ何か嘘をついてやろうか――考えるだけでうきうきしてくる。
時計の鐘が四時を打ったところで、シゲルが立ち上がった。
「いいもの見せてあげようか? 君はポケモン好きかい?」
「大好き!」
「じゃあ、きっとおもしろいと思う」
シゲルの後に続いて、二階へ上がる。
「僕の部屋だよ」
(そんなこと知ってるもんね)
サトシはシゲルに聞こえないようつぶやいて、幼い頃何度も出入りした部屋へ入る。
記憶の中とそこまで内装は変わっていないが、ぎっしりつまった本棚などが、なんとなくシゲルの成長を物語っている。
「ほら、これ」
書棚の一番下から、大きな本を取り出すとシゲルはそれを広げた。
「ポケモンたちを色々な画家が描いた本なんだ」
「わあっ――!」
目の前に広げられた色鮮やかなポケモンたちの絵にサトシはため息をもらした。どのポケモンも画家たちの才能のせいか、本物とはまた違った魅力がある。
シゲルに勧められ、ベッドに腰掛けたサトシは頁を繰るたびに、ため息や声を上げながら、その鮮やかな絵に見入っていた。
ふと気がつけば、シゲルの顔が思ったよりもずっと近くにある。大人びた横顔の線や、日焼けした肌にサトシの胸が高鳴った。
とまどって目をそらそうとしたサトシだったが、それよりも早くシゲルはサトシを見つめていた。
「あ……」
シゲルが顔をかたむける。どうしようと思う間もなく、シゲルの唇が重なってきた。
触れるだけの優しいキスだったが、サトシは体を強張らせて、視線をさまよわせた。
「大丈夫」
シゲルが耳元でささやいて、サトシをゆっくりベッドへ横たわらせた。
「ちょっ……」
サトシの声を封じこめるようにして、シゲルの唇がやや強引にサトシに口づける。
滑り込んできた舌に、さすがにサトシも抵抗を始める。
「止めろって――あっ」
シゲルの手が胸のリボンをほどくと、隙間から忍び込んできた。熱く火照る自分の体と違って、シゲルの指は心地よいくらいに冷たい。
胸の先をつままれて、サトシの背をくすっぐたいようなむずがいゆいような不思議な感覚が上がっていく。
シゲルの歯が、サトシの耳たぶを甘く噛み、サトシは目を閉じて瞼を震わせた。シゲルが耳元で小さく笑い声をもらす。
シゲルにされるがままになっていたサトシだったが、さすがにもがいたせいで乱れたスカートの裾からシゲルの手が這い上がってきたときは、体を離そうと暴れた。
「離せってば!」
「本当に?」
シゲルがおもしろそうに言って、サトシに視線を向けた。
「僕を騙すんじゃなかったのかな? サートシ君?」
「!」
シゲルの目はからかうような光を浮かべている。
「ダメだなあ。もう少し我慢したところで、俺はサトシだって言えば、騙されたふりくらいしようと思ってたのに」
ばれていた。それも最初からだ。
「そんな格好までして僕を騙したかったのかな? ん?」
シゲルはおかしくてたまらないといった様子でサトシに顔を近づけた。
恥ずかしさと怒りとでサトシは真っ赤になった。こんな女物のドレスまで着て、シゲルを騙そうとした自分をシゲルは最初から承知していたのだ。
自分があまりにも情けなくて、情けなさすぎて、言葉より先に涙がこぼれた。
「うっ……ひっく」
しゃくり上げるのを必死でこらえる。シゲルの顔が涙の向こうにぼやけていく。
シゲルはサトシを見つめていたが、額をこつんとサトシの額にくっつけた。
「……ごめん、言い過ぎた」
「るさいっ! バカにしてたくせに!」
「ごめん」
シゲルはもう一度謝ると、言いにくそうに口を開いた。
「――だけど、楽しかったのは本当だ。お茶を飲んでるときも本を読んでるときも、……キスしたときも、その、どきどきしてたのは本当なんだ」
「なんだよ、それ」
サトシはまだ顔を涙でぐしゃぐしゃにしていたが、乱暴に目をこすって聞いた。
「どきどきって、俺のこと騙してると思ってどきどきしてたのかよ」
「そうじゃなくて」
シゲルは気まずそうに、ちょっと視線をそらせた。
「分からないか?」
「なんだよ、はっきり言えよ」
サトシは眉を寄せた。泣かないようにこらえていないと、またすぐに涙が出そうだ。
「……今日、エイプリルフールだったな」
シゲルはせき払いをした。
「今から嘘をつくからな、サトシ」
「?」
「僕は、サトシのことが大嫌いなんだ」
サトシはまばたきして、シゲルの赤く染まった頬と言葉の意味について考えた。
シゲルが今、言ったのは嘘だ。だったら、どうなるのだろう?
