鴛鴦の血

※作中の詩は長恨歌より引用



 誰やらが呟く。
 天にあって願わくは比翼の鳥となり、地にあって願わくは、連理の枝とならん。
 
 長廊を火神は歩いていた。日が沈めば、皇帝も歩む道である。その際には、吊燈籠に明かりがともされ、幽玄の道ともなるだろう。炎は、長廊の屋根に描かれた、種々の伝説や物語、季節の草花や帝国内の景観の絵を、揺らぎながら照らし、幻想的なまでの美しさを見せるに違いない。皇帝の夜渡りを火神が目にしたことはないのだが、それはたやすく想像できるのであった。
 今は、緑に囲まれた静謐な、侵しがたい空気が漂う。
 長廊の先には鴛鴦宮がある。建物の規模としては、皇宮の中では、小さい部類だが、その造りや内装、庭の優美さ、豪奢さでは皇帝の本宮をもしのぐといわれている。
 二つの丘陵が本宮やその他の宮殿と鴛鴦宮を隔てているが、この宮は洛山帝国皇帝が代々、正后、あるいは寵愛深い妃に与える宮であった。
 火神の主は、現在、そこに住まうことを許された、ただ一人の妃嬪である。
 大帝国の頂点に立つ男の心をとらえてやまない妃は、しかし、亡国の公主でもある。皇帝がこの宮を妃に与えたのは、後宮の嫉妬や官臣たちの思惑から遠ざけるためでもあり、誠凜の残党に公主を取り戻されぬためでもあった。
 だが、誰が知るだろう。皇帝の恐れているのは、後宮や臣下たちの思惑でも、誠凜の復興でもない。いまは、この宮の名を取り、鴦妃と呼ばれている公主の目が己以外の人の姿を映すこと、それだけを皇帝は恐れているのだった。
 小橋を渡り、門をくぐると、石畳の前庭が広がる。玉の敷き詰められた噴水を回り、宮殿へと入った。
 幾らも歩かないうちに、小柄な宦官がぱたぱたと軽い足音を立てて、駆け寄ってきた。
「お待ちしておりました」
 もう中年も過ぎて、体のあちこちにたるみが目立つ宦官だが、顔の色つやだけは良い。おとなしく、柔和な人当たりのために、皇帝が鴛鴦宮の諸事を任せている。鴦妃の衣装や装飾品、また宮殿内を飾る絵画や彫刻、骨董品、細工物、衣装や部屋に焚きしめる香、そして楽人や演劇の手配などについては、敏腕を誇るが、さて、肝心の妃のご機嫌うかがいは不得手であり、何かあれば、皇帝御座所でもある本殿にいる火神をすぐに呼び寄せるのだった。
 それもほぼ毎日といってもよい。皇帝が鴛鴦宮に渡る日は、必ず、火神は妃の御前に伺候することになるのだから。
 宦官の口上も、もはや耳慣れたものだった。
「鴦妃さまのご気分が優れないようで、房で伏せられております。気晴らしにと、楽人などを召しましたが、お気に召さなかったようで……」
 宦官の言葉に火神はそうかとうなずく。
「今宵も、陛下のお渡りがございますゆえ、どうか、妃さまにその旨を申し上げてくださいませ」
 宦官の細い目がじっと火神に当てられた。
 火神と妃の関係を承知しているからこそ、宦官は火神を呼び寄せるのだ。ゆっくり歩き出した火神は、宦官の方を振り返り、ちょこちょことついてくる彼に微笑した。
「俺、一人でかまわない」
「よろしいですか」
「ああ」
「いつも、申し訳ありません」
「いや」
 丁寧に頭を下げる宦官に首を振った。彼の恭しさと感謝は、いつも心からのものだ。洛山では、いや宦官としてはめずらしいほどに誠実で穏やかなる人柄で、こうして鴛妃付きの宦官となるまで不遇をかこっていたのもうなずける話であった。

 夕刻に皇帝が訪れるとの知らせはとうに鴛鴦宮に届いている。妃は寵を賜る準備をしなければならない。
 沐浴して躯を清め、髪をくしけずり、衣装を改める。皇帝は鴛鴦宮で夕餉を取るので、その陪食のための衣装である。その後は、皇帝の心次第だ。湯浴みをして、寝房にこもるときもあれば、夕食後そのまま、妃を連れて閨へ入る場合もある。いずれにしろ、皇帝がこの宮で一夜を過ごすのは間違いなく、そこに妃が侍るのも間違いなかった。
