正午になる少し前にタケルは母に断って家を出ると、まっすぐ兄と父が住むマンションへと向かった。
空は快晴、あちこちの家で洗濯物がはためいている。
タケルは日差しの心地よさを感じながら、ほどなく兄ヤマトと父が住むマンションへと到着した。
玄関前でチャイムを押す。部屋の中にその音が響いていくのが聞こえた。
「?」
ドアが開かれる気配がなく、タケルはもう一度チャイムに手を伸ばした。
(あれ、今日家に行くよって言ってたはずだけど……)
だが、二度目のチャイムが鳴る前にドアは開かれ、兄の見慣れた姿が現れた。
「タ、タケル、どうしたんだっ!」
ヤマトの表情には驚きと焦りが浮かび、そわそわと落ち着きがない。
「どうしたって……今日、遊びに行くって言わなかったけ?」
「あ、あ……そうだったな……」
ヤマトが目を泳がせる。
「これ、お母さんから」
持参したお菓子を差し出すと兄はほとんど上の空で受け取り、タケルを部屋に入れずに、一度ドアを閉める。
「ちょっと待ってろ」
ばたばたと部屋を駆け回る音が聞こえたかと思うと、またドアが開く。
「――入れよ」
ヤマトの態度に首をかしげつつも、タケルは部屋の中に入る。
靴を脱ごうとして、ふと視線が、傘立ての裏にある押し込まれたようにして置かれたスニーカーに留まった。
(あれ?)
見覚えがあるような、ないような――よく使い込まれたスニーカーに、何かを思い出しかけて、タケルは眉をひそめた。
「……どうした?」
兄の声になんでもないと首を振って、リビングの方に行く。
ヤマトは足音を立てないようにして、静かに歩いている。タケルはキッチンの方から、漂ってくる良い香りに鼻をうごめかせた。
「お兄ちゃん、なにか作ってたの?」
「ああ……その、腹が減ってな」
ダイニングの椅子にエプロンが掛かっている。
「オムライス?」
「え、ああ、まあな」
なぜかヤマトの視線が自室の扉にむけられ、素早くそらされた。
「座ってろよ。お茶でも入れるから」
「うん」
兄がお湯を沸かそうと立ち上がったところで、電話が鳴った。
「出ようか?」
タケルは言ったが、ヤマトは手を振って受話器を持ち上げた。
「はい、石田です……母さん?」
母だったらしい。兄はタケルの方を見て、
「うん、もう着いてる。ああ、もらった、ありがとう。うん」
なかなか会えないもう一人の息子に色々話しかける母の姿が目に浮かぶ。
それにしても気になるのは兄の態度だった。
何かある――そう確信し、タケルはこっそり立ち上がった。
トイレに行くふりをして、兄の視線が逸らされたときに素早く、兄の部屋に入り込む。
罪悪感もあったが、それ以上のスリルにわくわくもしている。で怒られるかも知れないが、それを覚悟で部屋に入ったのだ。
部屋は昼だというのに、カーテンがきっちりと閉められ、薄暗かった。
床には衣服が散らばっている。中学の制服だった。割に几帳面な兄らしくもないとタケルは微笑しかけ、ぎょっとした。
(これ、お兄ちゃんのじゃない……)
その耳に微かな寝息が届く。
「!」
ヤマトのベッドの上で、寝ているのは間違えようもない。
「――太一さん!」
慌てて口を押さえ、そっと、シーツにくるまる太一をのぞき込む。
ぐっすりと眠り込んでいるらしく、幸せそうな寝顔だった。
(泊まりにきてたんだ……)
納得しかけたが、そのとき寝返りを打った太一にタケルは目を見開いた。
(なっ!)
