ぽっかりと空白が生じたのは、昼食のための時間だった。本来であれば、とある会社役員との会食の予定が、先方の一人娘が産気づいた上に、何やら非常に容態が危ういとのことで、丁重な詫びの言葉と共に、キャンセルになった。
わずかな時間ではあるが、その時間は完全に赤司だけのものになった。秘書から告げられた事実に、どう過ごしたものか赤司はふと迷った。
雑事、というほどのことは、秘書が行う。仕事にあてるには短すぎる。久しぶりにどこかで、ゆっくりとした食事でも、と思ったとき、またたく光のように過ぎった面影があって、愚か者の行為とは分かるものの、車の支度を命じ、行き先を秘書に告げていた。
黒子の勤める園の名を赤司は知っていた。自身が所属する企業の関連会社の糸を、ゆっくりゆっくりたぐり寄せていけば、辿り着くのが黒子の働く私立幼稚園だ。
目立つ働きかけをしたことはないが、赤司征十郎が気に懸けている、というその事実があれば、それだけで様々な人間が自ら、動く。それだけの影響力を持つ立場に、すでに赤司はあった。
ただ、赤司自身が、直接、関わることなどはないため、黒子の日々に揺るぎはなく、おだやかに、何事もなく、幼稚園で優秀な教諭として過ごしている。それでよい。これからも彼の静かな日々は続くだろう。もはや、彼の周囲を大きく騒がせるものは何もない。
それを知らしめるかのように、あいかわらず、凪いだ海面のように静かな佇まいの黒子が、赤司を迎えた。
「仕事中、悪いね」
「いえ、お昼休みですから」
気にしないで下さい、と黒子は微笑した。
今の仕事に就いてから、黒子の優しさには深みが加わった。同時に漂う諦念は、年齢にはそぐわぬもので、その原因の一端に自身があることを赤司は理解している。
感情の糸を断ち切ったのは赤司の方だった。自身が歩む道に、この恋情は邪魔の一言につきた。恋に溺れてはならない。それは弱さであり、弱さは敗北に通じ、自分が斃れれば、自分が支えるすべてが壊れる。
罪悪感も後悔もすべて飲み込み、担うつもりでいたが、黒子は、水のような淡泊さでもって、すんなりと赤司から離れた。恨みも見せず、憎しみも見せず、赤司が提示した様々な償いの方法にも首を振り、身を引いた。
澄んだ水のごとき彼の心中は、今でも見えない。互いに独身なのが、答えなのかもしれなかった。
赤司の来訪を聞いていたらしい園長が来客室を使うように勧めてくれたと黒子は言って、広くはないが清潔な来客室に通してくれた。
この部屋にも、園児たちの歓声が、ひっきりなしに響いてくる。子どもの声など久しぶりに聞いた。これを毎日、耳にするのは自身にはかなり堪えるなと思う。
コートを脱いで、暖かみのある、低めの長椅子に腰を下ろす。クッションは柔らかすぎず、固すぎず、座り心地が良かった。向かいの肘掛け椅子に腰を下ろすかと思われた黒子は、少し待ってください、と断ってから、部屋を出て行き、しばらくして、電気ポットとマグカップを持ってきた。
「これくらいしかないんですが」
おそらくは自分用なのだろう、ドリップ式のコーヒーを淹れてくれた。
手渡されたマグカップはキャラクターの描かれた可愛らしいもので、赤司は多少、面食らいながら熱い中身を啜った。
「すいません、カップ、普通のが見つからなくて」
申し訳なさそうな黒子も同じようなマグカップだ。
「いいさ。中身は何も変わらない」
苦みのあるコーヒーを飲み、黒子はふと気になるかのように、眉をひそめた。
「そういえば、お昼は食べたんですか?」
「車内で適当に食べるよ」
軽食の準備を頼んできたから、車に戻れば何かあるはずだった。
「ただの栄養補給じゃだめですよ」
「分かってるさ」
こわいなテツヤは、と赤司が諧謔めいた口調で言うと、黒子は、思いがけないものを目にしたかのように、まばたきして、少年時代を彷彿とさせるような顔つきで笑った。
コーヒーの香りが漂う部屋で、昔のように親しげに、懐かしげに、向かい合って、それが黒子の心を、ゆるませたのだろうか。
「ねえ、赤司君」
囁きにも似た問いかけだった。
「どうして、来たんですか?」
聞こえぬふりも出来ただろう。なごやかな時間はあくまでも、そう見える、というだけで、互いの間には、年月という隔たりがある。
「――時間が出来たからだ」
一言の答えは本心ではなく、かといって偽りでもなかった。わずかばかりを語り、時に黙り、心をさらけ出すわけでもなく、かといって秘め隠すわけでもない、必要であれば腹を割り、本音を語る。自分を見せずに相手が近寄るわけもなく、けれど必要以上にそれを行うこともない。そうして相手に接していくことに、赤司は慣れすぎていた。
