髪の毛を湿して、結び目をほどきはじめた灰崎を見た瞬間、黒子が目を逸らした。もちろん羞恥でない。唇がぷるぷる震えている。引き締まった腹部も、ぴくぴく震えている。そのまま、彼は湯船の中に身を沈め、灰崎から顔ごと逸らした。とはいえ、今度は肩も震えている。
「てめえ」
灰崎は低い、這うような声を出した。
「――笑いたかったら笑え!」
黒子の笑い声など、滅多に聞けないものではあるが、この日、灰崎は、いやというほどそれを聞いた。
見れば見るほどすごいですね、と黒子に評された髪型だが、そろそろ、結び目がゆるくなって、根本も伸びてきている。続けてもいいのだが、部活以外に、黒子と汗を流す機会が増えてきているので、髪型を変えてみるかと思い立ったのだ。
別に、湯船で笑う黒子の影響ではない。汗をかくと蒸れるし、寝るときや普段の細やかな手入れも面倒くさくなってきていたので、たまたま機会が重なっただけだ。
というわけで、思い切って、全体的に髪を洗おうとしていたのだが、先に洗髪を済ませていた黒子から見れば、湿ってあちこちほどけ、ゆるんだ結び目から髪が出てきた灰崎の髪型は、あまり表情を大きく崩さない黒子を持ってしても、非常に笑いを誘うものであったらしい。
軽やかな笑い声を上げる黒子を放って、灰崎は髪の結び目をほどく作業を続けた。美容師が一筋一筋、編み込んでいった結び目だ。そう簡単にはほどけない。
「――結構長いんですね」
笑いをおさめた黒子は湯船の縁に顎を置き、灰崎を興味深げに見つめている。
「長くねえと結べねえだろ」
細かく編み込まれた髪は、ほどかれて肩に落ちていく。肩に落ちていく灰崎の髪を指を伸ばして黒子はつまみあげた。
軽く引っ張られた。
「おい、暇なら手伝え」
「手間賃もらいますよ」
可愛くない答えが返ってきた。とはいえ、一人では時間もかかるので、灰崎は、黒子の求めるアイスクリーム五個と引き替えに、手を貸して貰った。バスチェアに座って髪をほどく灰崎の後ろに立って、黒子も髪の結び目をほどき、解していく。
「抜け毛がすごい……君、はげるんじゃないんですか」
「はげねえよ。今までの抜け毛がたまってただけだ」
「不衛生じゃないですか」
「洗えるのは洗えるんだよ、ってえ!」
「失礼しました」
黒子の手つきは手早いかわりに、時々、髪が引っ張られる。わざとじゃないかと思う節もなくはないが、放っておいた。黒子から、灰崎にちょっかいめいた構い方をしてくるのはめずらしい。
「灰崎君……結構、くさいです」
「うっせえ。わかってんだって。今から洗うから臭うな!」
黒子が灰崎の肩に手を置いて、頭部に顔をくっつけている。して欲しいときに、こういう仕草をしないで、人をからかうようなこういう時にだけ、近寄ってくるのが、ちょっと恨めしい。
振り返って、黒子の手を払い、湯船に浸かっていろと追い払う。
「いやです」
「はあ? 先、あがるなら、もっかいちゃんと肩までつかれ」
触れた黒子の体は、少し冷えていたから、灰崎は手首を握り、湯船へと引っ張るようにしたが、黒子は首を振った。
「どうせ、君、適当に洗うんでしょう」
灰崎の腕から手を引いて、黒子は灰崎の髪をふわりと撫でた。
「アイス五個分、手伝いますよ」
微笑も、瞳に浮かんだ光も、人が悪いといえば人が悪いそれだったが、むしろ、面白がるようなそれだった。
「目、ちゃんとつぶっててくださいね」
子どもに言い聞かせるようにして、黒子は湯おけに湯を満たし、灰崎の頭にざぶりとかけた。
何が楽しいのやら――好きにさせた。
