うたたね



 ハナコが作ったアップルパイの熱さをバスケット越しに感じながら、サトシはオーキド家の玄関前に立っていた。いつものようにオーキド博士とシゲルへお裾分けに来たのだ。
 ドアベルに手を伸ばして、チリンとひとつ鳴らしてからサトシは待った。
 小鳥が鳴いた。ドアは開く気配すらない。 サトシは首をかしげながら、もう一度ベルの紐を引っ張った。
 今度は少し、大きめに鳴らす。
(あれ……?)
 誰も出てこない。風が優しく庭の緑を揺らすばかりだ。
(今日は家にいるっていったのに……!)
 サトシがむっとしたように頬を膨らませる。いつも研究棟にいるオーキド博士が出てこないのは分かるが、今日一日家にいると言っていたシゲルがいないのはどういう訳なのだ。
 サトシはバスケットを落とさないように片手でしっかり抱えてから、ドアを少々乱暴に叩いてみた。
「シゲル! シゲル! いるんだろ!」
 大声で叫んでから耳を澄ませてみるが、ドアの向こうは静かなままだった。
「くそっ。なんだよ、シゲルのやつ!」
 期待していたぶん、落胆が激しく、サトシは思いきりよそ様の家のドアを蹴り飛ばした。ハナコがいたなら怒られるところだが、ここにはサトシしかいない。
 あきらめて帰る前にもう一度と思い、ドアをけっ飛ばすと、あっさりと開いてしまった。
「……あれ?」
 サトシはドアを壊してしまったかと焦ったが、そうではなくもともと開いていたドアがサトシの蹴りの勢いで開いただけのようだった。
「なんだ、ドア開いてたんだ」
 ほっとしてサトシは、オーキド家の玄関に入ってみた。
「あの、シゲル?」
 家の中に入ったら入ったで、なんだか悪いことをしているような気がして、シゲルを呼ぶ声も小さくなるサトシだった。
 長い廊下を進んで、居間の近くまでやってくると、シゲルの姿がちらりと目に入った。
 サトシは自分では気がつかなかったが、嬉しそうな顔で居間に入る。
「シゲ――」
 大声を出しかけた口をはっと抑える。
 サトシが玄関でベルを鳴らしても、騒いでも出てこないのが当たり前だった。
 大きなソファーに寝そべるようにして、シゲルはぐっすり眠っていたのである。静かに上下している胸の上に、読みかけのものらしく開かれたままの本が載っていた。窓からの風がカーテンをはためかせ、本のページをめくっている。
 サトシは足音を忍ばせて、テーブルの上にバスケットを置くと、シゲルの顔をのぞき込んでみた。
(本当に寝てる……)
 自分を騙すつもりで狸寝入りでもしているのかと疑っていたのだが、シゲルは本当に眠っているようだ。
 サトシはじっとシゲルの顔を見つめた。 こんなに無防備なシゲルを見るのは初めてのことだった。
 影を落とす睫毛やきれいな鼻筋、穏やかな呼吸の洩れる唇――見とれていたことに気づいてサトシはなんだか恥ずかしくなった。
 頬が熱くなる。照れをごまかすためにサトシはシゲルの鼻をつまんでみた。
「……」
 シゲルの顔が眉を寄せる。しばらくつまんでいるとシゲルはうーんと呻きながら、横を向いた。サトシは手を離して、シゲルの顔をもう一度のぞき込む。
(まだ寝てる……)
 かなり深い眠りらしく、起きる気配はなかった。サトシはいたずらっ子の笑みを浮かべ、今度はシゲルの頬をつまんでみた。
 横に広がったシゲルの輪郭にサトシは吹き出した。笑い声を上げるのを必死でこらえ、上や下へ頬をつまんだまま、動かしてみる。
(――変な顔!)
 目を開けているときのシゲルからは思いもよらない奇妙な表情に、サトシは大喜びであった。調子にのって、今度は瞼をあっかんべえの形にしてみる。
(――ぷっ!)
 唇を震わせながら、サトシは今度は両目を開かせてみた。
(……シゲル、アホみたいだ!)
 なんとも間抜けな顔にサトシはとうとうこらえきれず、床に転がって笑い声を上げる。
 とうのシゲルはなんだか寝言のようなつぶやきを洩らしただけで、まだ眠っている。
「ああ、おかしかった」
 サトシは笑いすぎて、涙まで浮かべて、立ち上がった。
「カメラ持ってくればよかったかなあ……」
 声をかけなくても、バスケットを置いていれば、起きたときシゲルもサトシが来たことに気づくだろう。
 明日会ったとき、なんて言ってやろうかとサトシは考えながら、部屋を出ようとした。
「あ……」
 立ち止まって、振り返る。
 シゲルが小さくくしゃみしたのだ。吹き込んでくる風がシゲルの体を冷やしたらしい。
 サトシはちょっと考えて、シゲルの部屋に走っていくと毛布を引っ張ってきた。
「笑わせてもらったしな」
 自分がしていることが照れくさくて、サトシはごまかすようにつぶやくと、シゲルの体に毛布を掛けてやった。
 シゲルの寄せられていた眉がもとに戻り、いかにも気持ちよさそうな表情を浮かべるのでサトシは、またまじまじとシゲルの顔を見つめた。
(変なやつ)
 起きているときはあんなに意地悪で、人のことをすぐからかうくせに、こうやって眠っているときはとても優しそうに見える。
 サトシはシゲルのすぐ側にしゃがみこんで、頬をつっついてみた。
「いっつも偉そうにしやがって」
 サトシはソファーによっかかり、天井を見上げた。
「気持ちいいなあ、ここ……」
 シゲルが読書の途中で眠ってしまったのがよくわかる。大きな窓からは風と鳥のさえずりが子守歌代わりに聞こえてくるので、ぼうっとしていると眠くなってしまうのだ。
(あ……やばい……)
 瞼が重くなってきた。
(帰らなくちゃ……いけないのに……)
 自分に言い聞かせようとしたその言葉は、寝息となって口から出ていった。

