初めての冬だったから、シモンには雪景色がめずらしかった。本当なら、いけないことなのだ。真っ白になった野や岩場、林では、たぬきの茶褐色の毛色は目立ってしまう。それでも、巣穴からは離れないと約束して、その周囲の雪で遊んだ。
雪はひんやりして、ふわっとして、さらさらで、さくさくで、気持ちいいものだった。
雪の上を転がって、鼻を突っ込んで、しっぽを振って散らして、くるくる回って、その内に、足跡をつけていくのに夢中になった。どこまでも、どこまでも、自分の走った跡が見える。つけては振り返り、点々と雪に残る足跡に、嬉しくなる。まるで、もう一匹の自分と追いかけっこをしているような気分だ。
負けないように、全速力で走っても、足跡はいつもついてきた。しっぽで雪を撫でて、消して、もう一度駆けた。雪に隠された岩で転んだところで、追いかけっこをやめた。
顔についた雪を前足でぬぐう。つん、と冷たい匂いがする。空気が嗅ぎ慣れたものではなかった。知らない場所の臭いだけが辺りに満ちている。父の匂いも母の匂いもしない。ひげを動かしても、耳を澄ませても、気配は感じられなかった。
怖くなった。鳴き声を上げて、呼びかけてみても応えはなかった。シモンは駆け出した。とたとた走って、雪をまき散らして、また岩につまづいた。今度はいけなかった。急な斜面になっていたのだ。
転んだときのはずみがついたまま、シモンは斜面を転がり落ちた。雪を散らし、細長い跡を残しながら、ごろごろ転がっていく。目が回って、頭の中が歌い出した。
ぐるぐる、どんどん、ぐるぐる、どんどんと繰り返して、最後の、どんで、シモンは雪の中に埋もれた。
頭の中が、まだ歌っている。
ふらつきながらも雪の中でもがいていると、不意に体が宙に浮き上がる。
「たぬきか」
シモンはじたばたして、自分を掴むもこもこしたものから逃れようとしたが、思いの外、力が強い。ひとしきり暴れたが、苦しくもなく、あたたかいし、何より、疲れたので、シモンはもがくのを止めた。すると、もっと上に上げられた。
「まだ、子どもだな」
シモンは、やっと相手が人間なのに気づいた。あまりにも驚いたので、シモンはそのまま腰を抜かした。
人間に掴まるとは! 両親に外に出るときには、一番、気をつけるように言われていたことだというのに。
怯えるシモンのすぐ近くで、人間は笑った。
「ちび、どっから来た。喰われるぞ」
震えようにも抜けた腰が戻らず、シモンはぐったりとのびていた。
「うはは」
人間が笑い始めた。ずっと笑い続けている。そのうちに、シモンを撫でてくれた。
「たぬきも腰、抜かすなんて、知らなかったぜ」
さんざん笑い、たくさん優しく撫でて、人間はシモンを離してくれた。
「どこの山から下りてきたか知らねえが、気いつけて帰れ」
シモンは人間を見上げた。素早く、走って、いきなり振り向いてみた。
人間は追いかけてこなかった。まだ笑っていた。また走り出して、急に振り向いてみた。
立ってこちらを見ているが、やはりにこにこ笑っている。シモンは安心して駆け去った。
巣穴に戻ったシモンは、その後、しっぽを揺らしながら考えて、丸くなっても考えて、決めた。
恩返ししなければいけない。お礼を言わなくてはいけないのだ。決めてしまった次の日に、父と母の目を盗んで、またしても巣穴の外に出た。その際、シモンはこっそり、寝床にあった葉を持ってきていた。これさえあれば、恩返しもきっとできるだろう。
あの小屋を目指して、急いだ。幸い、昨日のように転がり落ちていくこともなく、無事に小屋の裏手についた。辺りを見回したが、人間はいない。
ようし、と気合いを込めて、シモンは葉っぱを頭に乗せた。じゅげむじゅげむと呟いて、ひっくり返る。父や母のようにくるりと格好良く、一回転は出来ない。それでも起き上がるときには、シモンは人間に変化していた。