 皇帝の訪れる時間が、いつもと同じ頃合いならば、黒子はすでに湯浴みを始めていなければならない。
だが、昼の大半を過ごす房で、黒子は寝椅子に体を横たえ、腕の間に顔を埋めていた。薄物を幾重にも重ね、濃い色の領布を腕にからめている。それでもなお、頼りなげな体つきだった。年月はこの妃の体に成長という恩恵を与えていないようだった。
「鴦妃」
 火神の呼びかけにも答えない。続けて、殿下、と呼ぶと黒子は首を振った。銀や玉の腕輪がさらさらと鳴った。
 火神は小声で、呼んだ。
「黒子……」
 黒子は顔を上げた。白い面に、わずかながら感情が見られた。抜け出せない哀しみをたたえた瞳から目をそらすようにして、火神は黒子に近づいた。
 沓が椅子の下に落ちている。拾い上げた。青い布地に金糸銀糸で刺繍がほどこされ、真珠が縫いつけてある。沓をそろえて床に戻し、火神は黒子の右足首に触れた。
 ちりんと足環についていた鈴が鳴った。火神は沓を手にし、右足に履かせた。左足の足環には鈴はついてなかったが、細い細い金環が幾つも連なっていた。ほんのわずかな身動きにも澄んだ音を響かせる。
 火神が両方の足に靴を履かせ終えると、黒子は身を起こし、床に足をつけた。音曲にも思えるほどの妙なる音色だが、どちらの耳にも入っていないようだった。
「沐浴の支度ができています」
 黒子はうなずいて、それきり動かなかった。火神は黒子の両脇と膝の下に腕を差し込み、抱き上げた。黒子の手が、火神の首にからんだ。冷たい肌だった。
 黒子が火神に抱きかかえられて、房から出てくると、女官や宦官達の口から、安堵のため息と笑みがこぼれた。
「お任せしてもよろしいでしょうか」
 おずおずとたずねてくる女官にうなずき、火神は浴場のある一角へと向かった。
 鴛鴦宮の地所には温泉が湧いている。内湯と外湯には玉で作られた湯船が幾つもある。湯は絶え間なく、こんこんと溢れ、絶えることはない。それこそ、鴛鴦宮の造られたときからの話だ。
 浴場に控える湯女たちを遠ざけて、火神は手ずから、黒子の装身具を外しはじめた。
 簪、耳飾り、首飾り、腕輪、足輪。装飾品をすべて外した後は、帯を解く。するりとなめらかな音を立てて布が触れ合い、足下に落ちた。
糸一本に至るまで皇帝の寵愛を受ける妃にふさわしい品ばかりだが、火神の手は無造作にそれらの品々を床に落としていく。傷つこうが、壊れようが、裂けようが、替わりのきく品にすぎない。それらがやわやわと包む肉体こそ、唯一の宝である。
 肩から上衣をすべらせ、裳の紐をとく。絹の肌着は黒子のぬくもりと香の匂いが混じり合い、えもいわれぬ芳しい薫りを漂わせる。陽に当たることが少ないため、玉のような白さを持つ肌が火神の目に映った。誠凜の生まれにしては、そういえば黒子は色が白かった。日夜、目にしている黒子の裸身ではあるが、火神は今日、この日、初めてそう思った気がした。きっと、毎回、思うことではあるだろうが。
 絹の湯衣をまとわせると、黒子の躯を抱き上げる。宮廷暮らしで、筋力は落ちていた。それでも黒子一人、抱えるのはたやすい。
 黒子を抱いたまま、湯船へと躯を浸す。湯船の中には、石工がこしらえた寝椅子がある。そこに黒子の体を横たえる。湯の中へ裾や袂が広がる。髪の毛を指先で梳いた。たちまち湿り気を帯びた髪は、いっそうの艶を持ち、火神の指に絡む。
 濡れた湯衣が黒子の肌に吸いつく。黒子の指が動き、湯衣を身から脱いだ。いや、はぎ取ると言っていいほどの激しい仕草だった。
 湯の流れに押され、衣は淵へと追いやられる。白い裸身が湯の中で、揺らいだ。左胸の十字形の疵痕だけが、花弁でも落としたかのように赤い。
 黒子は目を閉じ、火神へ身を預けてきた。強く、抱き返し、唇をついばんだ。手を下肢へと伸ばす。黒子は自分から膝を開いた。そっと秘奧を探ると、湯よりも熱く、とろんでいる。水音とともに、幻想の情欲が火神の躯に満ちた。
 呟きが零れる。