――意味を悟って、サトシの頬がシゲル以上に赤くなる。
「分かったか」
「い、一応……」
「ならいいんだ……」
二人は見つめあったまま黙り込んだ。
「な、なあ」
サトシがまばたきして、とまどったように言った。
「あれは、どういうことだったんだ?」
「あれ?」
「……キス、したりとか、触ってきたりとか……」
「それは、したかったから」
シゲルはあっさり答え、呆気にとられたサトシの頬にキスした。
「止めろってば!」
シゲルの手が、ふたたび体を探り始めたのでサトシはシゲルを押しやりながら、自分も起きあがろうとした。
「イヤなのか?」
「そういうことじゃない!」
シゲルから離れて、とりあえずくしゃくしゃになったドレスを直す。
「なんで、嫌いとか嘘ついたときは真っ赤になったのに、キスしたりするときは平気な顔してるんだよ?」
「……さあ? そう言われればそうだよな」
シゲルも確かに不思議だった。サトシに気持ちを打ち明けることほど、照れくさく恥ずかしいことはないのに、キスしたり触れあったりすることはとくに恥ずかしくはない。
むしろ考えるより、先に手が出てしまうのだ。
「と、とにかく俺は帰る!」
サトシがばたばたとドアに駆け寄る。
「サトシ」
ひょいとシゲルが後ろからサトシを抱きしめた。
「なっ」
シゲルの腕の中にすっぽりと、じつに簡単にサトシは収まった。
「離せっ!」
「しょうがないなあ、サトシは」
サトシはシゲルの息が耳に吹き込まれるたびに、腰の辺りが妙にむずむずするのをこらえていた。
シゲルは名残惜しげにサトシの耳元でささやいた。
「――でも、今度は諦めないからな」
言葉とともに耳たぶが甘噛みされ、サトシはその場にしゃがみ込みそうになった。
それを支えて、立たせると、
「じゃあ、気をつけて」
シゲルは憎たらしいほどさわやかな笑顔で、サトシを送り出した。
「今日はいいものを見せてもらった」
途端に、頬を真っ赤にして走っていくサトシを見送って、シゲルは微笑すると扉を閉めた。
待ちかねていたカスミとタケシには適当に返事を返し、めずらしくそれ以上サトシは何も喋らなかった。
ぼんやりした様子で部屋に戻るサトシに、さては騙されたのはサトシの方かと、タケシとカスミは思ったが、もちろんそれは違った。
(あいつ……)
サトシは机に頬をくっつけて、無意識に唇を押さえていた。
気になる言葉が一つ。
(――でも、今度は諦めないからな)
今日はエイプリルフール。あの言葉が本心なのか、ウソなのか……。
サトシは思い悩んだ。本心でもウソでもどちらでも困る。
どうしてほしいのか分からないサトシをよそにエイプリルフールの夜は静かに終わっていく。
――つけ加えれば、シゲルの言葉が本心から出たものか、エイプリルフールにことよせたウソだったのかは、サトシもすぐに知ることになる。