頭に手をやり、耳が出ていないか調べる。尻からしっぽが出ていないか、頬にも手をやり、ひげが飛び出ていないか、確認した。大丈夫のようだ。
今までで一番の変化の出来だ。これならば、あの人間に会っても大丈夫だ。胸をどきどきさせながら、シモンは山小屋に近づいた。いつもの癖で、壁を臭おうとしてしまい、シモンは頬を手でぱちぱち叩いて、今度はドアをノックした。
思ったよりも長い時間、待ってから、ドアはほんの少し、開いた。高いところにある目が、自分を見つけるまで、シモンの胸は飛び出しそうなくらいに、早く鼓動を打っていた。
人間は、もちろんシモンが昨日のたぬきだと気づくわけがないから、不思議そうに訊ねた。
「――なんだ、おまえ?」
「おれ、シモン、です」
「シモン、ねえ……」
人間は、わしゃわしゃっと自分の頭を掻いて、腰をかがめた。
「俺ぁ、カミナだ」
「かみな」
呟いて、シモンは嬉しくなった。初めて、人間の名前を教えてもらい、初めて口にした。それが、自分をたくさん撫でてくれた人間あるのが嬉しかった。
「まあ、カミナで間違いはねえが、お前はちっこいから、俺のことはアニキとでも呼べ」
「あにき?」
「そうだ」
「うん」
シモンが、へへっと笑うと、カミナはじっとシモンを見据えた。
「で、シモンはここに何しにきた?」
カミナの目が、ぴかりと光ったような気がして、シモンは身をすくませたが、何とか踏みとどまった。ひょっとしたら、腰の辺りから、ちょっぴりしっぽが出てしまったかもしれないが、頑張って気を引き締めたので、何とかなった。
「たぬき……昨日の。ありがとうって、いいにきた」
「ああ」
カミナが大きくうなずいた。
「飼いだぬきだったのか」
にかっとカミナが歯を見せて、笑った。
シモンも真似して、目を細くして、口を動かして、笑ってみた。カミナがもっとにこにこしてくれたので、成功したようだ。
「お前、どこのちびだ?」
「あっちのお山」
シモンは背伸びして、自分の住んでいる西の山の方角を指さしてみた。
「ふうん」
カミナは山を見て、シモンを見て、頭をかいた。
「俺のこと、誰かに話したか?」
シモンは首を振った。
「こっちに来たらだめって、怒られるから話してない」
「なら、そのまんま、黙っててくれ」
「うん」
「ゆびきりげんまんだぞ」
シモンは瞬きした。
「ゆび……げんまん?」
「知らねえか?」
シモンがうなずくと、カミナはふうんと首をかしげながらも、ゆびきりげんまんを教えてくれた。
ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼん、のーます。
シモンはその歌がすっかり、気に入った。何度も何度も口ずさんで、事あるごとに、せがんで、他愛ない約束をしてもらい、そのたびにゆびきりげんまんをしてもらった。
なにしろ、恩返しなのだ。カミナのところには毎日、行かなければならない。シモンはそう呟いていつも巣穴を出る。
会うときは人間の姿になるので、同じ時期に生まれたたぬきよりも小さくて、あまり上手ではなかったシモンの変化の術も上達してきた。
人間の姿で、カミナのいる小屋にやってきては恩返しをしているが、お前といると退屈しない、とカミナはいうから、きっと恩返しは成功しているのだろう。
カミナは管理人をしている、と教えてくれた。いま、住んでいる小屋の向こうの山側には、別荘という建物がたくさんあって、そこにいたずらをしに来たり、勝手に入り込んだりする人がいないかを見張ったりしているのだそうだ。シモンもカミナを手伝って、一緒に見回りをした。
今年はあまり、雪が降らないので、管理は楽だ、とカミナは言う。それでも地面を覆うほどには雪が積もり、その上をカミナと並んで、シモンは歩いた。
別荘は、カミナの言うとおり、たくさんあって、どれも大きくて、広かった。午前中いっぱいを使って、別荘を見て回ってから、カミナは小屋に戻り、シモンはその側で、カミナがすることを見ていた。