 天にあって願わくは比翼の鳥となり、地にあって願わくは、連理の枝とならん。

 ――黒子は誠凜王の末子だった。
 誠凜は洛山が大陸を制覇するにあたり、もっとも激しい抵抗をみせた地であったが、誠凜の王が洛山に恭順を誓ってからは忠義と武者の国として知られるようになった。誠凜武者といえば、洛山帝国有数の勇猛な男を指す。
 誠凜の忠節は、年月と共に厚くなり、皇帝からの信頼も同じように、深くなっていった。 洛山の国力も代を重ねていくごとに増大し、火神や黒子が生まれた頃には、すべてにおいて大陸一と讃えられるまでになっていた。やがて、洛山という大国において、誠凜は剣とも弓とも評されるようになった。
 その剣の国が主に刃を突きつけ、矢を向けたのは、黒子ゆえに、であった。
 一人の公主のために、誠凜は国を傾け、洛山はそのすべての国力をもって、己が最強の属国を滅ぼしたのだ。
 皇帝が黒子を見初めたのは、洛山皇帝が各地の王たちを招いて開いた宴席でのことであった。
 それは、若くして玉座についた皇帝の披露目でもあった。各地の王たちは、先々代の皇帝の血を引く若い新帝の力を見定めるため、またこれからの縁を結ぶために、洛山の帝都へと上った。
 皇帝の開く宴席に出席するために洛山の都へやって来る諸王は一族の女を伴う。夫人や娘を始めとして、供の女から端女にいたるまで美女をそろえ、娘なら美しく装わせ、皇帝の歓心を買おうとする。皇帝が望めば、自らの妻、妾までも献上するだろう。皇帝の閨に血族の者を送り込むのは、外交上、当然のことだった。
 誠凜王とて、後宮での勢力争いの重さは十分に、承知していたから、血縁の女達を幾人もともなった。
 が、黒子を同行したのは、他の王たちの思惑と違い、皇帝に献上するためではなかった。そもそも、皇帝の目に触れる宴席に黒子は出る予定もなかったのだ。黒子はこの旅を終え、誠凜に帰国すると、嫁ぐ予定になっていた。
 相手は許婚である誠凜の大将軍の一子、火神であった。
 将軍の室として収まってしまえば、滅多なことでは旅行などもできなくなる。王は黒子を鍾愛していたから、いわば、これが最後の、父子の旅行であり、後宮外に出ることもない公主に、広い世界を見せようという親心でもあったのだろう。
 黒子自身、旅を楽しみにしていたようだ。出立する日を指折り数え、毎日のように火神に訊ねたものだ。
「火神君、洛山のおみやげは何にしましょうか」
「何でもいいって」
 毎日のように火神は答えた。
 決して、おざなりにはならなかった。常日頃、口数少ない黒子の問いかけだから、水を差すことなどできない。
「洛山には何でもあるそうです。遠い国の品物も豊富に揃っているから誠凜では手に入りにくい、めずらかな品物がいいでしょうね」
 黒子は飽かず、火神に語りかける。
 互いに分かっていた。
 異国に旅することだけが楽しみなのではない。すでに王族の婚儀に必要な幾つかの儀式を終えて、仮初めとはいえ、夫婦としての縁を交わしてはいたが、正式な婚儀はまだだ。
 だが、帰国すれば、時、待たずして、婚儀が控えている。ともに待ちかね、心よりのぞんでいたその儀式を終えれば、夫婦となる。
 瞳を覗き込み、見入りながら、火神は西域の葡萄酒、と戯れかけようとして止めた。肩をすくめる。そんなものを買わせたと、黒子の母である正妃に知れれば、どうなることか想像はついた。婚儀延期が冗談では済まされまい。
「お前に任せる。好きなもの買ってくればいい」
 火神は家臣たちが見れば、目を見張るほど静かに、優しげに言った。
「はい」
 黒子は誰に対するよりも、優しく情愛のこもるまなざしでうなずいた。
 その髪を梳いて、火神はふと呟いた。
「なあ、気をつけろよ」
「何にですか? ――ああ、盗賊や物盗りとか?」
「そうじゃねえよ。洛山の皇族は手が早いっていうからな」
 黒子は呆れたように火神を見上げた。
「父上が、どれだけの数の美女を連れて行くか、分かってます?」
