SWEET SILENCE



 雨だった。もっと強く降ればいいと願った。帰れないほどに、帰せないと言えるほどに、強く、強く、雨が降ればいいと思った。

 渡米前に、会おうと誘ったのは、青峰だった。断られると思ったのに、黒子は了承して、来ないように祈っていたのに、黒子はやって来た。青峰の部屋に、一人きりで。
 霧雨のような雨に包まれて、傘を持っていない黒子は、近づけば分かる程度に、濡れていた。柔らかな髪が湿り気を帯びている。
 馬鹿だと思った。自分も、黒子も。それとも、安堵していたのだろうか。青峰の薬指に指輪が光るようになってから、黒子の態度は、以前に比べれば柔らかいものになっていた。
 部屋に誰もいないと知って、黒子は眉間を顰めたが、急に帰ると言い出すのも礼儀を欠くと思ったのだろう。手みやげを渡し、部屋に上がった。どうして誰もいないのだとは聞いてこなかった。
 彼は知らない。この部屋は青峰の自宅ではなく、荷物置きとトレーニングルームを兼ねた別宅で、完全なる、青峰一人だけのプライベートルームだ。
 もっとも、部屋に入れば、本来ならばリビングとして作られた広い部屋にトレッドミルを始めとしたトレーニングマシンが多々置かれているから、自宅ではないと気づくだろう。
 その通り、彼の視線が自分にあてられ、眼差しと横顔に、長居はしていくまいと分かる。
 こっちだと強めにうながすと、黒子はおとなしく、青峰の後ろに着いてきた。休憩室として使用している部屋に通す。自宅に戻らないときは、ここで過ごしているが、最近は、この部屋で過ごす時間の方が多い。
 ベッド代わりにも使えるソファとテーブルに、小さな戸棚と小型の冷蔵庫。後は壁に掛けられた時計くらいしかない、簡素な部屋だ。布団は部屋の隅に、数枚の私服や寝間着とともに無造作に置いてある。
 座れよというと、ためらいがちに黒子は腰を下ろした。
 戸棚からグラスを二つ取り、酒瓶を出す。どこからかもらったウィスキーだかブランデーだった。何でも良かった。グラスに注いで、先に飲み干した。からりと乾いた味わいが舌に残り、香りが鼻を抜けていく。美味いと思ったことはまだ無い。若いからだろうかと思う。
 二杯目と黒子の分を注ぎ、黒子に差し出した。飲めない、と彼は断った。
「車じゃねえなら飲めるだろ」
「いいえ。そんな強い酒、無理です」
「ビールもあるぜ。チューハイも」
 冷蔵庫を指し示しても、黒子は首を振った。黒子から手渡された土産の入った紙袋を開いていると、固い声で黒子が訊ねてきた。
「何か、用があったんじゃないんですか」
「ああ――」
 青峰はグラスをテーブルにおいて、黒子の隣に座った。
「忘れてた」
 体温さえ感じられる距離の近さに黒子が身構える前に、青峰はその肩をついた。いや、突き飛ばしたといってもいい。
 不意をつかれ、黒子は青峰に押されるままに、倒れ込んだ。勢い余って、ソファからずれ落ちた黒子の体の上に、青峰は全身を使い、のしかかった。どちらかの体がテーブルを動かしたのだろう。グラスが落ちた。甲高い音を立てて硝子が砕け、床に破片が散らばる。
 膝頭で黒子の腿を押さえ、簡単には逃れられぬように下半身の動きを封じた。
 胸ぐらを掴んで、引き寄せる。着ているシャツのボタンでも取れたのか、糸が切れる音が拳の中から聞こえた。
 低い声で囁く。
「なんで来た」
 殺気さえ漂う男の眼差しにも気圧されず、黒子もまた同じ強い視線で、彼を睨めつけた。
「どうして、呼んだんですか」
「じゃあ、来るなよ」
「なぜ、一人なんですか」
「うるせえ」
 硝子の破片が、天井の光を反射して、残像のようにきらきら視界の端で光る。淡い光なのに、やけに、ちらつくから苛立って仕方ない。
 黒子が青峰の手に指をかける。引き離そうとするように力を込めるが、びくともしない。