小屋の中では、ストーブの上にかけられたヤカンが湯気を噴き出している。ココア、というのをカミナはシモンが来るたび、作ってくれた。甘くて、あつくて、とても美味しいそれを啜りながら、シモンは板を切ったり、削ったり、くっつけたりしているカミナをじいっと見ていた。
シモンが小屋を訪れ始めてから、カミナは、時間が空けば、こうして手を動かしているのだ。なにを作ってるの、と何度、訊いても、もうすぐわかる、と笑って、教えてくれない。
椅子に座って、足をぶらぶらさせながら、シモンは、もうすぐっていつ、とこれもまた、何度もカミナに聞きながら待っていた。
退屈なんてしなかった。小屋の中には、物珍しいものがたくさん置いてある。何より、たまに顔を上げるカミナと目が合うと、笑いあえるのが楽しい。
それに、さっきから、カミナは、シモンをちらちら見ている。瞳が何か楽しいことを企んでいるような光り方をしているから、もしかして、とシモンは思った。
予想は当たって、やがて、カミナが歯を見せた。
「よし、できたぞ!」
シモンは椅子からぴょんと飛び降りた。
「なに? なにができたの?」
「ソリに決まってんだろ! 行くぞ、試し乗りだ」
引っ張られるようにして、外に出て、雪の積もった斜面を登る。こけそうになるシモンを支えながら、てっぺんまでのぼったカミナはソリに乗った。シモンがそれを見ていると、カミナが手招きした。
近づくと腕を掴まれ、引き寄せられる。あっというまにカミナに後ろから抱きかかえられるようにされて、ソリに乗せられた。
「アニキ?」
カミナの膝の間に体を挟まれたシモンが振り返ろうとすると、カミナの楽しそうな声が耳のすぐ側で聞こえた。
「腰、抜かすなよ」
カミナはそのまま、シモンを背後から抱いたまま、ずるずるとソリを動かした。
板を通して、お尻に振動が伝わってくる。
何をしているのだろうと思った瞬間だった。
体が前へ傾き、見えない糸に引っ張られるようにして、斜面を滑り出した。最初はゆっくりだったソリの動きが、すぐに速くなった。耳のすぐ側で、ひゅんひゅん、ごうごう、と風が唸る。驚きで声が出ない。見開いた瞳の表面を冷たい風が乾かしていく。
斜面を滑り降りてもソリは止まらなかった。このまま、うんと遠くに行ってしまったらどうなるだろう。シモンが不安になった頃に、カミナが足をソリから出して、雪の上で突っぱねた。どしん、と軽い衝撃の後、ソリが止まる。
「どうだ、シモン!」
カミナが顔を覗き込んでくる。しばらく惚けていたシモンだったが、カミナの笑い顔がすぐ側にあるのに気づいて、まばたきすると、口をぱくぱく動かした。
「すげえだろ!」
「すごい……」
「だろ」
「うん」
「もう一回、行くぞ」
「うん」
何度も昇って、滑って、昇って、滑ってを繰り返して、それだけであっという間に時間が過ぎた。
そろそろ帰るぞ、とカミナが言い出した後も、二回ほど一緒に滑ってもらい、ようやくシモンはソリ遊びを止めるのを承知した。
帰り道、カミナはシモンをソリに乗せて、引っ張っていってくれたが、途中で、交代だ、と言って自分がソリに乗った。
シモンはソリから降りて、カミナの手のぬくもりが残るロープを握って、頑張ってみた。だが、楽々とそりを引いていたカミナと違って、シモンには、カミナの乗ったそりをどうしても動かせない。
シモンがロープを引っ張って、唸っていると、カミナが笑って、立ち上がった。
途端、すてんと後ろに尻餅をついた。
「ひどいよ、アニキ!」
「わりい、わりい」
カミナはシモンに手を差し出して、起きあがるのを助けてくれた。
そこで、カミナは、ふとまばたきして、自分のてぶくろを外した。カミナの大きな手に手を握られたかと思うと、てぶくろがはめられた。
「でっかいけど、はめとけ。俺の分は、もう一個あるし」