「知ってる。供選びを見に行ったからな」
 黒子の視線にやや、棘が混じる。少しだけ、本当に少しだけ、火神に対しては狭量な面を黒子は見せる。それは、家族にすら、ひっそりとした気配を守って、静かに接する黒子にしてはめずらしい妬心という感情の棘で、だからこそ、火神はそれを見知るたび、喜びが湧く。
 ゆるむ口元を気にしていると、黒子は何を勘違いしたのか、幾分、眉をひそめ、やがて目を逸らしつつも、ゆっくりと呟く。
「……父上に願い出れば、気に入った方を、妾妃に迎えることも……将軍の奥方としては、その、君が望むのであれば、否やとはいわないので……」
 ふっとついた息に混じって笑みがこぼれた。
 心からの言葉を火神は口にした。
「俺はお前さえいればいいんだ」
 黒子は、黙ってうつむいた。指先を静かに握って、火神は黒子が顔を上げるのを待っていた。髪の揺れる音が聞こえた。こちらを見た瞳に笑いかけ、火神はごく自然に顔を傾けた。黒子が瞳を閉じた。
 触れるだけの口づけだけだった。自分がどれだけの宝を得たのか火神は知っていた。

 黒子が皇帝に見初められたと知らせが国元に届いたとき、これからもたらされる災いを思うと同時に、どこかで火神には得心がいった。
 それはやはり、大国の皇帝が持つ慧眼でもあったのだろうか。
 黒子はとくに美貌を謳われたわけではない。見目形ならば、献上のために伴った女たちは、黒子よりも遙かに優れ、たおやかで美しかった。
 面立ちに目を留めるよりも、気配のあまりの静けさに、何やら白昼夢か幻でも見たかのような印象を黒子は与えるが、ひとたびそれに馴染むと、まるで、涼しい水に指を浸したかのような心を、相手に抱かせる。物静かで、温和しやかな公主は誠凜の人々に、そのたたずまいと同じく、ひそやかな敬愛を抱かれていたが、同時に火神の許嫁としても、知られていた。
 飾らない人柄とその武勇にて、火神自身も誠凜でも名の知れた若武者であった。年長者は、あの鉄心さまの息子、と親愛を交え、若人は、他国にまで知られる武勇に憧れを抱いて、公主との縁組を祝った。
 誠凜の大将軍の子である火神と、王族とはいえ末子である黒子の縁組は、おかしいものではない。
 縁は火神の母が黒子の乳母として側に上がった頃より始まる。
 無鉄砲できかん気な火神と、物静かで、大人びていた黒子。火神の悪戯をかばい、たしなめ、苦手としていた学問の大切さを教え、激情に走りやすい彼を諭したのは黒子であった。
 ともすれば孤独に浸りがちな黒子に、人と触れ、語り合う楽しみを伝え、感情を分け合い、共有することのあたたかさを教えたのは火神であった。
 いつから心を決めていたのか。萌しすら見えぬ内から、火神は黒子を欲し、黒子もまた火神を求めた。幼な恋は年を経て、真摯なものと受け止められ、火神の父は、王に公主降嫁を願い出た。王に否やはなかった。乳きょうだいとしての縁が結ばれた頃より、思案の中にあった縁組みではあった。
 婚約が整えられたが、婚姻の儀は先延ばしにされた。宗主国である洛山の帝位継承に絡むきな臭い政変が、わき起こっていたからだ。
 父が王のもっとも信頼する将軍であること、それに乳きょうだいから婚約者という立場へとすでに変わっていたため、婚姻の儀が行われなくとも、火神は黒子とは、たびたび顔を合わせていた。そのたびにすまなげに、そして寂しげに謝られた。
 それでも、まだ父母の庇護の下に、とどまれる安堵を黒子は見せていたから、火神は苦笑とともに、黒子が心身ともに成熟するのを待っていた。
 待つことは何も苦痛ではなかった。黒子の輿入のための調度品や道具類は、時間をかけた分、誠凜国以来といってもいいほどの素晴らしい品々が揃っていた。ことに衣装は、后が吟味を重ねただけあり、仮縫いの際の黒子の姿を目にした火神もさすがに、あの衣装を身にまとった婚約者が自分の傍らにある日が早く来ることを願わずにはいられなかった。