裸ではなかったがある意味、裸よりもいやらしかったかも知れない。
明らかにヤマトのものであるパジャマを羽織りボタンを一つ、二つ留めただけで、あとはトランクスを履いているだけだった。
なんだかところどころに見え隠れしている赤い痣のようなものにいたっては、タケルは赤面するしかなかった。
(お兄ちゃん……)
自分が訪ねてきて、焦るはずである。
とりあえず部屋を出ようとして、タケルは飛び上がった。
「あれ、ヤマト……」
太一がぼんやりと目を開き、タケルにささやきかけた。
「飯、できた?」
タケルが聞いたことのないどこか甘えるような声だった。たぶん、今までこの声を聞いたことのあるのはヤマトだけだ。
まだ重そうな瞼を開こうとして、太一は言った。
「眠い……」
「まだ寝てれば……」
ともかくまだ夢うつつの状態の太一を寝かしつけようとタケルは小さな声で言った。
途端、太一が不服そうに言った。
「お前のせいだろう……」
タケルは口元を手で押さえ、どうしたものかと迷った。
どう反応すればいいのだろう。しかし、兄も大人になったのだなとタケルはいささか呑気な事を考えたが、その沈黙を太一はヤマトが怒ったのだと思ったらしい。
不安そうな寝ぼけ声で聞いてきた。
「ヤマト、怒った?」
「え、あ、いや……」
「――もう一回する?」
タケルは目を剥いた。
「ちょっ――」
太一が顔を傾けて、目を閉じた。少し開かれた唇からちらりと舌がのぞく。
タケルは思わず息を呑んで、それからほとんど無意識に顔を太一に近づけた。
「ん……」
ぎこちないキスを終えて、タケルが唇を離すと太一が吐息を洩らし、眉をしかめた。
タケルの背中に手をまわし、つぶやく。
「ヤマト、小さくなった?」
はっとタケルは我に返り、太一から離れようとしたが、それはそう思っただけのことで、タケルの手は吸い付かれたように太一の肌に触れている。
暖かく滑らかな肌を体の線を辿るようにしてなぞっていくと、太一が微かな声を上げた。
「んっ……」
タケルは自分のこめかみのすぐ下で心臓が高鳴っているような気がし、大きく息を吐いた。
「ヤマト……」
太一が切なげに声を上げ、いやいやをした。
タケルは体を移動させ、思い切って、シャツからのぞく太一の胸に唇を押しあて、ぷくりととがった箇所を噛んでみた。
「あっ!」
太一の手に力がこもる。
タケルが何度か肌を噛むようにすると太一が首を仰け反らせた。
「ああっ」
タケルの体の下で太一が反応している。タケルは指をへそからもっと下の方へと移動させ、そっとまさぐってみる。
太一が体をぴったりと寄せ、ため息をもらした。
タケルはどうしたらいいのか分からず、そっと手でなぞるようにしてみた。
「ヤマトっ……」
太一の目に涙が滲んだ。
はっきりと目が開かれ、どうしてそんなに自分をじらすのだと、ヤマトに視線を向ける。
「え……」
その太一の目が丸くなった。
「タ、タケル――?」
頬が色っぽさとは違う羞恥の赤に染まっていく。
「な、なんで、どうしてっ……」
「ごめんなさい!」
太一ははっと自分の格好と状態に気づき、あわててシーツで隠す。
「えっと……ヤマトは?」
「――電話中で……」
太一がちらりとドアの方を見た。
寝ぼけた頭にも状況が分かってきたらしい。
「あ……タケル、俺さ……」
太一がうつむきつつ、口を開いたところで、電話を終えたヤマトがタケルを探してついに自室の扉を開けた。
「!」
三人とも一瞬固まり、薄暗い部屋は異様な沈黙につつまれた。
ヤマトは、妙に艶めいている太一の唇と、その上にのしかかっているような体勢のタケルとに、何があったかおぼろげに察したようだった。
太一は慌てて手を振った。
「俺が、ヤマトとタケルとを間違えただけでさ……」
ヤマトは唇を引き締め、一、二歩でベッドの側までやって来た。
「……」
その目が据わっている。
咄嗟に、太一はタケルを手でどくように指示すると、腕を伸ばして、ヤマトの腕を掴み、自分の方へ引き寄せた。
「なっ!」
バランスが崩れ、ヤマトは太一の方に倒れ込む。
「おい……」
ようやく何か言葉のきっかけが見つかったのか、怒鳴りかけたヤマトの唇を自分の唇でふさぎ、太一はヤマトの背に手をまわした。
足を絡め、太一はしっかりヤマトを抱きしめると、タケルの方に合図した。 その意図を理解し、タケルは立ち上がった。
「ごめんなさい! お兄ちゃん、太一さん」
叫んで、ドアに向かって走る。
ドアを閉める前に振り返ると、ヤマトは太一の首筋に顔をうずめていた。
ヤマトと太一、お互いの手がしっかり握りあっているところまでは見えたが、それ以上は閉まったドアに遮られ、
見ることはできなかった。
もっとも見えたとしても嬉しくはなかっただろう。太一を腕に抱いているのはすでにタケルではなく、ヤマトだったからだ。
とりあえずドアから太一の悩ましい声が聞こえてくる前に、部屋を出ることにしてタケルはため息をついた。
(もう少し、お母さんが電話を長引かせてくれてたらなあ……)
驚いている太一を押し切れたかも知れないと思い、タケルはエレベーターのボタンを押した。
(太一さん、びっくりしてただけで、嫌そうじゃなかったし……)
がんばり次第ではどうにかなるかもとタケルは微笑し、到着したエレベーターに乗った。
(長い目で見なきゃね)
――いま新しいライバルが生まれたことをヤマトは知らない。