少し、照れたように言って、カミナはシモンの頭を撫でた。シモンは、自分の手にはめられた黒いてぶくろをじっと見ていた。黒くて、もこもこして、あたたかった。家族でいる巣穴のようにあたたかい。心細さが薄れて、胸が太陽にあたためられた毛のようにふかふかになった。
てぶくろは手には大きすぎたが、そのぶかっとした具合が、シモンには満足だった。
両手を握ったり、開いたりして、遊んでいると、カミナが吹き出した。
「大きすぎたな」
「ううん。これ、あったかい」
ありがとう、アニキ。シモンがそういうと、カミナが頭を撫でた。耳を出してしまいそうになり、シモンは目を閉じた。
カミナに触られるのは、とても気持ちがいい。てぶくろをはめているときにも似ていて、体中がぽかぽかしてくる。もっともっと撫でて欲しくて、シモンはいつもカミナが触れてくれると体をすり寄せてしまうのだ。尾っぽを出さないように気をつけて、カミナにくっついた。
大きなてぶくろを小さな手にはめて、ぎゅっと握りしめていたシモンは、カミナがこちらをじっと見下ろしているのに気づいた。
シモンのまばたきに、カミナはふっと微笑する。
「シモン」
「なに?」
「……いや、何でもない」
「変なの」
シモンが笑うと、頭にあったカミナの手が降りて、耳を引っ張った。
「耳も冷たいな」
両耳を引っ張られて、手のひらで塞がれた。あたたかいけれど、頭の中で風がごうごう唸るような音が聞こえて落ち着かない。
アニキと呼びかけようとして、シモンはカミナが何か言っているのに気がついた。
聞こえそうなのに頭の中の風が邪魔をして、聞こえない。
カミナが手を離した後、シモンは何を言ったのか訊いてみたが、何度問いかけても、カミナは教えてくれなかった。
「もっと、大きくなったら教えてやるよ」
返事はこればかりだ。
「どうせ俺はちっちゃいよ」
がっかりしながらも言い返したら、カミナは笑って、シモンの頭を撫でた。
「ゆっくり、大きくなれ」
撫でられれば、がっかりした気持ちも薄くなって、嬉しい方が強くなる。アニキの手は不思議だなとシモンは思った。
「アニキ、アニキ」
カミナが羽織っているごわごわした防寒用のジャンバーの裾を、シモンは引っ張った。
「大きくなったら、ほんとに教えてくれる?」
「ああ」
じゃあ、とシモンが手袋に包まれているため、倍ほどの大きさになった小指を差し出すと、カミナは毛糸の上からでも、しっかり小指を絡めてきてくれた。
「ゆびきりげんまん。うそついたら、はりせんぼん、のーます、ゆびきった」
ゆびきった、と言ったカミナは笑っていたけれど、シモンにはいつもの笑い方と違うように見えた。
なんとなく、不安にかられて、シモンはもう一度、約束をせがんだ。
「アニキ、明日は雪合戦して、またソリ滑りしようね」
「ああ」
今度の、ゆびきった、と言ったときのカミナは、いつもどおりだった。なのに、不安はあまり薄くなってはくれなかった。また明日、と別れて巣穴に戻りながら、シモンは何度も何度も振り返った。カミナはシモンが振り返るたびに、手を振ってくれた。
また明日。カミナに聞こえないと分かっていても、そう言って、シモンも手を振り返した。
巣穴のある西のお山から、カミナのいる小屋がある隣の山まではそれほど遠くない。人に変化して歩いていってもいいのだが、シモンは変化の術を使うのは、カミナの小屋が見下ろせる場所にたどり着いてからと決めていた。
今日も、巣穴から持ってきた葉っぱを頭に載せて、おまじないを唱えた。
「じゅげむじゅげむごこうのすりきれ」
変化は上手になっても、まだとんぼ返りはできないから、ぴょんと後ろにひっくりかえる。
人の姿になってから、シモンは昨日、カミナがはめてくれた手袋を自分ではめた。ぶかぶかだけど、あったかい。片手を結んで開いていると、嬉しさがこみあげて、自然に笑みが浮かんでしまう。