 吉日を待つ間にも、火神は武勇を重ね、武の誠凜の誉れとまで讃えられるほどの軍功を得ていた。二人は誠凜でも似合いの一対として、婚儀の日は、誠凜の民人の間でも待たれていた。
 宮殿に伺候したある日、黒子はこっそりと火神に自分の輿入道具を見せた。薄暗く、冷たい部屋の中、それらの品々は主の手によって使われる日を静かに待っているようだった。
 これらの品々と共に、黒子との時間を重ねていく。そう思うと、火神の心は抑えきれず、騒いだ。
 黒子は火神の腕に触れ、新床に飾られる敷布を指した。
 織り手が丹誠込めて織り上げたのは、吉祥の紋様を散らした中に寄り添う二羽の鳥だった。
「鴛鴦、というんですよ」
 鴛鴦、火神は黒子の言葉を繰り返した。
「雌雄がずっと寄り添い、離れないといわれている鳥です」
 火神は黒子を引き寄せ、肩を抱いた。
「僕も火神君と鴛鴦みたいにずっとずっと一緒にいられるといいんですが」
「普通はそういう意味で、結婚するんだけどな」
 そうでした、と黒子は小さく笑んだ。忘れるなよ、と火神も笑むと、黒子はうなずいた。
 どちらかともなく、囁くように呟いた。婚儀の誓詞のように。祝詞のように。
 天にあって願わくは比翼の鳥となり、地にあって願わくは、連理の枝とならん。

 洛山行きを止めるべきであった。黒子を誠凜から出してはならなかった。
 皇帝は庭園の散策中に黒子を見初めたという。縁の糸が異なれば、末永く語り継がれる美しい恋物語になったのかもしれない。誠凜と洛山を結びつけるまたとない縁となっただろう。
 人倫を曲げることはできぬと王は皇帝に奏上した。婚約整う前ならば、喜んで差し上げたが今は夫が定められた身、不義を為すことになると申し上げた。
 我が意に逆らわれても皇帝はとくに怒りは見せなかった。ただ、黒子を側に寄越すように、とそればかりを繰り返した。
 諾とはうなずかぬ誠凜王に対し、皇帝は沈黙を保っていた。
 王たちが国へと戻る日、誠凜の王にもう一度、告げた。
「天地神明に誓って公主以外の妃は娶らぬ。皇后として迎え、その血を引く子を我が世継ぎにしよう」
「――どうか、その栄誉は他の美しき姫君たちにお与え下さい」
 即位当初、異相と囁かれた皇帝の眼差しは悲しげですらあったという。
 国に戻った王を追うようにして、洛山は大群を寄越した。
 王は最後まで、黒子を手放そうとしなかった。誠凜は貞潔の民だ。二夫に二妻にまみえず、主に忠を尽くし、二心を持たぬ。それが、誠凜の民の誇りだ。皇帝にすら屈さない。
 苛烈な誠凜の反抗は、大群の馬蹄に踏みにじられた。家屋は打ち壊され、火がかけられた。町は廃墟となり、黒煙が壊れた建物から立ち上り、人肉の焼ける臭いが漂った。畑は荒らされ、家畜は奪われ、民人はためらいなく殺された。皇帝は情けをかけなかった。生き残りは奴隷として、捕らえられた。
 誠凜は滅するのみであった。

 決戦前夜、黒子は白い夜着の上に、黒い外套をまとって、火神の元へ忍んできた。誰も知らないと言っていたが、争いの渦中ともいえる黒子の部屋に見張りがつかないわけではなく、火神はこの逢瀬を許した者の心中を思った。
 悔やむことも、恨むこともできる。黒子が早々に自分の元に嫁いでいれば、洛山に行くことなどなかっただろうし、王が黒子を伴わなければ、このようなことは起きなかった。洛山の都の壮大さを思いながらも、この誠凜で二人、心安らかに暮らしていけただろう。
 すべては遅かった。そして、いま一時を過ごすことしか、火神と黒子には残されていなかった。
 明かりを消してくれと黒子は細い声で頼んだ。火神が灯心を吹き消すと、かえって月明かりが部屋に満ちてしまい、黒子の裸身が陰翳を帯びて、青白く浮かび上がった。成長の萌しがあちこちにみえる肢体だった。
 急ごしらえの兵舎の、狭い小さな寝台で初めて、臥所を共にした。
 死を前にした昂ぶりは、無垢だった躯にも快楽を生まれさせたのか、火神が黒子を離すまでに、黒子は艶やかな声を響かせるようになっていた。
