頭上からしたたり落ちた一滴の雫が生み出したわずかな音は、深い洞窟にあって、幾重にも、こだまする。反響し、響きあう音は、どの場所から何滴、雫が落ちたのかもわからぬほどだ。
あとは己の息づかいの音、そして歩む足が立てる水音だけだった。
今は膝丈ほどにまで深くなった水はぬるい。山中の洞窟湖であるというのに、まるで人肌のような温度を保つのは、やはり、ここに魔物が巣くうあかしか。
カミナはかざしていた明かりを手元に引き戻し、足下を確かめるようにして水面を照らした。
洞窟に入るやいなや、カミナを導くかのように黄金の光を放ち出したそれは、竜の牙、と呼ばれる秘宝だという。いにしえからこの地に住まわっていた竜の力の源であったというが、その牙は、竜という言葉からは想像できないほどに小さい。大きさは親くらいだろうか。見つめていると目眩を引き起こすような螺旋が表面に刻まれている。
いかなる地上の武器もこの牙を砕くことは出来ないと伝えられ、事実、洞窟の岩盤にカミナが方向を指し示す目印をつけても、牙は傷つかなかった。それどころか岩盤が、蝋のように柔らかいのかと思われるほど、たやすく、えぐれるのだ。
リットナーの地にて、王が引き継いできたこの宝物を、一介の渡り戦士であるカミナが手にしているのは、彼がこの地に跋扈していた妖魔の群れを屠った報酬であった。
だが、勝利を祝い、勇者を称える祝宴のさなか、ふたたび妖魔は現れ、呪詛を人々に与え、
辿り着いた先には、これまで以上に天井の高い、まるで大広間のごとき空間が広がる。岩ではないが、植物でもない、何か異様なものが、そこいら中の岩盤を覆っている。
まるで木の幹がうねっているようなその筋は、すべて黄金だ。間に枝に実った果実のように光るのは宝石のきらめきか。たとえ一枝、一房、手に入ったとしても、莫大な富として通用するであろうそれらに、カミナは目もくれず、片手には龍の牙を、片手には刀を持ったまま、足を進めていく。
洞窟の中を流れる水の源はここらしい。黄金の光を宿す筋を橋がわりにして、カミナはおそらく、魔物の巣と思われる空間の中心へ向かった。
どこにも、何の気配もない。だが、肌をぴりぴりと刺すような、不可思議な空気をカミナは感じる。どこかから、自分を見ている者がいるのは間違いない。
「こそこそしてねえで、姿を見せやがれっ!」
響いたのは、己の声だけか。いや、応える声が、現れた。
「そんなに大声で叫ばなくても聞こえているよ」
声は背後から聞こえた。右手の刀ごと振り向けば、視界の端に黄金色した細い尾が見えた。すぐに消え、かわりに水面がかすかに揺らぐ。
そちらに歩み寄ろうとしたカミナの左の耳に、くらりとするほどに甘い薫りをもった息が吹きかけられた。
「こっち」
はっと向き直ろうとすれば、笑い声だけがこだました。洞窟内に響き渡るその声は耳の奥に残るような蠱惑めいたものがある。
「姿を見せろ。化け物め!」
四方に油断なく視線を注ぎ、いつ、どこから襲いかかられても戦えるように、カミナは身構えながらカミナは叫んだ。
「――化け物かどうか、その目で確かめてもらおうか」
頭上から声が降り注いだ。するりと何かの気配が水へ飛び込んでいく。はねた水滴がカミナの頬に跳ね、顎から伝い落ちていく。
波紋を描くその中心が金の光を帯び、凝り固まっていく。
「英雄、それとも勇者――あるいは魔物殺し。引き裂くもの、蹴破るもの。どの名を冠して呼ばれたい?」
からかう、というよりも、ささやきかけるようなその声は、いかなる妖術をもってか、カミナの耳元で響いた。
「俺ぁ、ただのカミナだ。二つ名なんていらねえ」
ふふ、と吐息で笑う声が、水面を揺らした。
その波紋の中心から、音もなく、ゆっくりと何かがせり上がってくる。
カミナは刀の切っ先を上げかけ、その動きを止めた。目が大きく開かれる。
人々を襲っていた魔物の群れは、表皮の腐れた肉が膿と混じり合い、どろどろとした粘液となって体を覆い、したたり落ちては、土を腐らせた。吐く息はすさまじい悪臭で、人の息を詰まらせ、牙からしたたり落ちる涎は毒とも酸ともつかぬが、肌を骨まで焼け爛れさせた。まさに魔物というにふさわしい、悪夢のような外見であった。