岩場の上によじのぼって、いつものように斜面を駆け下りようとして、シモンは鼻をひくひくとうごめかせた。
雪の匂い。冷えた空気の匂い。そこに混じる小屋から漂う人の匂い。いつもならカミナ一人の匂いなのに、今日は変だ。ぞわぞわっと背筋に震えが走った。
他に人がいる。カミナ以外の臭いが混じっている。シモンは、少し迷って、岩から降りると、手袋を外して、くるりと前転した。たぬきの姿に戻る。
手袋をくわえて、雪の上を走った。さくさく雪を踏んで、シモンは裏から回り込むようにして、小屋に近づいた。小屋の側には小さな繁みがある。雪が積もったそこに潜り込んで、シモンは枝葉の隙間から、様子を窺う。
男が二人、どこか手持ちぶさたのように立っているが、辺りを見回す目つきは鋭い。急に胸がどきどきしてきた。シモンは繁みから這い出て、小屋に近づいた。
中の話し声が聞こえてくる。
「逃げ切れると思ってたのか」
「やってみないとわからねえだろ」
「警察を舐めるな」
荒々しい声が聞こえて、シモンは身を竦ませた。カミナは怒られているのだろうか。
「そんなに大声だすと、雪崩が起きるぜ」
カミナはいつもの口調で、言う。それから、また、ぼそぼそとした話し声が響いた。
男たちがカミナの名前を呼んだ。
「じゅうさんじ、はちふん、たいほ」
何かを刺すような鋭い声が漏れ聞こえた。がしゃんと聞いたことのない音がして、誰かが立ち上がり、誰かが動き回り、やがて扉が開いた。シモンは慌てて繁みの影で、変化すると、てぶくろをはめて、扉の方へ行った。
カミナが三人の男に左右と背後を囲まれて、出てくるところだった。
「アニキ!」
「シモン……」
カミナが目を丸くした。男たちがぎょっとした顔で、シモンを見る。
「弟か」
「いや、係累はいないはずだ」
「――近所のガキだ。遊びに来てたんだよ」
カミナが口を挟んだ。男たちは、呆れたようにカミナを見やったが、すぐに素早い目配せと囁きを交わし合う。
「見張りの連中はなにをしてるんだ」
「子どもだろう。小さいから見逃したのかもしれない」
男の一人がシモンに近づき、肩に手を回し、カミナから遠ざけようとする。
「おじさんとおいで」
「俺、アニキに会いにきたんだ。離して」
シモンは首を振って、男の手から逃れようとしたが、無理だった。言い聞かせるような声音で、シモンに話しかける。
「あの男の人は、今から行かなくちゃいけないところがあるんだ。ぼくのおうちはどこかな? おじさんが送っていこう」
シモンは聞こえないふりをして、カミナを見上げた。カミナはなぜだか、両の手首をくっつけていた。悲しそうな、諦めたような、それでいて、おかしそうな笑みを浮かべている。
「アニキ、どこ行くの? 雪合戦しようって約束したのに」
カミナは笑みを深くした。笑っているのに、シモンは胸が痛くなった。変だ。おかしい。カミナが笑ってくれると、いつも嬉しくなったはずなのに。
「……おっさんら、もう逃げねえから、挨拶くらいさせろや」
無精髭の男が、うなずく。
「急げよ」
カミナはその場にしゃがみ、シモンと目線を合わせた。
「あのな、雪合戦はもうできねんだ。急に用事ができたんで、勘弁してくれ」
「もう、おうちに帰るの?」
カミナは答えなかったが、シモンはうなだれた。冬の間は大丈夫だと思っていたのに。悲しくなった。でも、泣いてしまったらカミナは困るだろう。
シモンははめていたてぶくろを差し出した。
「じゃあ、これ返す」
カミナは笑って、首を振った。
「お前にやる」
「だって、これアニキのだよ」
「――いつか返してくれ」
シモンは、約束、といって、小指を出した。
カミナは少しの間、うつむいていた。
シモンはカミナの唇が、震えて歪むので、出した指を間違えたのかと慌てた。小指ではなくて、薬指だっただろうか。小指を倒して、薬指を上げようとしたが、うまくいかなかった。
「不器用だな」