 子ができればいい。強い、たくましい子が。誠凜の民の血を受け継ぐ子が。火神が耳元でささやくと、黒子は何度もうなずいた。
 生と死が濃密に混じり合い、熱の波が引いた後は、静かな時間が訪れた。黒子は髪を一房、火神に与えて去った。火神も己の髪の房を黒子に与えた。
 別れ際、零れた呟きを思う。
 天にあって願わくは比翼の鳥となり、地にあって願わくは、連理の枝とならん。

 時と場所は違えど、死するのは同じだとそう思っていた。それは浅はかな考えだったのだろうか。
 皇帝が望んでいたのは、黒子だけだった。誠凜の国土でもなく、命を拒んだ王の命でも、ましてや火神の命でもない。
 欲していたのは黒子のみであった。
 数日の戦の果て、都は落ちた。
 王の首級が上げられ、引き続いて后も討たれた。火神は、なおも戦場で抗った。
 勝ち鬨を上げる洛山の兵士をなおも、馬上から槍で突き続けた。誠凜の最後の一騎を打ち倒そうと、兵たちは雲霞のように火神にむらがった。
 馬が足をくじき、地に投げ出されても、剣を振るった。己が血と返り血で全身が濡れる。息も出来ぬほどに駆け抜け、兵を斬った。刃こぼれすれば、死体や敵兵から得物を奪った。火神の歩むところ、死体が増え、血が流れた。孤独な戦いを続けていく内、夜が明けた。
 血のような朝焼けだった。地の果てまで敵味方区別なく、延々と無数の死体が横たわり、それを太陽が照らし出している。
 これが死でなくて何だというのか。生きて在ることに火神は目眩すら覚えた。
 空は澄んでいた。地には死が満ちていたが、空はあまりに清らで、青かった。
 生と死の狭間に火神が立ちつくしたとき、彼は幾人もの兵に押さえつけられ、ついに地に伏した。
 縛められ、兵の一人に担ぎ込まれたのは皇帝の天幕だった。
 黒子は青ざめた顔で、立ちすくんでいた。武具甲冑に身を包んだ物々しい兵士たちばかりに囲まれ、痛々しいほどに小さく、幼い。
 側には椅子が用意されていたが、座ろうともせず、後ろ手に縛られて天幕へと入ってきた火神に駆け寄ろうとして、兵に拒まれた。
 わずかな距離を遮る兵達の間からかいま見えた黒子の瞳の色に、すでにして屈せられたと悟った。ここにも一つの死があったのだ。
 皇帝は火神を認め、嬉しそうにほほえんだ。異相の皇帝――即位してすぐに囁かれた噂を思い出した。左右の瞳の色が違うことを指していたのだ。
 赤と黄の色した両目を細め、皇帝は火神を見下ろしていた。
「よかった。死んではいなかったな」
 まだ若い皇帝だ。それでも辺りの空気を払うほどの威厳があり、重厚なまでの重々しさがあった。均整の取れた肉体には甲冑を着込んでいる。いくつもの傷が目立つその甲冑は飾りではなかった。
 皇帝は自ら、剣を振るい、誠凜の名のある戦士を滅ぼした。火神の父ですら、彼の前に破れた。老いてなお、誠凜においては最強を謳われ、鉄心の二つ名持つ大将軍を鮮やかに討ち取ったのだ。
 周囲に侍る側近たちに、皇帝は誇るような声を発した。
「彼こそ、誠凜一の武者に違いない」
 皇帝の朗々とした声だけが天幕の唯一の音のようだった。
 戦場にあるにふさわしい、無骨な作りの玉座に腰を下ろし、皇帝は火神を眺めやった。指先が何事かを思案するように、肘置きを軽く、叩いている。
 目が火神から逸らされ、黒子を見つめた。
 何という瞳だっただろう。虚無を愛で包めば、あのような眼差しになるのではないか。
「――君が死ねば、テツヤが悲しむだろう」
 黒子が首をもたげ、皇帝を見上げた。その横顔には、希望などというものはうかがえなかった。より深い、絶望をもたらされた者が持つ暗いあきらめと恨みが漂っていた。
「だから、俺は決めているんだ。君を生かすと」
 皇帝は優しい口調と眼差しを黒子に向けた。黒子の表情は何も変わらなかった。あのような虚ろな瞳を浮かべさせるくらいなら、いっそこの手で黒子を殺したかった。
