おわかれ



 ここまでで、いいよ。
 ロシウの胸にシモンは軽く触れて、言った。
「もう少し先まで送ります」
 しょうがないなとでも言うようにシモンは笑い、また二人並んで、歩いた。
 ホームに人気はなく、歩くのはシモンとロシウの二人だけだった。暮れゆく空に逆らうように、灯りがともる。
 シモンは時計を見上げている。もうすぐだと声が聞こえた気がしたが、空耳だったようだ。シモンの眼差しは、まるで夢でも見ているかのように、遠いものだった。心はすでに、今から向かう場所へあるのだろう。
 最初から手に入れられるとは、思っていなかった。だから、胸も痛まない。哀しくもない。涙も出ない。いつもの自分でいられる。ごく普通に、自然に、シモンを見送れる。大丈夫だ。
 言い聞かせたロシウは、しかし、動けなかった。
 シモンは歩き出している。まっすぐな背中に、戸惑いがある。不安がある。喜びがある。
 それは、あの子の背中と比べれば、どれだけ幸福なことだろう。あの子は、大声で泣けばいいのに、声も出さず、涙も零さず、うなだれていた。声を上げて泣くよりも、深く、泣いていた。あの子は一人だった。世界に匹敵する存在を無くして、シモンは一人だった。
 ――指切りしましょう。
 側に膝をついて、肩に手を置いて、顔を覗き込んで、言った。
 離れません。死にません。置いていきません。ずっと、ずっと、シモンさんが望む限り、側にいます。言葉をかみ砕くように、何度も何度も繰り返して、シモンに伝えた。
 やがて、シモンのうつろな目がまたたいた。力無く上げられた腕を取り、ロシウは自分の小指をシモンの小指にからめた。
 何があっても、この約束だけは守る。固く、誓った。最初で最後の約束と誓いをロシウは守り通した。
 だから、離れるのも、置いていくのもシモンの方だ。分かってはいても、ほどけていく小指の感触が苦しくて、息がつまりそうになる。胸に苦くて、大きな塊がつかえたようで、声もかすれる。
 シモンが振り返った。
「ロシウ」
 自分を呼ぶときの間の取り方が、もうすぐ懐かしいものになるだろう。
 今度から、シモンは、隣を見上げるだろう。そこに彼がいる。振り返っては彼の名を呼び、呼び止めるために彼の名を呼び、笑うだろう。
 もう、シモンは彼だけのものだ。思って、ロシウは唇を歪めた。シモンには、返事代わりの笑みに見えたのだろう。また、歩き出した。追いつくために、ロシウは足を踏み出した。
 隣に肩を並べても、シモンは、すでに遠い。
 凍てつくような寒い日だった。カミナから連絡が来たとシモンが知らせたとき、ロシウは全身から血の気が引くとは、このことかと感じた。
 青ざめたロシウとは対照的に、シモンは頬を上気させていた。
「兄貴が、迎えに来てくれるって」
 何年ぶりに聞いたのだろう。このときまで、シモンは、カミナを呼んだことは一度もなかった。心では何度、呼んでいたか分からぬその名を、その呼び方を、シモンは、ロシウの前で初めて口にしたのだ。
「俺、行っていいのかな。会って、いいのかな」
 見る間に、幼い子どもが涙を堪えているような表情に変わる。
「……行って、いいんですよ。会えるんですよ」
 シモンが約束をした訳ではないから、ロシウは止めるすべを持たない。
 ずっと、ずっと、シモンはカミナを待っていた。彼以外、誰も見ていなかったし、見ようともしていなかった。シモンの視線は、いつもここでない、どこかにあって、その先にはカミナがいた。
 彼になりたいとも、代わりになりたいとも思わなかった。ロシウは、ただシモンの側にいたかった。それだけで終わらせるには、あまりに多くの感情が流れてはいたけれど。
 ロシウの言葉に、シモンは大きく、ゆっくりと息を吐き、唇を噛みしめた。指が、唇が、体が、大きく震え始める。
 シモンの涙も初めて見た。ぬぐっても、ぬぐっても、とめどなく涙はこぼれ、ロシウの指先をあたたかく濡らした。いとしいと思うのか、憎いと思うのか、選べないまま、今日という日を迎えた。
 列車が入ってくる。吸い寄せられるように白いラインに近づいたシモンを、危ないからと引き留めた。彼の手には荷物もない。必要なものは、向こうで揃えるからと身一つだ。それこそ、旅立ちにふさわしい。
 列車が止まってから、ロシウはシモンの腕を放した。不思議なほど、それは簡単だった。
「ばいばい、ロシウ」
「さようなら、シモンさん」
 手は振らなかった。
 列車に乗り込んだシモンは、すぐに振り向いた。
「ロシウ」
 シモンの表情は安らかだった。
「ありがとう」
 今まで聞いた中で、一番、残酷で、一番、優しい響きを持つ、言葉だった。

 駅を出れば、日は暮れていた。西の空には、まだうす紅色した夕陽の名残があるが、それも一瞬ごとに黄昏の空に呑み込まれていく。
 夕暮れどきにシモンと歩いていると、時々、そのようにして、シモンも空に飲まれてしまうのではないかと思った。彼がその髪の色と同じ色をした空と混じり合うのは不思議ではないと、心のどこかで感じていたから、夕暮れどきは嫌いだった。少し、怖かった。
 今日だけは、いや、今日からは、この時間をいとおしく思わずにはいられない。
 夜になるまでのわずかな一時、人の輪郭が淡く滲んで溶け出していくようなこの時の中で、怨みも憎しみも悲しみも、怒りも後悔も何もかもが溶けていく。ほどけていく。
 シモンとの時が大切だった。シモンが大事だった。痛む小指に、時を惜しみ、シモンを惜しむ。
 なにも、すべての命が萌えいずるこの季節に、往かずともいいのに。誰かが去っても、その気配がすぐ側で息づいているような、こんな季節に失ってしまえば、風が吹くたび、鳥の声が聞こえるたび、その人を探さずにはいられないのに。
 最後までひどい人だった。思って、ロシウはかすかに笑う。
 すべてを思い出にしてしまえたその時、シモンは迎えに来てくれるだろうか。その日は来るのだろうか。
 いつか、会える日まで、今度こそ、一人なのだ。分かっていながら、ロシウはシモンを探した。薄闇の中から呼びかけるシモンの声を求めた。
 残照は消え、夕闇が広がる。これからは、一人だった。



<<<