かしゃりと音がして、カミナは手首の間に鎖を光らせながら、小指を上げた。シモンはカミナの小指に自分の小指を絡ませて、教えられたとおり、ゆびきりりげんまん、と歌った。
「うそついたら、はりせんぼん、のーます、ゆびきった」
周りの男たちは黙って、シモンとカミナを見下ろしていた。カミナは最後にシモンの頭を撫でて、男たちに囲まれて、小屋から去っていった。
シモンは家に送っていこうという男の一人を山道の途中でまいて、たぬきの姿に戻ると、カミナの匂いを追いかけていった。日が沈んで、山に囲まれた町はとうに暗くなっていたから、姿を隠す場所には不自由しなかった。
金属の冷たい臭いや煙草の臭いに紛れて、ずっと馴染んできたカミナの匂いを辿っていったが、ついに、カミナの匂いは途絶えてしまった。
人の気配はないが、もっとたくさんの人間の匂いと、車の排ガスと大きな金臭さに満ちていた。
シモンは鼻を地面に押しつけ、空気の臭いの筋を注意深く辿ってみたが、カミナの匂いはどこにもなかった。
空を見上げた。星がきらきら光っていた。風がひゅうひゅう唸って、今夜は冷え込みそうだった。シモンは寂しくなり、鼻で少し鳴いた。空腹だった。山に帰ろうと歩き出したとき、聞いたことのない音が耳に届いた。
風を切って、何かが近づいてくる。シモンはおそるおそる、音の聞こえた方に行った。鉄の臭いはきつくなる。人の臭いが風に攫われて消えていく。
カミナがいた小屋にあったような明かりが、ぽつんぽつんとある中、遠くから目を刺すような強い光が近づいてきていた。シモンは怖くなり、ゴミ箱の影にひそみ、壁に身をぴったりと押し当てて、光をやり過ごそうとした。
ごおっと大きな音を立てて、きらきら光る鉄のかたまりが、やって来た。シモンは壁にぴったりと身を寄せ、それを見つめていた。
人が降りてきた。明るくて、眩しくて、大きくて、鉄臭い固まりの中からだ。
匂いが消えた訳が分かった。カミナはあれに乗って行ったのだ。では、きっと、あれに乗って戻ってくるに違いない。良かったとシモンは安心した。
うちに帰ろう。途中で、木の皮でもかじって、母のしっぽにくるまって眠ろう。
帰り道は、もっと寂しかった。切ないくらいに、体が冷えていた。
父と母は、人の臭いをつけて、悲しそうに帰ってきたシモンを責めはしなかった。ふっさりしたしっぽを子狸のからだに巻きつけ、抱き寄せてくれた。その中でシモンは眠った。安心しながら、どうにも切なさは消えようがなかった。それ以来、胸に残って、どこへも行ってくれなかった。
――二回目の冬、シモンはてぶくろをくわえて、駅に行った。
ホームの端に座り、遠くの山の方を眺めた。長い長い金属の線が二本並んで、伸びていく方向だった。
シモンは待っている。雪がちらつき出した。体とてぶくろが濡れた。寒くなったのでシモンは体を震わせて、積もりかけた雪を落とすと、丸くなった。てぶくろを体に抱えて、濡れないようにした。
黒い色にはシモンの体毛がからんでいたが、目立って汚れた部分もほつれた箇所もなかった。相変わらず、はめればあたたかいてぶくろだった。どんな冷たい手だって、あたためてくれる。
鉄の固まりからカミナが降りてきたら、すぐに変化して、てぶくろを渡しに行こう。きっと、カミナは、ちょっとだけ大きくなったシモンにびっくりするだろう。また頭を撫でてくれるだろうか。それに、前は教えてくれなかった言葉を、今度こそ、教えてくれるだろうか。
頭を撫でてもらって、何を言ったか、教えてもらって、それから、出来なかった雪合戦をして、大きな雪だるまを作るのだ。もちろん、ソリ滑りも忘れてはいけない。
秋の間に貯めていた栗の実をカミナにあげよう。どんぐりも見せよう、大きなものも、小さなものも、特別、ぴかぴか光るものも、全部、全部だ。
それから……それから……。
一つ、一つ、カミナとすることを数え、シモンは待っている。けれど、カミナはまだ来ない。