 皇帝が呟くように唄う。
 天にあって願わくは比翼の鳥となり、地にあって願わくは、連理の枝とならん。
 瞋りに、身動きした火神を兵達が地面に押さえつける。
 皇帝は軽く、手を挙げた。そのとき、ふと思い出したように、火神に皇帝は告げた。
「きちんと処置をするから、安心してくれ」
 兵の一人が、剣に手をかけた。後ろから口元に布を噛まされる。腰帯が解かれた。背筋を冷たい痺れが駆け上った。
 兵の一人が酒を下肢に吹きかけてきた。腰と腿を、紐できつく括られる。
 細身の刀を持った兵士が火神の前に立った。火神は皇帝を見た。静かに、彼はほほえんでいた。それが、まるで火神にとって唯一の幸福なのだとでもいうように。
 刃が当てられ、一刀で切り落とされた。火神は布をきつく噛みしめたが、うめきは堪えられるものではなかった。
 また一人、別の兵士が膝をつき、すいと針を押し込んだ。痛みは熱となり、全身を覆い尽くした。目の前が滲む。汗が地にしたたり落ちていくのが、妙にはっきりと見えた。
 黒子、と、もつれる唇で名を呼んだ。黒子が火神の名を叫ぶが、すでに遠い。
 黒子の顔も、皇帝の顔も、自分を取り囲む兵士の顔も、何もかもが溶けていった。
 その日、武人としてだけでなく、男としての火神も死んだ。

 自分に欠けたものは何なのか。火神は時折、自問する。
 男たる証しだけではない。国も未来も愛しい相手も、何もかもを失い、そうして、まだ何かが残っている。残骸ともいえる何かが。
 誠凜の民では、唯一、火神だけが、黒子の側に侍るのを許された。
 黒子は妃の一人として、後宮に入った。それから一月もしないうちに、黒子は鴛鴦宮へと移った。場所は移れど、皇帝のみが男たるべき後宮である。そこを火神は自由に出入りした。すでにして男ではない。どの扉も火神の行き来を妨げはしなかった。
 彼の最大にして唯一の役目は黒子の側にあり、黒子と皇帝を繋ぐことだ。
 国を滅ぼされ、夫を目の前で官刑に処された日から、黒子の躯が潤うことはなくなった。皇帝はゆっくりと時間をかけて、黒子の躯を愛撫するが、そこには乾きしかない。
 皇帝に失望の色はなく、様々な媚薬を用意させて、黒子の躯を丹念に開かせる。しかし、どれだけ手を尽くしても、黒子の体が冷えたままであると悟った皇帝は黒子の躯を探るように火神に命じた。
 火神の指が触れる一時だけ、黒子の躯はしなやかに、たわんだ。けれど、黒子が火神を迎え入れることはない。黒子の躯に生まれた熱が引かないうちに、火神は下がる。かわって皇帝が黒子と肌を重ねる。
 寝台から降りる火神だけを、黒子は見つめている。皇帝の指が、その頬をなぞり、上を向かせる。黒子は静かに目を閉じ、もう開こうとしない。皇帝は咎めなかった。
 薄い帳と衝立で遮られた部屋の一角に、火神は控え、待つ。夜伽をつとめた黒子の躯を清めるのも、火神の役目だった。
 衣擦れの音、皇帝の息づかい、寝台のきしみ、肌の擦れ合う音、閨に生まれる音の中、黒子の気配だけが感じられない。どれだけ耳を澄ませても、虚空へと吸い込まれていくようだった。
 皇帝は死人を抱いている。そう思う。間違ってはいなかった。黒子の生は火神と共に喪われたのだから。
 玉体が離れた後、火神は衝立の陰から出て、寝台へと近寄る。
 黒子は寝台に横たわったままだ。火神の手が触れると、黒子は目を開き、うっすらとほほえむ。抱擁を望むときもあるが、火神は黒子の額と髪を撫でるだけで、皇帝の目を憚り、抱き返しはしない。皇帝への恐れからでなく哀れみのために。
 火神は皇帝の前で黒子をいとしむのを止めていた。
 皇帝の愛撫は激しく執拗なときもあれば、優しく、淡泊なときもある。その痕跡の残る躯を火神は清める。盥にぬるま湯を張り、布をひたす。しぼった布で、肌をぬぐう。黒子の肌は冷えているが、火神に触れられるうちにぬくんでいく。それが、この時が、現つである証でもあった。