だが、今、水面に立ち、カミナを見つめるその姿は、妖魔というには、あまりにも――。
我知らず、喉を鳴らしたカミナはゆっくりと息を吐いた。
濡れて、つややかに光る髪は、洞窟の闇に紛れ込むかのような藍色だ。秀でた額の下に、またたく瞳もまた同じ。薄い唇は微笑をたたえ、蠱惑を滲ませ、甘く濡れている。
すらりと伸びた手足に、片手で掴めてしまいそうなほどに細い腰、胸の隆起はないが、その細身の体には、匂い立つような艶が満ちている。したたり落ちていくその水は、まるで黄金色の蜜を体に垂らしたかのようだ。ゆっくりと肌からしたたり落ち、やがては、その下のなめらかな肌を露わにしていく。
何かが揺れる。しなやかに、そして、どこか淫らに、魔物の脚に体にからみつき、離れ、また巻きつくのは、淡い金色の光を放つ尾だった。
「強い、若い、人の男」
ささやく声は、吐息を含み、熱を帯びた。
「何を望み、何を欲し、何を願う?」
近づく魔物をねめつけ、カミナはわずかに身を引くと剣を向けた。
魔物の手が上がり、細い指が刃をそっと挟み、どこか淫らなしぐさで撫で上げた。まるで炎に近づけた氷のように刃がとけて、足元に雫となってしたたり落ちていく。
目を見張ったカミナにも構わず、ましてや水のように指先からこぼれる刃には目もくれず、魔物はほほえむ。
「王の座? 美しい妃? 溢れるほどの黄金も、いかなる敵からも傷つけられぬ強さも、永久の若さも、欲しい物はすべて与えてあげる」
指先がカミナの顎を撫でる。吹きかかる吐息は、目眩がするほどに甘い。
カミナは唇の端をわずかに吊り上げた。
「で、俺からは何を取ろうっていうんだ?」
魔物が笑んだ。笑みというには、あまりに淫らで美しかった。
「その肉が欲しい。その血が欲しい。その精が欲しい」
「たった、それだけで、俺が欲しい物を全部、くれるってのか」
カミナの声はかすれている。欲望のちらつく瞳に、魔物の笑みは深くなる。
濡れたカミナの足に、柔らかい何かが絡みつく。するすると太腿に巻き付いて、吐息に合わせてやんわりと締め付けてきた。
「その価値がある者には、願うだけのものを与える」
カミナの肩に手を置いて、魔物は胸を張り、己の体を見せつけるように、背を伸ばした。
花のような芳香が漂い、カミナは一瞬、目を閉じる。
「どちらがいい」
開いた目に映ったのは、若くしなやかな青年の体つき。まばたきをすれば、豊かに隆起した乳房と蜂のようにくびれた腰が目に入る。はっと息を呑めば、幼くも無垢な笑みを浮かべる少年となり、あどけない少女ともなった。
「望みのままの姿を取ろう」
「どれも……どっちもだ」
カミナは唸るように言って、腕を伸ばし、細腰を引き寄せた。
「お前の名前を教えろ」
「――シモン」
勝ち誇ったようなその唇が刻んだ名の響きが消えぬ内、カミナは唇を重ねた。
※
何時間か後、シモンは己の選択の誤りを後悔していた。
片手どころか両手でも足りないほどの数、絶頂まで導かれたが、それでも解放されない。
何とか、息をつき、意識を取り戻したシモンは、気力を振り絞って、腕を上げた。
「ちょ、ちょっと、待って」
シモンはカミナの唇がやっと離れたので、胸を押しやりながら、ささやいた。
喉が痛くて、これ以上の大きさの声が出ないのだった。
「なんだ」
不満そうにカミナは胸に当てられたシモンの手を取り、そのまま頭の上でひとまとめにすると、腰の動きをゆるやかなものへ変えた。浅い突き入れを繰り返しているため、なかば抜け掛けた男根には、とろりとした蜜のようなぬめりがまとわりつき、てらてらと淫靡な光を見せている。
シモンは息を整えようとして、またも息を乱れさせた。腰を引いたカミナの男根が、秘処から抜ける。
カミナはわずかに唇を歪めると、いまだ固く、腹を打つほどに勃ち上がった男根を右手で掴み、しとどに濡れそぼったシモンの秘処へと、あてがう。
「あっ、ああっ」
何の抵抗もなく、カミナの男根は熱く濡れた柔肉へと包み込まれた。満足と新たな快楽に唇を笑ませるカミナは、またも腰を揺らす。
