ソーダの泡みたいに



 しゅわしゅわしゅわしゅわ、コップの底から泡が浮き上がってくる。顔を近づけてみたら、小さな小さな水滴が弾けるように飛んでいるのが分かる。泡が弾けるときの小さな音も聞こえる。しゅわしゅわ、ぱちぱち、息をしただけで聞こえなくなりそうな、かすかな音だ。
 うすい、うすい、あおい色のガラス越しだから、本当は、透明なソーダなのに、なんだか、青色のソーダに見える。飲んだら、薄荷みたいな味がしそうなソーダ。ラムネほど甘くなくて、もうちょっと泡がきついソーダ――まるで、黒ちんみたいなソーダ。
 飲まないで、もうちょっと見ておく。
 大きなコップは俺用。向こうにある小さなコップは黒ちん用。二人で暮らし始めたときに、一緒に買った。俺のグラスは黒ちんと同じうすい青色。黒ちんのコップは俺と同じ紫色。
 俺のコップに入れた方がソーダ水は美味しそうに見えるって言ったのは黒ちん。だから、夏になると、俺のコップを黒ちんは時々、使った。そんなにたくさん飲めないから、ちょこっとだけソーダ水を入れて。
 俺がいるときはたくさん注いでくれた。それで、一口欲しいって横から言ってきて、いっつも、それが本当に一口なのかなと思うくらい少しだけ飲んで、おいしいと笑った。
 自分のを使えばいいのに、俺のコップで飲んだ方がやっぱりおいしいんだと言い張ってきかなかった。だから、俺のコップの方がちょっと傷が目立って、黒ちんのコップの方が新しく見えるまんまだ。
 コップに指を伸ばして、ガラスをつつく。軽く表面が揺れて、しゅわしゅわ泡が立つ。ソーダの匂いがする。ちょっと甘い、でも、べたべたしない匂い。目を閉じたら、なんだか黒ちんの匂いに似ている気がする。気がする、だけだから、本当の黒ちんの匂いじゃない。黒ちんのは、もっとあったかくて、眠たくなるような幸福感と、大好きなお菓子だけで空腹が満たされた満腹感が、一緒にこみ上げてくるような匂いだ。
  でも、ソーダ水を飲むとき、黒ちんのことを思い出してしまう。ううん、違う、そうじゃなくて、どんなときだって、思い出さずにはいられないんだ。
 出来るなら、残っている記憶をひとつ、ひとつ、大切にしていきたいのに、思い出し始めたら、どんどん溢れ出てくる。もったいないのに、思い出すのを止められない。
 目を閉じたら、俺の胸の中に黒ちんは、いつだって戻ってくる。
 買い物に行った帰りに、寄り道して駄菓子やさんに寄ったんだよね、黒ちん。
 あれはいつだったけ? 問いかけても、きっと黒ちんは思い出せないって言う。あ、ちょっと違うかな。いつも、俺が寄り道したい、って言い出すから、そんなのいちいち覚えてません、って言うんだ。
 俺から見れば、ちっちゃくて、軽くて、ふわふわした綿菓子みたいな、お菓子みたいな黒ちんなのに、時々ちくっとした棘みたいなところがあって、でも、刺されてもちっとも痛くなかった。どんな時だって黒ちんの目の奥は、優しかったから。
 覚えてない、って黒ちんは言うはずだけど、本当は覚えていると思うんだ。あんなこと黒ちんが外でしてきたの初めてだったから、絶対に、覚えてる。ね、そうだよね。
 商店街からちょこっと入ったところにあった俺のお気に入りの駄菓子屋。氷とおでんののぼりが、夏でも冬でも秋でも春でも、一緒にはためいていて、古そうに見えるのに、立てつけがいい、なめらかに滑る引き戸を引いて、入るんだ。
 選んだお菓子を買い物袋の中に、宝物を隠すみたいに入れて、最後に見つけたラムネ。俺の奢りだったんだよ、あれ。お菓子を買うお金は俺の財布から出してたのに、食べ過ぎって黒ちんよく文句を言ってたね。今なら、言えるけど、俺、そんな風に黒ちんに怒られるの嫌いじゃなかったよ。構われてるし、なんだかんだで黒ちん、俺に甘いし、何より、俺のことちゃんと見てるんだって安心したから。
 お店の外で、ラムネの栓を開いて、二人で飲んだ。からころ、ビー玉が瓶の中で転がって鳴って、早く飲み終わったのはもちろん俺。
 俺は左手でラムネを持っていて、黒ちんは右手で持っていて、飲み終わった空き瓶を返したら、お互いの片手があいているのに気づいたから、手を繋いだ。
 夏だったのかな。春だったのかな。手を握ってても暑くなかった。手なんて、しょっちゅう繋いでいたのに、覚えているのは、黒ちんが俺の手を揺らしたから。
 握り合った手を前後に揺らして、一回だけじゃなくて、二回、三回、続けたから、わざとやってるんだって分かった。
 手、いつもあたたかいですね。黒ちんは、そう言うんだ。大きな手、じゃなくて、あたたかい、って。俺には黒ちんの手の方があたたかくて、やさしく思えてたけど、黒ちんは、俺のがあたたかくて、好きだという。
 ぶらぶら、ぶらぶら、子どもみたいに手を揺らす黒ちんを見下ろしたら、黒ちんは笑っていた。うれしそうに、楽しそうに、しあわせそうに。
 俺が揺らしたら、黒ちん、きっとこけちゃうから、あのとき、我慢したんだよ
 細かいことなんて、覚えておかなくても大丈夫だと思ってた。ずっと、ずっと、一緒のはずだったから。黒ちんの笑う顔を見て、俺を呼ぶ声を聴いて、手を握って、毎日、毎日、暮らしていけると思っていた。
 だけど、もう、ソーダは減らない。 一人で飲み干したとしても、誰も怒らない。黒ちんの分を飲んでも、黒ちんの分を注がなくても、黒ちんは拗ねない。
 俺の手は空っぽで、黒ちんの指が触れることもない。揺らされることもない指の隙間は、風が撫でていくだけだ。
 コップに水滴が浮かぶ。テーブルには小さな水たまりが出来る。炭酸は抜けて、ソーダはただの甘い水になって、ぬるくなっていく。
 どれだけ、ソーダを注いでも、黒ちんは欲しがらない。泡が弾けて消えるみたいに、黒ちんも消えて、俺は一人になってしまった。
 黒ちんは迷子なのかな。俺が迷子なのかな。二人して、迷子なのかな。
 きっと、黒ちんは俺のこと探してるはずだ。俺が、いつだって黒ちんの姿を探してるように。
 まばたきしてもいなくって、ため息ついてもいなくって。じゃあ、黒ちんは、どこにいるの? 
 ねえ、黒ちん、俺は、ここにいるよ。ちゃんと、待ってるから、迎えに来てよ。
 もう一度、手を繋いで、ラムネ飲もうよ。そうしたら、今度は、俺が、黒ちんの手を揺らして、笑うから。そうしたら、ずっと一緒にいようって、それが、うれしくって、楽しくって、何よりも幸せなんだって、伝えられるはずだから。



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