 生きながら死にゆく者もいる。死してなお、生かされている者もいる。死する生者にすがることでしか生きられる者もいる。

 毎朝、黒子に献じられる薬湯に、子生みを適わなくさせる薬が投じられているのを火神は知っている。それが、鴛鴦宮に亡国の公主を住まわせる条件だとされている。だが、傀儡でない、真実の実権を握る皇帝がそのような命を下すわけがない。
 火神は皇帝の微笑を見た。
「俺はテツヤの子など欲しくはない。俺より他にテツヤが憎しみを向け、君より他に愛を傾ける存在など、必要ない」
 後宮に入って間もない頃、薬湯を飲んだ黒子は苦しんだ末に、血塊とわずかな肉のかたまりを足の間から流し落とした。
 白い裳を赤くし、床にかがみ込んで肉片を集めていた黒子を思い出す。爪を赤黒くし、袖も裾も汚し、黒子は泣きもせず、痛みの声も上げず、白い顔で手を動かしていた。
 火神が肩を抱き、手に手を重ねると、黒子は肉と血を集めるのを止めた。強い子になるはずだったのに。ぽつりと呟いた。
 誠凜の滅びの前夜に交わした契りの子か。それとも、誠凜が滅びた夜、血と煤の臭いが漂う陣地で皇帝に組み伏せられた夜の子か。それは黒子にも分からないのだろう。もう、黒子の心にはすべてが遠い。
 黒子が口を開かなくなって、かなりの日にちが経つ。時折、気まぐれか、声を出すこともある。笑むこともある。
 皇帝は、そんなとき、ひどく上機嫌になる。黒子が見せた唇の震えにも似た笑みに、子どものようにうれしげに笑み崩れる。
「テツヤ」
 名を呼ぶその横顔は、初恋の喜びに湧く少年そのもので、伸ばした手は、ぎこちなく黒子の髪に触れ、頬を包み込む。その長い指と優しげな手のひらで、縊り殺せば、いっそ楽になるだろうに。思わずにはいられない。
 そうして、黒子を得たときのように多くの死を生み出したその手で、黒子をも殺せばいい。そうすれば、いい。けれど、皇帝には、決して出来ない。黒子を捉えたとき、彼もまた捉えられたのだ。
 時が流れゆくにつれ、火神は皇帝の気に入りの側近として、名を知られるようになった。時折、皇帝はやってみるかと言いたげに、国政を火神に任せる。その気になれば、支配も可能になる。洛山という大国を己の手で操り、いかようにも為せる。待ち受ける陥穽を知らぬ訳ではない。けれど、今更に守るものなど、どこにあろう。
 皇帝もまた破滅を待ち望んでいるのかもしれない。彼のそれは、おそらく、黒子を見初めたときからだ。
 狂れている。黒子はもとより、自分も、そして皇帝も。
 二人して死ぬべきだった。
 死に時を見失ったからには、やはり、狂れるしかない。
 
 夜渡りは間もなく、炎に照らされた長廊を歩み訪れる皇帝を迎えるため、鴛鴦宮はゆるやかに目覚めようとしている。
 沐浴をすませた黒子の髪を火神は梳いていた。火神だけでなく、女官たちが毎日、時間をかけ、一筋、一筋を慈しむように丁寧に梳き、香油を塗るために、艶やかで、甘い匂いが漂う。
 いくさ前夜、忍んできた黒子の髪は、夜の冷気と若草の匂いを含んでいた。獣の仔のように汗は甘酸っぱく、肌は激しく、息づいていた。
 残してください。鴛鴦のように、ずっとずっと一緒にいられるように、傷を残してください。
 囁きにうながされ、小刀で柔肌えぐり、溢れた血潮を啜ったのは、過去のことか、いまのことか。
 すべては淡く霞み、消えゆく。いつか来る滅びを待ち、静かに狂れていく。
 誰かが呟く。皇帝か、己か、それとも黒子なのか。
 ――天にあって願わくは比翼の鳥となり、地にあって願わくは、連理の枝とならん。
 ――天地、悠久といえどいつか尽き、けれど、この恨み悲しみ綿々と続いて絶えることなど無し。
 形をたわめられた鴛鴦は歪みながら寄り添い、天も地も尽きるその日を待ち望んでいる。



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