「離してください。今、自分が何しようとしてるか分かってるんですか」
「さあな。お前は分かってんのかよ」
「とてつもなく馬鹿なことを君がしようとしてるってことは、分かります」
「へえ、頭いいな」
 青峰は黒子の頬を軽く打った。白い頬が薄赤く染まる。
「離してください。アメリカへ行く前に、暴行で逮捕でもされたいんですか」
 撲たれてなおも、諭すような穏やかな口調で話す黒子を青峰は鼻で笑った。
「関係ねえよ」
「君は、自分が背負ってるものを知らないんですか」
「俺は俺以外、何も持ってねえよ」
 今までもこれからも、それだけだ。自分が自分であれば、必要なものは、すべて得られる。名声も、富も、栄光も、すべて。どんなものも自身が自身である限り、そこに付随してくるものでしかなく、望もうと望むまいと、すべてが手に入る。
 黒子が顔を背ける。歪む唇の形が見えた。押さえつけて、そこを噛んでやったらどんな表情を浮かべるだろうか。
 見たい。この手で、黒子の表情を変えていきたい。徹底的に痛めつけて、傷つけて、そうしたら、別れを切り出しても、涙一つ零さなかった彼でも、泣くかもしれない。
「だから、お前の気持ちなんて、いらねえ」
青峰は、ひりひりとした痛みにも似た思いで、ある男の名を口にした。
「――あの野郎の事でも考えて、足開いてろ」
「君は……っ」
 拳はあえて避けなかった。
 頬をびりびりとした衝撃が走る。宙に浮いた黒子の拳を青峰は握った。
「どっちが暴行犯だ?」
「正当防衛です」
 にやりと笑む青峰と対照的に、黒子の表情には笑み一つ浮かばない。怒りにしては弱く、苛立ちにしては強い光だけが瞳に宿っている。
 挑むように彼を睨み返した。そうする仕草とは裏腹に、竦むような己がどこかにいる。恐れているわけでもない、怯えているわけでもない。
 そうするために呼んだから、その目的だけを果たせばいいはずだ。心などはいらない。最後の最後に、抱きたかった。今更、それ以外、なにがあるというのだ。体以外、求めようがなく、手に入れられる可能性があるのは、それだけだ。
「いい加減、離せ」
 黒子が荒い言葉で青峰の手を拒む。
「うっせえ。おとなしくしてろ」
「誰が!」
 青峰も容赦しなかった。爪を立て、歯を剥き、手負いの獣のように抗う黒子を、殴り、蹴り、噛みついた。お互いの荒い息づかいだけが部屋の床に落ちる。
 苛立ちと怒りと思うままにならないやり切れなさを吐き捨てるように、もう一度告げる。
「抱かせろ」
「今更、何を――別れたいと言ったのは君の方だ!」
 叫びと言うよりは悲鳴のような響きだった。拳より蹴りより、その言葉は青峰を打ち据えた。
 見つめた黒子の顔は、別れを告げた日と同じ表情をしていた。
 ぎりぎりのところで踏みとどまろうと堪え、感情を押し殺した結果、すべてを凍てつかせた眼差しを浮かべ、君がそう言うのならと、黒子は乾いた声で呟いて、青峰の前からいなくなった。
 黒子が去っても青峰の世界は崩れなかった。終わりもしなかった。目を背け、見ないふりをすれば、気づかない程度の、細い小さな罅が入った程度だった。
 不在に慣れ、これでよかったと自分に言い聞かせ、互いの世界で生きていけば良かった。黒子には平和で穏やかなそれが、一番似合う。寄り添っていれば、必ず襲い来る苦悶を遠ざけたかった。身勝手でも独断でも、彼にだけは煩悶して欲しくなかった。
 そのはずが、遮二無二に押しのけた相手に、縋りつこうとしている。大声で泣いて、母に振り向いてもらいたがるだだっ子のように。
「いいから、抱かせろよ……」
 声が震えた。ひくりと喉が鳴る。見上げてくる視線を受け止めきれず、青峰は顔を逸らし、半面を手で覆った。