「ありがとうございます」
口元に浮かぶ淡い微笑が消えるまで、赤司はそれを見つめていた。
保護者からの差し入れだというチョコレートを一、二個、つまんで、互いの近況を訊ね合って、赤司は腕時計に目を遣った。
「そろそろ、行くよ」
そこまで送ります、と黒子も立ち上がった。
裏門から外に出た。思いがけず広い道に裏門が面している理由は、道沿いに並ぶ並木にあるようだ。幹も太い木々が通りの先まで続いている。
紅葉も終わり、色あせた落ち葉を散らしている。掃除も大変だろうと赤司が言うと、園児たちとの競争を交えての掃除だから、案外、楽しいものだと教えてくれた。
口元を笑ませる赤司に黒子は木々を指し示した。
「紅葉もですが、もし、次の機会があるなら、春がいいですよ」
少し風が拭いて、落ち葉がはらはらと路面を舞う。
「この並木は全部、桜だから春はとても綺麗なんです」
並木を見上げる黒子の眼差しは遠かった。
彼は悟っていると、知った。次の機会などないことを。赤司が春に訪れることもなく、おそらくこれが最後になるかもしれないことを、とうに理解している。
それでもなお、桜の美しさを告げる黒子に、赤司は言葉を継げなかった。無言で、うなずき、それをきっかけとして、黒子は片手を胸の高さほどに挙げた。
「元気で」
別れの仕草に、お前もな、と赤司は返して、背中を向けた。
きい、と門扉が軋む音が背後から聞こえる。片手をコートのポケットに入れ、赤司は歩き出した。
なぜ、来たのだろう。後悔を味わうためか。変わっていないと確かめるためか。未練か。
吹きつける風に紛れこませるように、誰に向けるわけでもない呟きが漏れた。
「……あいたかったんだ」
口にした瞬間、赤司は、その言葉が持ち得る響きに愕然とした。
会いたかった。逢いたかった。一目でよかった。その顔を見たかった。声を聞きたかった。その瞳に、自分の姿を写して欲しかった。その姿を自分の瞳に写したかった。気配を、匂いを、記憶を甦らせるだけでは、決して出来ない、本当の彼にあいたかった。
それが、口にした言葉の意味だった。自身すら知らぬ心の深みから湧き上がる思いだった。
――僕もです。
噛みしめるような声音は、幻聴だ。追憶に、感傷に浸る暇などない。為さねばならぬことは数多あった。
前だけを向き、未来だけを見据え、歩かねばならない。ああ、それだというのに、歩む足が止まりそうになる。後ろ髪引かれ、指先が惑うように空を掴もうとする。
振り向けばすべて失う。妻を求めて、冥府に下った神話の男のような愚かさを真似てどうしようというのか。
なぜ、彼はふたたび失うと分かって振り向いたのか。逸る心を抑えられなかったのか。脱出の終わりに安堵した慢心だったのか。それとも、あまりに背後の妻の気配がひそやかで冥府の神が言葉を違えたと恐れたのか。
その通り、黒子の気配はすでに感じられない。もう、園舎に戻っているはずだった。
彼は知っている。赤司が振り向くはずもないことを。呟きこそ、再度の別れの言葉だと分かっているはずだ。
振り向くな、赤司は己に命じた。振り向いてはならない。ここは冥府ではなく、彼は生者で、だからこそ、振り向けば、自身ばかりか、彼もともに、奈落に墜ちよう。
側に在れば、思惑に取り囲まれ、渦中の人となろう。赤司には何も与えられない。平穏な日常も、甘やかな時間も、二人でも共にあることが喜びではなく、悲しみになり、それでもなお、黒子が己から離れぬと分かっていたから、突き放したはずだ。
歩む道に、彼は必要ない。居てはならない。彼の道にも、赤司は必要ない。居てはならない。逡巡することもならぬ。災厄にも等しい不幸が在る場に、招かれたい者がいるものか。
胸ポケットから携帯電話の音が鳴った。取り出さずとも秘書からの着信であることは分かる。車は表通りに来ているはずだ。
乗り込めば、すべて終わる。いつもの日々に戻る。過ごした時間より、離れた時間の方が長く、とうに慣れきった日常だ。
けれど、目の前はすでに仄暗い。色彩を失ったかのように、この場所こそが冥府だとでもいうかのように、音もなく、色もなく、ねじ曲がり、ぼやけていく。
無明の世界の果てに、眩いほどに鮮やかな桜を見た。
ゆるやかに、散りゆく雪のような、薄紅の花びらが舞う。柔らかな春の空に、桜が浮かび上がり、風が頬を撫でる。桜の木の下には黒子が居る。幻でもなく、想像でもなく、現つの黒子が。
――振り向いていた。
視界一杯に彼の驚きの表情が広がる。歪む唇に、しばたかれる瞳に、泣くなと告げるために、赤司は一歩、踏み出した。