シモンは捉えられていた腕をどうにか引き戻し、もう一度、カミナの胸を突こうとしたが、力が入らず、そのままぱたりと腹部に手は落ちた。そこを濡らしているのは、今、自分を貫いている男の放った体液だ。幾度となく内に外に注がれる子種は、孕むには十分すぎるほどだが、いまだ、カミナに疲れの気配はない。
わななくような息を漏らしたシモンはそのまま手を下ろした。その仕草を快楽を追っているのだと思ったカミナは、満足げな笑みを漏らし、腰の動きを早めた。とたん、体の芯から甘く激しい熱が生まれる。
強く突かれるたび、漏れてしまう声を必死に押さえ、なんとか言葉を紡いだ。
「も、無理、休憩させて」
「ばか言ってんじゃねえ」
言葉も消えるほどに激しく突かれ、シモンは、ただ、甘やかな喘ぎをすすり泣きと共に漏らすだけだ。
絶対、死ぬ。不死で不老の魔物なのに、今そこに死が見える。
絶対、おかしい。相手は生に限りのある、年老いていく人間だというのに、この精力は異常だ。おかしい。絶対におかしい。
今頃は、男の精をたっぷり搾り取った後、この寝床でぐっすり眠って、子を孕む予定だったというのに。
この男が殺した魔物の代わりを産んで、思い切り、人間をいたぶって、嬲って、苦しめる予定だったというのに、その前に責め殺されてしまう。
「やだ、ゆるして、おれ、もう、だめえ」
カミナに貫かれている場所から、とろけてしまう。今までに出したことのない、甘い切ない声で、シモンは懇願した。
「まだだ」
「鬼! あくま、魔物!」
泣きじゃくりながら、シモンがののしると、仕返しとばかりに、カミナはシモンを突きながら、赤くふくれ、しとどにぬれた肉芽をつまんで、指先で擦り上げた。
「あっ、あっ、だめ、やだあ」
「鬼であくまで、魔物で、いやらしいのはお前だろ! てっめえ、いやらしい声上げて、腰揺らしやがって!」
「あっ、あっ、も、ゆるしてえ!」
いやいやしながらも、カミナと繋がっている部分から、骨の髄までとろけてしまいそうな快楽が伝わってくる。嫌がって、体を揺らしているはずが、カミナの動きに合わせて、締め付け、腰を揺らしてしまう。
何度目か分からない絶頂を迎えて、ついにシモンは意識を手放した。
気がついてみると、カミナは背後からシモンを抱いて、寝息を立てて、ぐっすり眠っている。慌てて、体を見下ろしてみるが、術は解けてないようで、最後に男と交わったままの姿だった。
ほっとしつつ、男の腕から逃れようとしたが、腕が腰に回って、動けない。持ち上げようとしても力が入らない。
しばらく、もそもそ動き回って、シモンは諦めた。ため息がこぼれる。
「こども、できるかなあ……」
出来る以上の交わりの回数ではあったが、言った瞬間、ちょっと怖くなった。とんでもない怪物が生まれそうだ。ちゃんと育てられるだろうか。いや、普通は勝手に育つのものだが、とんでもない生物が生まれそうな気がする。
自分の手に及ばない、そう、まるで、この男のような――。
「おい、シモン」
いつの間に、目を覚ましていたのか。寝起きのぼんやりした様子もなく、むしろ爽快感すら漂う声で、カミナが呼びかけてきた。
「なんだよ、カミナ」
こら、と拳で軽く、頭の横をこづかれた。
「兄貴って呼べ」
シモンはむっとした声で、異を唱える。
「兄貴? なんで?」
「そう決まってんだよ」
「なにを……」
「何でも、願いをかなえてくれるんだろ」
「違う。欲しい物はやる、って言っただけだ」
「同じ事だ」
とりあえず、子種は嫌と言うほど注いでもらったので、ここは取引を終えなければならない。
カミナの手が体をまたまさぐろうとしていたので、シモンはその甲を抓り上げた。いてえ、と呟いたカミナの声は妙に嬉しそうだ。抓られたためか、指先を動かすのは止めたが、腰に回された手は離れない。
とりあえず、何やら良からぬ気配を漂わせる股間の逸物をこれ以上、ぐりぐり押し当てられないよう、シモンは背中を向けた姿勢から、カミナへと向き直ったのだが。
「ふ、あっ」
カミナの腕の中でシモンは、体を震わせた。
シモンが自分の方を向いたのを好機と見て、カミナは、ふたたび、至らぬ行為へと及ぼうとしている。必死にシモンは抗った。
「も、だめ、だって」
「わかってんだがなあ。こっちはどうも言うこと効いてくれねえ」