濡れた髪の毛が泡に包まれていく。黒子の指が、撫でるには強く、掻くには優しい動きで、頭部にあてられて、髪を洗う。
灰崎は途中から自分で洗うのを放棄していた。頭頂部を洗う自分の手と黒子の手があたると、邪魔です、となぜか黒子に言われるので、手を下ろしてみた。さぼるなと言われるかと思いきや、黒子は、一人で灰崎の髪を洗ってくれている。
「ほんと、よく伸びましたね」
ごしごし黒子の指が地肌を擦って、しゃわしゃわと泡が立ち、シャンプーの香りがふわふわと広がる。こういうのもいいものだなと、鼻をくすぐるシャンプーの匂いに思う。甘やかされているようなこの感覚は案外、悪くない。目を閉じて、背後の黒子の気配を楽しむ。
黒子の指は、灰崎の髪に泡を馴染ませるようにして、柔らかく擦り、梳いていく。
「切るんですか?」
「わかんねー」
「また、同じ髪型に?」
「たぶん、変える」
「ふうん」
指が泡だった髪を梳いて、撫でつけていく。
「ずっと伸ばしてたんですね」
「ん?」
「流します」
灰崎は慌てて、目を閉じた。湯がかけられる。耳や首、背中を泡を含んだ湯が流れ落ちていく。
髪をすすいで、泡を流しきってしまう。水分を含んだ髪は、灰崎が思うよりも伸びていた。無造作に掴んで、水を絞っていると、黒子が肩に手を置いた。
何をしているのかと思えば、頭に鼻をくっつけて、匂いを確かめているようだ。
「大丈夫です」
顔を上げると、黒子が真上から見下ろしていた。
新鮮な角度だと灰崎がじっと見つめたままでいると、黒子が眼を細めた。ほほえみかえすと、額に唇があてられた。
「普通の髪型がいいです」
「普通ってなんだ」
さあ、と笑う黒子を指先で手招いた。顔をきちんと傾けて、唇を重ねやすくしてくる黒子に口の中が甘くなる。
誘われて、どんな髪型が好みなんだよ、と聞くと、教えません、と笑われた。
「短いのだろ」
「そうでもないですよ」
教えてくれない黒子と一緒に湯船に浸かる。背後から抱きかかえようとしたら、向かい合う方がいいと言う。膝の上に乗せてやると、指が伸びてきた。
濡れ髪を撫でつけていく。これがしたかったのだなと灰崎は苦笑した。ものめずらしげに髪をいじる黒子を見ながら、どんな髪型にしようかと考える。スキンヘッドにでもしてみるか。雑誌に載っているあちらの選手は、ほとんどが、その髪型だ。それとも、美容室に行った際にカタログを見ながら選ぼうか。
ふと気づくと、黒子がくすくす笑っている。視線を辿ると、髪の毛をあろうことか、お下げにされていた。
「お前は、ほんとに!」
指をはらい、髪をぐしゃぐしゃとほぐす。素知らぬ顔の黒子に手を伸ばし、同じように髪をかき乱す。濡れた髪から雫が散った。
昔、というには、まだ新しい記憶の中で、彼の髪はもっともっと短かった。幼げな頬の線はもう、それほど残っていないけれど、あの頃と同じように、また黒子は笑う。
黒子が灰崎の腕から逃れようと身をよじり、それを捕まえようとする灰崎の動きも重なって、湯船から湯がこぼれ落ちる。
したたる水音を聞きながら、灰崎は黒子を腕にとらえ、黒子はおとなしく腕の中におさまった。
いたずらされてはかなわないので、今度は後ろから黒子を抱く。髪に鼻を埋めて、嗅いでみると同じ匂いが漂った。
「……そういや、家にアイスねえぜ」
もぞりと動いた黒子が、灰崎を振り仰いだ。小憎らしい顔つきが、ふといとしく思えるのは、たぶん惚れた欲目だろう。
「いってらっしゃい、灰崎君」
お前を喰ったらな、と灰崎は聞こえぬように呟いて、手始めに、水滴の浮かぶ鼻先に唇を落とした。