「……」
 シゲルはぼんやりと目を開いた。
(――?)
 しばし、考え込む。どうして自分の毛布がここにあるのだろう。あったかくて気持ちいいが、一体どこからこの毛布は来たのだろうか?
 まだ重たい頭を動かす。目線の先にある、驚くほど近くにあったもう一人の顔にシゲルは納得した。
 サトシはぐっすりと、平和そうな顔で眠っている。
 テーブルの上に載っている赤いナプキンのかかったバスケットから香ばしい香りが漂ってきたので、シゲルはサトシがここにいる理由が分かった。
(おつかいに来て、眠ったんだな。呑気なやつ)
 微笑して、シゲルはサトシの鼻をつまむ。 サトシが眉を寄せる。数十分前のサトシと同じことをしているとは知らないまま、サトシの頬をつまんだり、目を開かせたりするシゲルだった。
「……幸せそうな顔して」
 ひとつちがったのは、シゲルの方が大人だったということだ。無防備な状態のサトシに唇を落とすことにシゲルは照れなど感じない。  軽くキスして、唇を離すとサトシが眠ったまま笑った。
 起きたのかとちょっと驚くシゲルだったが、サトシが洩らした寝言に苦笑する。
「……シゲル、変な顔……」
「何を夢で笑ってるんだか」
 シゲルはもう一度唇を重ねると、身を起こしてサトシの横に座った。毛布を広げて、サトシにもかかるようにして毛布にくるまる。
「よだれ垂らすなよ、サトシ」
 サトシの体を抱き寄せて自分によりかからせると、シゲルはもう一度目を閉じた。
 ふたたび穏やかな寝息が二人分、聞こえ始めたのだった。

「……うーん」
 サトシはまばたきを何度かして、目を開ける。
「――!」
 どうして、シゲルの胸の中で目が覚めるのだ。そうっと顔を上げてみると、シゲルが見慣れた微笑を浮かべて、サトシを見ていた。
「やっとお目覚めかな?」
「シゲル!」
「僕の胸は寝心地がよかった?」
「……おい、離せよ!」
 シゲルの腕がしっかり自分の腰にまわされていることに気がついて、サトシはシゲルの胸を打った。
「寝言まで言っておいて、それはないだろ」
「寝言?」
「シゲルが好きだって言ってたけど、僕の夢でもみてた?」
「だ、誰が!」
 サトシは真っ赤になって首を振った。
 寝言はともかく、シゲルが夢に出てきたのは本当だった。だが、そんなことを正直に話せば、シゲルはもっと自分をからかってくるに決まっている。
「寝てるときの方が素直だな、サトシは」
 シゲルは言って、サトシの体から手を離した。
「……お前だって、寝てるときの方がよっぽど優しいじゃん」
サトシは小声でつぶやいて、そっぽを向いた。
シゲルが何がおかしいのか笑っている。
「――もう帰るからな」
ぶっきらぼうに言ってサトシは居間を出ようとした。
「サトシ」
 シゲルがサトシを呼び止めた。
 サトシはしょうがなく立ち止まった。
「おばさまにありがとうと、伝えてくれ」
「分かってるよ!」
「それから――」
 シゲルの顔が近づいたかと思うと、唇に優しい感触を残して離れていった。
「毛布、ありがとう」
「う……」
 突然のキスに目を丸くしたサトシだったが、すぐにシゲルの胸を拳で叩くと、走り出した。
「サトシ!」
 まだ何かあるのか。今度こそ立ち止まらないでそのまま玄関まで走っていこうとするサトシの背にシゲルの声が届いた。
 「また、一緒に昼寝しような」
 何も言わず、ただ顔を赤くしてサトシは速度を上げると、あっという間にオーキド家から遠ざかっていった。
 見えるわけはないが軽く手を振ってサトシを見送ると、シゲルはバスケットの中身を見ようとナプキンを持ち上げた。
「アップルパイか」
 パイの縁をちぎって、口に運びながらシゲルは微笑した。
 これで、明日サトシの家に行く口実ができたことになる。
「たまにはうたたねも悪くはないな」
 つぶやくと、シゲルは上機嫌で祖父に持っていくために皿やフォークを用意したのであった。

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