「自分のなのに!」
「俺のもんだが、お前のもんでもある」
なんだよ、それ、とシモンは抗ったが、カミナは人間らしい卑怯な手を使ってきた。真剣で熱っぽい目と、優しい口づけ、という、卑怯で、かつ、卑劣な方法だ。
シモンの額から鼻筋を、カミナの薄い唇が辿っていく。心のどこかが、ふんわりとほぐれかけ、男の一言で、また固まった。
「俺が、欲しいのはお前だ」
呆れた。シモンはため息をつく。だいたい、今の姿だから、男はこうも執着するのだ。ならば、本来の姿に戻ればいい。熱した心も冷めて、足の間で存在を主張するものも萎えるだろう。
「これ見ても、そう思うわけ?」
シモンは変化を解いた。
目の色も髪の色も何も変わらないが、体格はいっそう細く、小さくなり、どこか痩せぎすで、くりっとしたどんぐり目が目立つ幼い少年が、カミナの腕の中に現れた。
カミナはちょっと目を見張ったが、とくに驚く様子もなく、うなずいた。
「男やら女やら、子どもやら忙しいな。どれもいいが、そっちが本当のお前か?」
「そうだよ」
魔物の中では、あまりに人の姿形に似すぎていると賤しまれてきたし、人の姿にしても、さほど美しいわけではない。ましてや術を使っていない今、色気などどこにもない姿だ。
「ずいぶん、ちっこくなるな」
カミナは髪の先を引っ張り、肌をつつき、あちこち探る。
色味の薄い乳首を指先でつままれ、思わず、シモンがびくりと体を跳ねさせると、カミナは満足そうに笑う。
「感度は同じみてえだな」
ぱっと頬を染めたシモンだったが、カミナの指先と言葉に、さらに首筋まで朱に染めた。
「こっちもちっこくなったな」
「どこ、さわって……うわっ」
つるりとした下腹部を撫で上げ、ついでにちょっとつまんでいったカミナの指先は、今度は尻肉を揉む。
「ここもなあ……俺の入るか? 舐めてほぐせばいいか」
「よ、よくない!」
「なんだよ、じゃあ、指だけでいいのか?」
早速、確かめようとするカミナの腕をシモンはぺしぺしと叩いた。
「よく見てよ! さっきまでの俺じゃないんだから!」
「同じじゃねえか。シモンだろ?」
たじろいだシモンの耳に、カミナの低い声が忍び込んできた。
「本当に嫌じゃないなら、嫌がるな」
顔を上げたシモンの目には、どきりとするほど真摯で、熱っぽい表情の男の顔が映る。
「俺は、お前が欲しい。お前がいい。お前だけだ」
シモンは、言葉を失った。
そんな欲望に対する答えを、シモンは教えられていなかった。こういう場合、金とか権力とか美女とか、そういうものを望むはずだ。それが普通で、当たり前で、常識というものである。妖魔自身を望むとは、正気の沙汰ではない。
「いや、考え直したほうがいいって……」
「お前だ。お前以外、絶対、認めねえぞ!」
「だってさ、お金も権力も力も不老だって手に入るのに、おかしいよ!」
「おかしくねえ! 俺はお前がいいんだ!」
何それ。シモンのまばたきと問いかけに、カミナは、真剣に真面目に、答える。
「俺はお前に決めてるんだから、お前は黙って、うんって言えばいいんだ! だいたい、欲しいものはやる、っていったのお前だろうが」
「う……」
シモンは言葉に詰まった。
つまり、この人間、カミナが欲するのは魔物であるシモンであり、シモンは一応、何でも欲しいものは与えると口にした以上、約束を守らなければならない。
「……わかった」
シモンがうなずいたその瞬間、契約は為された。
カミナは満足そうに、全精力を使い果たして、本来の、ちいさな少年の姿になったシモンを抱き寄せ、頬をすり寄せた。
ぐりぐりと寄せられるカミナのあたたかい頬に、少し、ほわりとした気分になりつつ、シモンは、訊ねてみた。
「兄貴、俺、損してない?」
「お前の方が大得だ!」
なにしろ、この俺様が側にいるんだからな、というカミナの勢いに押されて、シモンは、思わず、そうかあ、と納得してしまったのであった。
――カミナが自分を欲している間は、離れることができない、つまり、結果的にはカミナも不老不死になり、永遠に自分の側にいるのだと、シモンが気がつくのは、百年ばかり濃厚な時間を過ごした後だ。気づいたとき、シモンが損をしたと思ったのかまでは、定かではない。