 黒子が、そろそろと床から身を起こす。そのまま立ち去ってくれれば、どれだけ楽になるだろう。
 何も言わず、黒子は青峰を見つめている。視線が、まばたきが青峰をうながす。
 もう嘘はつけない。
「お前を抱きたい、抱きたくて仕方ない……」
 ただの欲情ならどれだけよかったか。
 抱きたかった。我が身に彼を全身で刻み込みたい。彼の体に自分を思い出させたい。あの日々が嘘でも幻でもなく、確かに存在していたのだと、感じたかった。
 そうすれば、手放すことを正しいと信じた自分を、消してしまえる。跡形もなく、殺してしまえる。
 そうして残るのは、たった一つだ。
 お前以外、何もいらない。テツ以外に何も欲しくない。
 そう言おうとしている己だ。
 言葉が持つ重みと甘さに、息が出来なくなる。こみ上げてくる思いに目頭が熱くなった。
「俺は……」
 言いかけた青峰の唇を、黒子の指が押さえる。言わないように、と懇願するような眼差しを受けて、青峰はその指を唇で挟む。震える指をそっと優しく、噛む。
 口にしたら、何もかも終わる。罅が亀裂となり、そこからすべてが砕けて、取り戻せなくなる。偽るつもりで、互いを待つ相手と向き合ってきたわけではない。けれど、ここにあるのも真実の一つで、積み重ねてきた年月は、それを裏切りと呼ぶだろう。
 唇を重ねても、黒子は目を閉じなかった。じっと、青峰を見つめていた。
 瞳の奥に揺れる光は、望む心を映してはいない。それとも、青峰には見えないだけなのだろうか。耐えかねるように黒子が目を伏せ、かわりに唇がきつく噛みしめられるのが見えた。眼裏に浮かぶ面影を振り払った。
 黒子の肩を抱き寄せ、青峰は告げた。
「――呼んだのは、俺だ」
 いいえと腕の中で黒子が首を振った。
「……来たのは、僕です」
 囁きあえば共犯者になる。絡んだ指に罪が滲む。触れた肌は熱かった。
 もう言葉は必要なかった。見つめ合えば嘘はつけない。そして、本当のことも言えない。
 口を開けば、告げたくなるから。どうして、と、なぜ、と問いかけて、その先の答えを見つけてしまうから。
 答えが見えないように目を閉じる。口づけで溢れかける言葉を封じる。名を呼び合うことだけを許した。共にいた頃よりも、ましてや離れていた時の比にはならぬほどに、繰り返し、互いの名を呼んで、肌の間に生まれた熱を分け合った。
 浅い眠りに引き込まれる前、テツ、と呟いて、青峰君と返されて、綿菓子のような軽いキスをした。その一瞬だけが、過去のように甘かった。汗が染みた傷口から生じる痛みさえ愛しかった。
 目覚めれば、秒針の音の向こうに、雨音が聞こえる。立ち上がって、カーテンを開く。ビルの間の光に照らされて、落ちてくる雨粒が見えた。
 カーテンを閉じないまま、黒子の側に戻った。腰を下ろし、その額の前髪を掻きやる。根本はまだ湿って、ぬくんでいた。それほどの時間は経っていない。青峰の髪の根元もまだ湿っている。きっと、試合でもあれほどの汗を流さない。どんな人間と寝ても、あんな熱は体に生まれない。
 激しい雨音で黒子の寝息は聞こえなかった。外からの淡い光に浮かぶ安らかな寝顔にほっとして、青峰はうなだれた。
 帰したくない、帰せない。帰りたくない、帰らない。
 天から降りしきる雨は、格子のように空と地上を繋ぐ。
 いっそここが牢獄であったなら、と薄闇の中で青峰は思う。罪科を認め、裁かれずとも、罰を受けよう。
 だが、雨はこの時間の痕跡を消していくだけだ。誰も知らない。気づかない。この時は流され、朝になれば跡形もなく消える。
 分かっていて、願った。
 雨がもっと降るように。せめて、今夜だけ、いま一時だけ、側にいられるように。



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